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八八艦隊から戦艦『大和』『武蔵』の誕生へ
     基礎知識篇『戦艦と空母』――『戦艦』編の②


 弩級戦艦の登場に衝撃をうけた日本海軍は、その技術を総動員し
て、第1号の弩級戦艦「河内」を一九一二年に完成させます。トン
数は二万二八〇〇トン、三〇・五センチ砲十二門の堂々たる弩級戦
艦でした。
 しかし海軍関係者の喜びはすぐに半減します。英海軍が超弩級戦
艦オライオンとキング・ジョージ五世型を完成させたからです。
 前者は二万二二〇〇トンで、三四・三センチ砲十門搭載。後者は
二万三〇〇トンで、主砲はオライオン並みながら艦速の二四ノット
の確保に成功していました。


 すでに河内の建造段階でこの超弩級戦艦について情報を得ていた
日本海軍は、先進海軍国の後塵を追い続けることの空しさに気付き
ます。何らかの打開策が必要なのは、誰にも分かっていました。
 多くの対応策が検討されたはずですが、その詳細についての記録
は残っていません。
 結果として採用されたのが、八八艦隊構想と金剛型巡洋戦艦の試
作でした。


   八八艦隊構想とその行方


 八八艦隊構想が議会の承認を得たのは明治四三年(一九一〇年)の
ことです。(国際的比較の必要性を考慮し、以後は西暦に統一するこ
とにします)                     (下に続く)


  八隻の戦艦は当初弩級戦艦を想定し、論議の過程で欧州方面の情
 報を得て超弩級戦艦に移行されます。
  この構想は、のちの軍縮協定によって大幅に縮小されますが、見
 落としてはならないのは、これが太平洋戦争の終戦までの日本海軍
 の原型であり、艦艇部隊の基本の姿であることです。
  レイテ戦で最後を遂げた扶桑、山城の二艦、小沢囮艦隊の護衛で
 奮戦した伊勢、日向の二艦はすべてこの時期に計画された超弩級戦
 艦であり、戦艦大和が竣工するまで連合艦隊の主力であった長門と
 陸奥は、八八艦隊の第一陣として完成された当時の最新鋭艦です。


  未完成に終わりましたが、八隻の巡洋戦艦の最終艦は、トン数が
 四万七五〇〇トン、主砲は大和級の四六センチ、艦速三〇ノットと
 いう理想的な空母護衛戦艦となり得る存在でした。
  もちろん当時の世界のどの国も、将来空母が艦隊の主力となり、
 戦艦が空母の護衛を担当する時代が来るのを予想できるはずはあり
 ませんが、この艦速重視の艦隊思想は、その先見性において、もっ
 と高く評価する必要があります。
  事実を正確に検証することなしに、日本海軍が大艦巨砲主義に固
 執したために空母時代に対応できなかったなどの所論は、所詮は何
 の根拠もない俗論に過ぎないのです。
  大艦巨砲主義は当時の世界の大勢であり、むしろその中における
 日本は、八八艦隊の半数を巡洋戦艦に当てるなど、艦速重視の姿勢
 が鮮明である点で、他の国々とは明確に一線を画していました。
    戦艦にしても、長門などは当初の目標は三〇ノットで、防御力を
 強化するためにやむを得ずそれ以下となったのが実情でした。
                            (下に続く)

  加えて、多くの誤解や歪曲の中で最も許せないのは、八八艦隊構
 想自体を、侵略的野心を目的とした誇大計画とする見解です。
  議会通過後、予算化までに十年を要し、その主な理由が日露戦争
 と第一次世界大戦による資金難ということから、国力不相応の計画
 と結論するだけならまだしも、それを進めて、日露戦争以降の日本
 の侵略性と結びつけるなどは、事実に基づくことのない空疎な誹謗
 に過ぎません。


  このことは、ジ海戦(ジェットランド沖海戦)で一目瞭然です。
  戦艦、巡洋戦艦合わせて、英海軍38隻、独海軍27隻。これが
 当時の一流国の海軍の実力であり、仮に八八艦隊が予定通り完成し
 たとしても、とうてい対抗できる数字ではありませんでした


  対米関係に限っても同じことです。
  開戦後の航空機の生産数、艦艇の建造量の圧倒的な差はすでに何
 度も繰り返し強調したところですが、開戦以前でも、日本の八八艦
 隊程度の艦隊で太平洋を制圧し米国を屈伏させるなど、よほどの夢
 想家以外の誰も考えていなかったのは確かです。
  戦後伝えられる文献を整理してみても、軍令部案、井上成美案な
 ど各種が残されていますが、すべて攻撃側の米艦隊に対し、日本軍
 がどのように迎撃するかの作戦論で、日本から進んで攻撃を仕掛け
 る作戦などは、もともと議論の対象にもなっていません。
  この随想が以前に明らかにしたように、真珠湾攻撃が正式な計画
 として採用されたのは一九四一年初頭であり、それまでの日本海軍
 には、先制的な対米攻撃の作戦は全く存在していなかったのです。
                           (下に続く)

 (注) この点について、以前の随想を未読の方のために要旨を改め
 て再説しますと、次のようになります。
 1.一九四〇年九月の日独伊三国同盟締結まで、米内光政・山本
   五十六・井上成美らは日米戦の場合の日本必敗を予想し、一部の
   海軍内積極派を抑えて海軍側を開戦反対で統一してきた。
 2.同盟成立後、米英の態度は急速に悪化、対して日本側の世論も
   硬化。対米強硬論の気運高まる。
 3.山本五十六は、一方で最後まで戦争回避を訴えるとともに、万
   一の事態を想定、対米戦の準備に着手。
 4.彼は作戦の根幹を航空部隊に転換し、機動部隊による敵基地奇
   襲作戦構想の具体化を急ぐ。
   一九四一年一月、及川海相との会談において初めて、山本長官よ
   り真珠湾攻撃の作戦構想が伝えられる。
 5.当時は海軍省、軍令部はもちろん、連合艦隊内部もこの山本案
   には圧倒的に反対論が強く、西太平洋の諸島の基地と空母、潜水
   艦などの連動による旧来型防衛作戦が支配的であった。
 6.山本長官を決断させたのは、愛甲文雄大佐と彼の同僚の片岡大
   佐らによる浅海面魚雷試作の成功の報であった。
   これにより水深十二mの真珠湾内の敵艦への魚雷攻撃が可能と判
   断した山本は、同年正月、愛甲大佐に本格的開発を指示。改良と
   実験を繰り返した結果、連合艦隊出撃直前に新型魚雷完成。


  要するに、日本海軍の対米開戦決断も、真珠湾攻撃構想の正式決
 定も、すべて一九四一年一月であって、またこの時期を以て、伝統
 的な八八艦隊構想や弩級戦艦時代は終焉したのでした。
                           (下に続く)

  真珠湾攻撃が成功した直後、日本海軍の大勝利を報告に訪れた海
 軍武官に対し、ドイツのゲーリング空軍元帥が驚愕した記録が伝え
 られています。彼はそれまで、航空魚雷という必殺の兵器の存在自
 体を知らなかったのです。それほどまでに、海軍航空部隊による敵
 艦隊奇襲攻撃は画期的な作戦だったのです。


 最強の戦艦『大和』『武蔵』に攪乱された米海軍の戦艦戦略


  これまでの叙述によって、戦艦大和・武蔵が時代遅れのように見
 えるのは、歴史が何歩も先に進んだ結果であり、しかもそれは日本
 海軍が創始した新しい航空作戦によることが分かりました。
  一方、戦艦大和の建造計画は、一九三四年の軍縮条約廃棄と並行
 して行われ、それは大和が竣工した時期を七年も遡っています。
  当然この時代はまだ航空機は海軍の主力ではなく、偵察・哨戒を
 主任務とする補助兵器の立場です。空母にしても、ようやく赤城が
 巡洋戦艦から改装されて竣工したのが一九二七年のことでした。
  軍艦の敵は軍艦であり、最強の攻撃力(火砲)と防御力(装甲)を持
 ち、或る程度の艦速のある戦艦は依然無敵の存在でした。
  こうして世界の有力国は、軍縮の間にも密かに無敵戦艦の開発
 を目指しており、これがその時代の大勢だったのです。


  戦艦大和以前の日本海軍の主力戦艦は、八八艦隊の一番艦長門と
 二番艦陸奥です。一九二〇年と二一年に完成したこの二艦は、世界
 で最初に四〇センチ砲を搭載したことと、戦艦でありながら二六ノ
 ット以上の高速であったため、各国の注目を集めました。
                           (下に続く)

  軍縮廃止後の新鋭戦艦としてはこの長門型を上回る最強戦艦を目
 指すのは、ごく自然な方向です。特に米英海軍に対しては、隻数で
 は対抗できないのは自明ですから、火砲、装甲、艦速のすべての面
 で無敵の戦艦が目標となりました。
  こうして戦艦大和・武蔵には、設計の前段階から厳しい条件が課
 せられることになりました。


 (軍令部指示による基本案)
 ① 主砲四十六センチ八門以上(最終九門)
 ② 副砲十五・五センチ十二門(最終六門―削減)
 ③ 速力三〇ノット以上(実績二七・五ノット―低下)
 ④ 航続力十八ノットで八千海里(十六ノットで七二〇〇海里)
 ○対空兵器基準なし(最終高角砲二十四門、機関銃一六六に増設)


  結果として六万五千トンの世界最大の巨艦となり、一九三七年十
 二月第一艦の大和が呉の海軍造船所で起工され、四年後の一九四一
 年十二月に竣工します。真珠湾攻撃のわずか八日後でした。
  当初案と最終実績を比較して気付くのは、攻撃力を最大限増やす
 ため、主砲を一門加えたことと、副砲を削減して対空火器を大幅に
 増強したこと、速力三〇ノットが達成できなかったことなどです。


  第二艦の武蔵は、三菱重工の長崎造船所で五カ月おくれて着工、
 竣工は大和より八カ月遅い一九四二年八月でした。
  大和・武蔵は辛うじて戦争には間に合いましたが、その真価を発
 揮できる場面が少なく、しばしば批判の対象となっています。
  しかしそれを企画の失敗とするのは正しい評価ではありません。
                           (下に続く)


  まず誕生の経緯を見れば分かりますように、この二艦は、弩級戦
 艦の最高峰を目指して建艦されたもので、当時の技術の集大成であ
 り、ついに他のどの国も追随することができませんでした。
  最も近づくことができたのは米海軍でしたが、アイオワ級の四艦
 が竣工したのは、一九四三年の後半以降であり、しかもそれは艦速
 三三ノットは確保できたものの、主砲は十六インチ(四〇・六センチ)
 に止まっています。
  これは米海軍がパナマ運河通行に束縛されていて、大和級の巨大
 艦を当初から回避したためであり、実は大西洋方面では戦艦は無用
 であった現実を考慮すると、極めて重大な戦略ミスだったのです。
  開戦後それに気付いて、のちに空母に改装される六万トン級のミ
 ッドウェーの建造に着手しますが、竣工が終戦後となってしまった
 のは、勝利の陰に隠された致命傷に近い大失敗でした。


  最も皮肉だったのは、日本が大和・武蔵を以て戦艦建造を中止し
 たのに対して、米海軍はなおも建造を続けたという事実です。
  開戦時の戦艦保有数は、日本十、米十七。米は真珠湾で五隻が沈
 没着底、二隻が中破。戦中に新たに八隻を建造しました。
  その中にはアイオワ級の四隻を含むのですが、それが計画された
 のは一九三〇年ころで、それから何度も空母に変更する機会があっ
 たはずなのに、なぜか米海軍は戦艦に固執し、ようやく一九四三年
 にアイオワ級第一艦が完成し、以後逐次竣工させていたのです。


  日本の論者の中には、最近になってもまだこの戦艦重視を賞揚す
 る向きもありますが、これは全く容認し難いものがあります。
                            (下に続く)


 空母護衛には巡洋艦や駆逐艦が適しており、建造するなら空母を
優先するのが先決です。実際にも、特攻作戦が最も激しかった時期
には、さすがの米機動部隊も空母不足に悩んだことが知られている
ほどです。
 艦砲射撃が威力があったという擁護論も同じで、実際には「そこ
に戦艦があったから」使用したというのが真相のようで、巡洋艦で
も充分に代替できますし、空母からの艦載機でも可能です。


 これらの論者は、何が何でも米海軍が正しかったとしたいようで
すが、戦中における戦艦についての米海軍の基本戦略については、
とうてい肯定できる要素はありません。
 むしろなぜこのような基本的な戦略ミスが発生したか、その根本
に遡って追及する必要があるのです。
 その結論を要約すれば、米海軍が戦艦大和・武蔵の実像を捉えき
れなかったという事実にもとめられます。
 これを証明するのが、アイオワ級戦艦とミッドウェーの例です。
 いずれも戦艦大和・武蔵を強く意識し、しかも結局は実像を捉え
きれないままに着工した事実が明白に残っています。


 アイオワ級戦艦の主砲が十六インチ(四〇・六センチ)と、戦艦
大和級の四六センチ(十八インチ)に劣るのは、大和級の主砲の数
値を確認できないまま、パナマ運河通過可能を優先した結果で、そ
の決定に至るまでの混迷が偲ばれる所ですし、ついに放棄された幻
の巨艦モンタナとその後継の六万トンのミッドウェーの建造決定に
は明らかに未知の大和級に翻弄された影響が歴然としています。
                          (下に続く)


  結局は、米海軍は大和級の実像を摑み切れないままに、対抗する
 戦艦の建造に右往左往し、終戦時には実働二十隻の大戦艦部隊がそ
 の威容を空しく誇示していました。
  一方の日本海軍の戦艦部隊は、大和と武蔵が米軍の戦艦群を眩惑
 している間、徹底的に実戦で酷使されていました。
  金剛型四隻に至っては、完成後も進化し続けて、開戦時から空母
 護衛戦艦として東奔西走しただけでなく、米軍飛行場を艦砲射撃で
 徹底的に破壊して大戦果を挙げています。 (ガダルカナルにて)


  この時の艦は金剛と榛名ですが、比叡と霧島を含め、すべて巡洋
 艦並みの日本の山の名であり、当初は大型巡洋艦という認識だった
 のが、弩級戦艦時代の到来によって、まず金剛を新鋭巡洋戦艦とし
 て英国に発注し、他の三艦は日本の技術で国産しました。
  竣工当時の主砲は世界最大の三十六センチ、艦速二十七・五ノッ
 ト。薄い装甲だけが問題だったため、ジ海戦の教訓を生かし、軍縮
 中にまず装甲を強化、次いで機関の馬力を増大して艦速も三〇・三
 ノットに上げ、機動部隊時代に相応しい高速戦艦に生まれ変わらせ
 ました。
  論者の中には、米海軍に比較して日本の戦艦は大和・武蔵以外は
 ボロボロなどと酷評する者がありますが、当時の世界の戦艦の中で
 金剛型四隻以上に革新的な戦艦がどこに存在したのでしょうか。
  また戦艦大和・武蔵にしても、戦う以前の企画の段階から米戦艦
 部隊を翻弄してその乱造を誘発した事実をどう見るのでしょうか。
  大和・武蔵以下の戦艦部隊は、その任を全うしていたのです。
  次回は、いよいよ新時代のエース『空母』に関する検証です。

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