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『ミッドウェー海戦』――後編 @
  攻防一進一退、ニミッツ軍暴走す
              ――追録篇その(二十)


 五月二十五日、真珠湾の情報室では、前夜から総員が徹夜で日本
軍の暗号を解読し、ロチェフォート自らニミッツに報告します。
 それによると、日本軍の攻撃目標はミッドウェー、攻撃予定日時
は六月三日(現地日時)以降、推定兵力は次の通り。
――戦艦2〜4隻、空母4〜5隻、重巡8〜9隻、軽巡4〜5隻、
その他、駆逐艦・潜水艦多数。


 実際の日本軍機動部隊の広島湾柱島基地の出発は五月二十七日。
時差二十一時間(日本の遅れ)を考慮すれば、ミッドウェー到着は
日本時間六月五日早朝、現地時間六月四日であり、ほぼ正確に解読
されているのが分かります。
 ただし兵力については、実際は空母4、高速戦艦2、重巡2、軽
巡1、などであり、必ずしも正確ではありません。
 また、戦艦大和、長門、陸奥などの主力艦隊の出動状況は解読さ
れておらず、戦後に一部の人たちが誤って主張したような、日本軍
の暗号がすべて解読され、その動向が筒抜けであったなどは、事実
とは認められません。米軍情報部隊の昼夜を分かたない必死の努力
によって辛うじて推理できた結論だったのです。
 「ミッドウェーに水が不足している」という偽情報を発信し、そ
れに日本側が反応したことから攻撃を推理したなどは、数多い逸話
の一つに過ぎず、真実の解明はまだ尽くされてはおりません。
                          (下に続く)


 誰も寝てはならない(Nessun Dorma)
      ――プッチーニ歌劇 “トゥランドット” より――


 日本軍機動部隊が基地をひそかに出発した同じころ、真珠湾の米
海軍ドックに、珊瑚海海戦で大きな損害を受けた空母ヨークタウン
(以後、空母Yと略称します。他の米軍空母も同じ)が運び入れら
れました。
 誰もが、修理完了まで三カ月は必要と判断するような惨状だった
とのことです。
 ニミッツは諦めず、昼夜兼行の作業を厳命し、結果的には三日後
の自力航行が可能となり、空母Yは先行する空母E(エンタープラ
イズ)、空母H(ホーネット)を追ってミッドウェーに急ぎ、貴重
な第三の空母としての責任を見事に果たし、海戦の最終段階で日本
軍により撃沈され、その価値ある生涯を終わりました。
 またニミッツは、体調不良のハルゼー中将に代えて、若手のスプ
ルーアンス少将を司令官に抜擢。彼に空母EとHを、珊瑚海海戦を
戦ったフレッチャー少将に空母Yを託し、厳しく命令します。


――激烈な消耗作戦を取り、敵に最大限の損害を与えよ。


 これが米海軍首脳部の意向そのものであるのは、疑う余地はあり
ません。
 この時期、米海軍は窮地に立たされていました。
 真珠湾での完敗による士気の崩壊という内部要因に加え、対外的
にも重大な難問に直面していたのです。        (下に続く)


 真珠湾攻撃によって米国が参戦したことは、英ソ中などの他の連
合国には大歓迎でしたが、大勢としてはあくまでも欧州・大西洋中
心であり、米海軍にも大西洋重点作戦を求めていました。
 理論的にはこの大勢論が正しかったのかもしれません。
 東部戦線では、一九四一年冬、厳冬によって一度はドイツ軍の猛
攻を凌いだものの、雪解けと共に再開された総攻撃で、再び圧迫さ
れたソ連軍がいつ壊滅するか分からない状態でした。


 前年、ロンドン大空襲で勝利した英空軍も、米軍からの武器援助
がなければ優勢を維持するのは困難です。
 そもそも食料や戦略物資の輸入依存度の高い英国としては、ドイ
ツ海軍のUボートを押さえ込むのが最重要の海軍戦略であり、それ
についての米海軍の全面支援を切望していたのです。


 戦力的には多少劣っても、大量建造が可能で、建造期間も短縮で
きる護衛空母と護衛駆逐艦の建造に踏切り、一部を英海軍に貸与す
ることにしたのも、その要望に応えるためです。
 戦争末期に至って、その護衛空母と護衛駆逐艦が日本海軍に対し
て威力を発揮するなど、当初は予想もしていなかった事態でした。


 信じられないことに、日米海軍のごく一部以外には、空母の作戦
価値も正しい使用方法も、全く理解されていませんでした。
 真珠湾で攻撃を受けた時も、二隻の空母は基地航空機の輸送を担
当中であり、大西洋艦隊のワスプは英空軍機の輸送に当たっていま
した。皮肉にも、空母の威力を教えたのは日本海軍だったのです。
                          (下に続く)


 ニミッツの上位にある合衆国艦隊司令長官で、作戦部長も兼ねる
キング大将は、この常識を覆し、米海軍をその本来の活動舞台であ
る太平洋に引き戻し、かねて胸中に温めていた大機動部隊と海兵隊
による太平洋中央突破作戦に持ち込むには、どこかで目に見える戦
果を挙げるのが最も有効と考えていました。
 彼にとって、まさに絶好の機会の到来です。


 この前後数日間、ニミッツもまた眠ることがなかったと伝えられ
ています。日本軍戦力の分析、ミッドウェー防衛隊の準備の再確認
と督励、そして何よりも敵機動部隊の索敵体制の点検。等々。
 以前からフィリピン沖海戦の論評の中には栗田中将が何日も眠れ
なかったことにより判断を誤ったとする説と、それに対する反論が
ありましたが、不眠原因説が根拠のない妄論なのは明白です。
 非常事態に際して、人間は、時として異常な能力を発揮するとい
うのは、しばしば見られる現象です。ニミッツの場合は肯定し、栗
田中将の場合は否定するというのでは、客観性を欠くと評されても
仕方ないことなのです。

 この後の展開を見ていると、このニミッツの気迫が全軍に乗り移
っているのがよく分かります。
 戦後の論評で、日本軍は精神主義であるのに対して、米軍は極め
て論理的・合理的・科学的思考で、この違いが勝敗を分けたという
のがあります。(K・N氏『誰も言わなかった海軍の失敗』など)
 これらの論者は、ミッドウェー海戦におけるニミッツ軍将兵の無
謀に近い勇猛な戦いぶりをどう見ているのでしょうか。
                          (下に続く)


 両軍・接近へ


 柱島基地を出発した南雲機動部隊は、濃霧に苦しみながら北方か
らミッドウェーに接近します。
 途中、随伴する油槽船が濃霧に紛れて行方不明となり、やむを得
ず電信で呼び出す事件があり、戦後、これによって所在が探知され
たとの日本側記録が残されますが、これは誤りで、米側の記録には
電信傍受の記録は何も残っていません。
 既述の通り、それ以前に機動部隊の出動は探知されていて、米軍
はその予想航路に潜水艦と哨戒機を配置し、いわば虎視眈々(たん
たん)と待ち受けていたのです。


 むしろ米側にとって予想外だったのは、機動部隊の後方に大和を
旗艦とする戦艦七隻の主力艦隊が航行していることで、これが海戦
勝利後の追撃を断念させる原因となりました。
 その他にも、強力なミッドウェー攻撃艦隊の存在があります。
 この艦隊は高速戦艦(巡洋戦艦)比叡・金剛に重巡四隻、軽空母
瑞鳳を擁する実力派艦隊で、これが直接に占領部隊を援護します。
 これらの艦艇の合計は九十三隻に達し、米軍の二十七隻を大きく
上回り、このため多くの人が日本軍が絶対有利という先入観を持つ
のですが、実態は必ずしもそうではありません。


 この戦いの本質は、日本軍機動部隊に対する、米軍機動部隊と基
地航空隊連合軍の戦いであり、ほとんど航空部隊によって勝敗が決
まっています。艦艇の数の比較に重要な意味はありません。
                          (下に続く)


 航空機の数ではむしろ米軍がやや優勢でした。
 日本軍の四隻の空母の艦載機の合計は二六一機。ほかに占領後の
基地用に二一機がありましたが、これは戦力外です。
 対する米軍は、艦載機が二三三機、基地に一二一機で、合計三五
四機。やはり不沈空母であるミッドウェー基地が果たした役割が大
きかったのです。
 とくに飛行艇のカタリナは、本来の哨戒ばかりか、爆弾・魚雷を
搭載して日本艦攻撃にも参加し、また発動機四基の超大型重爆撃機
(B十七型)なども、不慣れな艦艇攻撃で奮戦しました。


 日本軍としては、瑞鶴・翔鶴が参加できなかったのが打撃のはず
ですが、当時は、海戦前も後も、あまり議論の対象とされていない
のが、むしろ不思議なことです。おそらく、この二艦を除いても戦
力は日本が優位と即断していた結果と思われます。
 もっとも、米軍側にも余り問題視されない「もし」があります。
 あの「迷艦」サラトガで、修理完了後米西海岸を出発してミッド
ウェーに向かったのが六月一日。海戦終了後の到着となって、密か
な失笑の標的となりました。


 攻撃開始


 六月四日未明の四時三〇分(現地時間。以下も同じ)。友永丈市
大尉率いる日本軍第一次攻撃隊が、赤城、加賀、飛龍、蒼龍の各艦
選抜の合計一〇七機を以て編成され、同時出撃。
 未明に出撃し早朝に攻撃開始は、真珠湾以来の伝統です。
                          (下に続く)


 ミッドウェーまで約二時間弱。真珠湾攻撃の時のように奇襲が成
功するのは期待できないにしても、敵航空戦力に打撃を与える確信
は誰もが抱いていました。
 対する米軍基地部隊は、西方海上に出現した日本の基地攻撃隊と
輸送船団に攻撃を加える一方、日本機動部隊索敵のため、哨戒機十
一機を発進。うちアディ機は五時三〇分、日本空母を発見し、報告
が米軍司令部に届きます。
 五時四五分、別の哨戒機、ミッドウェーに向け飛行中の友永隊を
発見、打電。
 五時五六分、ミッドウェーに空襲警報発令。
 六時、重爆撃隊に日本空母攻撃を指令。
 六時〇七分、フレッチャーがスプルーアンス隊に日本機動部隊攻
撃を指令。自艦隊も目標地点に向かって急行。


 六時十七分より約十五分間、友永隊米軍基地部隊と交戦。燃料タ
ンク爆破、米戦闘機二十七のうち十五を撃墜し、七に損傷。わが隊
も艦攻・零戦など九機を喪失。友永機も被弾。
 七時、空母Hより艦載機発艦開始、六〇機。目標は日本空母。
 七時六分、空母Eより発艦開始五十七機。
 七時六分、友永大尉、第二次攻撃隊の発進を要請し帰還開始。


 すでにこの段階で、充分な戦力を持たない機動部隊が、陸上基地
と海上の機動部隊の二方面に同時対応することの無理が明らかにな
っていますが、無論、当時はその冷厳な事実を誰も認識出来ないま
ま、それでも必死に対応していたのです。       (下に続く)


 決戦当初は、米軍機の暴走が目立ちます。
 空母H隊の六〇機は惨憺たる出撃となりました。
 戦闘機部隊一〇機は全機燃料切れで不時着。急降下爆撃隊三五機
は目標を発見できず帰投。うち二一は空母に、十四はミッドウェー
の飛行場に。そのうちの三機は地上激突で大破。
 ウォールドロン少佐の雷撃隊十五機だけが日本空母に到達し、た
ちまち全機が零戦によって撃墜されます。(九時二〇分ころ)
 この時、空母Eの護衛戦闘機隊一〇機が誤って空母H隊に付き、
命令を無視して独断で帰還したとして、後に問題視されます。


 その空母Eの雷撃隊十四機も、護衛戦闘機なしで攻撃し、一〇機
を失います。(九時五〇分ころ)
 先発二空母に遅れて発艦した空母Yの雷撃隊も、十二機のうち一
〇機を失い、雷撃隊は三隻合計で出動四十一機中で無事帰還できた
のは六機。うち一機は帰還時大破という無残な結果となりました。


 しかしニミッツも彼の部下たちも、決して怯むことなく、攻撃を
続行します。         ――次回に続く

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