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『陸軍の迷走。海軍は空母戦から島嶼( とうしょ)戦に』
  ――ソロモンの戦いの変貌と山本長官最後の反撃。
    基礎知識篇その十四――空母編、続編の第八部


 ガ島撤収に先立ち、ニューギニアでも新たな動きがありました。
前年の八月十八日、ガ島上陸部隊に呼応してブナを出撃した陸軍
の南海支隊八千人は、たちまち弾薬、食料が尽き、目標としていた
ポートモレスビー直前五十キロで退却に転じます( 九月十六日)。
 この進撃作戦は、補給を無視して前途に聳える四千m 級の巨大な
スタンレー山脈を越えるという無謀極まる作戦でした。
 しかも陸軍の上層部( 参謀本部)は、新たにこの方面を管轄する
第十八軍を創設し、ガ島の第十七軍と合わせて新設の第八方面軍の
統括下に置き、ジャワから転出した今村中将が司令官となります。


 虚構に根ざした組織いじりは、陸軍の通弊とも言えるものであっ
て、そのため、第十八軍の将兵は言語に絶する過酷な運命に遭う結
果となるのですが、ここではこの地域での戦死者の総数が、投入十
四万人中の127,600人と実に九十%を越えたことと、司令官の
安達二十三( はたぞう)中将が自らも戦犯として服役中に、部下た
ちの弁護役を勤め、その釈放を見届けてのち自決したという、泥中
の一輪の花の香気にも似た物語を伝えるに止めます。
 戦後の結果論ではなく、ガ島での大苦戦の状況からしても、新た
にこの方面に兵力を割く余裕など皆無なことは自明なはずですが、
陸軍はなぜか豪州方面進出に固執していました。このことは、先に
海軍の三川中将に対して百武中将が明言していたとおりです。
 ( 下に続く)


 陸軍の本音は、苦手な島嶼戦を早々に切り上げ、直接豪州に上陸
することで、その第一歩がポートモレスビー進出だったのです。
 一方の海軍はガ島を基点に、F( フィジー)、S( サモア)進出に
よる攻勢防御のFS作戦を指向しましたが、この時期にはすでに断
念していました。ところが陸軍は全く作戦方針を変えないばかりか、
この地域の島嶼戦には不可欠な装備である洋上飛行可能な飛行機や
水上機、輸送船舶は依然として海軍頼みです。
  それでも陸軍は豪州進出方針を撤回せずに、ガ島への兵力投入と
同時にニューギニア東部にも万を越える兵を送り続けました。


   ガ島撤退作戦の第二次隊と共に救出された百武中将が、先に参謀
 を通じて報告書を届けたのち、今村将軍に出頭した時の記録が残さ
 れていますが、そこで私たちは、今村本人による厳しい陸軍批判を
 知る機会を得ることができたのです。


    第八方面軍司令官今村中将、陸軍上層部を痛切にに批判


    今村は出頭した百武中将の表情を見て、彼が自決の許しを求めに
 来たのを察し、次のような発言によってそれを断念させます。
 「君が自分の死によって責任を取るというのは誤っている。ガ島の
 敗戦は百武個人の責任ではなく、それを起案し、推進した陸軍上層
 部が負うべきものである。君は生きて国家に貢献しなければならな
い」と。
 彼の指摘する上層部とは、参謀本部や陸軍省の高官を指します。
 作戦遂行中に、方面軍司令官が彼ら高官を批判するのは異常事態
であって、今村にとっても覚悟を決めての発言でした。
 ( 下に続く)


 今村の怒りの根底には彼がわが子のように育て上げた第二師団の
惨状があることは以前に示唆したとおりです。とりわけ第二の故郷
であった新発田第十六連隊の将兵たちの、生ける屍のごとぎ姿を見
るのは耐えがたい苦痛であったに違いありません。
 しかも撤収決行に際し、海軍は山本長官の作戦方針のもと全軍一
致して整然と遂行したのに対し、陸軍は参謀本部作戦部長の田中新
一中将がトップの方針に反対して東条首相に直訴。ついには「バカ
ヤロー」発言するなどの醜態を天下に露呈してしまいました。


 戦後一部の論者の中で、陸海軍の確執が敗戦の主因であるかのよ
うな説をする人がいますが、事実歪曲も甚だしいものがあります。
 ソロモン方面の戦闘はこの後一年ほどで終結し、陸海の全軍がラ
バウルに集結して籠城するのですが、この時期の詳細な記録が残さ
れていて、陸海軍が協調して役割を定め、それぞれの責任を全うし
ていた状況をほぼ正確に知ることができます。
 総司令官格の今村均は、ガ島戦で海軍が果たした功績は誰よりも
高く評価しており、特に最後の撤収作戦に至っては、「海軍なくし
て陸軍もなし」を痛感している立場だったのです。


(陸海の確執があったとすれば、この後、米軍が空母を主体に総攻
撃の態勢を着々と進めているのに対して、日本軍側は依然として陸
軍が洋上飛行のできない陸軍機を海軍と同数要求するという理不尽
に固執していた時期からであり、むしろ遅きに失していました。
 本来ならば、ガ島撤収が完了した時点がその好機であったはずで
すが、陸軍には対処できる人材も戦略もなかったのが現実でした)
 ( 下に続く)


  ラバウルでの陸海十万の将兵についての記録は、近年ようやく整
備されてきました。これは、従来刊行されてきた海軍ソロモン会の
「ソロモンの死闘」、斉藤睦馬「激闘ラバウル航空隊」などの私家本
的な刊行物に加え、米側からの資料を加味した吉田一彦氏の著書「ラ
バウルの真実」などによって実態が明瞭となったからです。


    特に注目される点を要約しますと、以下の諸点となります。
1.  一九四三年十一月時点では合計262機(うち零戦150)の
 航空勢力をなおも保持していた。
2.  飛行場は全部で4。2は豪州軍施設を使用。1は一九四二年夏
 海軍側が着工し十二月に完成後陸軍側に移管。残りのうち1は翌年
 八月に着工し完成後は海軍側使用。同時期着工の陸軍側は未完成。
3. 当時としては極めて多数の自動車を保有しており、しかも実際
にも島内の物資輸送や連絡によく活用されていた。
4. 戦局不利となった一九四四年二月、全航空戦力を撤収し、公式
 的にはこれを以てソロモン戦は終了するが、海軍は残置された故障
 機数機を修理して翌年(終戦年)四月米空母を攻撃。帰還機が、空
 母1、戦艦1を撃沈と報告して全軍大喝采。もちろん米側には記録
 はないものの、日本軍側の旺盛な士気を象徴している。
5. 沿岸砲台43、榴弾砲・迫撃砲など計6570。対空高角砲は
 100門以上、対空機関砲と機関銃計249。
  洞窟陣地とトンネルの総延長563キロ。電探(レーダー)11
 基、ディーゼル発電機は陸軍14、海軍8。井戸は陸海各日量60
 0トンを確保し簡易水道が引かれており、病院は陸海各1。軍医、
 衛生兵なども公平に配備されていた。等々。     ( 下に続く)


  人間の運命について語るとき、これほど見事に明暗の分かれた例
 は稀です。ラバウルとニューギニアの日本軍の場合です。
  そもそもの発端は米軍の陸海軍間の対立によるもので、比島奪還
 に燃えるマ将軍の個人的執念を好機と捉えた米陸軍(とおそらくは
ル大統領)が、彼に米豪の兵を与え、海軍にも支援を命じたことか
   ら、米豪軍はポートモレスビーを死守し、反撃の拠点としました。
    当初の陸海軍の暫定妥協案は、ガ島周辺は海軍、ラバウルから以
 西、比島までは陸軍で、海軍は一部の艦艇を陸軍支援のために提供
 するということでしたが、比島進撃を急ぐマ将軍はラバウルには関
 心はなく、一方の海軍は本来の目標である中部太平洋への中央突破
 という最終目標を秘めたまま、最も効率良くソロモン戦を戦う余裕
 が生まれていました。
  このことが、エセックス級空母の第一号の竣工と並んで、米海軍
 に一種の余裕をもたらしたのは否定できない事実となります。


   一九四三年一月十四日から十日間、この動きを加速する重要な国
 際秘密会議が、北アフリカのカサブランカで開催されました。
  当初は米英に加えて、ソ連の首脳も呼ぶ予定でしたが、時あたか
 もソ連軍は、冬将軍と言われる極寒を利用して独逸国防軍を追い詰
めて、スターリングラードに十万の大軍を包囲しつつありました。
  ソ連首脳欠席のまま決定されたのは、@当面の最優先をソ連支援
 とする、A欧州本土への米軍進攻は一九四四年春とする。Bその間
 英軍は地中海方面で第二戦線を展開する、の三点で、この背景には
 北アフリカのロンメル軍をようやく駆逐できる見通しがあります。
  こうして太平洋方面は無視される事態となってしまったのです。
                          ( 下に続く)
   


  そこで米海軍のキング海軍大将は、欧州進攻までの期間、全戦力
 を太平洋に集中する意見を申し出、採否不明のまま会議が終了して
 います。要するに米海軍のキングに一任したということらしいので
 すが、その後の彼の作戦は、これまでとは一変して、慎重かつ着実
 なものとなり、これがガ島戦以降の日米戦の方向を決定しました。


    山本五十六の最後の作戦、イ号作戦の謎


    この大戦の全体像を検証する場合、幾つかの重要な転機を挙げる
 ことができますが、カサブランカ会談はほぼ無視され続けました。
  直接には日本軍を対象とする作戦決定が議題ではなかったからで
 すが、戦後になってもなぜか戦史研究者たちの対象外でした。
  しかしこれは重大な手抜かりであって、ガ島撤収後約一年のちの
 ソロモン戦終結までと、それから約半年後の中部太平洋方面の決戦
 開始までを含めると合計一年半。この間の大本営の基本方針の混迷
 とその結果としての作戦の錯誤が、前線将兵を苦戦の連続に導き、
 ついに勝機を見出せないまま、玉砕と特攻の第三段階に突入させる
 結果となってしまったというのが、最も真実に近い結論なのです。


    この観点からすると、山本五十六が直接指揮した四月初めからの
 イ号作戦は、これまでの評価とは全く別の観点で検証する必要があ
 ります。(これまでの評価とは、作戦の大規模さに比して、成果が
 乏しいのではないか、というもの)
  撤収作戦直後から山本五十六は、航空参謀の樋端中佐に指示し、
 まず彼我の戦力の精査を命じています。これが構想の第一歩です。
  ( 下に続く)


  この時の偵察と他の隊員の情報を総合すると、米豪軍の飛行場は
 ガ島7、ニューギニアのブナとラビに8、モレスビーに6です。
  すでに飛行場数と飛行機の補給力で圧倒的に劣勢となっており、
 このままでは日本軍の勝機はゼロとなってしまう、という危機感が
 まず生まれてくるのです。


    開戦以来一年以上を経て、状況は一変していました。日米機動部
 隊は、壮絶な叩き合いの末に、お互いの戦力を消耗し、今や各島嶼
 の基地航空隊に主要戦力の座を譲っており、これは米軍にとっても
 例外ではありません。
  米軍は航空機の補充については圧倒的に有利でしたが、搭乗員に
 関しては必ずしもこの言葉は適用できる状況ではありません。新規
 募集人員の数は、日本とは比較できないほど多数でしたが、彼らの
 養成期間は長く、短期間での実戦参加は容易ではないのです。
  戦後の論者の中には、米には自動車運転のできる人員と大学生の
 絶対数が圧倒的に多いことを挙げる人がいますが、果たしてそれが
 実証可能なのか、かなり疑わしいものがあります。
  米海軍にとって、カサブランカ会談により一九四四年春までの猶
 予を与えられたのは、最高の幸運であったのは確かな事実です。


    未だに解決されていない謎の一つは、山本五十六がどのような情
 報に基づいてこの時期の攻撃を急いだかという動機についてです。
  通常の人物であれば、ガ島の全軍撤収という快挙を成功させ、開
戦前の一年という「公約」を実現し、さらに郷土の新発田連隊の留
守宅の人々にも「合わせる顔―かんばせ―」を勝ち得た彼は、すで
に充分な責任を果たしたと言える立場にあります。 ( 下に続く)


 開戦前、約一年を念頭に、「それまでは暴れてみせるが、それか
ら先は保証できない」と約束した彼にとって、その期間はすでに遠
く過ぎていました。それでも彼は、万分の一の確率の勝利を目指し
て米軍の一瞬の隙を狙ってイ号作戦の遂行を決意しているのです。
 この作戦に懸けた彼の意志は並々なものではなかったのでした。


 四月一日、大本営の名を以てイ号作戦が発令されました。
 ケ号作戦と違って、イ号には何の深い意味もありません。イロハ
のイであって、米軍が気付くのは予定の範囲内です。
 動員された航空勢力は、草鹿任一中将の基地部隊200機と小沢
治三郎の瑞鶴、瑞鳳、隼鷹、飛鷹の空母隊が183機。この方面の
 総力を結集しました。四月三日、山本長官ラバウルに進出。これか
 ら数日間、各方面に間断なく攻撃を加え、敵機の相当数を撃墜また
 は撃破しますが、意外な手応えの少なさに異変を感じた長官は、自
 ら航空機による偵察を決意し、宇垣参謀長と樋端航空参謀を中心に
 偵察計画に着手、ついに四月十八日の実行を決定してしまいます。
                      ( この項終わり)
               痛恨の思いをこめて以下は次号に
 

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