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『ミッドウェー海戦』――終編
 真実のミッドウェー海戦
          ――追録篇その(二十五)


 軍事評論家に限らず、一般の論者もしばしば引用する東西二人の
戦争論権威者がおります。
 東は古代中国の孫武で、その言行記録が『孫子』。一方、西側では
プロイセンの陸軍参謀クラウゼヴィツ、著書は『戦争論』です。


 『孫子』の中でも特に有名な言葉は、
「彼を知らず己(おのれ)を知らざれば、戦う毎(ごと)に必ず殆
(あやう)し」です。
 皮肉を籠めて論評するならば、この言葉は、大小を問わずほとん
どの戦史に適合し、そこで議論が終結してしまうだけの威力を持っ
ており、それだけに安易な使用は避けなければなりません。
 ミッドウェー海戦では、当初の米海軍情報部隊の大活躍により、
日本軍の作戦がほぼ完全に察知されたのに対し、ハワイの諜報機関
が壊滅した日本側は手探り状態の進撃であったのは事実であり、途
中経過を全部省略して『孫子』を以て総括すれば、そこで万事が事
足りてしまい、真実は遠くに消え去ってしまうのです。


 現に、戦後の一般的な論調は、精神的には驕りと過信、作戦的に
は情報・索敵の後れを敗因としており、細部の検証はほとんど等閑
(なおざり)にされてきました。
 今回の再検証により、ようやく真実が明らかにされたのです。
                          (下に続く)


  これによって、ミッドウェー海戦の実態が極めて複雑であったこ
と、最後には全くの偶然が日本軍の死命を制したことが判明し、こ
こで改めてクラウゼヴィツの言葉の重みが想起されます。
 彼は、戦争においてはどんなに緻密で合理的な作戦をたてても、
偶然と不確実性が摩擦(阻害)要因となると喝破していました。


 これは彼が活躍した時代背景と無関係ではありません。
 十八世紀半ばから十九世紀にかけて、欧州の大国は破壊力のある
大砲を開発し、敵の砦の破壊、騎兵隊の壊滅を目指しました。一発
の砲弾には何十という騎兵を瞬時に粉砕する威力があります。
 敵に先んじて可能な限り多くの大砲を戦場に集結し、敵陣に砲火
を浴びせることができる側が勝者となりますが、天候の悪化や道路
事情が進軍を妨げることがあり、司令官や参謀たちは常に不確実性
という障害に悩まされ、対応に苦慮してきました。
 無事に集結に成功しても、不運にも敵の砲弾が味方の大砲に偶然
命中し、戦況が一変することも稀ではありません。
 クラウゼヴィツが自ら体験したに違いないこの状況は、百数十年
を経て、太平洋の洋上において再現されることとなったのです。


 空母ヨークタウン(空母Y)の粘り


 太平洋での日米空母の戦いは、未知の世界での戦いでした。
 両国の機動部隊は、幾つもの予想外の出来事に遭遇し、その対応
に追われましたが、その中ではもともと一長一短のある木製甲板と
装甲甲板の優劣とも関連して、空母Yの健闘が注目されます。
                          (下に続く)


 ピーター・スミスは、英国人としての立場から、英国式の装甲甲
板を推し、特に戦争末期に沖縄方面に派遣された五隻の英空母が神
風攻撃を受けながら大きな損傷のなかった点を評価するのですが、
その反面で、艦載機の搭載機数が制約され、同規模の日米空母に比
べて約半数しかない欠点も公平に指摘し、その対応は良心的です。
(搭載機数が制約される主な理由は、まず装甲甲板の重量によって
同トン数では全体の容積が制限されることと、側面が閉鎖された箱
のため格納機数が制約されることによるようです。英海軍は、この
欠点を修正するため、後には閉鎖式の格納庫を一部開放式に改修す
るなどにより、或る程度搭載機数を増加させましたが、それでも最
終的には日米空母の七〇%程度が限界でした)。


 日米両海軍も、木製甲板の脆弱性は充分に認識していました。
 その対策としては、基本的には護衛戦闘機による防衛を優先し、
さらに甲板下の格納庫・火薬庫などの個別装甲の強化、防火隔壁・
消火装備などの強化で対応することとし、搭載機数だけは厳に確保
する姿勢を崩すことはありませんでした。
 ところが、結果的に、日米空母はまだ解明し切れない原因によっ
て防御力に差を生じ、空母Yの粘りを際立たせる結果になります。


 日本空母のうち、最初に沈没したのは、最も小型(基準排水量は
一万六千トン)の蒼龍で、当日の午後七時十五分です。
 次いで最も大型の加賀(三万八千トン)が午後七時二五分沈没。
 この二隻は戦死者も多く、それぞれ七一一名と八一〇名。艦長の
柳本大佐と岡田大佐の二人は、共に戦死しました。   (下に続く)


 旗艦赤城は加賀に次ぐ大型艦(三万六千トン)で、加賀が戦艦か
らの改造であるのに対して巡洋戦艦の改造であり、艦速が早い代わ
りに防御力が低いはずが、頑強に生き延びて、翌日六日まで沈没を
免れ、曳航努力の末、ついに断念して味方駆逐艦により撃沈された
のが午前五時。戦死者総数も四艦の中では最小の二六七名。
 特に注目されるのは、赤城の戦死者中の搭乗員戦死者が七名だけ
で、しかも艦上での戦死者が四名に過ぎないことです。


 赤城に次いで搭乗員の戦死者が少ない蒼龍の場合は、計十名、う
ち艦上は四名。他の二艦の搭乗員戦死は九一名で内訳は不詳。
 日本空母全体の搭乗員の戦死者数は一〇八名となり、米軍のそれ
が二〇八人であるのと比較し、意外にも大きく逆転しています。


 こうしてみると、米軍急降下爆撃隊の一斉攻撃時に、日本軍艦載
機が多数甲板上に在り、これの爆破・誘爆・引火による被害が甚大
であったとする通説は、ほぼ完全に否定されることになります。
 多数の機が甲板上に在ったならば、搭乗員の戦死者数はもっと多
かったはずですが、実際にはそうなっていないからです。


 さらに幸運だったのは、待機部隊の精鋭たちの多くが戦死を免れ
たことで、源田、淵田の二人のほか、日本海軍の至宝である村田重
治雷撃隊長、江草隆繁急降下爆撃隊長、板谷茂戦闘機隊長の三人も
出撃寸前の敵攻撃で、戦う機会を失って命を拾いました。
(その後、村田重治はソロモンで、江草隆繁はマリアナで、板谷茂
はアリューシャン方面で戦死)            (下に続く)


 空母Yに致命傷を与えた飛龍と、山口司令、加来艦長、そしてそ
の部下たちにとって、未だにこの海戦の真実は理解を越えるものが
あります。殊勲の飛龍に対し、天は過酷かつ皮肉に酬いました。
 小林隊の生還機の報告により、敵空母は猛火に包まれて彷徨し、
撃沈は確実と認定されましたから、友永・橋本隊が大打撃を与えた
のは別空母であり、二隻の空母を失った米機動部隊の残りは一隻だ
けで、あとは一対一の勝負として意気軒昂たるものがありました。
 もしも彼らが、米軍にあと二隻が残っている事実を知ることがで
きたならば、次の機会での雪辱を期して、一旦は戦場を離脱すると
いう選択肢もありえたかもしれません。


 ここで飛龍が選択したのは、あと一隻の敵空母に果敢に挑み、刺
し違えも辞せずていう積極策でした。
 しかし結果的に、すでに勝機は去っていました。
 飛龍隊は、空母Yへの第二次攻撃から帰還した橋本隊に加えて、
各艦の残存機を結集し、艦爆5、艦攻4、艦戦6の部隊を以て第三
次攻撃を準備中に、午後五時五分敵襲による直撃弾を受け炎上。
   翌六日午前二時三〇分、加来艦長は総員退去を命令。五時一〇分
の味方駆逐艦巻雲の雷撃で、沈没は午前九時。戦死四一六名。山口
司令と加来艦長は退艦を拒否して艦に殉じます。


 この間空母Yは、機関の損傷が甚だしく、自力航行を断念。六月
六日の終日、味方艦による曳航を試みます。
 致命的な損傷を受けながら、まだ生き残っていたのです。
 結局、空母Yは当初の被弾から六五時間耐えました。 (下に続く)


 なぜここまで生き延びることができたのか、真相を徹底的に検証
した文献は存在しませんから、ここでも私たちはプランゲの著書を
手掛かりに推測するしかありません。
   急降下爆撃隊の到着の遅れについては、充分な説明がなかった彼
ですが、なぜか空母Yの最後の努力については詳細な記述があり、
それが今は貴重な記録となっているのです。


 そこには、沈み行く母艦を救うためあらゆる手段を尽くす状況が
生き生きと描写されていて、消火作業という一見副次的な分野に対
する米海軍の熱烈な情念をも感じ取ることができます。
 残念ながら日本にはこの種の記録は乏しく、比較対照は困難です
が、現在でも米国内での消防士の社会的評価が高いことなどを勘案
すると、或いは空母Yの粘りの真の原因はこのあたりにあった可能
性は否定できないのです。


 空母Yに止めを刺したのは、日本の潜水艦伊号一六八です。艦長
の田辺弥八少佐は海兵五十八期。村田重治、江草隆繁と同期です。
 彼は午後八時にミッドウェー基地攻撃を命じられ、その機会を窺
っていましたが、十一時ころには断念。戦場から必死に脱出を試み
る空母Yの撃沈に目標を切替えました。
 日本艦隊は撤収を急ぎ、洋上、米軍駆逐艦と艦載機多数。


 翌六月六日、日本艦隊の夜襲を警戒して空母部隊を東方に避退さ
せていた米軍が、残存航空勢力を再編成して日本艦隊に総攻撃をか
ける中、水中では伊号一六八がひそかに獲物を狙っていました。
                          (下に続く)


 米軍攻撃は、一隊は空振り、一隊はかなりの戦果を挙げます。
 空振りは駆逐艦谷風攻撃隊。残存艦爆五八機を結集して索敵中、
重巡一隻を発見、猛攻を加えますが、実はこれが駆逐艦で、敏捷に
動き回るため一発も命中できず、結局逃げられてしまいました。
 成功組は日本軍重巡艦隊を攻撃した部隊。
 ミッドウェー基地に最も接近していた基地占領隊護衛の栗田中将
の第七戦隊の重巡、熊野、鈴谷、最上、三隈は、午前二時の段階で
は基地から僅か九〇海里の地点に達していましたが、撤退命令を受
けて方向転換をした際、最上と三隈が衝突。このため戦列を離れた
この二艦が標的となり、翌七日九時四五分、空母Hの艦爆二六機が
第一波、十時四五分空母Eの艦爆三一機が第二波で攻撃、命中弾が
確認されます。


 午後二時四五分、空母Hは艦爆二三機を以て第三波攻撃を行い、
三隈に致命傷を与え、やがて夕刻ころの沈没となります。
 この間、伊号一六八は、空母Yを見失わないよう、敵哨戒機、駆
逐艦に発見されないよう、薄氷を踏む思いで追尾を続けます。
 七日午前四時一〇分、薄明の海上に空母の艦体を発見。
 距離二万m。艦側に駆逐艦一隻(のちハンマンと判明)。
 ほかにも多数の駆逐艦があり、これに発見されないよう、伊号一
六八は徐々に距離を詰めてゆきます。


 潜望鏡も使用せずに接近したため、一時は五〇〇mと過剰接近し
たのを調整して適正距離一五〇〇mが確認されたのが〇時三七分。
魚雷四発が同時に発射され、一発はハンマンを貫きます。
                          (下に続く)


 空母Yには二発命中。それでもなお沈まず、最終的に沈没したの
は午前四時五八分でした。
 米軍駆逐艦部隊は爆雷六〇発を伊号一六八に注ぎますが、一発も
命中せず、伊号一六八はついに脱出に成功します。


 アメリカ海軍の悲劇――ミッドウェー戦の意義


   乱戦の中で、誰の責任でもない悲劇が発生していました。
 飛行甲板が燃え尽きた空母Yの艦載機は、基地滑走路または健在
の空母EかHを利用するしかありません。
 そのうちの一機の戦闘機が空母Hの飛行甲板に緊急着艦したとき
に、その悲劇が発生しました。
 着艦は成功しましたが、故障した機銃が回転しながら暴発し、甲
板上の何人かを射殺する惨劇となり、しかもそのうちの一人が、米
海軍大西洋艦隊司令長官インガソル大将の子息だったのです。
 戦後の私たちは、開戦直後の米軍内の陸海軍の主導権争い、海軍
内での太平洋・大西洋両艦隊の主導権争奪の経緯を仄聞(そくぶん)
できる立場にありますから、そこにある種の因果関係を想像するこ
とは可能です。


 たとえば空母ワスプの太平洋回航をもう少し早く決断しておれば
ミッドウェー海戦は米軍の楽勝に終わり、子息の死は避けられたか
もしれません。
 しかし、この問題に関する彼の心境を語る記録は一切存在しませ
んし、敢えてそれを問うことも躊躇されます。     (下に続く)

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 日米を問わず、死と生の岐路に立たされ、決断を迫られた司令官
の心境は、局外者には想像を絶するものがあるからです。
 インガソル父子の場合は、むしろその象微性に意味があります。
 日本では日露戦争での乃木将軍の場合が類似例であって、彼も旅
順攻略戦において、その二人の子息を戦死させてしまいました。
 これにより、旅順攻略が極めて困難な任務であったこと、しかも
日本にとって決定的な意味を持った作戦であったことが歴史に記録
され、後世の人々の心に訴え続けているのです。


 ミッドウェー戦に注がれた米海軍の情熱と努力は、長い歴史の中
でも突出していて、むしろ異常に近いものがありました。
 飛行場が一つしかないこの小島は、滑走路も三本が交叉するとい
う変則的なもので(同時には一本しか使用できない)、所詮収容能力
に限界があり、ハワイと連動して、その衛星基地として使用するし
かない存在です。
 そこに米軍は使用可能な全戦力を投入し、遮二無二日本軍に攻め
かかりました。作戦に合理性は乏しく、国家の誇りの問題でした。


 世界の大国アメリカが、アジアの小国日本に敗れ続けるのは、決
して許されることではありませんでした。真珠湾での完敗の屈辱は
必ず晴らさなければならないのです。
 こうしてニミッツは、この小さい島に溢れんばかりの飛行機を集
め、不可能に近い空母Yの修理を成功させ、未熟な指揮官たちを督
励して闇雲に攻撃を加え、ついに神の加護によって大敵の日本機動
部隊を撃滅したのです。               (下に続く)


 その成功のためには、もとより多少の犠牲は覚悟していました。
 雷撃隊長たちの相次ぐ戦死も、若きインガソル大尉の事故死も、
日本軍の二倍近い搭乗員の戦死も、すべてはこの国家目的を達成す
るためのやむを得ない犠牲でした。


 ここで私たちは、このニミッツの覚悟の背後に隠れていた或る事
実を明らかにしなければなりません。
 それは、ここで背水の陣を敷いた米軍が再び敗北した場合、軍の
首脳部(たとえば海軍のキング大将)にはどんな対応策が用意され
ていたかを推定することです。
 その場合、当分の間、機動部隊の支援なしにハワイを死守し、機
動部隊再建を待つしかないわけですが、それについては米海軍首脳
部は充分な確信を持っていたと判断できます。


 それには二つの前提があります。
 第一に、基地としてのハワイが難攻不落であるという現実です。
 ミッドウェーと違って、ハワイには大規模の航空兵力を維持でき
るだけの飛行場とその関連施設があります。全部を使用できれば、
空母十隻以上の航空兵力の動員が可能です。
 それに対する日本軍は、真珠湾攻撃の時の三五〇機以上の動員能
力はなく、再攻撃の成功可能性は極めて低いのです。


 第二に、真珠湾を死守している間に、米海軍機動部隊の再建と増
強が可能であることです。
 この点では、米海軍は驚嘆すべき計画を着々と進めていました。
                          (下に続く)


 遅きに失したとはいうものの、開戦の前年の一九四〇年の七月に
は、一三二万トンを越える建艦計画が議会を通過し、あの百隻空母
構想に基づく空母増強も実施されました。
 米海軍の傑出した発想は、時間のかかる正規空母と並行して、急
遽巡洋艦を改造した軽空母と、民間船を改造した護衛空母の建造を
急いだことで、軽空母の第一陣の四隻は一九四三年三月までに就役
し、その後同年内に五隻が追加され、また護衛空母では、排水トン
二万三千トンの大型空母サンガモン級四隻を一九四二年内に就役さ
せ、正規空母と合わせ、一九四三年末には正規空母十八(軽空母を
含む)と護衛空母三五隻以上の大機動部隊を完成させています。


 米海軍の最終作戦は、この大機動部隊の完成を待って、中部太平
洋を西進し、一気にマリアナ諸島を攻略し、本土を空襲下に置くこ
とであり、事実それは実現しました。
 ミッドウェーでは、両軍将兵は死力を尽くして戦いました。戦況
は一進一退、神が最後に選んだのは米軍でした。おそらくその理由
は、米軍には未来の展望(希望)があり、日本軍はこの段階ですで
に零戦不足などの限界が現れていたからでしょう。
 個々の誰かの責任の問題でないのは確かです。
    (しばらくお休みして次回は『戦艦と空母』の予定です)

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