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『ミッドウェー海戦』――後編D
 全くの偶然だったドーントレス隊の同時攻撃
               ――追録篇その(二十四)


 この随想にもしばしば登場するプランゲは、この海戦で米軍が勝
利した直接原因として、まず第一に、空母Eと空母Yの急降下爆撃
隊の攻撃が偶然にもほぼ同時攻撃となったこと、第二に、その時、
日本の零戦隊が米軍雷撃隊の攻撃に備えて低空を防衛中で、上空か
らの爆撃機の奇襲に対応できなかったことを挙げています。


 しかし彼は、何故かそれ以上の分析を放棄してしまいました。
 今回の再検証によって、日本軍側での零戦の消耗という新事実が
明らかにされましたが、第一の事情は依然未解明のままです。
 プランゲは、多くの日本人研究者以上に日本海軍を徹底的に研究
し、例えば源田実とは七〇回以上、淵田美津雄とは六〇回以上も面
談したことは以前に言及した通りですが、意外にも肝心の米軍側情
報については追及不足の部分が残っているのです。


 改めて米軍機動部隊の攻撃陣の動きを精査すると、幾つもの不可
解な状況が浮かび上がってきます。
 空母H隊の発艦開始は七時、空母E隊のそれは七時六分。日本軍
機動部隊まで二百海里(約三七〇キロ)は、約一時間で到達できる
計算なのに、各雷撃隊が壊滅した時刻はそれぞれ九時二〇分と九時
五〇分以降とされていて、余りにも時間がかかり過ぎています。
 空母Eのドーントレス隊の爆撃開始はさらに後の十時二〇分。
                          (下に続く)


 さすがに誰一人として、日本軍零戦の消耗を待って攻撃するため
 の周到な作戦だったと強弁する人はいません。何の根拠もないばか
りか、逆の証拠は無数に存在するからです。
  米軍の各隊がそれぞれ必死に戦場到達を急いでいたこと、しかし
 それは全く無統制の行動であったのは、歴然とした事実でした。


  結果として絶妙な時間となった原因の中では、発艦技術の未熟と
 いうのが、実は最も数字的な説得力を持っています。
  日本軍の場合は、機動部隊の作戦成功の必要要素の一つとして、
 多数の艦載機の発艦速度を高めることを目標とし、かねてから猛訓
練を行っていました。
 その成果は先の真珠湾攻撃で予想以上の成果を挙げ、記録によれ
ば、第一次攻撃隊一八三機は、板谷戦闘機隊長が先頭で発艦してか
ら僅か十五分で全機発艦完了。その後飛翔しながら十五分で完全な
編隊を結成したとされています。
 一空母当たりの機数は三〇機。一機当たりの平均発艦時間は三〇
秒に過ぎず、これは当時の世界記録だったのは確かです。
 これに対して空母H隊の発艦完了は七時五五分と記録されていま
すから、開始からは五十五分で、日本軍とは比較にもなりません。


 奇妙なのは、米軍の雷撃隊が艦爆隊よりも先に到着していること
です。艦爆の搭載爆弾は二五〇キロ前後、雷撃機の魚雷はその倍以
上で、同時に出撃すれば艦爆が先に到着するのが自然です。
 艦爆がそれ以上の爆弾を搭載していたという記録はありませんか
ら、他の理由を推定するしかありません。       (下に続く)


  ここで浮上するのが、先述した爆撃機の偵察機兼用の影響です。
 米軍は爆撃機の約半数を偵察機として使用し、偵察完了後一旦帰
艦させ、燃料補給と爆弾搭載後、改めて攻撃に参加させる戦法を採
用していました。
 スプルーアンス指揮下の空母HとEでは、使用可能な爆撃機の全
機が同時に発進していますが、これは偵察から帰艦した爆撃機の整
備完了を待っていたからとしか考えられません。
 本来ならば、空母Y隊のように残りの半数を早急に発進させ、偵
察部隊は第二次攻撃隊とすべきなのでしょうが、そうしなかった理
由については何の記録も残されていませんし、改めて研究する人も
いないのは、戦史としての重大な欠落です。
(或いは、太平洋戦争の英雄の一人であるスプルーアンスの名誉の
ため、意識的に議論を避けているのかもしれません)


 対照的なのは空母Yを指揮したフレッチャーです。
 他の二空母に遅れて出発した彼は、珊瑚海海戦の教訓を生かし、
早くも四時三〇分には一〇機の索敵隊を編成して状況把握に努め、
六時七分には先行するスプルーアンス隊に攻撃権を委ね、自艦も戦
場に急ぎます。
 八時三〇分、メッシー少佐の雷撃隊十二機は護衛戦闘機六機と共
に発進。レスリー少佐の艦爆隊十七機の発進は九時五分。これは全
三十七機の約半数です。海戦の経験では一日の長のある彼は、とに
かく出撃を急ぐため、偵察に出動した機は後回しにしました。
 この時間、すでに空母HとEの雷撃隊は日本軍の零戦の猛攻を受
け、全滅寸前であり、急遽メッシー雷撃隊も突入してゆきます。
                          (下に続く)


 以上の推移から明らかなように、米軍の同時攻撃は、空母E隊の
未熟による極端な遅れと、空母Y隊の攻撃精神と海戦経験が合体し
て始めて成立したもので、決して意図された戦術ではありません。
 戦闘終了後、スプルーアンスが語ったとされる次の言葉は、間違
いなく真実の声なのです。


――タフな戦いであった。我々は少し運が良かっただけだった。


 ただし、このことが、空母EとYの爆撃隊隊長であるマッククラ
スキー少佐とレスリー少佐の栄誉を傷つけることにはなりません。
 護衛戦闘機を見失い、燃料不足に脅かされながら、彼らの隊が日
本機動部隊を目指し怯むことなく進んだ末の栄誉だからです。


――行け、我が想い(Va Pensiero)、黄金の翼に乗って――。
          ――ヴェルディ作「歌劇ナブッコ」より 


 不時着寸前の彼らの眼下に、魚雷からの回避運動を終わったばか
りの日本空母が見えてきました。
 雷撃隊攻撃の最後となるメッシー隊を駆逐した零戦隊は、一部は
遠くまで残敵を追い、一部は低空で再攻撃に対する警戒配備をして
いて、高空からの攻撃に無防備状態となっています。
 長く激しい戦闘の中で、ごく短い時間だけ生じた空白です。
 戦後、「魔の五分間」という言葉が使われましたが、正しい意味
ではこの空白の時間を指しているのです。       (下に続く)


 日本軍にとっての「魔の五分間」は、米海軍の勇士たちにとって
は「神」が与えた「奇跡の五分間」となりました。
 十時二〇分、加賀に九機殺到。四弾命中し、うち一弾は昇降機を
貫徹して格納庫内に火災発生。一弾の爆発で艦長以下戦死多数。
 十時二十五分〜二十八分、レスリー隊、蒼龍攻撃。三弾命中。
 十時二十六分、艦爆三機赤城攻撃、二弾命中。
 同四十二分、赤城主機械停止、甲板上の零戦炎上。
 同五十分、加賀、赤城、蒼龍すべて炎上。
 勝負は正に最初の五分間で決しています。


 戦後の論争の中で、この「五分間」が全く別の意味に解釈して使
用され、問題を紛糾させてきました。
 まず草鹿龍之介を始めとする海軍関係者は、米軍急降下爆撃隊の
攻撃が五分遅れていたら一方的敗北は免れたとし、これを第三者側
が批判して、爆弾から魚雷への換装の決断の遅れが敗因としました
が、これは双方に論点の見誤りがあり、錯覚があります。
 海軍関係者の見解は、論理としては正しいのです。
 三〇秒に一機の発艦技術を持つ日本海軍とすれば、五分あれば十
機、四艦で四十機を出撃させる能力は充分に持っています。
 空中防衛のためにまず戦闘機を発艦させるのが常道ですから、予
定していた十二機の零戦をまず優先し、次いで艦爆・艦攻二十八機
を追随させることで、四十機が確保されます。
 艦爆はもともと換装の必要はないので、艦爆をこの二十八機に充
当しても良し、換装の終わった艦攻を逐次混入しても良し、四十機
を五分間で発進させることは、技術的には容易なことでした。
                          (下に続く)


 十二機の零戦が米軍攻撃隊を阻止している間に、これまでの護衛
機が防衛陣に復帰すれば、米軍攻撃隊に付け入る余地は残っていな
いでしょう。
 ただし草鹿らの錯覚は、この五分間を米軍の攻撃が早すぎた時間
と解釈したことです。そこで海軍関係者は、日本軍側の行動のどこ
かに立ち遅れがあったのではないかと反省し、これがあの総懺悔を
生む元凶となってしまったのです。


 実際には、立ち遅れていたのは米軍のドーントレス隊でした。
 とくに空母E隊は、一時間少々で到達できる距離を三時間もかか
り、雷撃隊の全滅直後の到着で、逆にこれが米軍側の奇襲を成功さ
せ、日本軍に致命傷を与えました。
 もし彼らが一時間前に攻撃していたら、まだ余力充分の零戦隊は
簡単に撃退していたでしょうし、雷撃隊と同時攻撃となっていた場
合は、戦いはもっとタフであったとしても、一方的に押し込まれる
事態は避けられたに違いないのです。


 米軍については、「怪我の功名」で簡単に片づけることができます。
例は少ないのですが、戦史にも幾つかの類例はあります。
 太平洋戦争を通じても、米軍の日本攻略ルートについて、マッカ
ーサーがニューギニア経由の南部ルートに固執したのがそうです。
 現在冷静に考えれば、中部太平洋ルートが最も合理的なのは確か
で、犠牲の多かった南部ルートには疑問符がつきますが、結果とし
て日本軍の対応を混乱させ、日本の敗戦を早めるのには、極めて効
果的な作戦となりました。              (下に続く)


 勝者と敗者には天地の差があります。
 勝者には途中の失敗はほとんどが許されますが、敗者はどんなに
健闘してもすべて否定的に取られてしまいます。
 ハンニバル、南軍のリー将軍、ロンメル将軍など、敗者であって
も後世に高い評価を得ている人物は、極めて稀なのです。


 この点を考慮に入れても、ミッドウェー海戦について、当事者に
対するこれまでの評価は余りにも不当と思われます。
 一部に驕りや慢心がみられたとしても、これまでの検証では、そ
れが直接の敗因となっているという具体例は皆無に近く、実体とし
ては、憶測または先入観に基づいての推論であって、確実な根拠の
ない状態での誹謗・中傷となっています。


 爆撃の被害を深刻なものとしたのは、空母の防御力に直接の原因
があり、爆・雷換装による混乱の影響は具体的に計測できるもので
はありません。また攻撃時期の遅れが友永隊の収容優先の結果であ
り、それには零戦の消耗という基本原因が存在することも分かって
きました。その時々の判断には相応の理由があって、その時点では
最善と信じての行動だったのです。
 草鹿、源田、淵田らと面談を重ねたプランゲが、次第に実戦参加
の日本軍将兵に同情的となってきたのは、むしろ自然の成り行きで
した。
 私たち日本人は、古来、卑怯未練は非難しても、ただ敗者という
だけで勇者を貶(おとしめ)る文化を有していません。あの平家物
語は、平家の驕りを咎める反面で、敗者の名誉も讃えています。
                          (下に続く)


――安芸太郎を弓手(ゆんで)の脇に取って挟み、弟の次郎をば馬
手(めて)の脇にかいはさみ、――「さらばおのれら、死途の山の
供せよ」とて、生年廿六にて海へつっと入り給ふ。
           ――平家物語、能登守教経の最後より


 日本軍の三隻の空母は戦闘力を失い、山口多聞少将率いる飛龍だ
けが生き残りました。唯一の救いは、米軍攻撃隊も燃料と弾薬を失
い、飛龍攻撃を続行するだけの余力を持たないことです。


 山口司令は、当初予定していた攻撃隊を直ちに発進させることを
決断。十時五十八分、第一次攻撃隊に出撃命令。
 指揮官、小林道雄大尉(海兵六十三期)。艦爆十八、零戦六機。
 艦爆を二隊に分け、8は小林大尉直率、他の8は山下途二大尉
(六十五期)指揮。零戦隊指揮は重松康弘大尉(六十六期)。
 時に敵艦との距離九〇海里(一六七キロ)。
 十一時四〇分、攻撃隊は敵空母Yを発見し直ちに司令部に打電。
 五〇分後、攻撃開始。空母Yは多数の護衛機に守られ、抵抗は熾
烈を極めます。
 この時、空母Yの護衛機は、自艦機が十二、他艦機は六で合計十
八機。空中戦と対空砲火で日本軍は小林機を含む艦爆十三機、零戦
三機を失う苦戦の結果、空母Yに三発の爆弾が命中し火災発生。日
本軍は大破と誤認しますが、この火災は間もなく鎮火されます。
 充分な護衛態勢を敷いた敵艦を攻撃するのは極めて困難であり、
かつ戦果も限定されるということを証明する好例でもあります。
 やはり充分な護衛機は必要だったという証明でもあります。 
                          (下に続く)


 友永隊の収容に成功した飛龍は、第二次攻撃隊を編成します。指
揮官は当然友永大尉。第一次攻撃の時と同じ艦攻に乗りました。 
 彼の機の燃料タンクは、被弾箇所を完全には修理できず、半分程
度の燃料で出撃することになりましたが、もとより覚悟の上です。
 発進は十三時三一分、一路目標に向かい、敵艦発見は十四時三〇
分。
 友永機を含む艦攻十機、零戦六機。零戦のうち二機は母艦を失っ
た加賀の艦載機でした。
 敵艦は空母Yですが、この時点では先の空母は撃沈と誤認してい
たため、新たな空母と認識して攻撃を開始します。
 空母Yは、一刻も早く戦場から離脱し、本格的な修理を受けよう
と、多数の護衛艦に囲まれて懸命に航行中でした。
 護衛の輪型陣は巡洋艦5、駆逐艦十二、護衛機十四。
 対する日本軍は、従来から最善の戦法と確信する二方向攻撃態勢
で対応します。
 艦攻は五機づつに分け、一隊五機は友永大尉の直率。他の五機は
橋本大尉指揮。目標に対して、友永隊は右より、橋本隊は左より挟
撃態勢で接近。


 友永・橋本隊は左右からほぼ同時に空母Yに襲いかかり、橋本隊
を見落とした米軍は砲火を友永隊に集中し、全機被弾。火の玉とな
った友永隊の機は次々に敵空母を目がけて突入します。
十四時五四分、魚雷二本命中により艦長は「総員退去」を命令。
 米軍はなおも大破した空母Yの曳航を続けますが、翌々日四時五
八分、日本軍潜水艦伊号一六八の魚雷によって止めを刺されます。
                         (次回に続く)

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