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『ミッドウェー海戦』――前編
       ――追録篇その(十八)


 六十年余りという歳月は、敗戦の虚脱が創り出した一種の異常心
理を冷却する時間をもたらし、一歩も二歩も進んだ歴史の真実の解
明を可能にしました。
 真珠湾攻撃の場合、中心となる山本五十六を始めとして、米内、
井上の二人と、愛甲文雄、淵田美津雄、吉川猛夫ら関係者の行動を
追跡することによって、日本海軍だけでなく、あの時代の日本全体
の姿までが鮮明となってきたのです。
 この点に関しては、従来の真珠湾攻撃論は分析が不十分であった
ばかりか、論点の方向にも疑問がありました。
 それらの所論の多くは、だまし討ち説の是非や奇襲作戦の結果評
価などに止まっており、いわば敵味方による戦闘批評に止まり、総
体としての歴史的観点に欠けていたのでした。


 一方の米海軍側には、真珠湾攻撃参加者に対する参考人聴取の状
況から判断できるように、敵、味方という立場を越えて、あの戦い
の本質を極めたいという強い意志が優先していました。
 米海軍の当事者の興味は、東洋の弱小国家が、どのようにしてあ
の精強な連合艦隊を造り上げることができたのか、真珠湾攻撃とい
う壮大で斬新な構想は、誰によってどんな経緯で実現したのかなど
に重点が置かれ、訊問というよりは質疑や対話の色合いの濃いもの
となっています。
 だまし討ち説などは、いつか興味の対象外となっていました。
                          (下に続く)


  歴史的観点としては、もう一つ、重大な事実を見過ごすことがで
きません。
 プランゲが面接した日本側要人の中で、とくに源田実と淵田美津
雄の回数が突出していることからも類推できるように、米側の最大
の関心事は機動部隊であり、真珠湾とミッドウェーの両作戦に参加
したこの二人の証言を最重要と判断したのです。

 考えてみると、機動部隊という作戦の型は、太平洋戦争と共に始
まり、戦争が終わると間もなく実質的に消滅してしまいました。
 現在の作戦の中核はミサイル搭載の原子力潜水艦やイージス艦に
移り、航空母艦は本来の役割であった移動する基地の立場に戻って
います。ますます巨大化する艦体は隠密作戦には不向きであり、反
面、多数の航空機、ヘリ、諸物資の大量輸送能力があるからです。
 近年、国際的な地震、津波、大洪水などの支援に際し、空母の平
和利用の有効性が注目されてきているほどです。


 従って、大規模な機動部隊作戦について、充分な知識と経験を持
つ国はほぼ日米二国に限定される結果となりました。
 米海軍が源田、淵田らに多大な関心を寄せたのは当然であり、む
しろこれまでの日本側の無関心が問題です。
 もちろん再軍備に必要などという観点ではありません。もはや機
動部隊による決戦などは歴史の遺物であり、二度と再現されること
はないでしょう。歴史はさらに先に進んでしまっています。
 重要なのは、歴史の事実を正確に残すことであり、機動部隊の記
録継承については、日本にも重い責任が課せられているのです。
                          (下に続く)


 日米両海軍とも、機動部隊作戦についてはまったく未知の世界で
あり、手探りしながら試行錯誤を繰り返していました。
 先行したのは日本側で、この結果、真珠湾で大勝を収めたのです
が、これは一方的過ぎてほとんど戦訓は得られていません。
 阻塞気球、防雷網が設置されていた場合どのような事態となった
のか、有効な対応方法はあったのか、もし米軍戦闘機百数十機が待
ち受けていた場合、日本の第一次攻撃隊の制空隊零戦四三機で対抗
できたのか、すべてが完全な仮定の世界の出来事であり、実際にも
充分な検討が行われた形跡すら残っていません。
――おそらく第一次攻撃隊は大打撃を受けながら敵艦に多少の損害
を与え、第二次攻撃隊は再攻撃を決行。その成否は全く予測不能と
いうのが真実に近いと推測されます。


 このように、機動部隊作戦は当初から未知と架空の世界を行き来
しているにも関わらず、戦後の論調では突然ミッドウェー海戦に至
って、多くの論者が確信的な結論を出しているのが奇怪です。
 空母四隻を失った事実があるのだから、結論は自明だというのは
答えになっていません。真珠湾攻撃について、完勝したのだから何
の説明も不要というのと同じく、思考停止状態となっています。
 歴史上の出来事に対する正しい論評としては、数多くの類似事例
を比較参照し、考え得るかぎりの仮定条件も取り入れて、公正な評
価を目指す必要があります。しかもここで対象にしているのは、最
も先例の乏しい機動部隊作戦なのですから、なおのことなのです。
 真珠湾攻撃にしても、ミッドウェー海戦にしても、正しい論評を
心掛けるならば、事例研究の手抜きは許されないことです。
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 これに加えて、空母、航空機、爆弾、魚雷などについての知識不
足や、軍事知識以前の常識欠如も大きな誤判断の基となります。
 たとえば、海上距離に関する錯誤または錯覚。
 真珠湾攻撃の作戦批判の一つに、米空母二隻が開戦の報を得て緊
急にミッドウェー方面から戻り、真珠湾まで二百海里に到達してい
たという戦後情報を基に、日本軍がこの空母を攻撃すべきだったと
主張する人がいます。
 この事実が判明したのは戦後であって、当時は誰も知らなかった
という絶対的な理由をさしおいても、この論は二百海里という海上
距離を軽視し過ぎています。
 二百海里は約三百七十キロ。房総半島先端から紀伊半島に至る距
離に相当します。しかもどの方向のどの地点かも分からないのです
から、この半径の円内すべてを捜索するしかありません。
 この点については、のちのフィリピン沖海戦で、日本の航空部隊
が敵機動部隊の索敵にどれほど苦心し、失敗したかの事例を知って
いればすぐに理解できることで、研究不足による錯誤の好例です。


 研究不足を補うには、いくつもの段階で機動部隊の作戦例を解析
し、そこから問題点を探るのが最も有効で、その実例としては、真
珠湾攻撃はほとんど参考にならず、初期の珊瑚海海戦と、末期によ
うやく到達できた米軍の理想型機動部隊の検証が適切です。
 なお米軍機動部隊の理想型は、昭和十九年二月のトラック島日本
海軍基地空襲の前後に形成され、同年六月のマリアナ沖海戦の頃に
完成、その後日本軍を徹底的に苦しめました。
 本題のミッドウェー海戦の前にまずこの二事例を検証します。
                          (下に続く)


 史上初の機動部隊会戦、珊瑚海海戦


 昭和十七年四月、日米海軍はほぼ同時に新作戦に着手しました。
 米海軍は四月十八日、空母ホーネットから陸軍の重爆撃機を発進
させるという奇策によって日本本土空襲を成功させ、全米軍の士気
を高揚させ、日本側には大きな衝撃を与えました。
 対する日本海軍は、四月五日ミッドウェー攻略作戦を決定。印度
洋方面で英海軍の撃滅作戦中だった南雲中将の機動部隊に本国帰還
を命じ、作戦意図を秘匿しながら全軍の結集を進めます。


 四月三十日、南太平洋方面の第四艦隊司令井上成美中将は、豪州
本土対岸のポートモレスビー攻略部隊の出撃を命令します。
 兵力は、空母瑞鶴、翔鶴、軽空母祥鳳を中心に、重巡6、軽巡4
駆逐艦十五を配した機動部隊と、上陸のための陸上軍輸送部隊で、
豪州北部海域の制圧が目的でした。機動部隊司令は高木武雄中将。
 当時の太平洋上の米海軍空母は五隻でしたが、一隻は修理中で、
実働は四隻。そのうちの二隻を迎撃に向かわせます。空母はヨーク
タウンとレキシントンです。


 五月四日未明、ヨークタウンの攻撃隊四〇機が日本軍前進基地の
ツラギを急襲して戦端が開かれます。ツラギは日本の機動部隊と上
陸部隊が一時寄港した中継基地で、米軍にそこを狙われました。
 興味深いのは、この時期にはすでに機動部隊の戦法としては奇襲
作戦が確立していたことで、相互に先手を取るのに必死だった状況
を窺うことができます。               (下に続く)


 このころには、真珠湾攻撃当時の失敗から立ち直って、米軍情報
部がその全機能を発揮し、日本側の重要拠点としてツラギを特定す
るのに成功しているのが注目されます。
 キンメル長官の解任後、新しく太平洋艦隊の司令長官に任命され
たにニミッツは、人事に関してすぐれた成功事例を残しています。
 一つは、真珠湾の敗戦責任追及を最小限としたことで、キンメル
大将の解任はやむを得ないとして、その他は原則的に留任させ、名
誉挽回の機会を与え、この結果全軍の士気は大いに高まりました。
(日本海軍敗因の研究などと称して、個人の敗戦責任を明確にしな
かったのを挙げる向きがありますが、人事の当否は結果で判断され
るものであって、一般論は馴染まないという好例です)


 その二は、オアフ島の海軍情報室長にロチェフォート中佐という
暗号解読の天才を抜擢し、自由に彼の能力を発揮させたことです。
 元来、優秀な暗号解説者は常人には理解困難な存在で、極めて高
い知能と日常面での変人ぶりが混在し、興に乗れば二、三日の徹夜
は平気でも、逆の場合は全く能力も気力も喪失するので、一般的な
基準で評価するのは不可能です。ニミッツはこのロ中佐の特性を理
解するのに成功、彼に自由な活動を保証し、彼から次々に貴重な情
報を獲得できたのです。


 戦後明らかにされて関係者をおどろかした事実の中に、彼が日本
海軍の通信員を、個人単位で識別していたというのがあります。
 通信員によってキーの打ち方が違うのを利用したというのですか
ら、いかに日本側が発信元を秘匿しても効果がなかったわけです。
                          (下に続く)


 暗号解読の表門は統計学に基づく解析です。膨大な数値を収集し
て法則性を導き出せば、かなりの精度で解読の可能性があります。
 しかしこの手法を無効化するのに乱数操作が有効で、日本海軍の
暗号も乱数処理を原則としていました。
 ロチェフォート中佐は、さらにその裏門を開けてしまいます。
 その手法の詳細については、現在でもまだ正確に伝えられてはい
ませんが、これまでの諸情報を総合すると、抜群の記憶力と推理力
によって幾つかの地点と艦艇と人物を特定し、これを基点にして漸
次暗号網を破ってゆく方法だったようです。
 こうして、真珠湾での敗北から四ヵ月経過したころには、日本海
軍の暗号の四分の一から五分の一は判読されており、これに経験と
推理を加えれば、実戦のための基本資料としては使用に耐えられる
段階まで達していたのでした。
 米海軍が日本海軍機動部隊の動きを察知して二隻の空母を急派す
ることができたのも、この暗号解読の成果と見られます。


 ツラギ基地への空襲により、日本機動部隊も米機動部隊の接近を
感知。両軍それぞれ索敵機部隊を発進させます。
 五月七日午前八時。日本艦隊の南方一九〇キロに敵空母発見との
索敵機報告によって、瑞鶴、翔鶴より七十八機発進。油槽船を誤認
したと判明し、撃沈後帰還。
 同時刻ころ(午前八時十五分)、米軍偵察機日本巡洋艦を空母と
誤認して急報、米空母2より九十三機発進。偶然日本輸送船団と遭
遇し小型空母祥鳳を撃沈。祥鳳は潜水母艦を改装した小型空母です
が、初の空母撃沈で米軍の士気は大いに上がります。
                         (下に続く)


  同日夕刻、祥鳳の仇討ちもあり、日本艦隊は薄暮攻撃を決意。熟
練搭乗員を選抜して雷撃機十五、艦爆十二の攻撃隊を編成、敵空母
に向かいますが、偵察機の報告地点に誤差があり、天候も悪化して
帰投途中に米軍機の急襲を受け、雷撃機8、艦爆1を失います。
 この前後、初の日本本土空襲の成功もあり、米軍は一時の沈滞を
脱して著しく戦意を高めており、当初予想したような開戦初頭の奇
襲成功で戦意を喪失させる思惑は完全に外れていました。


    両軍が誤報に振り回され、敵を求めて珊瑚海を飛び回り、悪戦苦
闘しているうちに七日は終わり、翌八日、ついに両軍主力はお互い
の位置に確認に成功、ほとんど同時に攻撃部隊を発進させます。
 両軍機動部隊間の距離二三五海里(約四三五キロ)。二時間以内
で航空部隊が到着可能な距離です。
 午前七時十五分(現地時間九時十五分)日本軍発進。
 指揮官は高橋赫一(かくいち)少佐。真珠湾攻撃の時は第一次攻
撃隊の急降下爆撃隊の隊長です。海兵五十六期。>br>  出動機は、雷撃機十八、艦爆三三、艦戦十八で計六十九機。合計
約一二〇機の二空母艦載機から、これまでの消耗機と護衛で残る艦
戦を除けば、ほぼ全機が参加しての総攻撃です。
 高橋隊の攻撃の状況については、レキシントン艦長シャーマン大
佐の著書に証言があり、「それは見事な協同攻撃であった。私は艦
橋で爆撃機が空のあらゆる方向から急降下で襲いかかってくるのを
見た。そして雷撃機が両舷艦首からほとんど同時にやってきた」と
述べています。攻撃開始の現地時間は午前十一時十八分です。
                          (下に続く)


 これについて、日本側の記録では、翔鶴・瑞鶴の雷撃隊は半数づ
つが両側から迫り、翔鶴艦爆隊が風上から攻撃するという作戦で、
魚雷回避の余地のなくなったレキシントンは魚雷二本と爆弾数発を
受けて放棄され、夕刻に味方魚雷で沈没させられました。
 このあと高橋隊長はヨークタウン攻撃に転じ、猛烈な対空砲火を
浴びて無念の戦死となりますが、僚機の三五〇キロ爆弾の命中によ  日本軍とほぼ同時に二艦を発進した米軍艦載機は、艦戦十五、艦
爆四十六、雷撃機二十一の計八十二機。ただし目標まで到達できた
のは四十八機に過ぎず、混乱ぶりを露呈しています。


 自軍艦載機が四〇〇キロ以上先で敵艦に猛攻を加えている時、日
本の二空母もまた米軍艦載機の総攻撃にさらされていました。
 記録では、偶然のスコールで瑞鶴は隠され、米軍機の攻撃は翔鶴
に集中したものの、米雷撃隊は魚雷の能力、発射技術ともに劣り、
魚雷はすべて回避され、爆弾三発の命中に止まります。
 その爆弾も二五〇キロ(実際は五〇〇ポンド)であって、甲板の
使用不能の被害に終わったのは日本側には幸運でした。


 現地時間午後四時。戦闘結果の報告を受けた井上成美は、ポート
モレスビー攻略作戦中止命令を発します。機動部隊艦載機の残存数
が四十九機に激減して、援護能力を失ったと判断したからです。
 この点に関して、戦後、決定が早すぎるとか、闘志に欠けるとか
の批判がありますが、実は作戦が米軍に探知され米空母が進出して
きた時点で、すでにこの作戦の失敗は明白だったのです。
                          (下に続く)


 現在ではその理由ははっきりしていて、戦力の拮抗した機動部隊
同士の決戦では、よほどの技量の差がないかぎり、相討ちは避けら
れず、守備側はそのまま居座ることができるとしても、攻撃側は作
戦を断念するしかないのは自明の事実と考えられています。
 珊瑚海海戦では、身びいきではなく、日本側の技量が優越してい
ました。特に戦闘機の零戦と雷撃隊の優位には疑問はありません。
 それでも、零戦を攻撃部隊に割けば守備がおろそかになり、守備
重視とすれば攻撃の雷撃隊や艦爆隊の護衛が手薄になります。
 両軍空母部隊間の距離が大である以上、護衛戦闘機を攻撃と守備
と兼用するのは不可能だったのです。
   戦史研究家のモリソンは、珊瑚海海戦を総括して、日米海軍双方
ともに錯誤が多かったとしていますが、これは厳密には正しい表現
ではありません。比較の対象となる先例が皆無で、評価基準を決定
できないからです。その基準は、この戦い以降に漸次作られてゆく
しかないものだったのです。


 米軍はこの戦いのあとの緊急避難措置として、護衛戦闘機の数を
増やして対応しますが、やがて空母の根本欠陥である防御力の脆弱
性に気付きます。
 艦載機の発着のための飛行甲板は、絶好の攻撃目標となり、逆に
対空火器の配置を制約してしまいます。戦争末期、空母が特攻機に
よって甚大な損害を受けたのもその根本欠陥を突かれたからです。
 そこで登場したのがあの「百隻空母」の構想で、断片的な記録に
よってその存在が確認されながら、未だに全容不明の構想です。
                          (下に続く)


 全容は不明でも、その構想は間違いなく実現していました。
 以前に明確にしましたように、ミッドウェー海戦後日本海軍がソ
ロモンの消耗戦に引き込まれて戦力を喪失する一方で、米海軍は着
々と「百隻空母」構想を進め、昭和十八年末から十九年初にかけて
理想型機動部隊の編成に着手し、ついに太平洋の制海権・制空権の
確保に成功していたのです。
(百隻空母構想とは、正規空母二〇、護衛空母八〇の建造によって
太平洋・大西洋の制海制空権を確保するという絶対不敗の戦略で、
実際にも正規空母二十六隻など予定以上の建艦が実現しています)


 この随想で、以前私たちは、マリアナ沖、フィリピン沖の二大海
戦において米海軍が圧勝した事実を見ています。
 米軍機動部隊の艦載機は、まず日本軍基地を反復攻撃して航空戦
力を壊滅させ、残る日本軍機動部隊を数倍以上の艦載機で圧倒する
作戦に徹しました。
 何しろ、マリアナ沖海戦の場合では、防御側の米軍戦闘機が日本
側の四倍強だったのですから、対抗できないのは自明の理です。
 計画的に進められてきた大規模建艦の成果でした。


 ミッドウェー海戦は、この珊瑚海海戦と戦争末期の理想型機動部
隊作戦の中間に位置する海戦です。いわば過渡期の海戦であって、
これだけを孤立した海戦として観察しても有意義な結論はえられる
ものではありません。戦後の一部の所論は、この観点が欠けていた
ために、まるでここでの敗北によって日本の敗戦が決定したような
表現となっています。もちろん、事実に反しているのです。
                          (下に続く)


 ミッドウェー海戦への道


 ミッドウェー海戦の一ヵ月前、珊瑚海で史上初の機動部隊同士の
会戦が終わったころ、ニミッツは日本の連合艦隊の次の目標がミッ
ドウェーであるのを確信していました。
 彼は、日本海軍の通信の中でしばしば使用されるAFがミッドウ
ェーであるとのロチェフォート中佐の推理を信じたのです。
   また彼は、日本海軍の決戦において、その戦略位置から判断し、
ハワイ、ミッドウェー、豪州北部が最重要なのも知っていました。
 中でも滑走路一本しかないミッドウェーは、防御力が弱体で、機
動部隊の総力を挙げての支援が必要という判断でした。


 日米両海軍の前線最高司令官が、同じミッドウェーに着目したの
は決して偶然ではありません。
 ニミッツの判断の根底には、米本土防衛の最後の砦であるハワイ
の前線防衛陣地という意味と、百隻空母構想が実現して反攻に転じ
たとき、ハワイと共に起点となる期待があったからです。
 のちに実現したように、この起点から太平洋を西に直進し、マリ
アナ諸島を制圧して日本本土を窺うルートが最短コースでした。


 他方の山本五十六には、さらに切実な事情がありました。
 四月十八日の本土空襲以外にも、米軍空母の攻勢は活発で、二月
のマーシャル群島空襲、ウェーク島来襲、三月のニューギニア日本
基地空襲などがあり、山本長官の信念である短期決戦構想の行き詰
まりが見えてきたのです。              
 この結果、軍令部を中心とする勢力が、再び南方資源地帯の確保
に重点を置いた迎撃型作戦に回帰し始めたのです。
                        ――次回に続く

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