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空母編 続編第三部 <<前のページ|後のページ>>
『ソロモンの空と海に苦闘する日米空母』
――空母戦の曲がり角、ソロモンの空と海の戦い
基礎知識篇そのH ――空母編、続編の第三部――
ソロモン戦の始まりを一九四二年八月とするのに異論の余地はあ
りません。
八月七日、空母三隻を中核とする米軍機動部隊は、海兵隊一万九
〇〇〇を援護してソロモン諸島南部方面に出現しました。
主力の一万余は日本軍が飛行場を建設中のガダルカナル島。
残り八〇〇〇は周辺のツラギ、ガブツ島などの島々。
対する日本軍四〇〇〇のうち、陸戦隊は一割程度に過ぎず、大部
分は軍属待遇の施設建設要員という弱小部隊でした。
この奇襲攻撃に最も早く反応したのは海軍の前線部隊で、ラバウ
ルに進出していた三川軍一中将の第八艦隊が直ちに出動します。
第八艦隊は重巡5、軽巡3、駆逐艦3の高速艦隊。たまたま七月
二十九日にラバウルに到着し、駆逐艦4の追加を懇請して果たせな
いまま滞在中でした。
(この時の陸軍の第十七軍司令官百武中将との会談記録が残されて
いますが、内容は驚くべきもので、陸軍は豪州進攻を予定している
ので、海軍の陸戦隊を派遣して欲しいというものです。なお当時ラ
バウルの陸戦隊は四〇〇名余。その隊は移動中に撃沈され全滅)
艦隊は七日当日中には早くも基地を出撃。その高速性を活かして
千キロ先の目標に八日夜到着し、敵艦隊に夜戦を挑む作戦でした。
(下に続く)
三川艦隊は結成早々の混成部隊。途中の海面は未知の領域。詳細
な海図も存在しないという危険極まりない冒険的作戦です。
当然ながら永野総長以下の軍令部は反対。現地でも反対論が強
い
中、山本長官の『黙認』と三川中将の決断だけで決行されました。
三川中将は艦隊のうち軽巡1、駆逐艦2を別働隊とし、残余の8
隻を一列単縦陣に編成、しばしば米軍偵察機に追尾されながら一路
ガダルカナルへ。なぜか米軍司令部は無反応です。
八日午前十時、五隻の重巡から発進した偵察機の報告により、米
豪の連合艦隊は二隊に分かれ、ガ島ルンガとツラギの泊地に分散停
泊し、重巡6、軽巡2、駆逐艦2、各隊付駆逐艦8、空母は不在、
という状況が確認できました。
高速のため予定より早く目標に到達する計算となったことで、艦
隊は一旦速度を二〇ノットに落とし、夜戦準備を開始。
午後十時、艦速を再度加速、二十八ノットへ。
午後十時四十三分、距離八〇〇〇mに敵艦発見。夜間にこの距離
で敵艦の移動を確認できるのは当時の乗員の超人的視力を証明する
ものです。
午後十一時三十分、「全軍突撃」の命令により速度を三十ノットへ。
駆逐艦のうちの一隻夕凪はここまで加速できず、艦隊を離脱して別
行動に移行。砲撃開始命令は午後十一時三十七分。
この夜戦は従来型夜戦としては最後の典型的夜戦となりました。
というのは、数年前から実用化されてきたレーダーが大きな威力
を発揮し始め、このあと夜戦の方式は激変してしまったからです。
(下に続く)
日本艦隊の八インチ(二〇・三センチ)主砲の発射数は千発を越
え、魚雷も六十一本。対する米豪艦隊は後半ようやく反撃に転じた
ものの、同じ八インチ主砲の発射数は一一七発で、命中は一発だけ
でした。
九日午前零時十分、戦闘終結。砲撃開始から僅か三十三分。
重巡四隻を撃沈、一隻中破。戦死1270、負傷709。
日本側の戦死35名、負傷51名。艦艇損失ゼロ。
戦後、豪重巡1が撃沈を免れた理由と、空母不在の真相が判明し
て、その意外さに日本側は唖然とすることになります。
混乱を拡大した米豪海軍内の対立
遡って七月二十六日、ガ島上陸作戦の会議において、空母部隊の
フレッチャーと上陸軍艦隊のターナー両司令官が対立しました。
上陸部隊に対する空母隊の援護期間について、フレッチャーは二
日間、ターナーは四日間を主張し、共に譲らなかったのです。
米海軍の中でも最も機動部隊経験の豊富なフレッチャーにとり、
日本軍基地航空隊が多数行動しているこの地域で、防御力の劣る空
母を同一場所に二日以上も止ませるのは危険過ぎる行為でした。
手許にある空母は三隻しかなく、あと一隻でも失ったら再び日本
軍空母部隊が優位を回復し、全作戦崩壊の危険性は極めて大きいと
いうのが彼の論拠であり、一方のターナーには大部隊の兵員と武器
弾薬・食料の陸揚げに、最低四日間は絶対に譲れない一線でした。
(下に続く)
ついにフレッチャーは自らの信念を貫き徹しました。
上陸開始の翌日の八月八日午後六時、彼は自分の艦隊を撤収し、
日本軍航空隊の作戦圏外の安全海域に避退してしまいました。
狼狽したターナーはゴームリー中将に直訴を試みますが、回答は
なく、やむを得ず上陸部隊の海兵隊師団長や、護衛艦隊司令官を緊
急招集し、この三者で応急対策を講ずることにします。
実はこの護衛艦隊司令官というのが英海軍少将で、豪州海軍の旗
艦オーストラリアに乗艦しており、艦ごと招集に応じたために三川
艦隊の攻撃を免れ、重巡の中でただ一艦無事だったのでした。
ここまでは良かったのですが、自分の艦隊が全滅の危機に瀕して
いるのに、急遽駆けつけることを怠った行動に対し、米海軍から厳
しい指弾があったのは当然のことです。
この海戦は当初ツラギ夜戦と呼ばれますが、すぐに「第一次ソロ
モン海戦」と変更され、現在も定着しています。
日本軍はこの海域での戦いが繰り返し続行するのを覚悟し、緒戦
の大勝の価値の宣伝に努めたのです。
ところがここでも、奇妙な反論や異説が現れます。
まず撃沈された米重巡の艦長の一人がニミッツに書簡を送り、自
分たちの艦隊は撃沈されたが、輸送船団の護衛任務は果たしている
ので、結果的には勝利であると強く主張しました。
この見解は余りにも自己弁護が過ぎて米国内では無視されたよう
ですが、日本側に飛火して議論の混乱の第一歩が始まるのです。
(下に続く)
戦後米海軍は、専門知識豊富な研究団を送り込み、生き残りの日
本海軍士官たちと面談しました。当初の日本側は、東京裁判のため
の予備尋問と誤解していたようですが、真相は違っていて、戦時中
の諸海戦の検証が主目的だったのがのちに判明します。(この点は
真珠湾攻撃に関連して言及済み)
この尋問の過程で、第一次ソロモン海戦についての米側艦長の異
説(珍説)が判明し、日本側にも同調者が現れました。
日本海海戦以来の無敵艦隊信仰から脱することのできない人たち
は、この異説に飛びつき、三川中将が敵艦隊を撃沈したのち、輸送
部隊を攻撃しなかったのを非難し始めました。
真珠湾攻撃、レイテ湾の栗田艦隊非難などと同じパターンです。
この二例では、非難論に合理性が乏しいのはすでに証明済みです
が、三川艦隊の例では、あの思い込みの激しい伊藤正徳の論証が冷
静かつ実証的であり、現在でも高く評価することができます。
伊藤正徳はフレッチャーの空母艦隊の動向を重視しました。
九日午前零時三十分、海戦終結後二十分。空母艦隊はルンガ南方
百六十キロに退避していましたが、艦載機ならば三十分以内で海戦
地域に襲来できる距離です。
これに対して日本艦隊は、激戦の最中に旗艦鳥海の許に四隻、古
鷹隊が三隻など、四散状態にあり、これを再結集し、単縦陣を編成
し、ルンガ、ツラギの米輸送部隊に迫るのに三時間は必要です。
米輸送部隊撃滅にどのくらいの時間を要するかは予想もできませ
んが、ソロモンの夜明けの午前四時までの終了は困難でしょう。
(下に続く)
逆にこの午前四時前後は艦載機発進には最適な時間でした。
「艦上機は九十九機中二十一機を失いたり」これはフレッチャーが
退避する際の司令部への電報ですが、七十八機は残っているのを意
味してもいます。(この数字にはワスプ隊が含まれておらず、これを
合計すると一四三機というのが実態数字とされています)
敵の重巡艦隊、輸送船団を相次いで猛攻し、多数の砲弾を浴びせ
た三川艦隊に、米空母部隊の新たな総攻撃に対抗できる余力が残っ
ているとは考えられず、悲惨な結果が予想される数字です。
しかも戦後に判明した事実によると、危険を察した米輸送部隊が
作業を半分程度で中止して引き上げたため、物資不足により、上陸
部隊の作戦に大きな齟齬が発生し、図らずも上陸作戦妨害の効果が
生まれています。結果的にも三川艦隊の行動は正解だったのです。
惜しいことに、伊藤正徳はこの海戦の分析手法を一般化すること
ができませんでした。
のちのフィリピン沖海戦で栗田艦隊が直面した状況と、ここでの
三川艦隊の立場は、本質的には同じです。
米空母群の重囲下、護衛空母艦隊の一隊を追い詰めて一定の成果
を挙げた栗田艦隊は、湾内の輸送船団を目指すことなく、新情報に
基づてぃ新たな空母部隊に向かって転進しました。
三川艦隊が空母攻撃を回避し、栗田艦隊が空母攻撃を目指した点
の違いはありますが、輸送船団攻撃よりも空母を優先したという点
で、対応は一致しています。空母及び航空戦力重視の思想です。
決して誤解されているような兵站軽視思想ではありません。
(下に続く)
これは実戦経験から生まれた思想であり、戦略であり、日本に限
らず米英艦隊を始めとする世界の海軍に共通する普遍的思想です。
この思想が確立したのは第一次大戦以降です。
この大戦でドイツは、最終的には通商戦で敗れました。国民の飢
餓と軍の軍需物資不足が降伏に追い込んだのですが、その通商戦の
勝敗を決したのは商船数ではなく、海軍力の差でした。
独海軍の軍艦が港に追い詰められ、商船もまた身動きできなくな
った時、ドイツは戦争継続の能力を失ってしまったのです。
しかも商船が比較的短時間で建造できるのに対して、艦艇の建造
には長い期間が必要です。
一九三六年に建造を承認されたワスプが就役したのが四年後の一
九四〇年四月。規格化が進んだエセックス級空母でも際立った短縮
には成功していません。
他方の商船・貨物船は相対的に短時間の増産が可能です。
米の開戦時商船保有数は14000隻で、戦時(一九三九年から
一九四五年まで)の建造数は5777隻。合計約二万隻。
個々に撃沈して効果が得られるような数字ではなく、逆に海軍部
隊を撃滅するのがはるかに効率的なのは自明の理です。
現に、太平洋戦争中、日本の商船隊は日本海軍の戦力低下ととも
に喪失数を加速度的に増加させています。
(注、年間の船舶喪失トン。一九四一年121万トン、四三年18
9万トン、四四年392万トン、四五年半年132万トン。終戦時
残存70万トン) (下に続く)
日本海軍、反撃の機を窺う
第一次ソロモン戦で米豪連合軍に大打撃を与えた日本軍が、次の
目標を米空母撃滅に集中したのは当然の戦略でした。
他方、敗れた米海軍も、事態を深刻に受け止め、一旦大西洋方面
の任務に就いていたホーネットを再び太平洋に回送し、新鋭戦艦二
隻の派遣と相まって、日本軍空母隊の殲滅作戦を企図します。
この両軍の意図の激突が八月二十四日の第二次ソロモン戦です。
新空母到着までに戦果を挙げたい米軍機動部隊の陣容は、
第一隊、空母サラトガ、重巡2、駆逐艦4
第二隊、空母E(エンタープライズ)、戦艦1、重巡1、軽巡1、
駆逐艦6
第三隊、空母ワスプ、重巡2、防空巡1、駆逐艦7
対する日本軍は、機動部隊の第三艦隊を分けて、
1、先鋒隊、司令官原少将、本隊の前方六十マイルに展開
小型空母龍驤、重巡利根、駆逐艦天津風、時津風
2、本隊、南雲中将直率 先鋒隊の敵発見情報で即時発進の態勢
大型空母翔鶴、瑞鶴、高速戦艦比叡、霧島、重巡鈴谷、熊野、
筑摩、軽巡長良、駆逐艦6
先鋒隊はミッドウェー海戦の戦訓を活かして新設されました。
敵の情報をいち早く獲得するのと、開戦となれば囮艦隊の役目を
果たすのが目的です。
囮作戦は見事に成功し、米軍はまず日本軍先鋒隊を襲いました。
(下に続く)
最初はサラトガ、次いで空母Eの艦載機部隊。
艦載機の大半(二十一機)をガ島の米軍飛行場に出撃させた龍驤
は奮戦しますが、午後八時沈没。
しかし本隊の攻撃隊は、第一次が午後三時七分、第二次が午後四
時に発進。午後四時四十分第一弾が空母Eの昇降機を爆破。さらに
第二、第三弾命中。空母Eの死傷者169名。
空母Eの大破は米海軍にとっては大打撃で、その後七十日の修理
期間は折角のワスプの参戦の効果を帳消しにしてしまいました。
さらに一週間後の八月三十一日午前七時六分、日本潜水艦伊号二
十六、サラトガに魚雷2本命中。修理三カ月。
次いで二週間後の九月十五日、伊号十九、船団護衛中のワスプを
撃沈、護衛駆逐艦1を撃破。
皮肉にも緊急応援のホーネット(空母H)だけが残りました。
二隻の潜水艦の大殊勲は、通商破壊戦に従事していたインド洋方
面はじめ各地の潜水艦隊を集結させた山本長官とその幕僚たちの功
績ということができます。
戦後に、潜水艦関係者の中で、通商破壊に専念させなかった上層
部を非難する向きがあり、また米国の論者に同様の見解があるのは
事実ですが、全般の戦局からすると、この時期の山本らの判断は適
切だったというしかありません。
何しろ三隻の主力空母を失い、新着の空母Hを残すだけとなった
米海軍は主導権を失い、対する日本軍には翔鶴、瑞鶴の主力に加え
て、新鋭軽空母の隼鷹、飛鷹、改造空母瑞鳳があります。
米海軍に生じた一瞬の綻びに、山本の勝負勘が蘇りました。
彼は南雲、草鹿に、米機動部隊が隙を見せたら躊躇なく攻撃する
ことを指示する一方、再び歴史に残る革新戦術を決行します。
十月十三日夜、ガ島ヘンダーソン飛行場への戦艦砲撃です。
(この項終わり)
次回はヘンダーソン基地砲撃と南太平洋海戦です。
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