日本探訪HOME >日本史随想 >空母編 続編第一部 <<前のページ後のページ>>


『二大洋艦隊法案を乗り越えて、米空母の驚異の大建艦計画』
    基礎知識篇その⑦――『空母』編、続編の第一部――


 一九四一年十二月、東京時間八日午前三時一九分、現地時間七日
午前七時四九分、トトトの連続暗号電波が天空を駆け巡りました。
 これが連合艦隊による歴史的電信「我奇襲に成功せり」です。


 歴史的という言葉には二つの重大な意味が含まれていました。
 まず国家として、東洋の弱小国家が、世界の大国の中枢的海軍基
地を機動部隊によって奇襲攻撃し、大勝利を収めたことで、米合衆
国の面目は丸潰れとなりました。


 さらに、米海軍にとって日本軍機動部隊作戦の成功は、太平洋に
おける海軍戦略に根本的再検討を迫ることになったのです。
 もともと米海軍は、世界的な危機が切迫している状況について、
政界や一般国民と比べても一段と厳しい理解は持っていました。
   一九三九年九月、独ソ両軍がポーランドに侵攻し、第二次大戦が
勃発する以前から、米海軍はナチスの世界侵略の野心を察知してお
り、その危機感は当事者の英仏をはるかに上回っていました。


 ただドイツだけならば大英帝国の海軍力で対抗できるから、米国
としては経済支援と武器貸与に限定して充分というのが一般世論で
あり、海軍と少数の政治家たちだけが、打開策として密かに海軍力
の増強を図り、その第一歩が軍縮解除の年の一九三六年に提案され
た第一次ヴィンソン法だったのです。         (下に続く)




   実はこの前年の一九三五年六月、英国は信じられないような対独
 融和策を実行しています。「英独海軍協定」がそれで、この時、独海
 軍には三万八五〇〇トンの空母枠が容認されました。
  これによって計画が開始されたうちの二隻の中の一隻があの失敗
 空母のグラーフ・ツェッペリン号でした。
  もしヒトラーの空母開発が成功し、一方で米海軍の目覚めがなか
ったならば、この後の連合軍の戦いはもっと厳しく、その損害は一
段と増大していたに違いありません。


 一九三九年一月、英仏の弱腰に乗じた独海軍は「Z計画」を立案
しました。残された記録によれば、一九四八年までに、
  ――戦艦10、装甲艦15、巡洋艦29、空母4、駆逐艦68、
Uボート249の建造計画となっています。
 装甲艦というのは独海軍の特殊な発想の艦艇で、巡洋戦艦または
豆戦艦など、主に通商破壊目的の艦艇が含まれています。


 この構想は、まず空母で躓き、豆戦艦は英海軍の巡洋艦隊の餌食
となり、超戦艦のビスマルクも孤立して英艦隊の総攻撃によって撃
沈され、辛うじてUボートだけが戦力という結果に終わりました。


 この独海軍の構想の挫折が、日本海軍に悲運をもたらします。
 単独では米英海軍に対抗不可能なのを悟ったドイツは、日本との
軍事同盟を急ぎ、泥沼の大陸政策の打開に焦った日本陸軍と外務省
は独陸軍の軍事力に眩惑されてその罠に落ち、ついに当時世界最強
の空母陣を有する日本海軍も道連れにされてしまったのでした。
                                  (下に続く)


  米海軍の危機を救った人々


 真珠湾で一気に七隻の戦艦を撃沈または撃破されて、日本に対す
る優位を失ったのは大打撃でしたが、それでも空母が出動中で温存
できたのは、不幸中の幸いであったはずです。
 しかし米海軍首脳部は、すぐに楽観論を封印し、全軍を危機感と
緊迫感で統一します。現実の状況からみてもそれが正解でした。
 いつの間にか日本の空母部隊は米海軍を凌篤していました。
 正規空母は日米ともに六隻ですが、日本には新鋭空母の瑞鶴・翔
鶴があり、米側の新鋭エセックスはまだ船台で工事中です。
 一方、小型空母は米が二隻、しかも一隻は石炭輸送船の改造であ
り、一隻は実際には飛行機の輸送艦程度の実力しかありません。
 これに対して、日本の四隻の小型空母のうち、鳳翔は世界最初の
専用空母として充分な実戦経験があり、開戦時には潜水母艦を改造
した瑞鳳と第三航空戦隊を結成して戦闘に参加していますし、専用
小型空母第二号の龍驤は第四航空戦隊の旗艦。商船改造の大鷹(た
いよう)だけが二十一ノットの鈍足のため、戦隊に属しないで商船
護衛を主任務とするというふうに、どれもがそれなりの戦力となっ
ています。


 期待の星であるエセックス級空母の第一号の完成予定はまだ一年
以上も先で、当初から緻密な建造計画を組んでいただけに、急な前
倒し建造や追加建造は容易なことではありません。
 それでも、第一次の予約十隻に加えて十六隻を発注し(最終的に
は二隻をキャンセル)、とにかく中核空母の地位は確保します。
                          (下に続く)


 見事だったのは、それと並行して行われた緊急対応策でした。
 巨大な工業生産力が背景にあるとはいうものの、それを調整し、
重点部門に資源を集中して、この後の結果で示されたような空前の
大空母群を実現させた人々こそ、この戦いでの米側の最高殊勲者と
いうことができるのです。


 中心となったのはアーノルド・キング(最終元帥)です。
 開戦当時は大西洋艦隊司令長官でしたが、真珠湾攻撃の結果、キ
ンメル大将が解任され、ニミッツが後任の太平洋艦隊司令長官に就
任、キングはその上の合衆国艦隊長官と作戦部長を兼任しました。
 彼は、終始太平洋中心主義で著名であり、二大洋艦隊法案の成立
にも中心的な役割を果たしていたと考えられています。
 その理由は、この法案の成立時にはまだ日米関係はそれほど緊迫
しておらず、主目的は大西洋での英海軍の支援であり、中でもUボ
ート対策が最重要視されていて、キングの強力な指導力なしには太
平洋を並立して論議できるような状況ではなかったからです。


 もう一人は、海軍長官のフランク・ノックスです。
 民間(新聞社)出身の彼は、終戦を待たずに死亡したことや、作
戦についての自説を主張することもなかったため、全くと言ってよ
いほど事蹟を伝えられていませんが、兵站部門の最高責任者として
膨大な予算の獲得と配分、必要人員の募集、戦略物資の調達などを
格別なトラブルなしに進行させ、勝利に大きく貢献しました。
 彼自身の事蹟が伝えられるのが少ないだけでなく、彼とキングと
の職務分担などの詳細がほとんど不明なのは誠に惜しいことです。
                          (下に続く)


   こうして、米海軍の反攻計画は、真珠湾攻撃の直後から猛烈な勢
いで動き始めました。
 議論よりは行動、多少のミスよりもまず実効を上げることを第一
目標とする。これがキングの基本方針となりました。
 このために、黒靴組(艦艇派)、茶靴組(航空派)の双方の顔を立
てる必要が生じ、開戦後も八隻の戦艦を建造し続けるなどの基本戦
略面の失敗がなかったわけではありません。


   空母に限定しても、六万トンを超える巨大戦艦を空母に改造した
ミッドウェー級の3隻はすべて終戦後の就役ですし、エセックス級
の正規空母のうち7隻、サイパン級軽空母2隻、護衛空母のうちの
7隻もまた戦後竣工で、厳しく評価すれば無駄骨となっています。
 しかし生粋の軍人であるキングも軍事の素人のノックスも、その
点は充分に理解したうえでの対応でした。
 何が真に必要なのか、戦争がいつ終わるかなど、誰にも正確に予
想できるものではないこと、巨大な潜在生産力を持っている米合衆
国にはそれに相応した戦いがあるというのが、彼らの一貫した基本
方針だったのです。


  救世主、護衛空母と軽空母の登場


 一年から一年半という期間の重みが、日米両軍に途方もない重圧
となってのしかかってきました。
 米海軍にとっては、この重圧は、これまでに経験したことのない
性質のものでした。何事にも世界一を目指し、そして実現してきた
彼らが始めて経験した「一番手を追う苦しみ」です。
                          (下に続く)


   米海軍は、空母数で劣るだけではなく、各艦とも一周遅れの状態
となっていました。
 ワスプは同タイプの中型高効率空母蒼龍よりも二年四カ月遅い就
役ですし、エセックス級の第一艦もまた、同規模の瑞鶴・翔鶴から
一年三カ月後の就役です。
 零戦や雷撃機などの艦載機の性能には大差があり、魚雷に至って
は、水中用の酸素魚雷、航空用の浅海面魚雷ともに当分は追随困難
なほどの大きな格差があります。


 他方の日本海軍の重圧は、この現実の差は時間の経過によって縮
小され、やがて追い抜かれるのを覚悟しなければならないことに起
因しています。
 開戦前に山本五十六は、近衛公に「半年や一年は暴れてみせるが
それ以上は責任を持てない」と発言して、日本海軍の実力の限界を
示して日米開戦が不可であるのを訴えました。
(この発言を「一年から一年半」とする説もあります。どちらにし
ても山本は、日本の優位はごく短期間と予想していました。
 この発言に対して、山本はもっと明確に敗戦必至を宣告し、開戦
を拒否すべきだったとの説がありますが、不穏当なものです。開戦
は御前会議の決定事項であって、前線司令官の拒否は反乱を意味し
ていますし、また、個人の倫理としても、彼の行動には普遍性があ
ります。この大戦では多くの弱小国家がナチスの主権侵害と侵略に
断固として抵抗し、完敗した時点で始めて降伏しました。それが独
立国家の国民としての義務であり誇りだったからです。
 戦後、それらの小国が国際社会の中で強力な発言力を持つことが
できたのも、その壮烈な抵抗の歴史に由来しています)
                          (下に続く)


   閑話休題(それはさておき)、米海軍が緊急対策として最初に着
目したのは、対英救援策としてすでに実行していた改装護衛空母の
建造を規格化し、大量生産の軌道に乗せることでした。
 一九三九年九月、英仏の対ドイツ戦は、まず海上と海面下から始
まりました。両軍とも陸上戦の準備がまだ不十分だったからです。
 海上戦では英海軍が完勝に近い実力を発揮したことは、すでに述
べた通りですが、Uボートには長く悩まされ続け、その被害も甚大
なものがありました。
 英国のチャーチルはその著書の中で、「私が本当に怖れたのは、U
ボートの脅威だけである」と語っており、まず米海軍にもその支援
策を求めてきました。


 潜水艦の天敵は駆逐艦です。Uボートは基本的には千トン以下で
すし、主な武器は水中魚雷ですから、搭載する大砲も小型であって
とても駆逐艦に対抗できるものではありません。
 何よりも艦速に差があり、潜水艦は水面浮上時に二〇ノットがや
っとで、軽く三〇ノット以上を出せる駆逐艦の敵ではないのです。
 襲われたら水中深く逃げ込むしかなく、それも浅い位置では爆雷
投下で大きな被害を受けます。潜水艦にとって、敵に発見されない
のが最良の自衛手段となるのです。


 二大洋艦隊法案によって115隻の駆逐艦の建造承認を得た米海
軍は、二カ月後の一九四〇年九月、英海軍と駆逐艦基地協定を締結
しました。協定の骨子は、米海軍は大西洋西部カリブ海方面の英軍
基地の貸与(99年)を受け、代わりに旧式駆逐艦五十隻を英海軍
に貸与することでした。               (下に続く)


   一九四一年三月には包括的な武器貸与法が成立。軍需物資全般の
貸与が可能となって、これが英米海軍の協力関係を加速します。
 また、これを契機に、その後の展開に重要な役割を果たすことに
なる護衛空母の画期的な大増産が始まりました。


 同年九月、改造空母の先駆者である英海軍は、対Uボート用の小
型改装空母を試作します。搭載機は僅か六機ですが、商船護衛には
充分と判定され、ただちに十一隻を新造するとともに、米海軍に二
十隻を発注し、うち十隻の貸与を受けることにしました。
 これが米海軍における護衛空母の創始であり、のちに機動部隊の
補助艦隊の一員として海戦に参加するなどは、まだ誰も考えていな
かったのが真実です。


 英海軍は自国での生産に加え、米から合計三十三隻の貸与を受け
たことで、対Uボート戦を有利な方向に転換することが可能となり
ました。
 これまでは、数少ない駆逐艦で広範な大洋を警戒し、捜索してい
たのが、護衛空母の艦載機による索敵で、効率は桁違いに高まり、
さすがのUボートの成績も低下し、逆に損害率は目に見えて増加し
てきました。


 米海軍も、当初は商船護衛の試作艦と考えていたようですが、一
九三九年から改装を始めていた二万四〇〇〇トン近いサンガモン級
の大型艦が戦闘参加も可能と判断、一九四二年八月九月と相次いで
四隻が竣工した時に、正式に護衛空母として艦隊に編入しました。
                          (下に続く)

 一九四三年七月から翌年の七月までの約一年間の重要な反攻開始
期には、一万九〇〇トンのカサブランカ級五〇隻が大量建造され、
中には正規機動部隊の一員として戦闘に参加した艦もあります。
 全建造数118。うち対英貸与33、終戦までの就役78、終戦
後就役7、これが空母名簿を精査した結果の最終数字です。
 損害については、未だに正確な集計は困難な状況ですが、沈没五
隻、大破六隻までは記録と照合して確認できています。
(以前に報告した戦時中建造87よりも今回の数字が正確です)


 個々の艦の活躍ということでは、次の軽空母がさらに華々しいも
のがあり、米海軍首脳陣の当初の期待を大きく越えました。
 インデペンデンス級として総括される九隻の軽空母は、すべて重
巡の改造空母で、満載排水量一万四七〇〇トン、全長は190m、
甲板巾22m弱、搭載機最大四十五機、艦速は三十二ノット。正規
大型空母の補助艦として大活躍しました。その貢献度は決して大型
空母エセックスに劣るものではありません。
 特に中部太平洋で反攻が開始されてからは、元重巡という特性を
活かして縦横無尽に走り回り、日本海軍にとっても無視できない難
敵の一つでした。
 第一艦の参戦は一九四三年一月。中部太平洋方面での反攻期の前
哨戦で日本軍の魚雷により大破。第二艦のペローウッドも一九四四
年末に日本特攻機の突入を受け大破。同時期第七艦のキャボットも
大破。僚艦プリンストンは、フィリピン沖海戦で撃沈。
 他の艦も、重要な時期に日本軍と対戦し、よく健闘しました。
 米海軍空母の大建艦計画は、祖国の救世主となったのです。
                          (下に続く)


  (次回は続編第二部となります。護衛空母と軽空母で重要時期を突
破した米海軍の次の手は。日本海軍はどう戦ったのでしょうか。)

日本探訪HOME >日本史随想 >空母編 続編第一部 <<前のページ後のページ>>