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『ガダルカナル島=ガ(餓)島をめぐる攻防の死闘』
 ―高速戦艦金剛・榛名、深更のヘンダーソン飛行場一斉砲撃
          基礎知識篇その十 ――空母編、続編の第四部――


 米海軍にとって、エセックス級大型空母と軽空母、護衛空母が戦
力化するまでの間、攻勢を維持することで、日本軍を押さえ込み、
豪州を防衛するのが緊急の課題でした。
 ガ島上陸時点での米海軍の見通しでは、エセックス級の第一艦が
竣工するのは辛うじてこの年の年末。軽空母の参戦は翌年の一月半
ば。艦隊空母として登場したサンガモン級護衛空母はこの年の八月
に二隻、九月に二隻と最も早いものの、実戦参加までにはまだ何カ
月かのテストと訓練が必要です。


 一方、マッカーサー将軍の陸軍は、暫定の妥協案に基づいて着々
とニューギニア方面への進軍を開始しています。
 その輸送船団の護衛は海軍に課せられた義務であり、無視するわ
けにはいかないのです。しかも頼みの機動部隊は著しく弱体化して
います。


 この窮地を突破するため、米海軍はまず非常手段を採りました。
 これがホーネット(空母H)の太平洋回航で、これによって、大
西洋では大型空母は完全にゼロとなります。
 これまで大西洋中心主義をとってきた米軍戦略としては異例中の
異例の決断でした。日本の精強な海軍力を期待して三国同盟を推進
してきたヒトラーの高笑いが聞こえてくるようです。  (下に続く)


 これと同時に、空母の登場によって時代遅れとなった新鋭戦艦部
隊も南太平洋に派遣し、その活用を図ります。のちにこの戦艦部隊
が空母部隊に代わって大戦果を挙げることになるのですが、これは
あくまでも結果論で、百隻空母構想の遅れが全作戦の遂行に大きな
阻害要因となったのは、否定できない冷厳な歴史的真実です。


  現実にこの窮地を救ったのは、まず航空機の大増産であり、さら
には、陸上基地の飛行場の急速な増強でした。
  米国全体の総動員体制は凄まじいものがありました。
  人員の面では、前出の海軍予備士官候補生の例のように、日本と
は桁違いの数ですし、しかもそれが理工系も対象となり、それぞれ
の専門に応じて各分野に動員され、新兵器の開発、軍需物資の大増
産に大きな貢献をします。
 ノックス海軍長官とキング作戦部長を中心とする海軍首脳部は、
その一般機運を利用し、艦艇、航空戦力を問わず海軍の総合戦力の
強大化に向けて突っ走り、陸軍もまたそれに対抗します。


  まず自動車工場は一切の新車発表を禁止され、それぞれの能力に
応じた兵器生産に振り向けられます。たとえばフォード工場は爆撃
機、キャデラックの工場は戦車など。
 元からの飛行機工場は一斉に建屋を拡張し、軍からの注文を待ち
ます。軍艦と違って、飛行機は比較的に増産が容易なのです。
 むしろ隘路としては、研究開発部門ですが、これにも学生の総動
員が効果的で、零戦に対抗できる新型戦闘機や強力なレーダーの開
発などのチームに多数参加したのが知られています。  (下に続く)

  日本の場合は、兵学校と並んで経理学校と機関学校が存在しまし
たが、兵学校自身がこの年代の教育機関としては異例の文系・理系
混合の教育課程があり、これが空母開発の場合に有効に機能し、ご
く短期間で大きな成果を得た実績は、すでに見てきた通りです。
 これに加えて海軍には委託学生や技術士官制度があり、大学や高
専の学生に給与を支給し、卒業後は士官に登用して即戦力とするシ
ステムが定着しており、各部門で効果的に業績を挙げていました。
 しかしその絶対数が不足であったのが戦争の激化とともに露呈さ
れてきます。特に電波兵器関係などで顕著でした(詳細後述)。


 さらに決定的に深刻な現実が浮上してきました。
 日本陸軍は、太平洋方面での作戦において、戦略・戦術・装備の
すべての面で、全く対応できる態勢でないのが判明したのです。
 まず、計器飛行の訓練を受けていない陸軍機は、単独で洋上飛行
して戦場に到達することができません。
 海軍の零戦ならば、硫黄島、マリアナ、トラック島を経て最終地
のラバウルまで自力でも飛行できるのに、陸軍機が自力飛行するに
は遥か台湾、比島方面から島々を伝って迂回するしかありません。
 実際には、海軍がなけなしの改造空母で輸送するのに便乗した例
が多かったようですが、その実態はまだ未解明なのです。


 このような状況下で、ガ島攻防戦が勃発しました。
 米軍も決して万全の準備で決行したわけではありませんが、とも
かくも戦略目的は明確であり、当時の全戦力が集中されています。
 これに対する日本陸軍の対応は、実に無残で無様なものでした。
                          (下に続く)

 米軍海兵隊のガ島上陸の情報を陸軍が得たのは、欧州方面の情報
機関からです。モスクワの陸軍諜報機関は、米軍による反攻の第一
弾がガ島上陸であると打電してきましたが、この時、人数を200
0人と過少報告したのが最初の躓きとなります。それ以上に事態を
悪化させたのは、現地部隊が独自の偵察機能を持たず、現在の私た
ちにはどうにも理解できない短絡的な行動を取ったことです。
(これからの記録の内容は余りにも常識から乖離しており、死者の
御霊(みたま)を思うと、書くに忍びがたいものがありますが、極
力事実検証を第一とし、客観的かつ簡潔な記述を心掛けます)


 ソロモンの悲劇、ここに始まる


 ガ島は東西160キロ、南北48キロ、総面積は四国の三分の一
程度という大きな島です。日本海軍はここにラバウルの根拠地の前
線飛行場を建設する予定でした。
 動員された設営隊2500名に対して、護衛の陸戦隊は現地に2
00、近くのツラギに700という少人数で、米軍の19000名
の重装備軍団には対抗できる兵力ではありません。


 そこで支援のため、陸軍が急遽派遣したのが、豪州進攻を目的に
待機していた旭川師団の先遣隊一木支隊916名で、この日が八月
二十一日。
 八月七日に出撃した三川艦隊に比較して出足も遅いのですが、こ
れは陸軍と海軍の機動力の差として許容できるにしても、その後の
展開に見られる格差は、到底同じ国の軍隊とは思われません。
                          (下に続く)

 千名にも満たない兵力。それも小銃と機関銃主体で、戦車もなく
大型の砲もない部隊が、充分な偵察も行わずにいきなり完全装備の
米軍の大部隊に向かって突撃し、一木隊長以下ほぼ全滅。それでも
生存128名の他、捕虜15名の記録があるのがむしろ救いです。


 九月十二日、十三日。一木支隊の残りの軍団1400名と、川口
少将の第三十五旅団3500名が川口支隊として再度攻撃開始。ま
たも惨憺たる失敗に終わります。
 焦った第十七軍は当時最強と称された第二師団(仙台、新発田、
会津の各連隊)一万を投入。十月二十四、二十五日総攻撃失敗。
 その後十一月十四日、増援軍として第三十八師団を上陸させたも
のの、米軍の重囲下、食料・弾薬の補給が困難となり、敵軍の猛攻
と飢餓と病魔の中で、残存将兵たちに全滅の危機が迫ります。


 十二月末、日本軍はついに撤退を決断。実行予定を二月初とし、
陸海軍は準備に入り、翌年二月一日、同五日、同七日と三回に分け
て決死の海軍駆逐艦部隊が突入、次々に撤退を成功させ、辛うじて
生き残った生存者たちを救出します。
 ガ島上陸者31400名、推定戦死者21600名。うち500
0ないし6000が戦闘による戦死者で、残りが餓死者という、文
字通りの餓島と化したのです。


 戦後、兵力の逐次投入が失敗であったなどの戦術的批判論が一般
に流布されましたが、実はそれを遥かに越えた本質的な次元の問題
であり、決して戦術論に矮小化してはならないのが真実です。
                          (下に続く)

 この時期に至って、どうやら山本五十六とその幕僚たちは、事態
の本質に気付いたようです。それは二点に要約されます。
 その第一。陸軍機には海上航空戦の能力が欠けており、従ってソ
ロモン戦の海空戦は海軍単独で戦う覚悟が必要であること。
 第二。その前提に立った場合、日本海軍の現有戦力は完全に不足
しており、今後の米軍戦力の増強まで想定すると、可能な限り早期
に米軍海空戦力を撃滅するための行動が必要、ということです。
 要するに山本五十六には、海軍だけでこの当面の危機を切り抜け
る責任が負わされ、彼はそれを自らの意志で受け止めたのです。


 こうして日本海軍は、絶対的に不足している戦力の中から、駆逐
艦と潜水艦を陸軍上陸部隊の補給に割き、残る戦力で米艦隊に挑戦
し、連続して獅子奮迅の働きを続けます。
 その一例が十月十日のサボ島沖海戦です。
 ガ島への弾薬・諸物資・食料の輸送船団の護衛任務に就いた五藤
存知少将は、重巡3、駆逐艦2を率いて暗夜に敵中突破を図ります
が、米艦隊のレーダー網に捕捉され、重巡「古鷹」撃沈、重巡「青
葉」大破、五藤少将戦死となりますが、米軍の駆逐艦2を大破、軽
巡1を中破し、輸送船団の揚陸を成功させます。


 戦後、日本はこの海戦をサボ島沖海戦と呼び、いわゆる識者たち
は挙(こぞ)って、五藤少将がレーダー時代に疎い作戦指揮をした
とか、米艦隊を味方と誤認したのが敗因とか理由を挙げて批判して
いますが、これは事実の本質を見誤っています。ここでの本質は無
理な輸送にあり、その任務の成功を高く評価すべきなのです。
(下に続く)

 レーダーについての評価も必ずしも適切ではありません。
 この分野で日本の実用化技術が英・米・独の三国に後れをとった
のは事実として、研究自体は伊藤庸二技術大佐が中心となって、す
でに開戦以前から進められていました。
 開戦後は研究も加速、ミッドウェー戦の頃には戦艦の伊勢と日向
が装備し、この頃工事中の商船転換型空母の飛鷹には最初から設置
予定であり、司令官クラスが知らないわけがありません。


 ただこの時期には実用化には二つの大きな壁がありました。
 一つは、日本の電気関係の工業技術の未熟です。製造業全体につ
いて言えることですが、急速な近代化の過程で、日本の製造業は著
しく不均衡な姿で発展してきました。
 これは空母や戦艦大和・零戦と自動車を比較すれば一目瞭然で、
片や世界の最高水準、片や三流国並みというのが実態でした。


 公平に見て、レーダー技術はその中間であったと思われます。
 これは決して過大評価ではなく、同じ電波技術の中で、受信の核
となるアンテナで、八木アンテナ(正しくは八木・宇田アンテナ)
が世界的にも傑出した存在だったからです。
(すでに開戦時には世界で広く普及し、日本軍が占領地でYagi
の刻印のある設備を発見して困惑した逸話などが残っています)
 ただ不幸なことにこれが第二の壁を造りました。レーダーの基本
原理は、発信した電波が対象物に衝突して戻ってくるのを受信し、
その形状・位置などを測定することであり、優秀な受信機によって
発信レーダーの位置までが特定されてしまう危険があるからです。
                            (下に続く)

 夜戦の得意な日本海軍はこの点をやや過大に危惧しました。しか
も真空管などの重要部品の質が悪く、品質にバラツキがあり、実用
化は度々挫折し、出来上がった製品の歩留りも低かったのです。
 それでも艦艇や航空機のレーダーは、関係者の必死の努力によっ
て実用兵器として使用できる水準までに到達していました。
 どうやら最も開発が遅れたのは潜水艦部門だったようで、艦長の
手記などによると、米軍の潜水艦はいち早く日本軍の駆逐艦を探知
して反撃し、逆に日本の駆逐艦が撃沈される例も頻発しており、現
在の漁業分野で広く日本製魚群探知機が使用されているのを見るに
つけ、深い感慨を抑えることができません。


 この重大な時期に、米海軍はゴームリー、フレッチャーの二人の
提督を解任しました。後任は病気から回復したハルゼー中将。
 ハルゼーに期待したというよりは、二人の提督の解任によって全
軍の士気を高めることに主な狙いがあったものと思われます。
 というのは、航空畑の司令長官を迎えるにしては、傘下の空母部
隊が余りにもお寒い状況だったからです。
 ようやく修理完了の見通しのついた空母Eと空母Hの二隻だけが
正規空母で、あとは何隻かの護衛空母が配属される予定です。
 それでも彼は日本軍機動部隊に決戦を挑むしかありません。頼み
はようやく稼働を始めたガ島の飛行場ヘンダーソンの基地航空隊の
側面支援だけです。
 ここで日本海軍が創案したのが、高速戦艦を主体とした艦隊を基
地に接近させ、主砲の一斉射撃で飛行場を破壊する作戦でした。
(この戦法はすぐに米軍が模倣し、アッツ島攻撃などで使用)
                          (下に続く)

 攻撃開始は十月十三日深更。暗夜密かに艦隊が接近します。
 参加した日本艦隊は、高速戦艦金剛・榛名の第三戦隊と、軽巡五
十鈴を旗艦とした六隻の駆逐艦から成る第二水雷戦隊。
 まず戦艦の三十六センチ弾が打ち込まれ、次いで零式榴散弾(一
発に散弾千個)、三式弾(中に焼夷榴散弾669個)を浴びせ続ける
こと連続一時間二十分。
 この間、例えば金剛の一式砲弾(徹甲弾)は331発。三式弾は
104発。榛名の一式砲弾294発。零式弾189発。
 米軍のレーダーは機能せず、抵抗はゼロに近く、なぜ米軍が日本
の高速艦隊を探知できなかったのか、未だ未解明の戦史の謎です。
基地は全面火の海。米軍戦闘機の破壊48機。重爆撃機2機。


 佐藤和正氏と言えば、その著書「レイテ沖海戦」で、栗田艦隊の
反転に合理的根拠を認めた先駆者の一人ですが、氏は別の著書の中
で、日本海軍の創始した三大戦略として、
@航空機重視の基本戦略A機動部隊の創設と奇襲攻撃の実行B陸上
基地への艦砲一斉射撃の三つを挙げていますが、特にこのうちのB
は他に評価する人の少ないのは残念なことです。


 評価が低い理由の一つは、戦後の栗田叩きが横行している中で、
彼の功績となるこの作戦の高評価は避けたいというマスコミ事情に
よると思われますが、もう一つは、これは二度目のない奇襲作戦で
あるばかりか、逆に米軍の模倣によって日本軍が大きな打撃を受け
たことも原因しているようです。しかしこれは極めて歪んだ論法で
あり、作戦自体はもっと素直な評価をすべきものです。
 模倣されることが何よりもその証明なのです。    (下に続く)

ともあれ、ハルゼーは出鼻を挫かれました。
 敗北の大嫌いなハルゼーの闘志が燃え上がります。
 南太平洋海戦まであと十三日。ソロモンでの最後の空母戦です。
                      (この項終わり)

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