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空母編 続編第五部 <<前のページ|後のページ>>
『南太平洋海戦。ソロモンの戦いの最後の機動部隊決戦』
――乱戦の中、勝利を決めた隼鷹(じゅんよう)の奮戦
基礎知識篇その十一――空母編、続編の第五部――
ハルゼーの司令部はニューカレドニア島ヌメアに置かれました。
彼は、日本軍第二師団の攻撃開始に呼応して、空母を含む日本海
軍の大艦隊がソロモンを南下し始めたのを重大危機と認識します。
司令部の地にあの有名な「ジャップを殺せ」の碑を建てさせたほ
どの彼にとって、この日本艦隊の動きが自分に対する挑戦と受け止
めるのはごく自然な成り行きでした。
日本艦隊はこのことを想定、一旦はソロモンの南方深く突出し、
のち反転北上、ガ島東方に米艦隊を誘い出してこれを壊滅する作戦
を採り、そして成功しました。これが南太平洋海戦の実相です。
ところが、この海戦での勝利を快く思わない人たちがいて、ここ
での戦果を軽視する見解が今もなお根強く残っています。
たとえば二〇〇六年五月の某月刊誌の座談会では、H・K氏が、
「ミッドウェー後、戦史に残る戦果はルンガ沖夜戦」だけとし、これを
受けてT・K氏が「あとはひたすら負け」としています。
ルンガ沖夜戦というのは、この後の十一月三十日、田中頼三少将
(のち中将)がガ島への輸送部隊の護衛中、長距離魚雷の連射によ
って米巡洋艦一隻を撃沈、三隻を大破した海戦を指しますが、この
勝因の一つは南太平洋海戦で米海軍が全空母を失ったことによるも
のであり、この発言には根本的な自己矛盾があります。 (下に続く)
このような誤解(或いは歪曲)が生まれたことについては、従来
の旧海軍関係者による解説や叙述にも全く責任がないわけではあり
ません。
たとえばこの海戦の主役のうちの一隻は、疑いなく隼鷹ですが、
これまではほぼすべての解説では改造空母と表現しています。
今回の検証によれば、その実績から見ても、空母としての基本能
力から見ても、むしろ日本型軽空母に分類するのが正しいと判断さ
れるのです。
作戦の基本的動機となったガ島戦の認識にも疑問があります。
ガ島の陸軍上陸部隊は完全に立ち往生状態となっていました。
陸軍の最強部隊と期待されていた第二師団は、一木支隊、川口支
隊の失敗の反省から、苦心の末に戦車と重火器を揚陸しましたが、
密林の中で道路を開拓して移動する装備がないために、一歩も動け
ず、敵弾の集中砲撃を浴びて全滅の危機に瀕しています。
ついに輸送船による補給の困難から、海軍は折角の戦力である駆
逐艦と潜水艦を投入して夜間の決死的輸送をするしかなくなり、そ
のための犠牲が増加し、効率も極端に悪化していました。
(これらの状況についての証言は多数残されています)
日本軍は鈍足の戦艦部隊を除くほぼ全艦隊を動員しました。
四隻の高速戦艦、九隻の重巡、三隻の軽巡、駆逐艦二十一隻。そ
れに空母が翔鶴、瑞鶴と小型空母瑞鳳、加えて隼鷹の四隻。飛鷹が
機関故障で離脱しているのが日本側の不運の一つで、もし飛鷹が参
加していたなら、この海戦は完全な楽勝だったかもしれません。
(下に続く)
しかし当時は、誰にもその認識はありませんでした。
というのは、隼鷹は機動部隊本隊ではなく、金剛・榛名らと共に
近藤信竹中将の前進部隊(先鋒隊)に配属された第二航空戦隊の中
の一隻で、補助的な小型空母程度の評価だったからです。
しかもこの第二戦隊は、まず第二次ソロモン戦で小型空母の龍驤
を失い、今また飛鷹が脱落し、戦隊とは名ばかりの、たった一隻の
寂しい戦隊となりましたが、好運にも真珠湾以来の名戦闘機乗りの
志賀淑雄大尉(当時)や下士官組の中の精鋭が搭乗していました。
ただしその真価が証明されたのは戦闘終結後のことでした。
その一方、主力の第一航空戦隊の護衛任務を担当したのが、高速
戦艦比叡と霧島に重巡利根・筑摩・鈴谷などを配した前衛部隊で、
これまでの戦訓を生かし、重巡の水上機7と空母の艦攻13機によ
って編成された偵察部隊が二段索敵を行い、早くも未明の0450
(午前四時五十分)、敵艦隊を発見しています。
これと前後して米軍索敵機も瑞鳳を発見。投下した一弾が飛行甲
板に命中。艦載機の発着不可能により早くも瑞鳳は戦線離脱。
ただ本海戦の場合、瑞鳳の被弾と戦線離脱は必ずしも大きな戦力
低下とはなりませんでした。発進済みの艦載機を直ちに他の空母に
着艦させることが可能で、現実に実行していたからです。
十月二十四日、辛うじて修理の終わった空母Eと合流した米軍本
隊は、喜びも束の間、その空母Eの艦載機12を訓練事故などで失
いながら、サンタクルーズ諸島を経てソロモンに向かいます。
この空母Eの戦力低下は米軍の不運を暗示する凶兆となります。
(下に続く)
この時期には日米両軍とも相手の状況をおおむね正確に把握して
おり、充分な防衛体制が取られていました。
日本艦隊の索敵部隊に対応して、米軍はカタリナ水上偵察機を総
動員するほか、多くの島々に民間人の諜報員を配置し、これが名曲
で知られる映画『南太平洋』の仏人諜報員のモデルとなります。ま
た機数を増やした護衛戦闘機は日本攻撃陣には最大の障碍でした。
偵察の結果判明した日本の一航戦(第一航空戦隊)と米機動部隊
との距離はおよそ210海里(約390キロ)。航空機の巡航速度
では一、二時間という絶好の間合いです。
艦戦(艦上戦闘機)を先頭に発進し上空で編隊を組んだ第一次攻
撃隊は、払暁の0525から逐次出撃を開始します。
率いるは翔鶴飛行長村田重治少佐。海兵五十八期。日本海軍航空
雷撃部門の第一人者であり、連合艦隊機動部隊の至宝です。
護衛の艦戦21機は翔鶴から4、瑞鶴から8、それに母艦を失っ
た瑞鳳隊から9。艦爆21はすべて瑞鶴。艦攻(艦上攻撃機。ここ
では雷撃機)20はすべて翔鶴。全部を合計して、翔鶴24、瑞鶴
29、瑞鳳9の総計62機。瑞鳳隊の9機が貴重な存在でした。
機動部隊、戦闘に突入
0655。ついに空母Hを発見。日本側の記録では護衛艦は重巡
2、防空巡洋艦2、駆逐艦6。米軍司令官はキンケード少将。のち
に護衛空母艦隊を以てマッカーサー軍の護衛をした指揮官です。
(下に続く)
0710。日本の攻撃隊は、艦爆隊は風上より敵艦の甲板を直撃
し、艦攻隊は左右に分かれて急襲。爆弾命中6以上。魚雷命中2。
別の艦攻は駆逐艦に魚雷もろとも直撃、撃沈。
さらに重巡1に魚雷命中、艦爆1が体当たりで駆逐艦大破。
この激戦で空母Hに大打撃を与えたわが航空陣の損害も大きく、
特に至宝村田少佐の戦死は痛恨の極みとなります。
第一次攻撃隊の発進後、直ちに第二次攻撃隊の出撃準備開始。
この段階で瑞鶴の艦攻隊の準備が他隊よりも時間を要することが
判明し、一斉発進でなく、各隊の分離発進に変更。
0610翔鶴の関衛少佐(海兵五十八期)を隊長に、艦戦5、艦
爆19発進。0645瑞鶴より今宿慈一郎大尉(海兵六十四期)隊
艦戦4、艦攻16、以上計44機。第一次と合わせて106機。
各隊は炎上中の空母Hを通過、その東南20海里(約37キロ)
の空母Eに殺到。護衛艦隊は戦艦1、重巡2、駆逐艦8の輪型陣。
日本軍の第一次攻撃時には、幸運にも激しいスコールを利用して
無事避退できた空母Eも、今回は逃れることのできない状況かと思
われたのですが、まだ多少の運が残っていました。
自艦の攻撃部隊がすでに発艦済みだったのです。
同じころ発進した米軍攻撃隊は、まず空母H隊のF4F艦戦8、
SBD艦爆15、TBF艦攻6の計29機が0718。空母Eの艦
戦8、艦爆3、艦攻8の計19機が0727で、ほぼ同時に日本軍
の主力空母陣に到達、この同時攻撃が効果を高めました。
(下に続く)
0820。第二次隊の関少佐隊が急降下爆撃開始、空母Eに3発
命中。艦爆隊の一機は被弾後に飛行甲板に突入し自爆。氏名不詳。
艦攻隊は敵戦14によって3機を失うも、0900、攻撃を開始
し、戦艦に2、重巡に1の魚雷を命中。別の艦攻一機は魚雷を装着
したまま米駆逐艦に突入して大破。
ただしこの時期にはまだ空母Hは沈まず、空母Eも、戦力は大幅
に低下したものの、どうにか航行は続けられる状態です。
―― 一方、日本軍は瑞鶴に被害は少なく、翔鶴が飛行甲板に直撃弾
(4発とされる)を受け、発着不能に――。
この時点、両軍ともに、これまでの戦訓によって護衛機の数を増
やしており、輪型陣の強化と相まって、両軍攻撃隊の被害は甚大な
状況となっていました。今宿大尉もこの攻撃時に戦死。
こうして日米各二隻の正規空母は、野球ならば打撃戦、ラグビー
で言えば肉弾戦のように、激しい打ち合いで勝負がつきません。
この乱戦に決着を付けたのは、両軍の正規空母ではなく、誰も予
想していなかった伏兵でした。一隻だけの戦隊「隼鷹」です。
隼鷹の属していた近藤中将の前進部隊は、このころ、両軍の激突
した戦場からは最も遠い位置に在りました。敵艦隊との距離は33
0海里(約610キロ)。参戦断念の判断も可能な遠距離です。
しかしここで翔鶴の飛行甲板が使用不能となるという緊急事態が
発生。艦隊司令部は駆逐艦に移乗し、同時に南雲長官は急遽、近藤
艦隊のたった一隻の空母隼鷹の指揮権を角田覚治(かくたかくじ)
少将に全面委譲し、その判断が奇跡を生むことになったのです。
(下に続く)
本艦は全速力で飛行隊を迎えに行く――角田司令命令
角田少将は直ちに隼鷹を戦場に猛進させます。公式速度二十五・
五ノットの隼鷹のどこにこれだけの力が秘められていたのか、護衛
の他艦の乗員が茫然とする程の勢いで隼鷹は疾走しました。
「騎馬武者が槍を抱え込み敵陣目掛けて疾駆するようだった」とい
うのが目撃者の記録に残っており、これを以て角田少将を闘将と名
付ける人が多いのですが、これは正しい評価ではありません。
彼の行動には状況の正確な把握と緻密な計算があります。
世界で最初の機動部隊決戦であった珊瑚海海戦の場合は、日米両
軍ともに索敵が不十分で、それぞれ勝機を逸し、最後に、高橋赫一
少佐、島崎重和少佐という真珠湾攻撃以来の名コンビによる左右両
翼からの挾撃戦法と、浅海面魚雷の威力によって、鈍重な巡洋戦艦
改造空母のレキシントンに三本の魚雷を命中させて勝利しました。
今回は事情が全く違っているのです。
米艦隊の位置も、その戦力もかなり正確に判明していました。
味方の旗艦である翔鶴が大きな損傷を受けて、その艦載機が帰る
べき母艦を失ったという報告も伝えられています。
これが角田の「飛行隊を迎えに行く」の命令に繋がっています。
隼鷹は敵艦隊まで280海里(約519キロ)に到達しました。
角田少将の意を受けた隼鷹の艦戦隊長志賀淑雄大尉は第一次攻撃
隊の艦戦12、艦爆17を指揮して発進します。
志賀大尉もまた真珠湾の戦闘機隊長。エース中のエースです。
(下に続く)
五月に竣工したばかりの隼鷹は、実戦参加に不安があるために、
先のミッドウェー戦ではアリューシャン作戦に回されていました。
その結果は上々で、しかも志賀大尉以下、老練な下士官を配属し
たことが艦としての総合力をさらに高めています。角田少将はその
実力を冷静に見極めていたのです。
発進時間は1014。全体及び艦戦隊長志賀大尉。艦爆隊長山口
正夫大尉(海兵六十三期)。約一時間後空母Eを発見し、攻撃を開
始。たちまち三弾以上を命中させ、重巡1、軽巡2にも命中弾を浴
びせたものの味方の損害も大きく、三浦尚彦大尉(海兵六十六期)
以下九機を失います。
しかし隼鷹隊は怯まず、1106、瑞鶴の白根斐夫(あやお)大
尉を隊長とする艦戦9、飛鷹の入来院良秋大尉を隊長とする艦攻7
の混成第二次攻撃隊を編成して発進。1310、逃走中の空母Hを
捉え、魚雷3以上を命中させて、ついに空母Hは大傾斜します。
艦攻隊の先陣を切って突入した入来院大尉戦死。
ほぼ同じころ、1115、瑞鶴でも田中一郎中尉が艦戦5、艦爆
2、爆装艦攻6の小戦隊を再結集して第三次攻撃隊を組成出撃。空
母Hに800キロ弾1の命中確認。
1333、隼鷹では志賀大尉は残存機を集めて第三次攻撃隊を編
成。行き場を失った他艦の機を含む世界最小の連合艦隊は、艦戦6
に艦爆4の計10機。これが最後という決意の出撃でした。
(下に続く)
途中、行く手を阻む米機は一機もなく、無人の野を行く如く戦場
に達し、瀕死の空母Hに全弾を命中させ、全機生還。この時すでに
洋上に敵機の機影はなく、日本軍は悠々と駆逐艦二隻を出動させて
止めを刺しました。小粒の軽空母隼鷹の完璧に近い勝利です。
米軍の出動総数は合計73機。うち空母Eが19、空母Hは第一
次29、第二次が25の計54です。これに対する日本軍は一航戦
119、隼鷹隊が29で計148機。(田中中尉隊の13を含む)
隼鷹が第一次攻撃だけで手を緩めたら、南太平洋海戦は日本軍の
優勢程度で終わっていたかもしれません。
局面打開の決定打となったのは、隼鷹が他の空母の艦載機を次々
と収容し、緊急攻撃隊を編成して戦場に送り込んだ作戦です。
最も驚嘆するのは、角田少将の命令が「飛行隊を迎えに行く」で
あって、当初からこの事態を予想し計算していたという事実です。
結果として他艦の艦載機を収容することは、これまでもしばしば
実際に行われていましたが、事前に予測し、それを前提に作戦を樹
てた提督としては、彼が世界でも初めてと思われます。
こうして日本海軍は、航空戦力のすべてを絞りだして、米軍航空
戦力を徹底的に叩き潰しました。これまでの日本軍には想像もでき
ないようなこの執念はどこから生じたのかが問題です。
最終的には、米軍損失は空母1撃沈、同1が中破。戦艦1、重巡
1、駆逐艦2が損傷。護衛機を含む航空機74機喪失。
日本軍の損傷艦は空母翔鶴と瑞鳳。航空機の未帰還69、不時着
水23で、一見して日本側の損害も大きいようです。
(下に続く)
このあたりが当時の軍令部参謀などの低評価の原因らしいのです
が、しかし米側では日本側の論調とは全く違っていました。
戦闘終結直後の米側放送では「この日ほど悲惨な海軍記念日を迎
えたことは、米国海軍創始以来はじめてのことである」とし、日本
側よりもはるかに厳しいものがあります。実際、上空に一機も残ら
なくなったのですから、完敗というしかありません。
ではなぜ日本側が多くの犠牲を払い、ここまで徹底して殱滅戦を
追求したのかが残された疑問となります。
この時期の日米両軍にとって、戦略的にガ島の攻防が最重要の意
味を持っていたのは確かですが、実は表面に現れないもう一つの深
い動機が隠されていたのです。
陸軍第二師団新発田(しばた)連隊の運命
第二師団がジャワ島から派遣された時、ジャワの第十六軍の司令
官は今村均中将でした。彼はこの十一月には新設の第八方面軍司令
官に任命されてラバウルに赴任しますが、第二師団派遣時にはすで
にガ島の深刻な状況を的確に把握していたのは間違いありません。
のちのラバウル時代、終戦まで陸軍七万海軍三万の自給のため、
七千町歩の農地を開拓したなどの実績がある彼は、食料の確保には
強い関心を持っていました。これには彼の父親が判事で、仙台で出
生後、東北の農業地域中心に転々としたことの影響があります。
父の任地は山形、酒田、白河、山梨、そして新潟県の新発田。彼
は新発田中学で民間人を卒業、陸軍士官学校に進みました。
(下に続く)
彼の回顧録にも「特別に世話になった新発田」という趣旨の言葉
があって、強い愛着のある地であったのは確かな事実です。
彼にとっての新発田連隊は、単なる配下の一隊ではありません。
「今村中将、コメを」という兵士らの悲痛な叫びは彼の胸を鋭く刺
し、長岡出身の山本五十六の心にも強く伝わってくるのです。
おそらくは作戦の早い時期に、ガ島への補給方法が真剣に検討さ
れ、その結果、最悪時の撤収とその方法までが想定されていたと考
えられます。南太平洋海戦はその最初の第一歩だったのです。
証言によれば、今村は当初からガ島作戦には批判的だったようで
す。しかし彼には公然の批判は許されません。陸軍の戦力の限界を
知っている彼は、海軍の作戦の成否に賭けるしかなかったのです。
三条中学出身の角田覚治の活躍は全くの偶然というよりは、彼も
また山本長官と同じ思いのあった可能性が高いのですが、のちにテ
ニアンで自決した彼には、語る機会はついにありませんでした。
現実に奇跡が起こったのは確かな事実です。これによって翌年の
二月、海軍は二十二隻の駆逐艦を総動員。米軍の厳重な警戒網を突
破し一万人を越えるガ島残留全日本兵の救出に成功しました。
(この項終わり)
――次回はガ島撤収後の日米空母の動向です。
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