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『ミッドウェー海戦』――後編 B 
遠かった洋上三七〇キロ――日本軍機動部隊眼下に在り
                ――追録篇その(二十二)


 ドーントレス隊の残存機が燃料不足を懸念しながら日本機動部隊
に迫っていたころ、ニミッツはキング大将に悲壮な電報を発信して
いました。
――わが軍の戦闘機、雷撃機、爆撃機などの主戦兵力のほとんどは
失われた――。


 最終的な勝利によって、この言葉は、無意味な発言として現在は
誰も顧みることはありませんが、これが午前九時前後の真実の状況
でした。
 この時の彼が痛切に感じたに違いない悔恨は、彼自身が封印した
ことにより、その後どの戦史でも語られることはありません。


 なぜ基地からの攻撃を機動部隊艦載機と連動させなかったのか。
 基地のB十七型重爆撃機十四機は、高空からの爆撃によって敵空
母に爆弾を命中させたと報告したにもかかわらず、後続の味方機は
それらしい戦果を確認できず、爆撃は無効と判定されました。
 基地の急降下爆撃機十六機も、同じく三発命中と報告し未帰還八
機。戦果は全く確認できません。結局は虚報だったのです。
 新鋭TBF雷撃隊6機は日本軍零戦に完敗し損失4機。
 海兵隊の旧式戦闘機バッファロー二十七機は、零戦に太刀打ちで
きず、十五機を撃墜され、七機損傷。         (下に続く)


  最大の誤算は、戦闘機隊がニミッツの指示を無視して基地護衛を
 優先させ、しかも惨敗してしまったことです。
  米軍の基本戦略からすれば、基地が破壊されるのは覚悟のうえで
した。もし基地が占領されたとしても、徹底的に破壊された基地な
どは日本軍にとっても無用の存在に過ぎません。
 それよりも敵機動部隊に可能な限りの損害を与え、消耗戦に持ち
込むというのが基本戦略であり、海兵隊戦闘機の目標は日本機動部
隊でなければならないのです。


 この時点、基地から日本機動部隊までの距離一八〇海里(約三三
三キロ)、航続距離の短い米軍機でも対応可能な範囲です。
 重大な意味を持つこの命令違反は、しかし、他の多くの失敗と同
じく、勝利の栄光によって永久に封印されてしまいました。
 しかも、これ以降次第に明らかになるように、基地上空での空中
戦で、友永隊に燃料と弾薬の消耗を強いることとなったのは、予期
しない功績で、歴史の皮肉と複雑さを痛感させます。


 これに反し空母Hの艦載機の迷走は想像を越えた大失敗でした。
 また、カタリナ飛行艇二十二機で編成された基地哨戒部隊は、緒
戦の殊勲を危うく帳消しにしかねないミスを冒してしまいます。
 午前五時三〇分、アディ機日本空母発見。
 午前五時四五分、チェース機友永隊発見。
 これによって基地は厳戒体制に入り、万全の防空準備を完了して
友永隊を待ち受け、基地隊の先鋒は早くも出撃を開始しています。
 報に接し、三隻の機動部隊艦載機も出撃準備に入ります。
                          (下に続く)


 ここまではカタリナ哨戒隊の大殊勲だったのですが、この直後か
ら事態は暗転してしまったのです。
 日本機動部隊と友永攻撃隊を発見した哨戒艇部隊は、直ちに目標
を切り換えて、他方面の哨戒に転出してしまったのです。
発見地点の正確な位置と、艦隊を構成する艦種、速度、航行方向
を指示すれば、後は機動部艦載機が追跡できるという判断です。
 (日本軍では、味方到着まで極力止まり偵察を続行するのが通例で
す。珊瑚海海戦ではこのため撃墜された偵察機がありました。)


 この時期の米軍機動部隊は奇妙な哨戒体制を取っていました。
 各空母の爆撃機の半数を偵察兼用としたのです。
 一空母の爆撃機は標準で三十七機、その約半数の十八機前後がま
ず空母周辺を偵察し、目標を発見して第一次攻撃隊が出撃すると、
直ちに爆弾・燃料を補給して第二次攻撃に備える作戦です。
(戦後の日本の論者の中には、この偵察機の数を含めて米軍が偵察
を重視し、これが勝因となったとする者がありますが、実態は違っ
ていて、むしろ二兎を追う者一兎も得ずの典型例です。)


 米軍の指揮系統にも混乱の原因があります。
 経歴からすれば空母Yのフレッチャーが先任司令官であり、彼が
全体の指揮を取るのが妥当ですが、真珠湾を遅れて出発することに
なるため、全体の指揮権をスプルーアンスに委譲しました。
 プランゲなどの米側論者は、この決断を勝因の一つに挙げますが
これは結果論の一種で、真珠湾出航までの僅か二日間の打合せで彼
の起用を決めたのは大きな賭けでした。         (下に続く)
 


 巡洋艦や戦艦の運用については抜群の実績と見識を評価されてい
た彼も、機動部隊司令官としては、文字通り飛行機のヒの字も知ら
ず、当初は、幕僚たちの意見に従って立案し、作戦行動は専ら前線
指揮官たちに一切を任せていたようです。
(ミッドウェー海戦で彼の真価が発揮されたのは、大勢が決した夕
刻以降、逸る部下を抑えて東方に避退し、夜戦を挑む気配を見せた
日本軍を空振りに終わらせた時です。)


 その前線指揮官たちは、功を急ぐあまり、攻撃に向かう途中で護
衛戦闘機を見失い、雷撃隊、爆撃隊それぞれが孤立して攻撃を行い
零戦の各個撃破の餌食となってしまったのです。


 それでも米軍航空隊は勇敢に戦いました。
 戦後の昭和二十四年十月、草鹿龍之介は或る雑誌にこの海戦の反
省手記を寄稿して、米軍の基地爆撃機が何度も体当たりを試み、つ
いに撃墜された姿に、後年の日本特攻隊に劣らない敢闘精神を感じ
取っています。
 某氏や某々氏が主張するような、米海軍は論理的・合理的・科学
的であり、日本海軍にはそれが欠けていたなどは、ミッドウェー海
戦のどこにも見ることはできません。


 確かに情報戦では日本軍は完敗しています。元来、組織的な情報
収集の面で圧倒的な差をつけられているうえに、肝心なハワイの諜
報組織が壊滅した日本軍は、目隠し状態で強敵と戦うという不利な
態勢で決戦に突入しています。            (下に続く)


 しかし日本軍には、米海軍にはない豊富な実戦経験と、優秀な航
空機と、それに高度な技量を有する搭乗員・整備士が存在し、加え
て源田実、淵田美津雄、村田重治(雷撃)、江草隆繁(爆撃)、板谷
茂(戦闘機)など、最高クラスの前線指揮官がいます。


 当時、源田実は、急性肺炎から回復したばかりで、また淵田美津
雄も急性盲腸炎を艦内で手術するという異常事態にありましたが、
これが大きな障碍となるほどのことはありませんでした。
 作戦は緻密に計算され、実行経過も順調です。
 友永隊は予定の一〇八機のうち一機だけが故障で途中帰還してい
ますが、これは米軍と比較しても、戦争末期の状況と比べても、極
端に少ない数字です。


 詳細の記録は残されていませんが、米軍の場合、当初の配備機数
と出撃機数に差があり、しかも戦場到着数はさらに大きく減少して
おり、故障脱落、編隊からの離脱、行方不明などが多発していたよ
うです。
 空母Eの場合、当初配備の爆撃機は三十八機、発進時稼働機三十
四、発進三十二、落伍二、最終攻撃機三十機です。


 総合的にみて、日本軍がやや有利な状況まで挽回してきたのは確
かな事実です。この段階では、ニミッツが窮地に陥り、無理を承知
で早期決戦を挑んだ山本五十六の賭けが成功する可能性も生まれて
いました。
 山本作戦は決して成算皆無の暴挙ではなかったのです。
  (下に続く)


 近年に至っても、なお、あと最低一ヵ月は準備すべきだったなど
の意見を主張する向きがありますが、これは自軍の都合だけを考え
る思考方法の通弊であり、これだけの時間があれば米軍にはサラト
ガに加えて、大西洋からの回航が決定しているワスプも参加が可能
であり、何よりもスプルーアンスに作戦全般を詳細に検討し直す時
間が与えられます。
 米海軍にとって、この時期だけが一瞬の隙だったのです。


 この点を含め、この海戦をめぐる議論の中には、無意味に近い仮
定の条件を取り入れたものが多く、これがこの歴史的に重要な意味
を持つ出来事の解明を混乱させています。
 そこでまず、従来の所論の中から、はっきりと切り捨てるべきも
のを選びます。


 その第一が司令官の経歴に関する例の説で、南雲、草鹿両名が素
人同然というのは事実誤認が根底にあり、撤回すべきものです。
 草鹿龍之介と剣道を結びつけるのも論理的な根拠があるわけでな
く、文学・創作の世界に相応しい「お話」に過ぎません。


 次に、歴史の進行に伴って否定されるものがあります。
 暗号漏洩に関連して、戦中から草鹿らが重大視した一つに、濃霧
の中でやむを得ず発信した電信が米軍側に洩れ、そのため機動部隊
の位置と意図が発覚したという説は、戦後に米軍が暗号傍受そのも
のを完全否定しています。それ以前から日本軍の動きが探知されて
いたというのが真実です。              (下に続く)


 遠かった洋上二〇〇海里(三七〇キロ)


 草鹿・源田らが共通して強調し、評論家と称する多くの人々がさ
らに拡大したり歪曲したりしたのが、日本軍偵察機の不足と、それ
に伴う索敵欠陥です。これは実態と異なって伝えられています。
 機数については、基地の飛行艇を多数使用できる米軍と比較する
のは不適当ですし、爆撃機の兼用偵察機は実際には機能していない
ので、これを除けば実は日米間に大きな差はありません。
 米軍艦載機は偵察不十分なまま出撃して、幾つもの失態を演じて
おり、とても偵察力を自慢できる状況ではありませんでした。


 現在判明している資料によれば、米軍機動部隊が出撃を開始した
時点での両軍間の距離は二〇〇海里(約三七〇キロ)、その何倍か
を探索の想定範囲とすれば、合計五機程度の日本偵察機では不十分
なのは当然ですが、だからと言って、偵察機を倍増したら問題が解
決するというものではありません。
 米軍の空母H隊は、全滅した雷撃隊を除き、他隊は目標を発見で
きず空しく撤退しました。厚薄とり混ぜた雲の層は行く手を阻み、
米軍航空隊にとって洋上二〇〇海里は遠過ぎたのです。


 日本軍の重巡から発進した偵察機が、往路、厚い雲のため敵機動
部隊を発見できず、復路にようやく発見できたのを咎めて、「雲の
下を飛ぶべきだった」と非難する向きがありますが、もし雲の下を
飛んだために視野が狭くなって敵艦を見逃したら、今度は何と言っ
て批判するのでしょうか。              (下に続く)


 低空飛行には致命的な欠点もあります。低空で敵戦闘機に襲われ
たら、火力の劣る偵察機は恰好の餌食となります。
 雲にも危険が潜んでいます。積乱雲は乱気流や落雷を起こしやす
く、避けるのが航空の常識です。敢えてその下を飛ぶなど、勇気で
はなく無謀なだけであり、充分な精査のない発言は無意味です。
 しかもこの時、利根の偵察機は七時二〇分には敵艦隊を発見し、
八時には南雲長官に報告が届いているのです。
 ドーントレス隊の攻撃開始は十時過ぎ。時間は充分にあります。
 このことが決定的な敗因でないのは明らかなことです。


 焦点は八時から十時までの二時間に絞られるべきです。この間に
日本軍は、あわやニミッツの壮大な罠を破る寸前まで、形勢を逆転
させていました。それが再逆転を許したのです。
 この間に南雲艦隊に何が起こったのか。
 米軍のうち、なぜ爆撃隊だけが二〇〇海里を三時間もかかったの
か。到達した時、あの精強な零戦隊が南雲艦隊の上空にいなかった
のは何故か。枝葉を切り捨てて残ったのは、この三つの根幹です。
                         (次回に続く)

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