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『米海軍と対照的だった日本海軍の空母増強計画』
基礎知識篇そのG――空母編、続編の第二部――
潤沢な資源と巨大な工業力を背景にした米軍の壮大な空母増強計
画と比較すると、開戦後の日本の空母増強計画は余りにも小規模な
印象は残るものの、決して無策だったわけではありません。
開戦に間に合った小型空母瑞鳳は、一万一二〇〇トン、搭載艦載
機二十七+三機、速力二十八ノット。同型の潜水艦母艦からの改造
空母仲間の祥鳳の改造が完了して就役したのが開戦の翌月末。
さらに別の型の潜水艦母艦からの改造小型空母龍鳳の就役は翌年
十一月末。実はどの艦も潜水艦母艦として起工された時点は軍縮時
代であって、ひと度有事の際には直ちに空母に改造できるよう設計
された「転換型秘密空母」で、艦名に付けられた鳳が標識です。
同じ発想の空母には他に商船転換型がありました。
準正規空母として活躍した隼鷹(じゅんよう)、飛鷹(ひよう)が
それで、転換型の中では最も成功した部類に入ります。
二艦は日本郵船の客船、橿原丸と出雲丸からの転換空母で、起工
はどちらも一九三九年ですから、無条約時代の転換型空母です。
竣工は、隼鷹が一九四二年五月、飛鷹が同年七月、二万七五〇〇
トン、二十五・五ノット、艦載機四十八+五(または六)機。
転換以前から正規空母に近い性能を確保し、実戦では米海軍の軽
空母に匹敵する成果を示しました。飛鷹はマリアナ沖海戦で撃沈。
隼鷹は二度の大破を克服して終戦まで戦い続けています。
この二艦は間違いない成功例ですが、他艦を合わせても合計で七
隻と全体数がごく少数で、しかも性能に差が有り過ぎました。
(下に続く)
既存の大鷹(たいよう)に加え、開戦後の雲鷹(うんよう)、冲鷹
(ちゅうよう)はいずれも一九四二年十一月までには竣工していま
すが、艦速は二十一ノットで艦隊空母の実力はなく、別の二艦を含
め、商船護衛用としても質・量ともに米海軍の護衛空母群には圧倒
的な劣勢を免れません。
商船改造という発想においては少しも後れを取っていないのに、
このような結果となったのは、もともとの商船保有数が大きく違っ
ていたのに加えて、造船能力自体に大差があったからです。
概算数字では、一九四〇年当時、商船保有数は米14000隻、
日本は5680隻。造船業の基幹資材である鉄鋼生産量に至っては
米の年産六〇〇〇万トン対日本の六〇〇万トン。
しかも問題は産業の標準化・大量生産技術の差であり、米は二十
世紀初頭において早くも自動車の量産技術を確立し、この技術を他
の産業分野にも広く活用する時代に入っているのに、日本は肝心の
自動車生産が米の一万分の一以下という惨状でした。
一般に当時の国家間の国力を比較する場合、国民総生産(日米で
は一対十)を基準にするなどの単純な論法がある一方、個々の産業
の技術水準の個別評価が不十分な例が多く見られます。
その一つの例が、軍事力の比較を総兵員数や航空機保有数などで
比較する論法で、これによれば開戦前の日本軍は世界の軍事大国の
一角を占める存在とされるのですが、実は全く違っていて、確かに
海軍は当時のトップ水準ですが、陸軍は独露はもちろん米英にも遠
く及ばない劣悪な装備の軍隊だったのが現実の姿でした。
(下に続く)
海軍ではその最新の空母力は米英を凌駕しているのに、陸軍の主
要兵器である戦車は、まだ先進国の域には遠く及んでいません。
特に独露の戦車は、重量、火砲の威力、装甲、運動能力のすべて
で卓越しているだけでなく、量産規模も比較にならず、とうてい勝
負できる状態ではなかったのです。
(ヒトラーの機甲部隊作戦に刺激された陸軍の某大佐が、潤沢な機
密費の中から四千万円を支出して特大戦車開発を試み、百トンを超
える試作品が道路を破壊して大失敗したという逸話が語られたのも
この頃のことです)
日独伊三国同盟の締結に際し、ヒトラーはこの点を徹底的に研究
していたものと思われ、あの独露の大激戦でドイツ国防軍が苦戦し
ていた時でさえ、彼は敢えて日本陸軍の参戦を求めていません。
日本の立場に配慮したというよりは、日本陸軍の支援は期待せず
に強力な日本海軍戦力を以て米英艦隊と対決させ、Uボート以外に
期待てきない自国海軍の補強を策したというのが真相でしょう。
そのヒトラーにしても、自国と日本の実力、そして敵である米合
衆国の真の実力を見誤っていました。
一時期の戦力ではなく、潜在的な実力、長期戦の場合の総合的な
国力など、本質部分の見極めです。
あの山本五十六にしても、ソロモン戦の最激戦の時期、「それに
しても米軍にこれほどの補給力があるとは」と側近に嘆じたと伝え
られています。血を吐く思いの伝わる言葉です。
日本側では、戦中も戦後も、それを米国の本来的な豊かさに由来
すると見るのが通説ですが、それでは漠然とし過ぎていて、真実と
は程遠いものがあります。 (下に続く)
キング、ニミッツ、両提督の戦略――ひたすら攻め続けよ
真珠湾攻撃の直後からキングは幾つもの難題に直面しました。
当面の大敵日本海軍。背後のライバル、陸軍のマッカーサー。
それ以上に対応が難しいのは、性急な結果を求める一般国民。
合理性に限定して意思決定するだけならば、むしろ問題は簡単で、
容易に結論を出すことができます。
すでに空前の規模の空母建造計画に着手した以上、それまではハ
ワイ諸島から豪州に至る線を堅守し、日本海軍を消耗戦に引きずり
込み、戦力逆転を待って反撃する持久作戦です。
類似の作戦は欧州戦線の米陸軍が現実に採用していました。
米陸軍は戦車を中心とする装備がまだ不十分で、陸上部隊の早急な
欧州進撃はできれば回避したいのが本音でした。
そこで当分は英露両軍に対する武器・資材の支援を拡大し、その
間に、大規模な陸上戦の展開が可能になるだけの戦力を準備すると
いう作戦です。(現実に実行された作戦です)
陸・海軍の状況は似ていましたが、対応は正反対となりました。
米海軍は開戦後間もなく空母を中部太平洋方面に出動させ、つい
に四月には空母ホーネットから日本本土空襲隊が出撃します。
日本だけでなく、全米軍、全米国民にとっても予想外に早い反撃
開始の狼煙(のろし)でした。
キングはなぜ反撃開始を急いだのでしょうか。 (下に続く)
反撃を熱望していたのは、まず一般国民でした。
真珠湾攻撃以来、国民は先を争って戦時国債を買い求め、青年た
ちは学業半ばで海軍の予備士官候補生に志願し、戦時中の総人数は
二十八万六〇〇〇人(エヴァン・トーマス調)。大部分は航空部門
配属を志望し、その結果、アナポリスの海軍士官学校卒業生の比率
は一%以下に低下したとされています(同人調)
反撃の先鋒を担ったのはホーネット(空母H)隊。
使用された飛行機は陸軍の中型爆撃機十六機。それぞれ爆弾3と
焼夷弾1を積み、空母から発進して東京・名古屋・神戸に投下し、
支那本土に不時着するコースを取りました。
陸軍機を使用したのは、まだ海軍の艦載機の中には充分な能力を
持つ爆撃機がなかったからで、実際にはほとんど効果のなかった空
襲でしたが、国民の反響は絶大でした。
指揮官のドゥ―リトル陸軍航空中佐は国民の英雄となり、空母部
隊もまた大喝采を博することとなったのです。
キングにもニミッツにも迷いはなくなりました。
二人の作戦方針は終始一貫して「いかなる犠牲を払っても攻撃を
続けよ」です。
その勢いで珊瑚海海戦に突入し、空母レキシントンを撃沈されて
敗北しながら、海軍広報官は「日本艦船25隻撃沈、5隻撃沈の公
算、4隻撃沈の模様」と、日本の大本営も真っ青の誇大宣伝で乗り
切ったのです。
ミッドウェー海戦はその流れの中で発生しました。 (下に続く)
この海戦の詳細は、別にまとめてある通りですが、近年にはさら
に検証が進められ、これまでの通説の多くが否定されるようになり
ました。
最も顕著なのは、日本空母甲板上の爆弾と魚雷の換装時の混乱が
爆撃被害を拡大したという説の否定で、これについては、すでに理
論上も成立しないことを立証済みですが、最近に至って、当時の日
本空母の実戦写真も公開され、甲板上にはごく少数の日本機しか存
在していなかった事実が改めて確認されました。
甲板上で戦死した日本軍操縦士の数がごく少数なのと相まって、
これまでの通説は完全に否定されたと結論できるのです。
史実の検証という面でこのような誤りが長く続いたのは、米海軍
当局がミッドウェー戦を極力士気高揚の手段として利用しようとし
た姿勢に第一の原因があります。
実戦写真が存在しているのですから、これを早くから公表し、さ
らに詳細な分析を行っている限り、妄説の発生する余地は最初から
皆無のはずだったのでした。
また、この海軍側の姿勢に影響された民間側の心理も考慮する必
要があります。
あの日本海軍研究者のプランゲは、極めて良心的で公正な研究者
ですが、幾つかの疑問点も残しています。
真珠湾攻撃に関する彼の著書は、最初一九六六年に日本で発刊さ
れて十数万部も売れますが、米国では彼の没後翌年の一九八一年に
第一部、一九八三年に第二部が始めて発刊され、二巻合計で百万部
を越える大ベストセラーとなりました。 (下に続く)
これに対して、ミッドウェー海戦についての著書の原文の発刊は
一九八二年です。(日本版の初訳は一九八四年)
要するに、米国では負け戦(いくさ)の真珠湾攻撃は、勝ち軍の
ミッドウェー戦とセットでようやく市販が可能となっており、結果
として共に大好評で迎え入れられているのです。彼の著書は他の一
部を合わせ全四部。合計二百万部に達しました。
終戦から数えて三十六年。この間に米国民は心情的にも真珠湾の
屈辱から立ち直っており、自国に厳しい日本側の論者よりもはるか
に日本海軍寄りのプランゲの所見を寛容に受入れています。
もっとも、彼の著書にも米国民向けの修正ないし妥協の跡が見ら
れます。
まず彼は、真珠湾攻撃の敗戦責任者として海軍のキンメル大将や
陸軍のショート中将を直接弾劾するのを巧妙に回避しています。
彼によれば、この二人は、職務は解かれたものの、軍法会議にか
けられることはなく、戦後二十五年間に本件に関する公的調査は通
算八回。数々の疑問は未解決のままとなっています。
ミッドウェー海戦については、南雲、草鹿らに対する誹謗・中傷
論を否定する一方、作戦自体に無理があったことを指摘し、最終責
任者を山本五十六長官としています。
この指摘からも分かるように、彼の視野の中には、二大洋艦隊法
案もエセックス級空母も護衛空母も全く入っておりません。
このことは、彼の取材対象となった人たち、中でも日本側の源田
実、淵田美津雄らにもその認識がなかったのを意味しています。
(下に続く)
では戦時中の軍令部などの本部関係者の認識はどうかとなると、
これもまた極めて怪しいのです。
終戦後の或る時期、軍令部や海軍省OBを中心にした人たちが集
まって「海軍反省会」なる会を開催し、その録音内容が某国営テレ
ビ局から平成二〇年に放映されていますが、それによってみても、
誰ひとりこの点に言及した人はおりません。
むしろ悠長な持久戦に拘(こだわ)り、山本作戦を批判する意見
も多く、その現状認識には異様な印象さえあります。
ただ「一年から一年半」という時間を強く意識して戦っていたの
は山本五十六とその周辺の幕僚に限られ、本部や前線の参謀たちは
「時間」の持つ重大性を正確には理解し兼ねていました。
対照的に米海軍では、時間に余裕のあるはずの二人の司令官が、
焦りとも誤解されるような積極策で部下たちを鼓舞していました。
このために、多くの摩擦、軋(きし)み、悲劇が発生します。
ソロモンの悲劇、失脚した提督たち
米海軍の次の標的として、ソロモン諸島が選ばれました。
本来ならば、次の目標として最も重要なのは、日本本土攻撃の拠
点として有効な地域を選ぶべきですが、米海軍にはまだそれだけの
攻撃力は備わっていません。
この時点に求められているのは、自軍の補給路を確保することが
可能で、しかも日本軍には不利な地域を戦場に選ぶことであり、そ
れにはソロモンの島々が最高の立地だったのです。
ここに着目した米海軍は、直ちに行動を起こしました。
(下に続く)
ミッドウェー戦からわずか三カ月。新しい標的はガダルカナル。
日本海軍が約四千人の施設部隊を投入して飛行場を建設中である
状況を米軍偵察機が発見しました。
飛行場が完成し零戦の精鋭部隊が到着してからでは遅過ぎると判
断した米海軍は、南太平洋艦隊司令官ゴームリー中将に命令し、直
ちに占領部隊を派遣します。
上陸する海兵隊は一万九千人。護衛艦隊はあの珊瑚海海戦以来の
大殊勲者フレッチャー少将が統括し、戦力は空母3、戦艦1、巡洋
艦8など。米海軍はほぼ全空母をこの方面に集中してきました。
海軍は陸軍にも支援軍の派遣を要請しますが、陸軍の南西太平洋
司令官マッカーサー大将は、兵員不足を理由に全面拒否。
フィリピンを脱出したマ将軍は、いつかその地に再進軍すること
に全身全霊を傾けており、それ以外の作戦には全く冷淡でした。
彼が脱出時に米比両国民に約束した言葉は「必ず帰って来る」で
あり、選んだ最短路は、豪州からニューギニアのコースです。
それがどれほど過酷で、多くの犠牲が必要かは彼には二義的なも
のでした。もちろん米海軍は反対であり、とくにニミッツは、その
後はすべての会議でマ将軍との同席を意識して避け続けました。
マ将軍の陸軍増員拒否も一因となって、米海軍は苦戦し、ついに
フレッチャーの空母出動拒否などもあり、統合参謀本部の調整によ
って、ようやくラバウル方面は陸軍、ガ島周辺は海軍で分担するこ
とで騒動は決着。また、一連の不手際と作戦の難航の責任者として
ゴームリー、フレッチャーの二人の提督は更迭されました。
(この項終わり) (下に続く)
次の第三部は激闘のソロモン戦が中心となります。この一年半の
間(あいだ)、日米の空母はどこで戦っていたのでしょうか。
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