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『航空母艦=空母』の誕生と進化
基礎知識篇その(4)――『空母』編の前編
それぞれの国の創世記(genesis)
弩級戦艦では当初英海軍に遅れを取った日本海軍は、その後雄大
な構想と高度の技術力によって戦艦大和の建造に成功し、世界を驚
倒させるのですが、空母に関しては、最初から英米海軍とほぼ平行
して開発を進めることができました。
空母の前身である水上機母艦は、当時は、海上進発で、着艦は水
上着水という方法により、ともかくも航空機の海戦参加を可能にし
ており、しかもその第一艦は日本の若宮丸であって、一九一四年、
第一次世界大戦に参加し、実戦参加可能という成果を得ました。
他方の英海軍は、一九一七年に、巡洋戦艦を改造し、発着艦可能
な本格方式の空母の実用化に成功。その成果を生かして世界初の新
造空母を設計し着工します(一万トンの小型空母ハーミス)。
それよりやや遅れた一九一九年末、日本海軍は空母鳳翔を起工、
一九二二年末に竣工させますが、その時点ではハーミスは未だ工事
中であって、改造空母のフューリアスだけが現役空母でした。
鳳翔は七四〇〇トンで艦速二十五ノット。対するフューリアスは
二万二〇〇〇トンで艦速は二九・五ノット。鳳翔の劣勢は否定でき
ないものの、新造空母第一号の名誉は確保しました。しかも鳳翔は
終戦まで生き延びた数少ない好運艦の中の一艦でもあります。
(下に続く)
同じ一九二二年、米海軍も石炭輸送船のラングレーを改造して空
母としての試用を行い、一九三七年には正式空母に採用します。
一万一五〇〇トン、十五ノット。一九四二年二月にジャワ沖で日
本海軍に撃沈されました(その後に登場するのは二代目)。
空母の創世記においては、英米日の三国はほぼ一線に並んでいて
優劣の差はごく僅かなものです。
むしろ研究者にとって興味深いのは、この三国に次ぐ海軍国であ
った仏、伊、独の三国が相次いで脱落したことです。
フランスに至っては、なぜか終始一貫して空母の開発に関心がな
く、そのためもあって、第二次大戦の期間を通じて、仏海軍はつい
に海軍国としての存在価値を発揮する機会がありませんでした。
戦艦こそ、米(17)、英(15)、日(10)に次ぐ7隻を擁し、
しかもそのうちのリシュリーなどは、三万五〇〇〇トン、十五イン
チ砲八門、艦速三〇ノットと、近代的な高速戦艦の条件を充分に満
たしながら、語るに足る実績は残していません。
(仏海軍の七隻の戦艦のうち三隻は巡洋艦、駆逐艦などの艦隊と共
に軍港で独海軍に封鎖されて自沈。リシュリーを含む残余の四艦は
他の艦艇と共に脱走して連合軍の指揮下に入り、世界の各地を転戦
していますが、高速戦艦が連合軍機動部隊の護衛に活用されたとい
う記録は存在していないのです)
この仏海軍の信じ難い無為は、二つの大戦の間のフランス政界の
腐敗と混乱に根本の原因があるのは事実としても、海軍自らの責任
もまた免責されることはありません。 (下に続く)
仏、伊、独を合わせて、空母開発に失敗した三国には共通の偏り
がありました。
その一つが欧州大陸中心、地中海中心という思想です。
欧州の列強大国は、世界の植民地征服によって国富を増大しまし
たが、彼らの最終目的はその富を自国に集積することでした。
大西洋は、南北アメリカという新大陸の富を集めるための航路で
あり、地中海は、スエズ運河を経てアジアの植民地の富の集積航路
という基本認識です。
新大陸の覇者となった米国と、アジア最大の植民地であるインド
の支配者である英国は、むしろ当然に太平洋、大西洋、インド洋と
いう巨大海域を意識した海軍戦略を取る必要があり、最終最高の兵
器としての空母開発には必然性がありました。
これに対して地中海型世界観から脱却できない仏、伊などは、政
治家を納得させる以前に、まず海軍内の抵抗という敵があり、仏海
軍はその段階で脱落し、伊海軍は、開発に着手したものの結局は未
完に終わっています。
地中海の制海権を確保するには、海上の艦艇部隊と陸上基地の航
空勢力で充分であり、防御力に弱点のある空母は、却って敵の標的
となりかねない点に、決定的な不利があると評価されたのです。
独海軍の空母開発挫折には、さらに特殊な原因がありました。奇
しくもそれはヒトラーの蹉跌の始まりでもあったのです。
一九三五年、二年前に政権奪取に成功したヒトラー政権下、空母
第一号が発注されています。グラーフ・ツェッペリン号です。
(下に続く)
同艦は一九三八年に一旦竣工しますが、多くの欠陥を指摘されて
竣工中止という異常事態を引き起こしています。
まず空母建造の目的であった豆戦艦などの通商破壊艦隊護衛の為
には航続距離が短か過ぎ、トン数(二万三二〇〇)との比較では搭
載機数が四〇機と貧弱であり、逆に護衛空母としては火器数が過剰
(五・九インチ砲十六門)で、しかも艦載機の発着時には対空火器
が使用できないなど、設計の基本が疑問視されました。
そこで根本的な見直しが要求され、全面的改修に入りますが、そ
れも難航し、改修を進めて約八〇%に達した一九四〇年八月、この
改造計画は中断。次いで一九四二年再開、翌四三年四月再び中止。
終戦の年の一九四五年、祖国の戦いに何の貢献もできなかったこ
の悲運の空母は、ついに未完成の姿のまま、すべての秘密を隠し抱
いて自沈し、失敗の原因を追究する道もまた永久に閉ざされてしま
いました。
残された記録を辿って失敗原因を推定すると、艦速の三三・七五
ノットという高速と重装備が本質的に矛盾し、これが搭載機数を制
約すると同時に、航続距離の短縮を招いたことが分かります。
日本の蒼龍ならば、一万六〇〇〇トンで最高七十三機搭載ですか
ら、実戦ではとうてい勝負になりません。同盟国となった日本から
の情報でその事実を知ったヒトラーに、これが容認できなかった可
能性大ですが、この間の真実もまた闇の中に消え去りました。
独海軍には基本的な誤解があり、空母にも完全な軍艦の機能を求
め、日米海軍のように艦載機中心で、時には貨物船や石炭輸送船の
改造で対応するという弾力的な発想は存在しなかったのです。
(下に続く)
独海軍が初めに参考にした英海軍は、早々に修正していました。
一九四〇年五月完成の新鋭空母イラストーリアス型がそれです。
同型艦は全部で六艦建造されたのですが、第三艦まで搭載三十六
機だったのを、第四艦からは側面装甲の犠牲で格納庫を拡大し、五
十四機に、最後には甲板の拡張と甲板上駐機によって八十一機まで
増加させ、最大の弱点を克服しました。
不幸なことに、一九四一年一月、独空軍の急降下爆撃隊がこの新
鋭空母を急襲して六発の四五五キロ爆弾を命中させ、修理に約一年
を要する大損害を与えたことから、独海軍は防御中心思考から脱却
できず、ついに空母ゼロのまま敗戦の日を迎えたのでした。
大英帝国の落日 統一空軍の躓き
多くの歴史研究者の共通した見解の一つに、第二次世界大戦は第
一次世界大戦の不十分な戦後処理によって発生したというのがあり
ます。
事実、敗北したドイツが巨額な賠償と戦後インフレに苦しむのに
対して、戦勝国の誰も新しいドイツに未来の指針を与え、そのため
の支援をすることはなく、それでいて、ナチスの再武装や非武装地
帯(ラインラント)への武力進出には、過剰に寛容でした。
戦勝国の一つとなった新興国日本に対する対応も一貫していませ
ん。政治面では旧態依然として二流国家扱いですし、経済の世界で
は明らかな悪意を以て日本製品の排除に努め、排日法案、反日法案
を連発し、経済圏のブロック化で圧迫を加えました。 (下に続く)
自分たちの植民地は温存するが、日本には絶対に認めないばかり
か、既存の権益もすべて返上を求めました。
それは列強諸国の傲慢であり、独善であったわけですが、その間
に、国家の存亡にも影響しかねない幾つかの動きが進行していまし
た。英海軍の場合、それは新しい時代に対応する目的で生まれなが
ら、実は限りなく阻害的な要因となった政策です。
大戦終了の年の一九一八年。英国はそれまで陸軍と海軍に分かれ
ていた航空部門を空軍に統一しました。
実戦に参加して大活躍した飛行機の将来を見越し、一つの部門に
集中して運用を図る趣旨でしたが、極めて危険な発想でした。
こういう論理は、官僚の頭脳の中では整合していても、時々刻々
変動する現実には的確に対応しきれないことが多いのです。
この直後から、航空界は大変動時代に突入しています。スピード
競争と長距離無着陸飛行競争。軍事用としての性能競争、そして空
母と艦載機という新時代兵器の開発競争です。
一九三七年に海軍が航空部門を取り戻すまでの二十年近い空白期
間に、英海軍の航空部門は急速に輝きを失い、質・量共に日米に次
ぐ第三の位置に転落していました。
戦雲急を告げる欧州方面情勢に愕然とした英海軍が、ようやく新
鋭空母イラストーリアスを開発し、完成したのが一九四〇年五月。
開戦の年の年末までに三艦を追加完成し、その時点で七隻を確保
しました。その時、日本海軍は新鋭艦二隻を加えて一〇隻、米海軍
は艦載機輸送艦レンジャーを合わせて八隻です。 (下に続く)
質の点でも、日本の瑞鶴、翔鶴は、軍縮条約失効後に自由に設計
された大型空母として世界の最高峰に達し、この点でも日本の空母
艦隊は世界のトップに躍進していました。
かつての世界の海の王者英帝国に代わって、新しく王者の地位を
占めるべき立場の米海軍は何をしていたのでしょうか。
二つの大戦の間においての世界規模の失敗について、ほぼすべて
の国に責任があるのは、現在の良心的な歴史研究者の共通の認識で
あり、勝者側も責任を免れることはできません。
ナチスドイツという怪物をあそこまで増長・増殖させ、何千万人
もの犠牲者を出したことについて、たとえ勝者である連合国側であ
っても、完全免責を主張するのは困難なのです。
一九三六年のラインラント進駐、一九三八年のミュンヘン会議
、
一九三九年のドイツ国防軍と旧ソ連軍のポーランド侵攻。
何度も世界秩序回復の機会はありましたが、英仏が反応したのは
最後のポーランド侵攻の時が始めてであり、世界の超大国の米国は
なおも傍観者の立場を続けました。
この時ほど民主主義の根本的な矛盾が露呈された時期は他にはあ
りません。
世界の平和秩序の鍵を握る米合衆国の国民は、最後の瞬間の真珠
湾攻撃まで、大陸への武力介入を拒否していました。良識のある政
治家や知識階級の一部の意向に反し、かつその時期の緊迫した世界
情勢を顧慮することなしにです。
確かに、アメリカは眠っていました。 (下に続く)
そのアメリカの目覚めは米海軍から始まっています。
多くの国において、これは普遍的な法則です。
日本の明治維新の場合、開国を主張し、率先して実行し、新時代
の先頭に立ったのは、勝海舟であり、坂本竜馬でした。
彼らは開国の先駆者であり、同時に海軍の始祖でもありました。
それは、海が世界に繋がっているからであり、しかも、軍艦や航
空機が近代科学技術の粋(すい)だからです。
東洋の弱小国日本の中で、唯一世界の最高水準に到達した日本海
軍は、そのために米海軍による徹底的な反撃を受け大敗しました。
あの時代から六十数年後の現在、十隻以上の巨大空母を有する大
海軍国は米合衆国だけとなっています。
歴史を事後的に観察すれば、現在の覇者である米機動部隊誕生に
最も貢献したのは、日本海軍機動部隊だったのかもしれません。
次回の焦点は、もちろん日本とアメリカの空母です。
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