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 “日本海軍を想う”――基礎知識篇その(1)
             『戦艦と空母』――前編


    前書き(Prologue=序言)


 この随想もいよいよ最終段階に入ります。
 追録篇の最後となったミッドウェー海戦の再検証は、私たちに多
くの深刻な教訓を授けてくれました。
 戦後六十数年間、日本軍の敗因として定説化されてきた驕りや怠
慢は、単なる思い込みであって、勝敗を決定した直接原因が全くの
偶然の結果であったこと、これまでの多くの論の誤りは、論者たち
の不十分な検証と基礎知識不足によることも明らかにされました。


 特に、近代海軍は最新科学技術の粋であって、その知識を前提と
しない所論は極めて空疎なものとなっています。


 そこで思い出されるのが、日米開戦を決定付けた昭和十五年九月
の日独伊三国同盟締結の直後、山本五十六が時の海相及川古志郎に
対し「どうしても開戦やむを得ずとすれば、最低でも零戦と陸攻各
千機を確保できるか」と激しく迫った事実です。
 結局彼に与えられた零戦は僅か二五〇機。開戦後も急速な増強が
ないまま、真珠湾、豪州北海岸、インド洋と転戦を重ねた末にミッ
ドウェー戦を決断し、不本意な敗戦を喫してしまったのでした。
 この点について、海軍省や軍令部関係者が、戦中も戦後も、沈黙
を保ったままであるのは、決してフェアな態度ではありません。
                          (下に続く)


 終戦までの三年九ヶ月、零戦の総製造機数は一万を辛うじて上回
る水準に止まりました。(第二次大戦中の各国の機種の中では、独
のメッサーシュミットの三万機が最大)
 これに対して、米海軍は、グラマンのF4FとF6Fがそれぞれ
七九〇〇機と一二二〇〇機。ロッキードP三八が九九〇〇機。この
三種だけで零戦の約三倍である他に、多くの特殊機能機を開発し製
造していました。
 ミッドウェー海戦での零戦の奮戦と、最後に力尽きて敵の奇襲を
許した姿は、太平洋戦争を通じての零戦の命運そのものです。
 絶対不敗の戦闘機はありえませんし、永久不沈の戦艦もまた存在
するわけがありません。
 戦時中、神州不滅という言葉が横行し、一切の冷静な批判を排除
した悪例がありましたが、戦後の海軍批判の中にも、正にこれと同
列の、全く合理性を欠いた情緒的見解が数多く見られます。
 日本海海戦や東郷元帥と比較して、敗戦そのものを認めたくない
などというのは、心情論であって、歴史研究とは無縁のものです。

 筆者が追録篇でマリアナ沖海戦を割愛したのもそのためで、すで
に理想的機動部隊の結成に成功した段階の米軍に対して、どのよう
な戦法を採用しようとも、日本軍に勝機のないのは自明なことであ
り、改めての検証や論評に値(あたい)しないからです。
(この海戦での日本軍の戦法は、日本機が航続距離で優るのを活用
して米艦載機の到達圏外から発艦し、味方空母の温存を計るという
ものですが、万事承知のスプルーアンスは守備に徹し、日本軍の数
倍の戦闘機で待ち伏せ、わが攻撃航空部隊を殱滅しました)
                          (下に続く)



 この点では、常法破りの栗田艦隊の敵中突破と、神風特別攻撃隊
の発動という非常手段によって、全米軍を震撼させ、その作戦行動
に大混乱を招いたフィリピン沖海戦とは全く異なるものです。
 二つの海戦では、米軍が絶対不敗の大機動部隊の編成に成功した
点では共通しますが、マリアナでは機動部隊には日本軍の基地攻撃
を優先させ、日本空母隊に対しては防御に徹して快勝しました。
 一方、フィリピンでは、ハルゼーの指揮下、主力の機動部隊が幻
の日本軍機動部隊を追って遠く北方に誘い出されるという大失態を
演じて、栗田艦隊の奇蹟的な脱出を許し、日本艦隊撃滅という最終
目的の達成に失敗しました。
(レイテ戦については、大岡次郎『正説レイテ沖の栗田艦隊』の新
刊があります。氏は栗田中将の真意を知る唯一人の人物です)

 海軍の実戦では、現地司令官に全権が委ねられています。
 戦後の評論家の中には、機動部隊に限らず、前線の司令官や指揮
官の行動が本部の基本指令に反するなどの批判をする向きがありま
すが、これは戦場での現実を見誤っています。
 戦場では何が起こるかは誰にも予想はできません。それに対して
は臨機応変に即応するのが、指揮官として最善の行動なのです。

 特に海軍においては、乗員わずか数百人の駆逐艦やそれ以下の潜
水艦であっても、孤立して行動する機会が多く、その場合、艦長に
行動の全権が委ねられています。機密保持上、行動について一々本
部の指揮を仰ぐなどは厳禁です。
 このために海軍の各学校では、専門分野の教育訓練と並んで、総
人格の向上のための基礎教育を厳しく指導しているのです。
                          (下に続く)



 幸いにも、この随想を続けて約五年の間に、事実の徹底検証と科
学的分析に基礎を置いた研究成果がかなり多く発表されました。 
 ことに歓迎されるのは、既存の有名人のような先入観や偏見のな
い新人たちの登場と、海外からの多彩な新資料の紹介です。
 その一方で、基礎知識の乏しい人たちによる妄論もまだ後を絶ち
ません。
 例えば、音楽家のS氏と、経営評論家のH氏の共著である『特攻
とは何だったのか』などは、本人たちの思想・信条は別として、事
実認識に誤りの多いのは、見過すことができないものがあります。
「アメリカ軍は徹底的に兵隊を大切にする。―― 一方、日本軍は
ガダルカナルでもレイテでも、平気で兵士を置き去りにした」
 ガ島での拙戦の批判は可としても、撤退作戦を成功させた海軍部
隊の勇気と功績を無視するのは許されません。レイテでの特攻隊の
発動も、第一の目的は栗田艦隊の一万数千の将兵の救出でした。

 アメリカ軍に対する見解も正確ではありません。
 ミッドウェーでは、攻撃部隊の技量の未熟や航空機の欠陥を承知
の上で、米軍は猛攻を決行し、搭乗員の犠牲者は日本軍の約二倍に
達しました。勝利のためには、時には『死』の恐怖をも克服しなけ
ればならないのは、どの国でも変わることのない普遍的真実です。

「特攻で犠牲になった若者の多くは召集を受けた学生たちで、海軍
兵学校や陸軍士官学校を出た純粋な職業軍人は少なかった。――憤
りを感ずるのです」
 まだこういう初歩的な誤りが残っていること自体が不思議です。
                          (下に続く)



 これでは、六十九期から七十二期までの四期で六〇%以上の戦死
者を出した海兵出身者の方が憤るでしょう。学生出身の飛行予備学
生の戦死者が多いのは事実ですが、それでも戦死率は一九・五%で
戦死者比率としては海兵出身者とは比較にならないのが事実です。
 いうまでもなく、計算の基礎数字が違っているからです。
 六十九期から七十二期までの海兵卒業生は一九八二名、これが各
艦艇や航空部門に全般的に配備されるのに対し、飛行予備学生は原
則として全員航空部門です。総数一〇八四六名。比率が小さくとも
絶対数としては多くなっていたのです。

 戦場での現実は数字が示す以上に深刻でした。
 当初は特攻隊の隊長には海兵出身者という不文律がありました。
 ところが、沖縄戦の頃には人材の消耗が著しく、まず前線の司令
官たちが脅威を感じ始めています。
 未熟な若い操縦士を訓練し、いち早く戦力化する役割の指揮官が
枯渇してきて、作戦遂行が困難となってきたのです。
 それに気付いた桜花神雷部隊の岡村司令などは、部下の海軍兵学
校出身の指揮官が特攻参加を申し出たのに、厳しい禁止命令を出し
て拒否しました。

 基礎知識の不足による全くの誤判断もあります。
「戦艦は大量の火器を装備し、装甲も厚く、攻撃・防御ともにすぐ
れている。なぜ空母の護衛につかないのか。――先導して空母の楯
になってほしかった。『指揮官先頭』の海軍魂がない。この一点だ
けでも、十分に負ける戦いだった」――ミッドウェー海戦に関して。
                          (下に続く)



 著者はこの主張を七頁にわたって繰り返し強調していますが、残
念なことに、すべては徒労に終わっています。
 なぜならば、現実には、機動部隊には高速戦艦の榛名と霧島が護
衛に付いており、逆に大和や長門、陸奥など、相対的に低速の戦艦
群は高速の空母とは別行動を取っていたからです。
 機動部隊の優れた特色の一つは、艦隊が高速で移動し、敵の虚を
衝くことができるからであり、低速の戦艦などは却って機動部隊の
優位性を阻害してしまうのです。

 ミッドウェー海戦での米海軍首脳部は空母部隊の護衛は巡洋艦と
駆逐艦に任せ、戦艦の護衛は最初から排除しました。戦後の論評で
も、この決断を勝因の一つに挙げる人が多く、S氏らの所論とは完
全に正反対となっています。
 どちらが正しいかと問われるならば、米側なのは明白です。
 あの魔の瞬間は、空母Eと空母Yの急降下爆撃隊の同時攻撃によ
って生み出されました。特に真珠湾の基地を遅れて出港した空母Y
が間一髪で間に合ったのが、絶妙の好機となりました。
 もし低速の戦艦に護衛させていたならば、事態の再逆転という可
能性も否定できないのです。

    巡洋戦艦――その謎と興亡と進化

 S氏らが判断を誤るに至ったのは、機動部隊の機能を正確に理解
していなかったからと思われるのですが、もう一つ、巡洋戦艦とい
う名の謎の軍艦の存在が問題を複雑にしていました。
                          (下に続く)



 戦時中、高速戦艦として活躍した金剛、比叡、榛名、霧島の四艦
は、当初は巡洋戦艦として誕生しています。
 この時期の巡洋戦艦の立場は明快なものでした。
 戦艦に比べて、火力・装甲に劣る反面、艦速は巡洋艦並みという
のが各国共通の特質です。
 艦の大きさは関係ありません。巡洋艦以上であれば良く、米艦隊
のアラスカや独のグナイゼナウなどは二万トン台でした。
 アラスカの主砲は十二インチ(約三〇センチ)が九門。グナイゼ
ナウは十一インチが九門と、巡洋艦をやや上回る程度です。
 どちらも艦速三十二ノット以上ですから、速度に重点を置いてい
て、攻撃力、防御力では戦艦に対抗できないのは当然の結果です。
 従って、実戦で主力艦として扱われるよりは、大型の巡洋艦のよ
うに単独または少数艦隊で行動し、商船を撃沈する通商破壊で成果
を挙げました。(グナイゼナウは商船二十二隻、約十二万トンを撃
沈し、軍艦では英空母グローリアスの撃沈が唯一最大の戦果です)

 致命的にも近い欠点を持ちながら、それでも各国が巡洋戦艦に固
執したのは、その艦速が捨てがたい魅力を持っていたからです。
 日本海海戦などの幾つかの海戦の教訓は、主力艦の決戦において
は、火力・防御力の強化と共に、艦の速度の重要性の確認でした。
 艦隊の攻撃力がどんなに優勢であっても、高速で戦線を離脱する
敵艦隊に打撃を与えることは不可能です。そこで、日本などは、そ
の八八艦隊構想において、戦艦八に対し巡洋戦艦も同数を配しまし
た。金剛などは、その時代の構想によって建造されたものであり、
また空母赤城は、巡洋戦艦が改装によって蘇ったものです。
                          (下に続く)



 本家の英海軍は、四万トンという大型戦艦並みのフッドに、十五
インチ(約三八センチ)の巨砲八門を搭載し、かつ三十一ノットの
艦速の確保に成功しました――もつとも防御力の不足は修正するこ
とができず、一九四一年五月、ドイツの超戦艦ビスマルクにより撃
沈されるのですが。

 巡洋戦艦が、艦速と火力と防御力の調和に苦心し、試行錯誤して
いる間に、各国海軍には新しい変革の波が起動し始めていました。
航空機時代の到来です。
 これが海上での速度の概念を一変させる怪物であることを、ごく
一部の人たちが気付いたのです。
 まだ本当の意味で怪物の正体を見極めたわけではありませんが、
少なくとも、高速という目的だけで巡洋戦艦にこだわることを疑問
視する意見が増大するのは必然でした。

 これに軍縮条約による主力艦の隻数制限対策が加わります。巡洋
戦艦に近い水準まで重巡の性能を上げて、巡洋戦艦を含む戦艦の隻
数を抑えるのです。日本はその道を選択しました。
 こうして、次第に巡洋戦艦はその場を失ってゆきます。
一部は火力と装甲を強化してB級戦艦となり(英国のレパルスな
ど)、一部は全面改装によって高速戦艦に生まれ変わりました。
 これが日本の金剛級の戦艦四隻であって、当初は長門、陸奥とい
う第一級戦艦に次ぐ、高速性に特化した特殊戦艦という認識であっ
て、機動部隊の護衛に最適の戦艦とされたのは後年のことでした。
                          (下に続く)



 この四艦が、その高速性によって、太平洋戦争の花形として大活
躍するのは、基本的には時代の流れによるものですが、以前に紹介
しましたように、山本五十六や愛甲文雄など、日本海軍の一部の人
たちが、太平洋という地球最大の舞台を強く意識し、日本という海
洋国家をどうやって守ってゆくかについて、日夜腐心していたから
の結果でもあります。
 その大目的の達成のためには、航空部門の拡充と並んで、艦艇部
門においても、高速性、機動性が欠かすことのできない要素である
のを彼らは強く意識し続けていたのです。

 身びいきではなく、日本以外の国々で、これだけ早い時期に、こ
れだけの強い目的意識を持って海軍を造り上げた国は他にはありま
せん。
 独、仏、伊などの諸国はついに空母が建造できませんでしたし、
大英帝国も空母では日米に後れを取りました。
 戦艦部門では、独はビスマルクのような巨大戦艦の段階で止まっ
てしまい、外洋での戦いは専ら通商破壊専門の小型戦艦やUボート
任せに終わります。英海軍の戦艦にも見るべき進化がありません。
 米海軍が艦速三〇ノット以上の戦艦の完成に成功したのは、戦争
の後半、一九四三年の半ばころで、この時期には大機動部隊の編成
が完了しており、実質的な任務は無くなっていました。

 妄論批判の効果によって、図らずも巡洋戦艦の進化が分かり、日
本海軍の本質が浮き彫りにされました。次回以降は戦艦大和を含む
本格戦艦の探究です。大艦巨砲主義は本当だったのでしょうか。

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