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『ミッドウェー海戦』――後編C
  捨て石となった米軍ミッドウェー基地航空隊と空母雷撃隊
  日本軍零戦隊に限界点迫る
                 ――追録篇その(二十三)


 戦後の議論の混乱要因の一つに、米軍機動部隊発見後の南雲長官
の出撃決断のおくれを指摘する見解があります。
 それらの見解によれば、日本軍は極力早い時期に米機動部隊攻撃
を決断すべきであったとし、その決断のおくれを敗因の第一とする
のですか、この論には出発点の事実認識に大きな誤認があります。
 たとえば、「滄海よ眠れ」の著者であるS・Hなどは、日本軍が
当初から米機動部隊の攻撃を全く予想していなかったことを、証言
によって立証しようとしていますが、これは手法を誤っています。
 というのは、個々の誰かの予想とは関係なく、南雲機動部隊の実
際の戦闘態勢そのものが事実を的確に証明しているからです。


 記録によれば友永大尉の第一次攻撃隊一〇七に対して、待機隊は
一〇八機。(ほかに索敵機7。うち索敵隊は5、2は空母専属)
 内訳は、両隊とも戦闘機は各艦から九機づつの計三六機と同数。
 友永隊は赤城・加賀から急降下爆撃機各十八、艦攻は爆弾搭載で
飛龍から十七、蒼龍から十八。
 これに対する待機隊の当初予定は、飛龍・蒼龍の爆撃機各十八、
艦攻は魚雷装備で赤城、加賀各十八。
(加賀の艦攻は最終的には二七に増加。その事情に関する記録は存
在しませんがおそらく当初編成後の工夫の成果と推定されます)
                         (下に続く)


  待機隊の雷撃機は米機動部隊攻撃を前提にした配置であり、しか
も雷撃隊長はあの真珠湾攻撃以来の英雄村田重治少佐です。
 彼にしても急降下爆撃隊長の江草少佐、戦闘機隊長の板谷少佐も
すべて友永大尉の上官であり、その豊富な実戦経験と高度の技術に
おいて、当時の日本海軍の最高の指揮官たちです。
 南雲長官も幕僚たちも、待機隊に、ミッドウェー基地に対する第
二次攻撃と米機動部隊攻撃という、極めて困難な二正面作戦遂行の
重責を与え、そのための最善の指揮官を配していたのです。


 この例ほどは極端ではありませんが、米軍急降下爆撃隊の総攻撃
までの南雲艦隊の対応について、ほかにも幾つかの誤断が残ってい
て、事実の正確な把握のためには見過すことは許されません。
 その一つがいわゆる爆・雷換装の混乱原因説で、友永隊の要請に
基づき待機隊の艦攻の魚雷を陸上基地攻撃用の爆弾に一旦取り替え
たのを、米機動部隊発見によって再度魚雷装備に転換し、この混乱
の最中を急襲されたため、大損害を受けたとする説です。
 この状況が一般にも受入れ易いものであったこともあり、やがて
独り歩きし、いつの間にか甲板上で爆・雷換装に奔走する日本軍に
米軍急降下爆撃隊が殺到する情景描写が定着し、あたかもそれが真
実のように語られてきました。


 甲板上に並んで換装を急ぐ日本海軍の精鋭艦攻部隊と、それを待
つ艦爆と零戦の各機。上空から急襲して爆弾を投下する米爆撃機。
一瞬にして甲板は火の海となり、やがて爆発の連鎖で火薬庫が大爆
発し、日本空母は相次いで沈没。という構図です。   (下に続く)

 
 この類型的な描写を疑問視したのは、意外にも英国人研究者のピ
ーター・スミスでした。
 彼は、その著書(邦訳名−天空からの拳)で、執筆に到った動機
を次のような辛辣な言葉で述べています。
「(米国における多くの著書は)知識に欠けながら自己宣伝だけは
得意な自称専門家を名乗るマスコミ関係者の信じられないほどの愚
かさと無知――。或る記者は、実際は七〇機を搭載できる空母蒼龍
を三〇機しか搭載できないとしている――」


 スミスは、江草隆繁少佐の伝記であるその著書を通じ、日米英の
海軍の特質と個性を比較検討し、ミッドウェー海戦についても新し
い視点を提示しました。
 彼は有力な証言を収集し、米爆撃隊の急襲時に、日本空母の甲板
上には少数の日本機しかおらず、爆弾は木製である飛行甲板を貫徹
して甲板下の格納庫で爆発し、庫内の爆弾、魚雷に誘爆して最後に
火薬庫の大爆発を招いたと結論したのです。


 彼の説が正しいとすれば、換装の混乱などは大きな意味を持って
いないことになります。換装が早く終わっていたら甲板上で、遅れ
ていたら甲板下で誘爆、引火が発生し、大損害が生ずる結果には違
いがないからで、根本の問題点は空母の対空防御力が不足していた
ことに集約されてしまうからです。
 となれば、同じ木製飛行甲板を使用する米空母Yが日本軍の波状
攻撃にかなりの長時間耐えられたのはなぜかという疑問を含め、全
面的な再検証が必要というのが正しい結論のはずです。
                          (下に続く)


 現状では、その再検証は極めて困難となってしまいました。
 もはや当時の関係者の証言は得られませんし、空母の設計図が残
っていたとしても、それによって対空防御力を的確に推計するのは
容易なことではありません。
 しかしスミス氏は、その著書の中で、新しい重要発見の登場を示
唆しています。残念ながら私たちは、米国人の粘り強さに期待する
しかないのかもしれません。


 ただし現在でも、私たちにできることはあります。
 それは、全く先入観を持たずに既存の資料を再精査し、これまで
の所論に含まれていた悪意や偏見を排除し、可能な限り客観性の証
明される真実に到達することです。
 幸いなことに枝葉を排除したことで、要点は絞られました。
   米人のプランゲの努力によって米側の情報が確保され、今度は第
三者である英国人スミスの視点が加わっています。
 第二次世界大戦までは日米英の三国だけが空母保有国ですから、
この三国には正しい歴史を解明し継承する能力と義務があります。


 この観点からすると、日本の現状はお寒いとしか言えようはあり
ません。一方では旧海軍関係者による総懺悔的発言があり、他方で
は基礎知識に欠ける部外者が、伝聞と想像だけで仰天するような見
解を公然と流布させています。
 実は飛行甲板上での爆・雷換装による混乱などは、軍事知識など
無くとも、常識で判断すれば有り得ないことが分かるはずです。飛
行甲板の役割は飛行機の発着であって、工場ではないからです。
                          (下に続く)


 一トン近い魚雷や爆弾の着脱には道具も必要ですし、一時的に保
管する場所も確保しなければならず、さらに、多数の整備士が作業
するのですから、その場所は甲板下の格納庫しかありません。
 激しい戦闘の最中(さなか)です。米軍の爆撃や機銃掃射が断続
的に続き、日本軍の航空機は燃料と弾薬の補給のための発着を繰り
返しています。換装の混乱は格納庫内の出来事で、甲板上で起こり
つつあったのは、飛行機の発着をめぐっての生死を懸けた究極の順
序決定の決断でした。


  南雲機動部隊の決断――友永隊を救え


 友永隊がミッドウェーから四七海里に接近した午前六時十分。そ
の二分後には米軍基地部隊の爆撃機、F4F戦闘機発進。五分後、
TBF雷撃機、B十七型重爆撃機も発進。戦闘機を除く各隊は目標
を日本軍機動部隊とし、先を争って攻撃に向かいます。
 七時九分、機種不明の米機が赤城に接近、零戦が撃退。その三分
後米雷撃機が魚雷発射、赤城は急回頭して回避。
 さらに二分後、爆撃機部隊が攻撃。ただし効果ゼロ。


 七時〇分、同六分、米軍の空母H、空母Eより艦載機発艦開始。
最終機の発艦完了は七時五十五分。
 七時十五分、南雲長官、基地攻撃のため艦攻に爆弾換装を指示。
 七時四五分、換装中止を指示。未換装機は雷装のまま待機。
 八時十分、赤城、飛龍が攻撃を受ける。同十九分蒼龍に至近弾多
数。いずれも基地隊か空母機か識別不能。時間的には基地機か。
                          (下に続く)


 八時三七分、友永隊の帰還機の収容開始。――収容完了は九時十
八分。この間、米空母雷撃隊が相次いで来襲。第一波の到着は八時
三九分で、友永隊の収容は一時中止に追い込まれています。


 友永隊としては、母艦への帰艦には切迫した理由がありました。
 第一に、早く交代することで待機隊の二次攻撃を促進するためで
あり、第二には、弾薬と燃料を補給して次の作戦に備えるというの
が、当初からの作戦構想だったからです。
 また友永隊長機のように、燃料タンクに被弾して緊急修理を必要
とする機も少なくありません。
   さらに司令部としては、米機動部隊発見の報を受け、友永隊の戦
力を一分でも早く回復させたいという切実な動機もありました。


 ところが、肝心の空母は友永隊を円滑に受け入れることが容易で
はない状況にありました。
 まず、敵襲が止まないため魚雷や爆弾からの回避運動が優先し、
着艦の受け入れ態勢を取るのが困難という現実があります。
 次に、敵機動部隊に対し、一刻も早く出動しなければならず、そ
れには友永隊の着艦を遅らせる必要がありますが、その場合、燃料
不足の機は海上に不時着するしかありません。米軍のように救助の
ための飛行艇を持たない日本軍にとって、それは死を意味します。
 さらにそれに加えて、重大な問題が判明し、司令部の南雲長官、
草鹿参謀長、源田参謀らを震撼させます。
 米軍機動部隊に対する攻撃隊を編成してみると、護衛の零戦の絶
対数が不足している実情が明らかとなったのです。   (下に続く)


 残されている記録によれば、赤城・加賀からの出撃時刻を十時三
〇分、飛龍・蒼龍からの出撃を十一時として、出動可能な戦力は、
雷撃機四五、爆撃機三六に対し、零戦は十二機に過ぎません。
 当初に予定されていた零戦の配置は、友永隊三六、待機隊三六。
 決して充分な数ではないとしても、零戦の隔絶した性能と、操縦
員の卓抜な技能を以てすれば、対応は不可能ではないという自信が
あって臨んだこの海戦であったはずなのに、その拠り所が根底から
揺らいでしまっていたのです。


 日本海軍航空隊は、日支事変の開戦早々、護衛機なしで出動して
ほぼ全滅に近い大損害を受けた苦い経験以来、爆撃隊、雷撃隊の出
動に護衛戦闘機を付けるのを鉄則としていました。
 現にこのミッドウェー戦では、経験不足の米軍の諸隊が護衛なし
に日本軍を攻撃し、日本の零戦隊に惨憺たる敗北を喫しているのを
目撃しています。
 今は、その零戦隊が消耗してしまっているのです。
 米軍の基地航空隊の間断ない攻撃に対応するため、待機隊の零戦
はその都度出撃して敵機を追い回し、燃料も弾薬も、そして体力も
消耗してきました。機体に損害を受けて脱落する機も出てきます。
 残存機にかかる負担はさらに過重となってきます。


 勝利直後、米陸軍はいち早く勝利を大統領府に報告し、また新聞
社に記事を流し、まるで陸軍の重爆撃機隊が海戦の立役者であるか
のような宣伝をして、海軍側を悔しがらせましたが、これは行き過
ぎとしても、確かに基地部隊はそれなりに貢献をしていました。
                          (下に続く)


 空しく敗れた海兵隊戦闘機隊、陸海軍の基地爆撃機隊、同雷撃機
隊など、いずれも零戦隊を消耗させたという点では甲乙ない役割を
果たしており、殊勲者には違いありません。


 中でも記憶されなければならないのは、各空母の雷撃隊です。
 結果としては、ほぼ全滅に近い惨敗であり、しかもその原因を訊
ねると、一つには護衛戦闘機のない無謀な攻撃によるもので、二つ
目には雷撃機の性能自体が劣弱ということで、どちらにしても米海
軍にとっては議論の俎上(そじょう)にも乗せたくない失敗です。
 そのためもあってか、戦死した三人の隊長は、当初は同情の対象
にはなっても、大勝利の英雄にはなれませんでした。


 彼らが再評価されるに至ったのは、英国の首相チャーチルが、ウ
ォードロン少佐の戦死を聞いたとき、あの剛毅で知られる彼が泣き
伏したことが一般にも知られてからのようです。
 元首相の真の心情までうかがうのは困難ですが、いわば作戦のミ
スでの戦死であったこと、少佐がインディアンのスー族の血を四分
の一引く混血であることなどが彼の涙の原因と推定されます。
(米国内でも州議会で顕彰決議を行うなど、見直しの機運は進んで
いるようです)


 長時間にわたる断続的で連動性のない米軍の攻撃は、日本軍の意
表をつくものであるとともに、物理的にも精神的にも消耗を強いる
結果となりました。推定するところ、米軍雷撃隊を潰滅させた時点
で、日本の零戦隊もまた限界点に達していたと思われます。
                          (下に続く)


 戦後日本の論調は、この時点で日本の攻撃隊が発進しなかったの
を非難する見解が圧倒的です。
 しかし、冷静に見れば、これは実態を見誤っているのです。
 零戦隊が数を大きく減らし、消耗も極限に達していて、長距離の
護衛に耐えられる状態ではなかった現実を無視しています。
 打開策としては、友永隊を早く収容し、その戦闘機隊を戦力化す
ることで、友永隊を不時着死から救い、同時に機動部隊の護衛機と
して発進させるのが、唯一の道だったのです。
 そこで源田が進言し南雲と草鹿が同意したとされるのが、友永隊
の収容優先策でした。


 あのプランゲは、戦後の草鹿との面談で、当時の決断について草
鹿が「あの当時の状況では、南雲長官の決定は正当であった」と述
べたのに、彼自身も理性的判断として同意しています。
 その草鹿が、雑誌に掲載した手記の中で、「こういう結果(一方
的な敗北)となるくらいなら、(無理でも)出撃させ(死場所を与
え)るべきだった」と語っている真意も、実は、同じ趣旨を無念の
想いをこめて述懷しているのです。
(括弧内は武人としての彼の心情の代弁です)


 飛龍・蒼龍の第二戦隊を率いた山口少将が早急な出撃を進言した
のも、成算あってのこととは思われません。実際にも、このあと米
空母Yを攻撃して撃沈に導いたのは、南雲らの決断によって救われ
た友永大尉の率いた部隊でした。
 友永は残軍を結集して、見事に期待に応えたのです。
                         (次回に続く)

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