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『ミッドウェー海戦』――中編
 山本五十六とニミッツ、それぞれの祖国のために
              ――追録篇その(十九)


 開戦一ヵ月半前の十月二十四日、山本五十六は新たに海相に就任
した嶋田繁太郎大将に戦争回避の最後の進言をして、連合艦隊司令
長官の任に赴きました。
 その時の彼は「隠忍自戒、臥薪嘗胆」を第一と結論、次いで、
「尋常一様の作戦では見込みはない。結局、桶狭間とひよどり越え
と川中島とを併せ行う羽目に追い込まれる」とし、聖断を仰ぐ非常
手段によっても日米戦は回避すべきとしました。


 開戦から半年、緒戦の大勝利は却って作戦の選択肢を狭めていま
す。彼我の工業生産力に決定的な格差がある以上、持久戦は問題外
であり、しかも緒戦の奇襲以降は同種作戦は不可能となって、残る
のは主力部隊の決戦という川中島戦しかなくなりました。
 ミッドウェー海戦をめぐる戦後の論評の中には、他の代案を提示
することなしに、作戦自体を否定する所論がありますが、当然のこ
とながら代案はなく、とうてい容認できるものではあり得ません。


 真珠湾で米戦艦8隻を撃沈破し、新たに超戦艦大和を戦列に加え
た日本海軍は、戦艦数では米軍の9を凌駕したものの、大型空母で
は6対6と辛うじて互角、補助軍艦の潜水艦、駆逐艦の隻数は約半
数であり、今後の米海軍の大規模建艦を考慮すると、時間の経過と
共に日本側が劣勢となるのは避けられないのが現実でした。
                          (下に続く)


 山本五十六の挑戦


  戦後の議論の中で、最も不毛と思われるのに、ミッドウェー戦の
 目的がミッドウェー占領なのか、米機動部隊撃滅なのか不明確とい
 うのがあります。
  答えは実に簡単であり、両方が目的というしかないのです。
  具体的に解説すると、理想としてはハワイを攻略して日本海軍基
地を確保するのが最善で、それが不可能とすると、次善の策として
ミッドウェーを占領し、米機動部隊を殱滅してハワイの米軍基地を
無力化し、米海軍の反撃力を封殺するという戦略目的です。


 ハワイの米海軍基地が健在なかぎり、米空母は自由に太平洋上を
回遊し、日本防御陣の隙を突くことが可能です。
 いつどこに来襲するか予測できませんから、個別に迎え撃つしか
なく、しかもその予想地点は無数に存在しています。
 開戦によってハワイの日本諜報組織は壊滅し、吉川少尉らは日本
に強制送還され、協力者の多くは他の日系人と共に隔離されてしま
いました。
 米軍のように膨大な無線傍受網を持つわけでもなく、ロチェフォ
ート中佐のような暗号の天才もおりません。
 受け身に回って右往左往するばかりでは、局面の打開などは望む
べくもなく、南方占領地との連絡すら危うくなります。


 真珠湾攻撃と同じ論理で、迎え撃つのではなくて、敵の根拠地を
叩く作戦が最後の選択肢として残ることになったのです。
                          (下に続く)


 しかしハワイの直接攻略はまず不可能と考えられました。
 周知の通り、ハワイ諸島には大きな島が幾つもあり、これらの島
の飛行場を全部使用すれば、千機を越える航空隊を収容するのは無
理ではなく、日本軍機動部隊の手に負えるものではありません。
 当時の日本の機動部隊では、真珠湾攻撃の時の三五〇機が限度で
あって、これでは待ち構える米軍に包囲殲滅されてしまいます。


 開戦の前年、三国同盟締結の直後、山本五十六が当時の及川古志
郎海相に、「零戦千機、陸攻千機」がなければ対米戦争は不可能と
迫ったのが、ここにきて現実の問題として浮上してきました。
 実際の開戦時戦力は、零戦二五〇機、陸攻三二〇機。他の旧式戦
闘機や艦攻、艦爆、偵察機など全部合わせても、一三〇〇をやや越
える数字で、しかもそれを搭載できる空母も不足しています。
 ハワイ攻略にはやはり正規大型空母8、軽空母8、護衛空母十隻
で艦載機千機以上が必要であり、あの理想型機動部隊という原則に
基づく数字がここでも登場してくるのです。


 ハワイを放置しておいては日本の安全は確保できませんが、正攻
法で攻略するにはあらゆる数字が不足しています。
 この矛盾を解決するには、米機動部隊と決戦してこれを撃滅し、
同時にミッドウェーを占領してこれを基地とし、航空部隊と潜水艦
隊でハワイを孤立させ、無力化する作戦しかなかったのです。
 戦後、日本から四千キロのこの絶海の孤島は、占領しても保持は
困難として、作戦否定の根拠とした論がありましたが、連合艦隊司
令長官としては、僅かな可能性に賭けるしかなかったのです。
                          (下に続く)


 百隻空母構想は知らないとしても、山本五十六にはいつか米海軍
が巨大な機動部隊を編成して、日本全土を襲う予感がありました。
 空母について、開戦後の竣工実績を比較してみると、その予感が
的中しているのが分かります。
 米海軍は、一九四二年に大型空母1、四三年に大型空母6と軽空
母9、四四年に大型空母7、四五年に大型空母3、と合計で二十六
隻を竣工させ、それに護衛空母七十七隻を加えたのに対し、日本海
軍は、正規空母は四四年の5だけで、あとは改装空母十隻の追加建
造が精一杯だったのです。
(注。米海軍はこの他に英海軍に護衛空母二十五隻を貸与していま
す。日本の5隻の正規空母のうち、大型は大鳳と信濃、軽空母は雲
竜と天城、葛城。うち信濃は戦艦大和級の第三艦の転用です)


 正規空母の場合、設計から竣工・就役に至るまで、およそ五年と
いうのが標準の建造期間であって、開戦後に建造を計画したのでは
戦争には参加できないことが分かっています。
 たとえば戦後長期に活躍した大型通常空母ミッドウェーの場合、
ミッドウェー海戦直後の八月に、新鋭戦艦として着工されたのを急
遽空母に転用しましたが、就役したのは三年後であり、すでに戦争
は終わっていました。(満載排水量六万トン、戦艦大和に匹敵する
巨大艦で、パナマ運河を通れなかったので有名です)


 従って、少なくとも四四年以前に就役した二十三隻の正規空母に
関しては、間違いなく開戦以前に計画されており、また、その戦線
投入時期の想定が一九四三年から四四年なのが確認できます。
                          (下に続く)


 米軍は日本海軍との決戦の時期を誤判断していました。日本が開
戦するとしても、本格的決戦は一九四三年以降と即断し、それまで
は西太平洋方面での部分的衝突に止まり、米海軍は軍備の増強を待
って反攻に転じても充分という構図を描いていました。
 山本五十六の鋭い勝負勘は、この独善的な構図に一瞬の隙を見出
し、それによって真珠湾の奇襲を成功させました。
 二度目の奇襲は不可能であるとしても、敵の弱点を突くという基
本を貫徹するというのが、揺るぎない彼の信念でした。


 一方、大本営も国民も、連合艦隊の奇跡を信じていました。
 これに対する山本五十六は、零戦千機、陸攻千機の約束が果たさ
れなかった不満を、二度と口にすることはありませんでした。
 貧しい国民が国家予算の三〇%以上を海軍に割いてくれているの
をよく知っていたからです。
 国民は連合艦隊と山本五十六に過大な期待をかけていました。
 日本海海戦の完全勝利の記憶が残っていたのかもしれません。A
BCD包囲網(米英蘭支による経済包囲網)による恐迫感が生み出
した幻想かもしれません。
 いつかその期待は現実と遊離して膨れ上がっていたのです。


 ここに一つ、彼の思いを窺わせる挿話があります。
 戦後間もなく、山本五十六の開戦前の書簡が公表され、その内容
が傲慢であるとして、誤解と非難の対象となったとき、ほかならな
いニミッツ大将が山本を弁護する意見を発表したのです。
 昭和二十一年一月十日のことと記録されています。  (下に続く)


「――山本大将がホワイトハウスで和平を要求するつもりだと高言
したと伝えられ、われわれもそう思った。さらに重要なことに、日
本人自身もそう信じた。しかし戦後になって、山本はそのような発
言をしていないのが、日本側の資料ではっきり分かった。彼は、ア
メリカに対して正しい認識を持っており、その正反対のことを語っ
ていた」と。


 ニミッツのいう日本側資料とは、昭和十六年一月二十四日付けで
国粋主義政党のS総裁あての書簡です。
 原文が難解な文語文なので、これを簡略化して紹介します。なお
文章の中の布哇はハワイ、桑港はサンフランシスコ、最後の華府は
ワシントン、白亜館はホワイトハウスです。
「海に山本ありとてご安心などは迷惑千万にて、小生は単に小敵た
りとも侮らず、大敵たりともおそれず、日夜実力の錬成に精進いた
しおるに過ぎず。頼む所は驕らざる十万の将兵の誠忠のみ。しかし
日米開戦に至らば、目指すはグアム、フィリピンにあらず、はたま
た布哇、桑港にあらず、実に華府、白亜館上での盟ならざるべから
ず。今時の為政者、果たしてこの本気の覚悟と自信ありや。御自重
を祈る」


 ここには山本五十六自身の米国観と、日本人一般や陸軍の安易な
対米観への批判が、辛辣な風刺によって表現されています。
 布哇はともかく、補給の手段のない連合艦隊がどうして桑港を陥
すことができるのか。桑港から華府まで、広大な米国の山野を貧弱
な戦車隊しか持たない日本陸軍がどうして進軍できるのか。
                          (下に続く)


 この書簡で山本五十六は、海軍十万の将兵だけで対米戦を戦うし
かない窮状と覚悟を国粋主義者Sに訴えているのです。
 その陸軍は、開戦前、朝鮮を含む内地に十一師団、満州に十三師
団、支那本土に二十七師団計二一〇万人を配置していた中から、よ
うやく三六万を南方作戦に投入しましたが、あれほど対米強硬路線
を推進していたのに、ほとんど無準備状態でした。
 総機数は海軍を上回るのに、陸軍機は南方作戦にはほとんど役に
立たないのが分かってきました。
 まず、当時の陸軍戦闘機の主力は九七式で、大陸戦線では中ソ機
に圧勝して長く陸軍の主力機の位置を確保していたのに、南部仏印
からマレー半島まで往復する航続距離がありません。


 また使用機銃は七・七ミリで、これでは重装備の敵機には対抗す
ることができません。当時すでに海軍の零戦は二十ミリ機銃(機関
砲)を採用している時期なのです。
 陸軍はこの欠点に気付き、一度は開発を中止していた一式戦(通
称隼)を再登場させます。この改良型の航続距離は二六〇〇キロ。
零戦に近い性能で、機銃も一二・七を搭載しました。
 ただ、開戦時の保有はわずか五〇機に過ぎず、本格的参戦は昭和
十八年まで待たなければなりませんでした。


 さらに陸軍機には致命的な欠点がありました。
 計器飛行の習慣がないため、目標のない海上飛行や夜間飛行ので
きないことはすでに述べてあります。航続距離の少ないこともあっ
て、中国奥地の空襲までも海軍航空隊が担当していたほどです。
                          (下に続く)


 日本陸軍には長距離爆撃機の思想がありませんでした。歩兵など
の陸上部隊援護が航空部隊の目的と考えられていたからです。
 もちろん、雷撃の思想も技術も皆無です。
 海軍の艦上攻撃機は、爆撃と雷撃の両方を適宜に選択して攻撃す
ることができる点で、太平洋での戦いには最も適しています。
 艦船の攻撃には雷撃、陸上施設攻撃には爆撃が有効です。
 南方に進出早々、この陸軍機の欠点が明らかになるのですが、こ
れに気付き、陸軍が雷撃の採用に踏切り、海軍に協力を要請したの
は実に昭和十九年初めであり、完全に時期を失していました。


――この件は、ミッドウェー海戦には直接関係しませんが、戦時記
録としては極めて重要な意味を持つので、愛甲文書の原資料の一つ
である海軍水雷史の中の愛甲文雄の論文からその要旨を抜粋して引
用することにいたします。
 それによれば、
――昭和十九年一月二十日、陸海軍間に「陸軍雷撃隊の訓練等に関
する協定覚」が成立、陸軍の飛行第九八戦隊を海軍の七六一空に編
入、一月末から七月末までを訓練期間として、第一回訓練を開始。
 部隊は間もなくテニアン方面に進出、九八戦隊は海軍第二航空艦
隊のT部隊の一隊として活動――。というのが公式の記録です。
 具体的な戦果は記録されていませんが、とにかく正式に洋上飛行
と雷撃訓練を受けて実戦に参加できたのは、まだしも幸運でした。
 これより先、昭和十八年四月には、陸軍の第七八戦隊などは、ト
ラック島からラバウルまで増援部隊として派遣されていながら、約
半数が洋上で空しく落伍するという惨状でした。    (下に続く)


ニミッツの背水の陣 


 ニミッツの出生は一八八五年で、山本五十六より一才年下です。
 周知のように、山本は日露戦争が初陣(ういじん)で、日本海海
戦で負傷していますが、ニミッツは第一次世界大戦の時の潜水艦長
がもっとも顕著な軍歴です。
 キンメル大将の不幸な失脚は、彼に勝利者としての栄光を与える
結果となるのですが、その職を継いだ直後の心境はむしろ針の筵に
近いものだったと思われます。


 油断と怠慢に起因する真珠湾での完敗は、米国民の誇りを徹底的
に傷つけ、米海軍将兵に対する非難の嵐となり、屈辱と失意によっ
て、彼らの戦意は著しく低下していました。
 ニミッツがまず実行しなければならないのは、部下の将兵たちに
未来への希望を持たせ、再び戦う武人としての勇気を蘇らせること
でした。
 このために、すでに述べたとおり、敢えて敗北の責任追及も避け
て名誉挽回の機会を与えるとともに、日本本土空襲などの積極攻勢
を連続的に強行してきました。


   彼の努力は報われ、幸運の女神は、ロチェフォート中佐を通じて
彼に朗報を伝えてきました。
 日本海軍のミッドウェー攻略作戦です。
 彼はロチェフォートの能力と強運を信ずることにしました。
 それが一種の賭けであるのを知っていながらの決断です。
                          (下に続く)


 もし失敗すれば、自分の責任となるというばかりか、再び米海軍
に大打撃を与えるのは確かです。
 しかも、六十年後の私たちは、この当時の彼の置かれた立場が、
極めて過酷な状況であったのを知っています。
 というのは、この時期は、米海軍の戦力が最も劣勢であるのに対
し、日本海軍は最高の戦力を誇示しており、しかもあと一年を耐え
れば、強大な米太平洋艦隊の出現で再逆転が可能だったからです。
 彼に与えられた任務は、本質は反転攻勢までの時間稼ぎであって
いわば捨て石でありながら、一方では、ミッドウェーを死守するこ
とで戦意高揚を狙うという残酷なものだったのです。


 五月二日、ニミッツはミッドウェー視察に飛びます。
 日本の瑞鶴、翔鶴が珊瑚海方面に出撃しているのを察知していな
がら、その対応は味方機動部隊に任せ、彼は自分の目で島の全容を
確認し、直ちに対応策の検討を開始します。
 ミッドウェーは直径九・六キロの環礁で、内に二つの小島を抱き
飛行場はその一つだけにあります。
 彼の指示によって、その二つの小島に、収容できる限りの守備隊
と航空機を運び込むことにしました。


 海兵隊二一〇〇人、飛行隊一五〇〇人、潜水艦十九隻、航空機は
計一二一。うち新鋭TBF雷撃機6、海兵隊戦闘機二十七機、同爆
撃機三十四機、陸軍重爆撃機二十三機、偵察機ほか三十一機。
 狭い環礁内は人と航空機と火器で溢れるばかりとなりました。
                          (下に続く)


 ニミッツはこの環礁を浮かぶ要塞、不沈空母に仕立てあげ、空母
不足を補うことにしたのです。
 決戦を前にして、彼の太平洋艦隊は、珊瑚海海戦でレキシントン
を失い、大破したヨークタウンを辛うじて修理して間に合わせ、エ
ンタープライズ、ホーネットと合わせてようやく三隻の空母を確保
できた状態だったので、この不沈空母は極めて強力な戦力となりま
した。
(太平洋艦隊にはもう一隻、サラトガが配備されていましたが、一
月十二日、日本潜水艦の雷撃で中破されています。サラトガは大戦
を通じて絶えず故障や撃破で戦線を離脱し、最もお粗末な空母と呼
ばれています。その反対が名艦エンタープライズです)
 日本軍の攻撃を支えきれるか、全滅するか、どちらにしても、ニ
ミッツは、敢えて反転攻勢の捨て石となる覚悟を胸中に秘めて、近
づくその日を待つのです。
                         次回に続く
 風、蕭々(しょうしょう)として易水寒し
   壮士 ひとたび去って復(ま)た還らず
               ――司馬遷『史記』刺客列伝より
(この詩は、燕の太子の命を受けて秦の始皇帝暗殺に赴く刺客荊軻
への送別詩で、この前後の描写は『史記』の中でも白眉の名文です)

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