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『激闘ソロモンの陸と海と空。ガ島撤収までの戦い』
  ――近藤第二艦隊奮戦、栄光の名艦比叡・霧島の最期
      基礎知識篇その十二――空母編、続編の第六部――


 南太平洋海戦の結果、米海軍の空母部隊は一時的に消滅し、日本
軍もまた修理と再編成のために隼鷹を残して後方に退き、太平洋戦
争としては例外的に、一度だけの空母空白時代が到来しました。
 この時、窮地のハルゼーを救ったのは、基地航空部隊と当時稼働
したばかりのワシントン級の新造戦艦群です。


 日本軍基地航空部隊の根拠地はラバウル。終戦まで十万に近い陸
海軍が死守したこの基地は、四カ所の飛行場を完成させ、最盛期に
は二百六十機を備えた南方戦線の最大の基地でしたが、何しろガ島
まで千キロもあり、航続距離の長い零戦でもガ島上空での滞留は十
五分程度に限定され、かといって、陸攻の単独出撃は自殺行為に等
しいのです。(ブインやムンダ等の前線基地はまだ未完成)


 これに対抗する米軍中心基地は、ガ島から九百キロの地点という
絶好の位置にあるエスプリツ・サント基地(略称エス基地)です。
 艦載機のF4Fは無理でも、陸上戦闘機のP-38や大型重爆撃
機B-17ならば軽く往復のできる距離で、事実、米軍は頻繁に編
隊を出動し、日本軍の輸送部隊と護衛艦隊を攻撃し続けました。
 加えて、ニューギニアのポートモレスビー基地があります。
 飛行場四を持ち、ラバウルまでは八百キロ以内という近距離で
ソロモン、ニューギニア方面の日本軍の側面を脅やかしています。
                          (下に続く)


 最新の新造戦艦の投入は冒険的な非常手段でした。
 ワシントン級は、新鋭戦艦といっても基本は弩級戦艦の延長上の
戦艦で、艦速は二十八ノット。高速戦艦とするには二ノット以上足
りませんが、主砲は十六インチ(四〇・六センチ)九門の超弩級。
 しかし高速戦艦として設計されたアイオワ級四隻の登場まで待て
ないハルゼーは、強引にワシントン級の回航を要求し、辛うじて間
に合うのです。(アイオワ級第一艦の就役は翌年一九四三年八月、
任地も大西洋方面。当時の日本はこの両者を混同していました)


 日本軍は二十七ノットの大和を含めて、戦艦の投入を当初から断
念していました。艦速不足で空母の護衛任務を果たせないのに加え
て、艦の重量が巨大なため、慣性の原理によって敵の魚雷攻撃に対
する機敏な回避運動が困難だったからです。
 世界の最高水準の魚雷を造り出した日本海軍は、魚雷攻撃の危険
性にも敏感であり、運動性能に問題のある巨大艦を危険極まる海域
に投入することには、本能的な警戒感を持っていました。


 空母不在の時期を狙って、日本陸軍は輸送船十一隻に名古屋の第
三十八師団1万3500と二十日分の食料、大砲五十門、弾薬七万
発を満載し、十一月十日サボ島対岸のタサファロングに上陸開始。
 米軍基地航空部隊は直ちに発進し、七次にわたる猛攻で、六隻が
撃沈され、残りも擱座・破壊で物資の大半を喪失。辛うじて上陸で
きた部隊も攻勢に出るだけの戦力は残されていませんでした。
 しかも当時ガ島に常駐していた陸軍の少壮参謀辻政信は、すでに
九月二十四日、参謀本部から陸軍機の派遣を拒否されています。
                          (下に続く)


 この窮地に、辻は、山本五十六長官に支援を直訴、長官から「大
和を横付けしても支援する」という確約を貰っていました。
 後年彼は、陸軍上層部や海軍を批判し、第二師団を罵倒するなど
何かと物議を醸す人物でしたが、山本五十六については常に「山本
元帥」と呼び、尊崇の思いを示しています。よほどこの時の山本長
官の決意を高く評価していたに違いありません。
 大和出陣は実現しませんでしたが、海軍の駆逐艦部隊の奮闘によ
って、辛うじて将兵の上陸だけはなし遂げました。


日本陸海軍にとって戦況は日一日と過酷となっています。飛行機
も駆逐艦も潜水艦も全く足りません。
 対する米軍は、足りないのは空母だけ。これだけは簡単に補充は
できませんが、その対応手段は絶無ではありませんでした。
 米国本土の工業力は大きく軍需産業に転換し、特に航空機生産は
量産の軌道に乗り始め、米軍の一九四二年度生産総数は4万553
0機、日本の8860機の約五倍で、しかも日本は悪平等の陸海同
数の割当です(これはマリアナでの大敗まで続きます)


 一対一では零戦に対抗できないのを悟った米軍は、必ず二機以上
で攻撃すること、劣勢の時はとにかく逃げることを第一とすること
を徹底し、当面の危機を乗り越え、同時に飛行場を整備し、性能の
優れた陸上機を次々に投入してきました。
 日本海軍の誇る搭乗員の犠牲者も日を追って増加してきます。
 すでに八月には撃墜王の一人坂井三郎は重傷、海兵出身の撃墜王
笹井醇一中尉も、撃墜王の記録を更新した八月二十六日戦死。
                          (下に続く)


 上陸部隊への護衛と補給はますます困難の度を増してきました。
 南太平洋海戦で米軍機動部隊を壊滅に追い込んだ連合艦隊の主役
も、空母から高速戦艦、巡洋艦、水雷戦隊(駆逐艦)に移行、近藤
信竹中将の第二艦隊を中心に輸送部隊の護衛と米軍飛行場の破壊を
主目標とします。


 隼鷹の奮戦によって、艦艇の流動的な運用の効果を知った第二艦
隊は、傘下の前衛部隊、前進部隊の艦艇を随時抜擢して活用する方
式に転換することで、この難局に対応します。
 前衛部隊の阿部弘毅少将隊は、本来の任務である機動部隊護衛の
任を解かれ、重巡部隊を前進部隊などに分割し、自らは旗艦である
軽巡「長良」に乗艦。高速戦艦比叡、霧島と、「村雨」以下五隻の駆
逐艦を哨戒兼前衛に、「雪風」以下六隻の駆逐艦を護衛隊とし、暗夜
を選んで一路米軍ヘンダーソン基地を目指します。


   第三次ソロモン海戦始まる


 十一月十二日深夜、阿部艦隊の哨戒隊駆逐艦2が方向を見失って
大きく遅れたものの、他が順調に基地に迫ったころ、巡洋艦5、駆
逐艦8の米軍高速艦隊の大集団が北進中でした。
 米艦隊の目的は、もちろん日本軍の上陸と物資揚陸の阻止です。


 指揮するのはカラガン、スコットの二人の提督。
 日米同時に敵を発見した時の距離一万m。時刻十三日0142。
 これが、この後三日間に渡る第三次ソロモン戦の発端です。
                          (下に続く)


 この戦いで、日本軍の比叡、霧島を撃沈したことによって、ル大
統領が「ようやく大戦争の目鼻がついた」と安堵したことが有名で
すが、実態はもっと複雑で多面的な海戦でした。


 この時も米軍のレーダーは充分な効果を発揮できず、米軍の哨戒
艦が探知したのは遥か二万7000m先の比叡と霧島で、近くの駆
逐艦は標的に入らず、気付いた時には距離わずか5000m。
 たちまち駆逐艦夕立と春雨が米艦隊の真ん中に突入して大混乱と
なり、その間、比叡の周囲に米駆逐艦が接近し、その一弾が水面下
の舵を破壊、艦速を低下させて、これが致命的な打撃となります。


 米海軍は巡洋艦2と駆逐艦5を喪失。カラガン、スコット少将は
共に戦死。日本軍の撃沈は駆逐艦夕立と暁。行動困難となった比叡
は、エス島からの重爆撃機17機の集中爆撃により撃沈されます。
 この第一戦の勝敗の判定は微妙です。損失艦の数では米軍、比叡
の価値を高く評価すれば日本軍の受けた被害が大となりますが、こ
れはまだ前哨戦に過ぎなかったからです。


 十二日深夜、阿部艦隊に代わり、今度は第二艦隊の西村祥治少将
の巡洋艦隊がヘンダーソン飛行場砲撃に出撃しました。
 前衛部隊の重巡鈴谷、近藤中将直率の前進部隊から重巡摩耶が合
流し、軽巡「天竜」を旗艦にした駆逐艦4が参加します。
 十四日未明に攻撃完了するまでに、米軍の基地航空隊の地上機が
18機破壊され、32機が損傷と記録されています。
 その直後三川中将の第八艦隊が到着し砲撃を開始。  (下に続く)


 第一次ソロモン海戦の快勝で凱歌を挙げたこの艦隊は、当時の重
巡五隻が、今や旗艦鳥海のほかには「衣笠」だけに減少していて、
往年の勢いは見られませんが、それでも飛行場を目標に猛烈な砲火
を浴びせて避退。
 不運だったのは、追撃してきた米軍航空部隊が、西村隊ではなく
この三川隊を襲い、衣笠が撃沈されてしまったことでした。


 同じころ、第三十八師団上陸部隊は大苦戦していました。
 田中頼三少将率いる駆逐艦十一隻の水雷戦隊も、思いもかけない
大編隊の空襲を受けて防戦一方でした。
 基地発のB-17型15、基地爆撃隊18、空母Eの雷撃隊12
などの猛襲です。空母Eに至っては、損傷中にも関わらず、修理を
続けながらの参加で、これは、ハルゼーの「手許に一隻も残すな」
の大号令によるものです。


 米軍基地航空隊の威力は日本軍の意表を衝くものがありました。
 日本軍はガ島の飛行場を脅威と認識し、波状攻撃を繰り返してい
ましたが、機動部隊空白のこの時期には、むしろ後方基地のエス島 (エスプリツ・サント島)が重要な役割を果たしています。
 残念なことに日本軍は、この後方基地の重要性と、機械力を駆使
した破壊飛行場の復元力について正確な知識がありませんでした。


 既述のようにこの島は、ガ島を中心とするソロモン諸島全域に対
する攻撃の中枢基地として絶好の位置にあるだけでなく、日本軍か
らは手の届かない安全地帯に在りました。       (下に続く)


  中枢後方基地、エスプリツ・サント島


 土地は広く、大型機用の長大な滑走路の建設が可能で、米軍は続
々と「空の要塞」と呼ばれた巨大な長距離重爆撃機(B−17型)
などの大型機を送り込んできました。


 日本軍は当初、これらの存在を軽視していました。急降下爆撃機
に比べて爆撃の命中率が低く、艦の敏速な運動によって回避するの
が可能と判断していたのです。


 しかし機数が増加し、攻撃目標も上陸作戦中の輸送船となると、
その威力は一気に高まってきます。田中頼三の水雷部隊が輸送船団
を護りきれなかったのも無理はなかったのです。
 しかも日本軍は、なかなかその現実を認めることができず、当時
はもちろん、戦後の長い期間にわたって、エス島の正しい名とその
位置を知る機会さえ稀でした。
 さらに、これに関連した日米の飛行場建設の実態や、それに使用 された建設機械の比較などの研究も全く行われていません。
 それでいて結果についてのすべての責任を実戦部隊に転嫁するよ うな論調が横行しているのは、極めて不公正なものです。
(当時の日本では建設機械の生産は皆無に近く、最も遅れた部門で
した。わずかに大砲牽引用のブルドーザー八十台が小松製作所で生
産された実績がある程度で、実質はゼロです)


 それでも日本海軍は戦い続けなければなりません。陸軍の上陸部
隊は飢えているのです。霧島の悲劇はこの状況下で生まれます。
                          (下に続く)


 元来、霧島は第二艦隊本隊の所属ではありませんでした。
 開戦時は僚艦の比叡と共に、機動部隊の護衛部隊に属して真珠湾
攻撃に参加し、第二艦隊所属の戦艦は金剛、榛名でした。
 第二艦隊は他に重巡12、軽巡7、駆逐艦40、潜水艦15が属
していましたが、同時に行動することはなく、南西太平洋の広大な
海域で分散して多くの海戦に参加し、所属艦もしばしば変更させら
れていました。いわば連合艦隊の便利屋的存在だったのです。


 ミッドウェー海戦時、比叡は第二艦隊に移って金剛と組み、一方
の霧島は榛名と組んで第一機動部隊の空母四隻の護衛を担当。
 今回は再び開戦前に戻っての第二艦隊。機動部隊援護を最重要視
しての交代なのは確かですが、驚くのは第二艦隊司令の近藤信竹中
将が常に何の苦情もなく、淡々と受け入れていることです。


 近藤中将は海兵三十五期で、山本長官の二期下。しかも機動部隊
司令の南雲の一期先輩であり、海兵入校時は116席だったのが、
二年には6席、卒業時は首席。軍令部勤務が長く、課長、第一部長
から次長を歴任していて、最高に近いエリートです。
 それが南雲艦隊に都合の良いように部下の戦艦を使われて何の不
満も言わず、最後には傘下の隼鷹まで提供して危機を救ったのです
から、戦後には草鹿龍之介がその著書で、わざわざ名指しで感謝の
言葉を記しているのも当然の大人物でした。
 大人物に相応しく、彼の異名は昼行灯(あんどん)。それが南太
平洋海戦でその評価は一変し、さらに今、猛将の名が相応しい攻撃
的姿勢を見せているのです。             (下に続く)


 近藤艦隊が米軍飛行場を次々に砲撃している間に、いつか米海軍
の新鋭戦艦二隻が駆逐艦の援護下、近藤軍に迫ってきています。
僚艦比叡を失った霧島は、それでも軽巡長良(ながら)と駆逐艦
7を率いて、ヘンダーソン基地を目指していました。
 近藤中将は、この霧島隊に追いつき、緊急に「飛行場砲撃部隊」
を編成します。陣容は旗艦が重巡「愛宕」それに重巡高雄と霧島が
第一陣、橋本信太郎少将の軽巡川内(せんだい)と駆逐艦3が第二
陣、木村進少将の軽巡長良と駆逐艦6が第三陣。


  鉄底海峡、「風死し海眠って残月空にかかるころ」
   ――近藤中将の飛行場砲撃部隊出動。霧島最後の戦い


 伊藤正徳はこの出撃について、彼の著書では万感の思いの籠もる
名文を以て表現しています。
 「アイアンボトム海峡」に「風死し海眠って残月空にかかるころ
近藤艦隊出動す」と。アイアンボトムとは「鉄底海峡」で、英語で
は、Iron Bottom Soundです。
 「鉄底海峡」とは、サボ島とガ島間の海峡を指し、多数の艦艇が
沈没しているため、艦艇の磁気利用の機器が狂いを生ずるため米軍
がつけた異名。今も米海軍の記憶から消えることのない名です。
 わが霧島もこの海峡でその輝かしい生涯を終えるのですが、不当
なことに、その名を記憶する人は少なく、この艦隊を陣頭指揮して
戦った「昼行灯」の名将近藤信竹中将の戦後に至っては、知る人も
語る人も稀なのが実態です。             (下に続く)


 高速戦艦霧島は、一九一三年に弩級戦艦の立ち遅れを挽回するた
め、英国の造船所で建造されて輸入した金剛に次ぐ、国産巡洋戦艦
三隻のうちの一隻で、一九一五年に就役。時代を経て弱点であった
装甲を強化し、さらに一九三三年の大改造によってエンジン馬力が
倍増して、艦速も約三十ノット。改造完了とともに、空母時代に最
も相応しい世界初の高速戦艦として大活躍していました。
 進撃中の艦隊に偵察部隊からの情報があり、巡洋艦2と駆逐艦4
から成る米艦隊の存在を知った近藤艦隊は、直ちに飛行場襲撃を変
更し、米艦隊を目標に突進。(この巡洋艦は戦艦2の誤報と判明)
 まず駆逐艦の戦隊が全艦から魚雷を発射したものの、すべて回避
されますが、霧島と他の重巡部隊が砲撃し、米戦艦サウスダコタに
数弾命中。霧島の主砲の36センチに対して米戦艦は40センチと
有利であったのに、主砲が使用できず、情勢不利と判断したサウス
ダコタはここで退却してしまいます。
 駆逐艦4のうち2も撃沈され、2は大破して敗退。


 残るは戦艦ワシントンただ一隻。
 ただ彼に幸運、霧島に不運だったのは、霧島の三式弾で甲板が炎
上して退却中のサウスダコタが煙幕の役割となったことです。
 突如眼前に現れた巨大な新型戦艦ワシントン。
 リー提督は日本軍の重巡部隊には目もくれず、霧島に40センチ
の主砲9門による砲撃を集中しました。
 記録によれば、七分間で、発射砲弾76、命中9。
 もともと霧島の36センチ弾では対等の砲撃戦は無理なのですが
先制の奇襲攻撃を受けては対抗する術(すべ)はありません。
                          (下に続く)


 重巡部隊にも危機が迫りました。決断した近藤は、霧島の乗員救
出は駆逐艦に委ね、重巡以下全軍に撤収を命令します。
 こうして高速戦艦霧島はようやくその激務の生涯を終わり、鉄底
海峡奥深く、永遠の眠りに就くのです。真珠湾攻撃以来一年弱。文
字通り東奔西走の果ての無念の眠りでした。


 しかし近藤信竹中将の戦いはここで終わることはありません。
 十一月三十日のルンガ沖夜戦の大勝を経て、ガ島撤収作戦に入る
と、そこでまた大きな役割を果たすことになります。


 その詳細を語る前に、この随想の読者の一人である海兵七十八期
の板垣裕氏からのご尊父板垣金信に関する情報を提供しましょう。
板垣金信は、以前あの浅海面魚雷開発者の愛甲文雄大佐の同期生
(五十一期)であり、かつ二人の子息は共に海兵七十八期の同期と
紹介しましたが、今回の情報によって、父の二人は鹿児島の川内中
学も同期、しかも板垣金信は戦争前半戦までは近藤中将の参謀兼副
官だったのが判明しました。近藤中将が内地勤務となったのがガ島
撤収作戦成功の半年後ですから、中将が最もその真価を発揮した時
期と完全に重なっています。また新たな事実が発掘されたのです。
                        (この項続く)

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