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『空母開発競争、逆転した日本、目覚めた米海軍』
    基礎知識篇そのE――『空母』編の後編


 米軍のレキシントン、サラトガの次がヨークタウン(空母Y)で、
就役は一九三七年九月。基準排水量二万トン弱。(満載二万五千)
 続いてほぼ同型のエンタープライズの就役は一九三八年五月。
 これまで空母Eと略称してきたこの艦は、二万トンを僅かに下回
る中型艦ながら最大八〇機を搭載可能で、艦速も三十三ノット。何
度も大破、中破を繰り返し、その都度神話の不死の鳥のごとく復活
してきた米海軍の伝説的名艦です。
 最後は日本の神風特攻機の攻撃を受け、その修理中に終戦を迎え
ていますが、同じく生き残ったサラトガが常に最も重大な局面で活
躍できなかったのと、しばしば対照的に語られていました。


 第五艦はWASP。waspと小文字ならばスズメバチ。WASP
ならば、ホワイトでアングロ・サクソン、ピューリタンの略称。
 空母Yや空母Eよりもやや小型で就役は一九四〇年四月。期待さ
れた立派な艦名でしたが、二年五カ月後の一九四二年九月撃沈。
 第六艦は空母H(ホーネット)。基準排水量は二万トン弱で、基
本的には空母Y、空母Eと同規模の中型空母です。
 就役は開戦直前の一九四一年十月。開戦時の米海軍正規空母六隻
の中の最新鋭空母で、翌年四月の日本初空襲という栄誉を得ている
有名艦ですが、就役から一年と六日後の一九四二年十月二十六日、
南太平洋海戦において、村田重治少佐らの精鋭日本機の猛攻によっ
て撃沈されました。                 (下に続く)

  この六隻に小型空母二隻を加えた八隻が開戦時の米海軍空母戦力
 ですが、どこまでが軍縮条約の空母条項の範囲内かは微妙な所があ
 ります。(ワシントン条約の破棄宣告は一九三四年末、失効は二年
 後の一九三六年末)
  米海軍としては、空母条項の枠を精一杯利用して、ともかくも世
 界のトップの地位は確保したと信じていたものと思われます。
  しかしながら開戦後の二年間に、正規空母六隻のうち四隻が日本
 海軍によって撃沈され、ミッドウェーの大勝にもかかわらず、苦戦
 を強いられる結果となり、損傷艦の離脱によって一時は太平洋上に
 一隻も米空母が見られない状況が出現しました。
  どこかに大きな誤算があったのは間違いありません。


  他方の日本海軍は、軍縮条約の失効から真珠湾攻撃までの僅か五
 年の間に、対米六〇%の壁をいつのまにか突破し、あの精強無比の
 機動部隊の結成に成功しています。
  この五年間の日本海軍は、どのようにしてここまで到達できたの
 でしょうか。その足跡(そくせき)を辿ってみましょう。


   世界を驚かした蒼龍の効率性


  日本は、一九三三年に一万トンの小型空母龍驤(りゅうじょう)を
 竣工。残りの枠に鳳翔を代替したとした場合の枠を追加すると、二
 万トンを少し超える枠が確保できる見込みとなりました。
  そこで海軍首脳は、一万五〇〇〇トン級の中型空母二隻をこの枠
 内に押し込み、最大限の艦載機を搭載させる計画に着手します。
                           (下に続く)

  実際に企画されたのが一九三三年、第一艦の蒼龍の竣工は一九三
 七年の年末です。昭和十二年、日支事変勃発の年に当たります。
  この蒼龍は、空母の歴史上の画期的革命児でした。
  小型に近い空母でありながら、蒼龍は、改装後の加賀を越える十
 五万馬力の機関を装備し、速力は日本空母最速の三四・五ノット。
 搭載機数も定数五十七に加えて補用十六の合計七十三機。


  第二艦の飛龍は蒼龍をさらに改良したもので、重量は一四〇〇ト
 ン増加、諸性能を蒼龍以上に改善し、一つの標準形式を確立しまし
 た。終戦間近に建造された雲龍、天城、葛城もこの型に属します。
  この蒼龍・飛龍型空母は、元来は軍縮条約の制約の範囲内で可能
 な限りの空母数を確保するための苦肉の策でしたが、実は米海軍の
 ワスプもこの方向を目指していたのが戦後に判明しています。


  蒼龍の開発によって、長く日本海軍の師であった英海軍はその座
 を降りることになりました。さらにその動きを早めたのが、実戦型
 訓練の中から生まれた源田実ら若手士官たちの発想です。
  彼らは、操縦訓練の過程で或る決定的な事実に気付きます。
  軍艦による大砲攻撃と航空攻撃との本質的な違いです。
  軍艦の大砲は何百発も発射することができるのですが、飛行機の
 爆弾や魚雷は一発で終わってしまい、一度の失敗は挽回不能な致命
 傷となりかねないのです。
  従って実戦での連続攻撃には、多数の飛行機が必要であり、また
 艦隊は原則的に複数以上の空母の艦隊でなければならず、しかも一
 隻当たりの艦載機も可能な限り多数が望ましいというのです。
                           (下に続く)

  こうして日本海軍の空母は、防御面の不利は敢えて問わずに高効
 率を目指すことになり、まず蒼龍で成功し、さらに飛龍にまで到達
 し、最終的に一つの標準形式を確立していました。
  欧米諸国は瞠目しましたが、米海軍以外は理解できないままに大
 戦に突入し、辛うじて英海軍だけが終戦間際に修正に成功し、その
 面目を保ちます。
  一九三七年、軍縮時代は終わり、日米英三国は一斉に自由な発想
 により優れた空母の開発を進めることになります。
  蒼龍で成功した日本は、建艦制限のない状態での理想的な空母を
 追求し、新型艦の企画を開始、ついに成功しました。
  これが連合艦隊の英知を結集した空母、瑞鶴と翔鶴です。


   輝く星、連合艦隊の傑作空母、瑞鶴、翔鶴


  軍令部の要請の骨子は、搭載機数は蒼龍以上の定数七十二+補用
 十二の八十四機。艦速三十四ノット。弾薬庫の防火壁強化と飛行甲
 板の赤城並みの拡張。排水トン数二万五六〇〇トン。等々。
  蒼龍型と比較して、防御力に格別の配慮をしているのが注目され
 る点です。竣工は翔鶴が一九四一年八月、瑞鶴が同九月。
  機関出力もこれまでの最高の十六万馬力。弾薬庫、機関室側面、
 弾薬庫と魚雷庫などの防御壁は特に厚い鋼板を使用するなど、以前
 から空母の弱点とされていた防御面を強化し、世界水準の最高レベ
 ルを目指しました。
  昇降機は飛龍と同じく三基。発着の速度を重視します。のちの実
 戦での日本航空隊の世界最速の発着を可能にしました。
                           (下に続く)

  結果として、この二艦がその真価を発揮する機会に恵まれなかっ
 たのは事実としても、短期間にここまで到達できた技術水準の高さ
 を正当に評価しないのは、決して公正な対応ではありません。 
  日本海軍は、ごく短期間に英海軍を追い抜いて、米海軍と実力を
 競う立場にまで成長していました。
  そしてあの日、一九四一年十二月八日。空母赤城、加賀、蒼龍、
 飛龍、瑞鶴、翔鶴の六隻から三十秒で一機という世界の最速で発艦
 した三五〇機は真珠湾の米軍基地に殺到したのでした。


  歴史を公平に評価するためには、この間の米海軍の動向を冷静に
 検証する必要があるのは、敢えて強調するまでもないことです。 
  しかし残念なことに、戦後の日本ではこの点がほぼ完全な空白と
 なっていました。
  この随想が強調してきた米海軍の「百隻空母」の構想についても
 言及する所論は皆無に近いものがありますし、その他の軽空母、護
 衛空母などについても、体系的な研究成果を知る術(すべ)は存在
 しないのです。


  中でも遺憾なのは、海軍に限らず、第二次大戦全体の検証のため
 には格別に重要な意味を持っている『二大洋艦隊法案』―TWO―
 Ocean Navy Actの解明が未開拓である現実です。
  この法案が存在することについては、従来から知られており、そ
 の結果の数字も広く公開されています。
  問題は、それがどういう経緯と意図で成立したかという、最も核
 心の部分での解析が欠けている点です。        (下に続く)

   米海軍『二大洋艦隊法案』の深淵


  この法案は、一九四〇年七月、フランス軍が脆くもナチスドイツ
 に降伏し、パリー入城を許したのを機に、米海軍作戦部長スターク
 の提案によって成立しました。
  法案によって承認された艦艇の総量は一三二万五〇〇〇トン。
  当時の米海軍の現有戦力を七〇%も上回る野心的な計画で、これ
 が実現した場合、米海軍は日本の二倍強の戦力を持つことになり、
 とうてい日本は対抗できるものではありません。
  山本五十六が日米開戦に強硬に反対したのは、おそらくこの法案
 が念頭に在ったからであり、逆に永野、嶋田らが「万策尽きて開戦
 が止むを得ないとすれば、むしろ早期の開戦にしか勝機はない」と
 して、最後に開戦派に妥協したのも、実はこの同じ情報に基づいて
 の判断であったと考えられます。


  それにも関わらず、これまでこの法案の詳細はなぜか伏せられて
 きました。知られていたのはその成立時期と艦艇の総量だけで、具
 体的な内容や提案経緯を知る機会はありませんでした。
  翌年の開戦によって、法案自体が戦時の特別体制に発展的解消し
 たこともありますが、マスメディアや研究者の怠慢も否定できませ
 ん。
  近年、ようやく分かってきたのは、これが一回で決定された法案
 ではなく、一九三六年に成立した第一次ヴィンソン法以来何度も執
 拗に提案された最後(第四次)の法案であり、いち早く危機感を持
 った米海軍の先見性を証明するものであることです。
                           (下に続く)

  この法案の内容や意義についての理解度は極めて低く、たとえば
 二〇一一年五月号の某雑誌のB・M氏論文では、「第三次ビンソン
 法で二十四隻の空母建造権限を大統領に与え」、それにより「日本
 海軍が空母建造に遅れたのが日本海軍の敗因」と速断しました。
  これまで見た通り開戦時の空母保有数で、日本は決して立ち遅れ
 ていません。逆に米海軍は、ヴィンソン法最終の第四次までの空母
 累計認可数は十二隻。しかもエセックスの就役は開戦後一年以上経
 った一九四二年十二月末で、立ち遅れたのはむしろ米海軍です。
 米側についてのB・M氏の所説は完全誤認。さらに日本側につい
 て「山本五十六が空母を理解していなかったのが敗因」と断じてい
 るのに至っては、あらゆる諸記録とは全く相反しています。


    ヴィンソン法第一次から最終第四次まで
           (秀作空母エセックスへの道)


  下院議員ヴィンソンの名で提案された第一次案では空母ワスプの
 建造が主目的であり、歴史的意味は大きくありませんが、無条約時
 代の第二次案では空母エセックス一隻と在来戦艦三隻が登場し、後
 年の米海軍戦略との関連で注目すべきものがありました。
  特にエセックス級空母が登場したことの意味は重大です。
  この級の空母は、最終的には24隻建造され(戦時中就役17、
 戦後就役7)米海軍空母部隊の中核を構成、当初予想をはるかに越
 える成果を挙げた反面、竣工時期の遅れが緒戦の苦戦とその後の米
 海軍の反攻計画を大きく阻害する要因となりました。
                           (下に続く)

  しかし、次の第三次でさらに三隻、第四次で七隻と、急速に増加
 しているのは、この時期の米海軍が本格的な空母増強戦略に踏み切
 ったことを証明するもので、駆逐艦115隻、潜水艦43隻の大増
 強計画と並んで、米海軍の明確な意思を察知することができます。


  ただし第二次に同時提案された在来戦艦三隻の建造計画と、第三
 次での高速戦艦アイオワ級二隻の建造案、第四次でのその撤回には
 米海軍内の空母と戦艦の優先順位をめぐる混乱を窺うことができま
 す。この時期には、まだアイオワ級高速戦艦を空母と一体的に運用
 するという機動部隊構想は存在せず、むしろ(低速の)在来戦艦優
 位思想が根強く残っていたというのが現実でした。
  この点でも、早い時期に金剛型巡洋戦艦を高速戦艦に昇格させ、
 空母時代の到来と共に空母護衛を主任務として特化させてきた日本
 海軍の構想がはるかに先行していました。


  このような問題点を抱えながらも、エセックス級空母が米海軍の
 中核空母として集中建造の対象に選ばれたのは、日本の瑞鶴型と同
 じく、これまでの経験が集約された一つの理想空母だからです。
  基準排水量二万七一〇〇トン。三十三ノット。搭載機数八〇機。
 従来の空母Yや空母Eよりは大型で、防御力が強化され、攻撃力
(艦載機数)も充分であり、現場の高い評価を得ていました。
 諸数字の比較では、日本の瑞鶴、翔鶴とはおおむね同等ですが、
 実は両者は対等の状況下での直接対決の機会はありませんでした。
  日本の二艦が活躍したのは戦争の初期であり、対するエセックス
 級空母が圧倒的な威力を発揮したのは中期以降のことです。
                           (下に続く)
 

  米合衆国と米海軍が、その潜在能力の極致を見せつけたのは、こ
 の二大洋艦隊法案の構想が実現し始めた戦争後半以降であり、その
 凄まじさはあらゆる研究者の理解をはるかに越えるものがありまし
 た。(現在でも日本では正当に理解されていません)


  このことの理解が欠けているため、二重の過ちが生じました。
  その一つが、戦前及び開戦直前の日本海軍の実力の過小評価で、
 これが山本五十六を筆頭とする日本海軍航空陣に対する謂われのな
 い中傷・誹謗となり、実態を大きく歪める結果となりました。
  もう一つが、開戦後に急速に増強された米海軍との戦力差を考慮
 しない個別の作戦批判で、極めて不公正で不適切な所論です。
 (特に末期のフィリピン沖海戦以降で顕著な傾向があります)


  歴史の真実は、米海軍がどのように潜在能力を一〇〇%発揮し、
 立ち遅れを克服できたのか、その解明された答えの中に在ります。
  私たちはその真実を率直に受け入れなければなりません。
  その過程でエセックス級空母が大きな貢献をしていたのは紛れも
 ない事実ですが、その陰にあって、文字通り「縁の下」の役割を果
 たした別の空母部隊の存在も正当に評価する必要がありますし、何
 よりも、絶望的な状況の中で、エセックス級空母に敢然と立ち向か
 ったわが海軍航空部隊の最後の戦いを忘れてはなりません。


  第二次大戦の日米海軍は、こうして空母の開発競争で始まり、最
 後は勝ち誇る米海軍機動部隊に対する神風特攻隊の壮絶な反撃で幕
 を閉じました。この後編のあと、その詳細に迫ることにします。
                       (この項終わり)
                           (下に続く)

 (当初はこの後編を以て空母編を終了する予定でしたが、二大洋艦
  隊法案の内容が判明しましたので、今回はその解析に紙面を割き、
  あとを次回以降の続編に譲りました。)

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