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空母編 続編第七部 <<前のページ|後のページ>>
『ついにガ島撤収へ。作戦名は“捲土重来”ケ号作戦』
基礎知識篇その十三――空母編、続編の第七部
軽空母隼鷹の活躍によって米軍機動部隊に致命的な打撃を与え、
さらに高速戦艦と重巡部隊による米飛行場への連続砲撃が敢行され
たものの日本海軍の損害は極めて大きく、ガ島に上陸した陸軍部隊
への補給は絶望的に困難となってきました。
日本海軍にとって、米艦隊との決戦と、輸送船団の護衛並びに駆
逐艦自身による物資と兵員の輸送は根本的に矛盾する任務でした。
十一月十日のサボ島沖海戦では、五藤存知少将の重巡戦隊は、古
鷹の喪失と青葉の大破、五藤少将の戦死という大きな犠牲を払って
輸送任務を成功させながら、軍令部をはじめ一般の評価は厳しく、
逆に十一月三十日のルンガ沖夜戦では田中頼三少将の第二水雷戦隊
駆逐艦8は、直ちにドラム缶の輸送業務を放棄して速攻の魚雷攻撃
に転じ、米軍の重巡1を撃沈、3を大破して、激怒したニミッツは
「猛訓練によって出直せ」と部下を叱咤する事態となりました。
彼の報告書では自軍のレーダー過信を戒める一方で、日本軍将兵
の勇気、砲術、魚雷戦法を賞賛し、海軍史家のモリソンらが「不屈
の猛将」などと賞揚したことから、彼は海外では山本五十六に次ぐ
有名人となるのですが、意外なことに十二月に解任され、閑職に就
くことになります。
この人事に関し、航空部隊の支援がないことを理由に出動拒否し
たという説などが一般的ですが、これは疑問の残る見解です。
(下に続く)
少将という地位の人物の命令拒否は重大な軍律違反で、これでは
のちの中将昇進が説明困難です。彼の戦功を認めたくない人たちの
個人的見解とするのが妥当な説で、事実は彼の性格に由来している
らしいのです。彼は常に直感で行動するタイプで、これから始まる
慎重で粘り強い対応が必要な作戦向きではなかったからです。
この時期には連合艦隊内部において、ほかに幾つもの重大な意味
のある人事がありました。中でも先任参謀の黒島亀人と作戦参謀の
三和義勇(みわよしたけ)との対立の結果の異動が重要です。
黒島参謀は真珠湾攻撃の統括責任者としてあの雄大精緻な作戦を
成功させた異才。ミッドウェー海戦の敗戦によって海軍内での評価
は低下していましたが、状況が深刻な時期こそ彼の才能は必要とい
うのが一貫した山本長官の真意だったようです。
これに対して三和は霞ヶ浦航空隊で当時教頭の山本付の中尉に任
命されて以来、最も長官の信頼厚い腹心の部下の一人。
参謀の総退陣によって人心を一新し難局を突破しようと主張する
三和と、今こそ全員の英知を結集すべきとする黒島が激論するのに
山本長官が仲裁に入り、最終的な長官の決断は、黒島は残留、三和
は作戦参謀を離れ、長官の特命事項の担当ということでした。
この特命事項の内容の全体を記載した文献は存在していません。
しかしこの時期、三和が軍令部と接触していたという記録があり
ますから、ガ島撤収作戦について軍令部との折衝、陸軍との調整な
どが主任務であった可能性が高いと判断されます。
大作戦を前に、長官はそれぞれの部署に適材を配したのです。
(下に続く)
同じころ、ほかにも極めて重要な人事異動が続いていました。
十月一日には五十二期の小池伊逸中佐が水雷参謀に就任し、翌十
一月十五日に前任の同期生有馬高泰中佐が転出。
次に航空参謀の交代で、十一月二十日、佐々木彰中佐に代わって
同じ五十一期の航空畑の英才樋端(といばな)久利雄中佐が就任。
(注、驚いたことに、十二月二十日には第二艦隊近藤司令官付副官
板垣金信中佐も戦艦山城の砲術長に転出しています。実は前回のご
子息板垣裕氏からの情報提供ののちに新たな追加があり、この時期
の正式な役職は副官であって参謀ではないことと、この移動につい
て報告があり、また近藤信竹中将の場合は司令官と呼ぶべきで、司
令とすると小単位の戦隊司令を意味するとの指摘がありました。実
際その通りですので、訂正と御礼を申し上げます。なお別途調査に
より当時の第二艦隊参謀長は四十二期の白石万隆少将であったこと
も判明しました。こうして次々に空白の人物が埋まって行くのは、
戦史研究を深化させるには極めて重要な過程です。)
これら一連の人事を見ると、ガ島攻防戦の開始から三カ月、無我
夢中で死闘を展開している間に、上陸した陸軍部隊を救出するには
全軍撤収しかないという結論に達し、その目的に向けて自軍の体制
強化を図ったという山本長官の深慮遠望を窺うことができます。
田中少将の場合も、局地作戦の成否によってでなく、常に人物の
本質を射抜く目を持った長官らしい人事だったと結論できます。
こうしてガ島撤収が天皇の臨席のもと大本営で正式に決裁された
のは、その年が終わる直前の十二月三十一日でした。 (下に続く)
奇(く)しくもその日は、米海軍のエセックスの竣工の日です。
その後逐次完成して終戦までに十七隻が参戦したこの級の空母は
この戦争の帰趨の決定打とされるのですが、当時の日本海軍の中で
その脅威を正しく認識していた人物は稀で、山本五十六のほかには
航空参謀の樋端中佐など側近の数名程度だったと推定されます。
それを裏付けるのは、戦時中軍令部に属し、戦後何冊かの著書の
あるY・T氏までが、マリアナ海戦では日本軍にも充分に勝機があ
り、敗因は作戦と訓練不足などと堂々と断言しているからです。
この海戦までに完工したエセックス級空母は計十隻。
うち二隻はまだ実戦参加は無理としても、さらに九隻の軽空母、
護衛空母の中の何隻かの艦隊空母を追加すれば、新規大型空母が大
鳳だけの日本の機動部隊が対抗できる訳がありません。
海軍の専門家たちでも、この程度の基本知識だったのです。
この日の大本営の審議の状況については辻参謀の興味深い証言が
残されています。(天皇臨席というのがまず異例でした)
彼によれば、審議は三日間に及び、正式に参加資格のない彼はひ
そかにもぐり込んで傍聴していたらしいのですが、天皇から特に永
野軍令部総長に次のような質問があったようです。
「―ガ島戦況の悪化の原因は、わが航空部隊の劣勢にある。その原
因は飛行場設定がまずいためではないか。米軍が二、三日で新しい
飛行場をつくるのに、海軍はひと月もふた月もかかるのはどういう
わけか。研究工夫の余地がないのか――辻政信著ガダルカナル」
(下に続く)
永野総長による弁明の内容は記録されていません。また、天皇に
この知識を進講したはずの人物名も分っていません。
おそらく何らかの形で三和義勇が関わっていたと思われ、とする
と、山本長官がすでに飛行場問題については決定的な弱点と認識し
ていた可能性は極めて高いのです。
この時期の山本五十六には深い失望と新しい決意がありました。
陸軍機が全く使用できないのと、陸上軍の装備が余りにも前近代
的で、日露戦争時代と大差がないのには茫然とするばかりです。
これに対して米軍の海兵隊の装備はすこぶる優秀で、その練度と
闘志は開戦前の想定をはるかに越えています。
飛行機の補充は日本軍の数倍であり、飛行場の建設と補修も想像
を絶する早さであって、最初の栗田艦隊の飛行場砲撃の大成功以降
は回を追う毎に戦果は細り、ついには虎の子の高速戦艦二隻を犠牲
にしてしまいました。もともと優位にあったレーダーなどは、それ
に甘んずることなく、日毎に進歩し、日本を引き離しています。
米軍は日本軍の長所もいち早く習得、自軍の不備を修正し、高度
の工業技術を総動員して、最後には物量で圧倒してきました。
ガ島進攻の本来の目的は米豪分断による攻勢防御であり、軍令部
の多年の伝統である迎撃戦略に対しては批判的な作戦でした。
その戦略では、まず潜水艦隊を先行して米艦隊に損害を与え、逐
次後退して日本近海に誘い込み、主力艦によって撃滅するというも
ので、機動部隊創設以前ならばともかく、その存在を前提とすれば
長大な海上防御線の側面攻撃には全く抵抗不能の独善的戦略です。
(下に続く)
ガ島進出はその第一歩であり、ここを基地航空隊の前進基地とし
て随時攻撃部隊を出動させ、米豪の艦艇や輸送船団を襲撃し、豪州
の孤立化を図り、さらに米艦隊の背後を混乱させる作戦です。
この戦略が成功しなかったのは、米軍が全く同様な構想を持って
いて、しかも一歩早く方針を決定し、さらに何歩も優れた戦備があ
ったからで、決して戦略構想自体の失敗ではありません。
もし反省するとすれば、やはり開戦前に遡り、当時の海相に対し
て「零戦・陸攻各千機」を絶対条件として提示しながら、連合艦隊
にはその四分の一しか与えられなかった事実に戻るのです。
しかしそれはすでに終わったことでした。
現実には運も総合戦力もいまひとつ足りないままの作戦です。
あとはガ島に残されて餓死を待つだけの百武中将、丸山第二師団
長以下一万数千人の将兵のうち、何人を救うことができるかです。
山本五十六の達観はやがて彼に新たな闘志を呼び起こすのです。
死地を脱した一万三千人の命、成功の鍵は孫子の兵法。
『兵は詭道なり ―中略―その無備を攻め、その不意に出ず』
不思議なことに、が島撤収についての総合的な研究論文はもちろ
んのこと、作戦をテーマにした創作の類も絶無に等しいのです。
実際の体験者の手記などは多数見られますが、真珠湾攻撃などの
ように、体験と基礎研究を合体した論考はこれまで見たことがあり
ません。(もし存在したらご教示願いたいものです)
類似の例では、北方キスカ島の撤退作戦があり、四十一期の木村
昌福(まさとみ)の名は近年になって知られるようになったのは素
晴らしいことですが、この時に救われた人数は五千二百人です。
(下に続く)
おそらくガ島戦の全体が悲惨を極めている結果、木村少将(最終
中将)のように賞賛するのを躊躇する雰囲気があるのでしょうが、
歴史的事実に対する正しい対応の在り方とは思われません。
作戦を企画した人々、自分の命を賭して実行した人々に非礼であ
るばかりか、折角の貴重な戦史の事実を埋没してしまうからです。
大本営の決定以前から、すでに撤収作戦の準備が始まっていたこ
とは、既述の中堅士官以上の人事からも推察できることですが、こ
の作戦の全貌は実に壮大で、しかも極度に精緻であり、これに匹敵
するのは開戦当初の真珠湾攻撃くらいのものです。
今回、この作戦の全体像を提示できるようになったのは、ネット
の世界の百科事典であるウィキペディアの資料の充実があります。
また作戦の中核となった第二艦隊関係者の個別情報が得られたこ
とと、人事異動の追跡によって準備期間まで遡ってこの大作戦の基
本構想が明らかにされたことなどによるものです。(関係者の皆さ
んには深く感謝しなければなりません)
作戦名はケ号作戦=捲土重来(けんどちょうらい)
計画立案に先立って付けられた作戦名はケ号作戦。のちのキスカ
撤収作戦と同じですが、あちらは乾坤一擲(けんこんいってき)で
こちらは捲土重来の略称です。
当時はすでに日本軍の無線は漏れなく傍受されており、米軍の暗
号解読技術は高度の水準でしたが、暗号班はこの四字熟語を正解で
きず、日本軍の陽動作戦を総攻撃と誤認してしまいます。
(下に続く)
残存陸軍部隊は最後の力を振り絞って反撃の姿勢を見せ、海軍の
ラバウル航空隊は払底気味の航空勢力を総動員して敵陣を攻撃し、
果敢に空中戦を挑み攻撃姿勢を誇示しました。
坂井三郎の手記によると、この時期の航空隊の稼働率は通常の三
倍にも達し、また別の記録によれば、トラック島の基地を出動する
部隊には山本長官自ら見送りし、その決意を示したとされます。
田中少将更迭後、全海軍は意を決してまず輸送業務に挑みます。
十二月十一日の駆逐艦によるドラム缶輸送の失敗によって中断し
ていた輸送を、撤収決定の翌々日再開。次いで一月十四日から三回
にわたって増援部隊を揚陸。潜水艦による輸送も再開。
陽動作戦に加え陸上部隊の体力維持も兼ねての決死の輸送です。
一月十九日より、夜間攻撃を含めて連日の飛行場爆撃を敢行。さ
らにポートモレスビーとラビへの夜間爆撃を並行して実施。
日本軍の総攻撃を警戒したのか、米航空陣の抵抗は予想外に微弱
だつたという記録もあり、新鋭空母の竣工の報で自信を回復したこ
とによる気の緩みか、この時期の米軍には一時期のようなひたむき
な攻撃的精神は影を潜め、全般に受けて立つ姿勢が顕著でした。
久しぶりに日本軍に幸運の風が向いてきたのです。
一月二十五日、重巡利根は、潜水艦伊八号と輸送部隊、哨戒機隊
を率い、東方牽制部隊を編成、カントン島に牽制砲撃。
いよいよ撤収作戦の前日の一月三十一日には、第二艦隊近藤司令
官は、自ら前進部隊を率いてトラック島基地から出撃します。
(下に続く)
目的地はガ島北方700海里(1296キロ)の周辺。
艦隊の構成は次の通りでした。
『第二艦隊前進部隊』――司令官近藤中将、参謀長白石万隆少将
重巡 愛宕(旗艦) 高雄 妙高 羽黒
軽巡 神通(駆逐艦戦隊旗艦)
戦艦 金剛 榛名(高速戦艦) 正規戦艦はなし
駆逐艦 五月雨 朝雲 陽炎 大波 時雨 敷波 (五月雨と
朝雲は第二次以降の撤収隊の補充に転進)
(航空部隊)
空母 隼鷹 瑞鳳(いずれも軽空母)
軽巡 阿賀野 長良(空母護衛兼駆逐艦戦隊旗艦)
駆逐艦 初雪 嵐
補給部隊 日本丸 健洋丸 護衛駆逐艦涼風
(別働隊) (重巡) 熊野 鳥海 (軽巡)川内
堂々たる大艦隊です。その全体を遠望した米軍の哨戒機は驚愕し
たに違いありません。何しろ空母二隻を擁する大機動部隊で、しか
も展開している位置もまた絶妙だったのです。
ガ島飛行場の航空部隊からは遠すぎて攻撃範囲外ですし、かと言
って復帰早々の空母Eやサラトガの二空母による攻撃も危険です。
空母二隻の日本軍大艦隊の位置は日本軍の制海権、制空権内。し
かも何時(いつ)でも米軍領域内に突入できる高速機動部隊です。
注意深い読者は気付かれたように、戦艦不在のこの艦隊は、空母
とイージス艦を主体とした現代の艦隊の原型そのものの姿でした。
(下に続く)
惨敗を重ねてきた陸軍部隊にも、最後にその名誉を挽回する機会
が訪れました。ラバウルに残っていた第三十八師団の矢野桂二少佐
隊の歩兵隊、機関銃隊、山砲隊(山砲3)の各中隊の出動です。
兵員750、これに有線、無線班150が付き、駆逐艦五隻に分
乗した矢野大隊は、十一月十四日ガ島に上陸。二十二日から戦闘を
開始し、米軍の迫撃砲部隊や戦車隊と戦いながら転戦また転戦。玉
砕覚悟の所を強制命令で第三次撤収隊と同時帰還するまで、残軍辛
うじて300名。立派に任務を果たし、師団の名誉を挽回します。
駆逐艦戦隊撤収作戦開始。敵軍の抵抗微弱
二月一日 第一次隊(全部駆逐艦、以下第三次まで同じ)
エスぺランス隊 警戒(護衛)隊6、輸送隊8、警戒隊のうち1
(巻波)脱落により輸送隊二隻が警戒隊に。
カミンボ隊 警戒隊2、輸送隊4、以上出動計20 実働19。
米軍出動は戦闘機17、爆撃機SBD17、TBF7。
日本軍損害は駆逐艦巻波航行不能のみ。米軍魚雷艇3が沈没、1
が座礁。(なおエスぺランス、カミンボはガ島西部の地名)
二月四日 第二次隊(第一次隊より二隻抜け、新規補充二隻)
途中舞風が米軍空襲で航行不能。曳航の長月と故障の白雪脱落。
エスぺランス隊 警戒隊出動6、実働4(舞風、白雪不実働)。
輸送隊7(全艦実働)。
カミンボ隊 警戒隊3(うち1が長月で実働2)輸送隊4、出動
合計20、実働17。 (下に続く)
二月七日 最終第三次隊、出動18、磯風被爆後撤収。実働17。
第一連隊(カミンボ)一番隊2、二番隊2、三番(輸送)隊4。
第二連隊(ラッセル)第10駆逐隊3、第17駆逐隊4、第8駆
逐隊2、第22駆逐隊1、以上出動計18。
三回を通じ、全回出動は雪風、磯風、浜風、谷風、時津風、文月
長月、白雪、風雲、夕雲、秋雲、大潮、荒潮の13隻。
救出された将兵は、百武中将以下陸軍12198、海軍832。
艦隊損害は沈没駆逐艦1、損傷3。予定した損害である沈没艦、損
傷艦各4分の1、人員2分の1の数字の遥か以下で、殿軍(しんが
り)隊は草を分け枝を払い岩を砕き、最後の一人までを救出し、そ
の報を受けた山本長官の目に一筋の涙と記録は伝えています。
作戦終了後の二月八日、捨てられた舟艇を発見した米軍は、始め
て日本軍撤収作戦の成功を知り、「見事な作戦」と評価したのです
が、大本営は姑息にも撤収を「転進」と置き換えて発表。戦後の多
くの論者がこれを嘲弄的に使用し、この戦史に残る快挙に水を差し
自らを貶(おとし)める愚を犯しました。大き過ぎる錯誤です。
(この項終わり)
次回は山本五十六戦死前後の戦況です。
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