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『ミッドウェー海戦』――後編 A
  米軍航空隊の苦戦と急降下爆撃隊の大逆転
              ――追録篇その(二十一)


 ニミッツは、日本軍機動部隊を巨大な罠の中に追い込んでいまし
た。罠の奥にはミッドウェーの基地航空部隊が待ち構えており、側
面からは三隻の米空母が迫っています。しかも日本の機動部隊はま
だ米機動部隊の存在を確認できないでいるのです。


 戦後に刊行された淵田・奥宮の著書などによると、友永隊が攻撃
を開始した時、少数の防衛戦闘機を除き、米軍機の主力は不在であ
り、淵田・奥宮は彼らが一時避退をしていると結論し、友永隊は第
二次攻撃を要請するよりも、米軍機が避退先から戻るのを待ち、迎
撃すべきとの見解ですが、これは資料不足による事実誤認でした。
 その後の米側の多くの著書によれば、この時点ではすでに基地航
空部隊の大半は、日本機動部隊を目指して出撃しており、友永隊の
先陣が帰艦を始めた八時半前後には、米軍新鋭雷撃機のTBF6機
や、陸軍と海兵隊の爆撃機が日本艦隊攻撃を開始しているのです。
 ここまではニミッツの作戦は大成功であり、おそらく彼は、日本
軍の混乱に乗じて機動部隊艦載機が総攻撃をかけ、大戦果をあげる
という自軍の完勝劇を期待したものと思われます。


 ところが皮肉にも、ここで自軍部隊が変調を来し始めたのです。
 基地部隊は一発の爆弾も魚雷も命中させられず、TBF雷撃隊は
6機のうち4機、陸軍爆撃隊は4のうち2を失って敗退します。
                          (下に続く)


  友永隊が帰艦を決定した午前七時、相次いで発艦した空母Hと空
母Eの各隊、三〇分後に発艦した空母Y隊、どの隊からも敵艦隊を
捕捉したとの報告がなかなか入ってきません。
 せっかく罠の中に追い込んでも、技量未熟なためにその位置を特
定できなかったのです。空母H隊に至っては、雷撃隊を残して戦闘
機隊は燃料切れで撤収、爆撃隊は目標未発見で帰投というお粗末さ
です。
 しかもその雷撃隊は、ウォールドロン少佐以下全機が撃墜され、
辛うじて一人だけ生還という悲劇でした。
(なお空母Hは四ヵ月後の南太平洋海戦で日本軍の瑞鶴・翔鶴隊の
仇討ちに会って撃沈されました。また、この時期、後年米軍高速空
母艦隊の司令官として活躍したミッチャーが空母Hの飛行隊を指揮
していたという記録がある一方で、なぜかミッドウェー海戦関係の
記録や資料には一切登場していません。疑問の残る扱いです)
 この時点での米機動部隊の拙戦の理由については、戦後、日本は
もちろん米国においても、充分に解明されているとは言いがたいも
のがあります。
 ここには、日米双方に深層心理的な事情が潜んでいたようです。
 まず米においては、この戦いが勝利者の英雄物語に変容してしま
ったことが挙げられます。
 大逆転の立役者となったのはドーントレス急降下爆撃隊ですが、
その名のドーントレスはDauntless(=怯まず)です。
 これがこの戦いを象徴するものとなり、真珠湾での敗北で誇りを
傷つけられた米海軍の全将兵と全米国民を狂喜させ、拙戦の原因究
明などは論外となってしまったのです。        (下に続く)


 その逆が日本での議論であって、なぜか中間段階での米軍苦戦の
検証は省略し、敗北の責任追及に終始するという類型的な所論が一
般的となりました。
 例えば旧海軍関係者の結論を要約しますと、敗北の要因は、
――戦勝病、独りよがり、うぬぼれ、敵の軽侮。
                (淵田・奥宮)
――神による日本の傲慢に対する懲罰。
                (草鹿・三和)
――慢心・増長に対する天の懲罰。
                (千早正隆)
となり、あたかも総懺悔の様相を呈しています。


 サイレントネービーの精神からすれば、このような謙虚さは望ま
しいことではありますが、これでは海戦の全容の解明を却って困難
にし、さらに、この結論に影響された第三者に誤解を与える要因と
もなって、その後に大きな禍根を残す結果となりました。


 例えば、「あの戦争になぜ負けたか」という本の中での歴史評論
家H・Kの発言はこうです(この表題がまず?です)。
「海軍の機動部隊の長官を選ぶのに伝統的な成績順人事を採用して
いる。------南雲長官は生粋の『魚雷屋』で、飛行機のヒの字も知ら
ない。草鹿龍之介参謀長も飛行船の専門家。頼りになるのは源田参
謀だけ。(敵発見から)一時間もたもたした」
 これだけ読むと、大半の読者は肯定するかもしれませんが、もち
ろんこれは推論過程に誤りがあります。        (下に続く)


 飛行機が戦場で使用されるようになったのは、第一次世界大戦以
降ですから、これ以前に任官した人たちは誰一人として航空畑はお
りません。飛行学校という正規のコース自体が存在しないのです。
 山本五十六も大西中将も愛甲文雄も、必要を感じてから独学で習
っているのであって、むしろ例外中の例外です。
 これは世界的にも同様であり、米海軍でも一応飛行資格を持つの
は、ハルゼー、ミッチャーなどごく少数です。
 しかもハルゼーの如きは、五十二歳で習い始めたものの、計器を
読めず、操縦は乱暴で、お情け合格だったとの噂があったようです
し、ニミッツ、スプルーアンスもそれぞれ、潜水艦、巡洋艦が得意
の「黒靴」組です。
(注。米海軍では艦艇畑を黒靴、航空畑を茶靴と称して区別してい
ました。中でも、スプルーアンスは、大艦巨砲派の純粋黒靴です。)


 したがってどの国でも、航空畑出身の機動部隊司令官や参謀長が
いないのはむしろ必然の結果なのです。
   それよりも、実戦経験を問うべきなのですが、この点では日本が
圧倒的に傑出しています。何しろ、世界初の大機動部隊による真珠
湾攻撃を決行して成功して以来、目標を西に転じ、各地の残存艦隊
を掃討しながら、インド洋方面で英艦隊を殱滅しているのです。


 中でも、真珠湾で第二次攻撃隊の急降下爆撃隊七十八機を率いた
江草隆繁少佐(五十八期)は、インド洋でも重巡二隻、軽空母ハー
ミスを撃沈するなど、世界でも屈指の実績者として著名でした。
                          (下に続く)


(注。その英海軍は、空母による艦艇攻撃の元祖は英海軍と主張し
ています。一九四〇年十一月十一日、二一機の雷撃機でイタリア南
部タラント湾の伊戦艦三隻を撃破した例を指しています。ただこの
時の雷撃機は複葉という旧式機であり、相手の伊海軍の実力にも疑
問符がつくことから、一般の賛同は得られていない説です)


 空母Hの戦闘機隊の燃料切れなどは、司令部の経験不足によるも
のでしょうし、迷って他部隊に付いた戦闘機隊が勝手に戦線を離脱
するなどの行為は、怠慢というよりは、非常事態における対応策の
不徹底によるものでしょう。
 それらに増して、各隊に連動性が欠けているのが目立ちます。
 珊瑚海海戦での日本軍は、高橋少佐隊、島崎少佐隊の真珠湾攻撃
以来のコンビによる絶妙な連係攻撃によって、敵将をも感嘆させま
したが、それと比較するのが気の毒なほど、支離滅裂でした。
 このため、雷撃隊は完全に孤立し、日本軍零戦部隊によって殲滅
されてしまつたのです。


 されどドーントレス隊は怯まず


 航空機の質にも問題がありました。米戦闘機のグラマンF4Fは
速度、運動機能、航続距離のすべての面で零戦に劣り、操縦技術を
含め総合的に大きな差があります。この時期の零戦は無敵だったの
です。
 雷撃機では、新鋭のTBFは基地に配備された6機だけで、艦隊
に割当てられたのは性能劣弱のTBDです。魚雷の性能が劣るのに
旧式雷撃機では、一発の魚雷も命中できないのは当然の帰結です。
                          (下に続く)


  残るのは急降下爆撃機のドーントレス隊だけとなりました。
  日本海軍の九九式艦爆の対応機種で、速度において米側がやや勝
り、航続距離では日本側が約二倍と圧勝しています。火力は甲乙付
けがたく、搭乗員の技術と経験では明らかに江草隆繁少佐以下の日
本軍が優位にありました。
 水平爆撃に比べて、急降下爆撃の命中精度は桁外れに高く、水平
爆撃の命中率約3%に対して、ドイツ機あたりで平均二五%ですが
江草少佐の隊はそれを五五%以上に高めていました。
 実績としてはさらに向上し、インド洋方面では八〇%超という驚
異の数字を記録しています。


 最終的に、江草隊が出撃以前に空母上で破壊され、米海軍のドー
ントレスが勝利者となったのは、米側が意図した結果でもなく、作
戦の成功によるものでないのは、空母Hの急降下爆撃隊の脱落状況
などが如実に証明しています。


 ニミッツ麾下の三艦の攻撃隊のうち、雷撃隊はほぼ全滅、指揮官
のウォールドロン、リンゼー、メッシーの三人の少佐も全員戦死。
 残されたのは、空母Eではマッククラスキィ艦爆隊長。出撃三十
四機中、三十機が攻撃参加。
 空母Yではレスリー艦爆隊長。出撃十七機、攻撃参加十三機。
 二人の隊長を始めとして、この四十三機の乗員の誰一人として、
これからの攻撃が成功するか失敗するかなど考えていなかったのは
確かです。
 燃料も尽きかけています(結果として十四機喪失。大半は燃料不
足による不時着)。不屈の闘志だけが彼らを支えていました。

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