日本探訪HOME >日本史随想 >戦艦と空母 中編 <<前のページ後のページ>>

『ワシントン軍縮条約と空母時代の夜明け』
    基礎知識篇そのD――『空母』編の中編


 一九二二年二月、ワシントン軍縮条約が締結され、日本海軍は対
米英五・五・三の主力艦比率となりました。
 日本海軍としては、せめて三・五であれば、軍艦の質の向上と猛
訓練によってどうにか対抗できるとして、激しく抵抗しましたが、
条約から脱退して無条約となった場合、圧倒的に国力の劣る日本は
却って不利という現実もあり、妥協を余儀なくされたのです。
 このことについては多くの議論が繰り返されてきましたが、この
時期はもちろん、その後二十年近くの間も海軍戦力は戦艦を中心に
語られることが多く、空母はあくまでも脇役の立場でした。


 この軍縮条約の中の空母条項についても同様で、各国ともさほど
重要視していなかったらしく、決定の仕方も安易であり、それでい
てその決定数字には不可解な点が数多くありました。
 空母枠はトン数で決められ、米英を基準にして、日本は主力艦の
対米英比率の六〇%をそのまま準用しています。
 米英はそれぞれ十三万五〇〇〇トン、日本はその六〇%ですから
八万一〇〇〇トンとなり、まず妥当と言えます。
 ところが仏伊は各六万トンで、主力艦比率の十七・五%で算出し
た二万三〇〇〇トンを大きく上回っています。
 なぜこういう数字となったのか、米英日の三国がなぜ強硬に反対
しなかったのか、未だに適切な解説資料はなく、歴史の証人を得る
機会も当然ながら消滅してしまいました。        (下に続く)

  しかし空母条項に付帯して付けられた奇怪な特例条項を吟味する
 ことで、欧米諸国の油断できない深慮を推理するのは可能です。
  その特例条項では、一艦当たり最大二万七〇〇〇トン、ただし二
 艦に限り三万三〇〇〇トンまでを容認するとなっています。
  これを見ただけでは何のための条項か全く意味不明ですが、当時
 の米英海軍の状況を調べてみると、意図は一目瞭然なのです。
  まず英海軍は、就役中のフューリアスに加え、後続の二隻もすべ
 て二万二〇〇〇トンであって全艦が条件内ですし、米海軍が計画中
 の戦艦改造空母レキシントンとサラトガは、一九二七年の工事完了
 時には、まさに公称三万三〇〇〇トンとなっていました。
  こうしてみるとこの付帯条件は、米英が空母建造計画を予定通り
 実現するためのものであり、仏伊に対して大幅な譲歩をしたのは、
 その代償であったと考えられます。或いは仏伊に空母建造能力が乏
 しいのを見越しての周到な作戦かもしれません(注を参照)。
  この時期の日本海軍は、まだ空母の重要性を正しく理解していた
 とは言いがたいものがありました。また欧米流の老獪な打算に対抗
 するだけの経験も外交術もありませんでした。
  むしろこの特例条項によって、主力艦の許容枠を越えたため廃棄
 を覚悟していた巡洋戦艦のうちの二隻の空母転用が可能となったこ
 とに安堵していました。それが赤城と、初代天城であり、天城が大
 地震で転用不能と判定されたのちに戦艦加賀が生き返ったのです。
 (戦後、仏海軍はこの空母枠によって改造されたベアルンを空母と
 主張しています。しかしこの艦は米国造船所で再改造がなされてお
 り、「第二次世界大戦辞典」の編者である英人研究者たちも全く無
 視しています。またその後の新造計画も不成功でした)
                            (下に続く)

   空母黎明期、星を追い続けた人々


  これを機に日本海軍は、第一次世界大戦以来の航空戦力の増強を
 加速することになるのですが、それは第一に要員の養成と訓練、第
 二に空母の改造と新規建造、第三に艦載機の開発でした。


  海兵三十七期卒業の桑原虎雄という人物がいます。(最終中将)
  三十七期と言えば、あの小沢治三郎、井上成美、草鹿任一ら有名
 人と同期ですが、大戦中はむしろ地味な存在であり、彼が歴史に名
 を残したのは空母黎明期における異色の活躍によるものです。


  彼は寺内正毅元師の甥で、東京の名門府立一中から一高に入学し
 ながら、何を思ったか途中退学して海兵を受験し合格しています。
  海兵卒業後航空部門に進んだ彼は、一九一九年、突然或る実験を
 行いました。魚雷の投下実験です。
  しかし実際の魚雷は無理と判断した彼は、木材の丸太で代用して
 飛行機から投下し、魚雷の空中投下の可能性を実証しました。
  ドイツのゲーリング元帥が真珠湾攻撃の日本軍の航空魚雷に驚愕
 した時を遡ること、実に二十二年も前のことです。


  さらに彼は、翌一九二〇年、水上機母艦若宮丸の船首に十八mの
 滑走台を造り、飛行機の発艦に成功します。
 (注・当時の複葉木製の軽量飛行機だから成功したものです)
  この後、若宮丸の船上からの発艦、戦艦山城の主砲上の仮設滑走
 台からの発艦も成功させ、新空母でも可能なことを立証しました。
                            (下に続く)

  次いで一九二一年、英国のソッピー社からの技術導入と指導者派
 遣によって試作された国産機に試乗し、初飛行を成功させ、結局こ
 の飛行機は一九二三年に一〇式艦上戦闘機として正式採用され、累
 計生産295機。日本海軍初の専用艦戦となります。
  本家の英海軍が、統一空軍によって専用艦載機の開発に出遅れた
 のに比べて極めて大きな成果でした。


  一〇式艦戦は、自重七九〇キロ、時速二三七キロ、機銃七・七ミ
 リ×2、上昇限度七〇〇〇mであり、どことなく零戦に近い印象を
 与えていますが、これは出発点における桑原大尉らの実戦体験が最
 終的に零戦に集約されたものと考えれば、納得できるものがありま
 す。
 (桑原虎雄は一九三六年には霞ヶ浦航空隊副長兼校長に就任します
 が、この時期には山本五十六が航空本部長で、大西瀧治郎大佐が本
 部教育部長です。航空教育の面で最強の布陣でした)
  一〇式艦戦が正式に採用された一九二三年の三月、東郷元帥も臨
 席して空母鳳翔の発着テストが実施されました。操縦担当は鳳翔航
 空長の吉良俊一大尉。海兵は四〇期です。
  テストの一回目は失敗で、吉良大尉は機と共に海上に転落します
 が、彼は悠然と濡れた服装のまま二回目に挑み、見事に成功させ、
 並みいるお歴々の賞賛を浴びます。
  実は彼は、前々年の一九二一年五月から翌年十一月までの間、英
 海軍のセンビル大佐に率いられた教育団による猛訓練を受けた中の
 一人でした。                     (下に続く)

  第一次世界大戦の空の英雄の一人センビルは、訪日当時はまだ弱
 冠三十一才。容赦ないスパルタ教育によって、天狗気味だった吉良
 大尉らの若手士官を徹底的に鍛え上げていました。
  仲間には海兵同期の大西瀧治郎や、後年ビアク島で赴任早々米軍
 二万に急襲されて戦死した千田貞敏(戦死後中将)などもおり、セ
 ンビルの功績は特筆すべきものがあります。


  この時期には一九〇二年に締結された日英同盟の廃止(名目上は
 日米英仏四カ国条約への発展的解消)が決まっていましたが、英海
 軍の好意はまだ続いていました。
  英国は日本陸軍が欧州出兵を拒んだのには批判的でしたが、海軍
 の艦艇派遣とその奮戦は高く評価し、海軍軍人同士にはまだ信頼感
 と親密感は根強く残っていたのです。


  鳳翔の新造にあたっては、仏・英に長期に留学した経験のある金
 子養三中佐の貢献が指摘されています。彼はまた、要員の教育訓練
 にも意見があり、かねてから広大な滑走路用陸地と水面を持つ霞ヶ
 浦の土地取得を熱望していました。
  陸上八〇万坪、水上二九〇万坪。絶好の海軍航空訓練施設です。
 それが実現したのが丁度センビル教育団が訪日する直前であり、
 日本海軍はそれに合わせて霞ヶ浦航空隊を置きました。


  霞ヶ浦航空隊は、海軍の前線部隊の一つであると同時に、航空隊
 要員を養成する学校でもあります。従って軍司令官・副長と並んで
 校長と教頭が居り、かつ原則的に副長と教頭は兼任でした。
                           (下に続く)

  山本五十六が二年間のボストン留学と九カ月の欧米七カ国視察な
 どを経て、霞ヶ浦航空隊付大佐として赴任したのが一九二四年九月
 であり、肩書は恒例により副長兼教頭。
  彼は翌年末には駐米大使館付武官を任命されていますから、この
 霞ヶ浦時代は決して長くはないのですが、計り知れない大きな影響
 を残すことになります。


  センビルの猛訓練を踏襲する一方で、やや粗野に流れていた服装
 などの日常行動に自己規制を求め、単なる操縦技術者ではない海軍
 士官像を求めました。
  この時の部下には、あの大西瀧治郎大尉なども教官の立場で在任
 していますが、この時代の山本五十六についての最も優れた記録は
 当時副長付中尉だった海兵四十八期の三和義勇(みわよしたけ)の
 日記です。
  一九四四年七月、テニアンで戦死した彼の日記は私家版の「山本
 元帥の思ひ出」として配付され、現在私たちは工藤美代子の「山本
 五十六の生涯」などでその内容の一部を知ることができます。


  この日記で印象的なことの一つに、鳳翔勤務を熱望した三和が、
 技倆抜群とは言えない自分にその資格があるかと懸念を示したのに
 対し、山本五十六が「技倆抜群者だけでは戦いはできない。平均的
 な資質の者が(集団として)能力を発揮すべきだ」と論す場面があ
 ります。この結果、三和中尉は鳳翔勤務に選抜され、一つの優れた
 伝統が生まれました。後年、世界最強と評価された日本機動部隊の
 集団としての能力は、この山本精神によって培われたものです。
                            (下に続く)

   二転、三転、空母改造の苦闘


  空母鳳翔は奇蹟的に世界初の新造空母の栄誉をかち取り、その後
 の教育と訓練にも絶大な貢献をすることになるのですが、次の改造
 空母二隻の場合は簡単には行きませんでした。
  軍縮条約の特例条項によって空母への転換を認められた赤城と加
 賀は、直ちに空母への改造を開始しますが、意外にも難航する結果
 となります。
  当初の案では、すでに完成しいる英国の改造空母ら倣って(なら
 って)三段式飛行甲板を採用することでしたが、これが全くの誤算
 でした。
  この方式によれば、三つの甲板に長短をつけることで、大型機、
 小型機を分けることができ、また発着が同時に可能ということでし
 たが、これがすべて実行不能なのが分かったのです。


  英海軍の前例を参考にしたはずなのに、なぜこのような欠陥作品
 となったのか、これまで、的確に分析した文献は見当たりません。
  おそらく、英国が統一空軍となったため、空母専用艦載機という
 開発思想が薄弱となり、多様な航空機に対応する必要が生じ、こう
 いう複雑な複数飛行甲板となったものと思われるのですが、確証が
 あるわけではありません。
  日本にとっての好運は、すでに鳳翔が稼働し、多数の発着経験者
 が存在していたことです。
  苦心の修正の結果、どうやら実用に耐えられる空母が完成したの
 が、赤城が一九二七年三月、加賀が一九二八年三月のことでした。
                            (下に続く)

  赤城と加賀は、軍縮の特例条項に合わせて二万七千トンを下回る
 数字で公表していましたが、実質は米海軍のレキシントン、サラト
 ガと同格で、この時ついに、英海軍は日米に抜かれ、第三の地位に
 転落していたのです。 
  しかも日本の二艦はその後も改修・改装を続けてゆきます。
 加賀の場合、戦艦からの転換のため、大規模の改修を必要としま
 した。巨大な艦橋と砲塔の撤去。艦速の向上のための全重量の削減
 と馬力の上昇。煙突の排煙を飛行甲板から避ける工夫などです。
  さらに加えて、艦載機の搭載数の増加も求められました。


  最終的には、加賀は、機関出力を九万馬力から十二万五〇〇〇馬
 力に、速力は二七・五ノットから二八・三ノットへ、搭載機数も六
 〇機から最大九〇機へと増大させるのに成功しています。
                        (この項終わり)


  次回は、太平洋を挟んだ日米両海軍の傑作空母が登場します。さ
 て、それはどの空母でしょうか。

日本探訪HOME >日本史随想 >戦艦と空母 中編 <<前のページ後のページ>>