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 戦艦三笠から超弩級戦艦への道
    “日本海軍を想う”――基礎知識篇その(2)
        『戦艦と空母』の中編――『戦艦』編の@


 この項の執筆開始の直前、あの三月十一日の大地震がやってきま
した。掛け値なしの未曾有の大震災です。
 急遽予定を変更、歴史研究者の目でこの震災の記録を分析・整理
しているうちに、二カ月間の道草となってしまいました。


 東日本大震災と名付けられたこの地震と津波は、明治維新以来の
日本近代史の中で、間違いなく五番以内に入る大事件です。
 まずそれは、M(マグニチュード) 9.0という観測史上最大の
規模であり、しかも津波の高さにおいて平安時代の貞観地震(869
年) を越え、しかも地震・津波の範囲は、どちらも従来のどの例よ
りも広範囲に及んでいます。


 しかも今回は原発の大事故が併発し、当事者の不手際もあって、
国民の不安感や風評被害を一層拡大しました。
 十万人以上を動員した自衛隊や二万人近い米軍の支援、全国から
の消防・電話・ガスなどの応援部隊の協力がなければ、被害からの
回復はさらに混沌としていたはずです。


 ここで明白となったのは、政府や東京電力など、常に有事を想定
していて、その対応に万全の備えをしていたはずの組織の怠慢と、
有事即応態勢を常備した自衛隊などの組織との対照的な姿です。
                           (下に続く)


原発のように高度の能力を持ったファシリティ (設備) は、それ
に比例する以上に事故の際の損害が急速に増大するのが常です。
  これに対応するには、事前の精密な調査はもちろんのこと、平時
から組織全体が緊張感を持ち、有事を想定した訓練を行い、必要な
防護機器を整備しておくことが欠かせない義務であるはずです。
  機器を外部から借りたり、肝心な有事に自衛隊や消防部隊の協力
を安易に要請するような姿勢がまず容認できません。

最も違和感があったのは、東京都知事が涙をこらえて送り出した
消防庁ハイパーレスキュー隊が現場に到着した時の光景です。
彼らに与えられた任務は、近くの海から海水を汲み上げて原子炉
内に注入することでしたが、その道が爆発で倒壊した建物の瓦礫に
よって塞がれ、隊員は自力でホースの迂回路を作り、ようやく注水
を成功させていました。
 瓦礫を取り除く機器を常備していなかったのが根本的な問題です
が、それにしてもなぜ東電側が迂回路を事前に確保するなり、案内
するなりをしなかったのか、未だに理解するのが困難です。

 専門家を集めた地震学界や東工大出身という首相、他の政府関係
者たちの思考回路も短絡的というしかありません。
 地震の予知が極めて困難なのはすでに周知の事実です。
   今回の大地震にしても、宮城県沖での大型地震は予知されていた
ものの、その推定規模はM7.5、他の震源と連動した場合に限り
M8.0で、その際は津波の危険あり、というもので、実績結果と
は規模と領域において格段にかけ離れていました。   (下に続く)


 これは実際の地震規模が茨城沖を含む広大なものだったからで、
とくに津波の想定については、事前の「予知」数字を信じてその規
模を過少評価し、敢えて避難しなかったと推定できる人が多数存在
しているだけに、その責任は看過できず、反省の必要があります。

 その一方で、阪神・淡路大震災などでは、誰も警告しない場所で
M7.3の直下型地震が発生し、また一九七五年ころ騒がれた駿河
湾大地震はその後三十六年間完全に音沙汰なしのままです。
 今度の地震により、状況の似ている浜岡原発が改めて俎上にあが
っていますが、首相が根拠にした「三十年間で八十七%の確率」と
いう学者らの予知数字は果たして科学的と言えるか疑問です。
 そもそも、三十年という期間設定は余りにも粗雑で、これと八十
七%という精密な数字の組合せは、一見しても異様な印象であり、
事実、これには禁じ手に近い論法が含まれています。
 以前学者は、プレート理論を基に数百年間の地震記録を分析し、
すでに駿河湾地区の地震予定時期が過ぎていたのを発見、あの大騒
動を主導したのですが、それから三十六年後の今、本人も国民も忘
れた頃になって、改めて蒸し返したのが今回の提議です。

 八十七%という数字によって、人はあたかも極めて近い時期に地
震が発生すると錯覚していますが、これは巧妙な欺瞞であって、三
十年という長い期間の設定により、実際の発生時期については実は
何も語っていないのと同じ結果になっています。私たちが必要とす
るのは正確な発生時期と規模であるのに、これを明示できない学説
は依然として実証不足の机上学説の域を脱していないのです。
                           (下に続く)


 確実性に欠ける学説を基に多くの原発を停止して、代替燃料に何
兆円もの莫大な資金を投入し、需要先である産業界に膨大な損失を
強いるくらいなら、当面必要な緊急策を講じたのち、今回の原発事
故で得られた教訓を生かした抜本対策を、国家単位で推進するのが
はるかに有効で積極的な政治のはずです。それがまた、今回の大震
災のマイナスをプラスに転換する唯一の道でもあったのです。
 その事実を胸中に収めて、この項の本来の目的である『戦艦』の
歴史に目を転じることにしたいと思います。
   そこには、大震災と同じく、国家の苦悩の歴史が見られます。

  近代的戦艦の誕生――弩級戦艦と超弩級戦艦

 戦艦、英語名でbattle ship の歴史は古く、カリブ海に海賊が
横行していた時代から各国海軍の主力艦として活躍していました。
 主な役割は、敵艦または海賊船に大砲を打ち込み、その逃走を阻
んだうえで、体当たりして敵艦に乗り込み、敵を殱滅または拿捕す
ることでした。
 戦艦とは名ばかり、実態は海賊船と大差のない時代が長く続きま
した。

 そのイメージを一変させたのは、英国のネルソンと日本の東郷元
帥で、戦艦を艦隊の主力艦と位置づけ、この主力艦を中心とした艦
隊の連動した攻撃力で敵艦隊を圧倒し、制海権を確保するという海
軍戦略を確立しました。               (下に続く)
 


 英国海軍を始めとして、世界の海軍が東郷の戦術(秋山参謀の戦
術)を高く評価したのは歴史的事実です。第二次世界大戦後でも、
ニミッツ元帥は戦艦三笠の保存に努力していますし、スプルーアン
ス提督が東郷ファンであったのも事実です。
 ところが、日本海海戦の翌年(一九〇六年)、英海軍は新鋭戦艦
ドレッドノートの完成を公表し、世界を驚倒させます。
 戦艦三笠が一万五千トンで三〇.五センチ砲四門を主砲とするの
に対し、ド艦は一万八千トンながら、三〇.五センチ砲を一〇門搭
載し、世界のすべての海軍関係者の顔面を蒼白にさせました。

 日本はこのド級戦艦に弩級戦艦という漢字を当て、さらに超弩級
という名が造語され、やがて戦艦とは無関係な分野まで広く流用さ
れるのは、この時期の衝撃の強さを端的に物語っています。
 弩級戦艦に関しては、日本は完全に英海軍の後塵を拝する結果と
なりました。
 英国造船所に発注済みの「香取」と「鹿島」、国産巡洋戦艦として
呉で建造中の「筑波」と「生駒」、起工中の「薩摩」と「安芸」など
のすべてが旧式艦となってしまったのです。

 辛うじて弩級戦艦として名を止めているのは、「薩摩」「安芸」の
次に起工された「河内」ですが、完成した一九一二年には早くも英
海軍は三四.三センチ砲一〇門を搭載したオライオンを、超弩級戦
艦として戦列に参加させていました。
 英海軍にとって、一流海軍国を目指して、鋭意艦隊増強中の仮想
敵国ドイツに対する対抗が最緊要の課題でした。    (下に続く)


 独・英の争いは、欧州での覇権を巡っての争いであり、さらには
世界規模での植民地争奪戦でした。
 したがって、陸上戦のための軍備拡張と並んで、海軍の建艦競争
も熾烈を極めています。
 ド艦の完成の一年後、独海軍は二八センチ砲二十四門搭載の「ナ
ッソー」を完成させ、一九一一年には二万二千トン、三〇.五セン
チ砲十二門のヘルゴランドが続き、しだいに英海軍に脅威を与え始
めます。

 対抗する英海軍は、超弩級戦艦の建艦を急ぎ、第一次世界大戦ま
でに十隻以上を完成させ、これが大戦中の中心戦力となります。
 最強艦のクィーン・エリザベス級は二万八千トン。三八.一セン
チ砲八門を搭載、しかも二四ノットという高速でした。

   ジェットランド沖海戦
      ――弩級戦艦、超弩級戦艦、巡洋戦艦による大海戦

 一九一六年五月三十一日、ついに英独両海軍の主力を動員した大
海戦が勃発しました。
 舞台は、デンマークの在るジェットランド半島沖から北海にかけ
ての一帯。世にジェットランド沖海戦と称します。(略称ジ海戦)

 参加した艦艇は、英が戦艦29(28説もあり)、巡洋戦艦9、
巡洋艦34、駆逐艦79。戦艦はいずれも弩級または超弩級戦艦。
 独は弩級戦艦16、前弩級戦艦6、巡洋戦艦5、巡洋艦11、駆
逐艦61。(今回から数字の多い時は新聞式に縦数字を使用)
                          (下に続く)


 戦力としては独艦隊不利は否定できず、とくに超弩級戦艦におい
て独海軍の二隻がこの海戦に間に合わなかったのが大きな痛手でし
たが、意外にも結果はドイツ優位の引き分けに終わっています。
 戦艦をこれだけ動員した海戦はこれ以前に無く、これ以降は空母
部隊を主体とした海戦に座を奪われてしまったので、ジ海戦は名実
共に備わった人類史上最大の艦艇による大海戦となりました。
 いま改めてこの海戦を検証してみると、なぜ各国が大艦巨砲を目
指した建艦競争に走ったのか、その事情がよく理解できます。

 ジ海戦を仕掛けたのはドイツ側からです。
 この時期のドイツは、次第に英仏露の連合軍に押され、劣勢に陥
っていました。
 有利に戦っているのは、対露の東部戦線だけで、西部戦線は完全
な膠着状態にあり、海上部門ではUボートの健闘空しく、英海軍が
制海権を確保し、食料や軍需物資の輸入を抑えられたドイツは、日
一日と窮乏していました。

 国内では、「海軍は何をしているか」という非難の声が喧(かまび
す)しく、戦力の劣勢を承知のうえで、何らかの行動を起こすしか
なかったのです。

 ここで独海軍が採った作戦は、巡洋戦艦5、巡洋艦5、駆逐艦30
から成る高速機動艦隊を先遣させ、英軍巡洋戦艦隊を挑発し、混
乱に乗じて味方の主力艦隊で奇襲するという、一種の囮作戦です。
 無理な作戦であるのは、容易に想像できるところです。
                          (下に続く)


 もし超弩級戦艦を擁する英軍の主力艦隊に逆襲されたならば、ひ
とたまりもなく殲滅される危険が充分にあったのです。
 しかし英艦隊は大魚を逃してしまいました。なぜでしょうか。

 独海軍のヒッパー中将が、麾下の高速機動艦隊を率いて出撃し、
英軍の巡洋戦艦部隊に遭遇したのが三十一日の午後二時三十分。
 独艦隊は巡洋戦艦5、巡洋艦5、駆逐艦30。
 英艦隊は巡洋戦艦6、巡洋艦14、駆逐艦27。
 戦闘開始後三十分過ぎ英巡洋戦艦2が撃沈され、三隻被弾。英軍
機動艦隊は大苦戦。
 午後四時六分、英軍超弩級戦艦隊四隻到着。たちまち独巡洋戦艦
一隻大破。ヒッパー機動艦隊は火力で劣り漸次劣勢に。

 四時四十五分、独軍の戦艦部隊二十二隻が到着、英軍巡洋戦艦部
隊は退避。代わりに戦艦主体の英軍主力艦隊が接近。ヒッパー隊も
離脱を開始。
 六時五分、英巡洋戦艦一隻沈没。
 七時一五分、ヒッパー隊旗艦大破。両軍巡洋戦艦隊の被害甚大。
 巡洋戦艦部隊の活躍は目ざましいものがありましたが、それだけ
に受けた損害も大きく、英軍では三隻が沈没、三隻損傷。独軍は一
隻撃沈、四隻損傷でした。
 英軍の超弩級戦艦部隊は、総合戦力で期待を裏切らない成果をあ
げましたが、それでも二十四ノットでは巡洋戦艦を追跡するのは困
難で、みすみす独軍の退却を見逃す結果となり、両軍に多くの教訓
と課題を残すこととなったのです。          (下に続く)


 戦いが終わった後、多くの論争と教訓が残りました。
 おおむね一致した結論は、
1.巡洋戦艦の高速機動力は捨てがたい魅力だが、防御力の弱さは
  依然として致命的な欠陥であり、攻撃力(火力)にも不満あり。
2.弩級戦艦、超弩級戦艦の攻撃力と防御力の威力は高く評価され
  る。ただし実戦では低速性がしばしば決定的な短所となった。
  という二点です。

  こうして各国は、この長所を伸ばし、短所を修正するための方策
 に懸命となり、本格的な建艦競争の時代に突入するのですが、攻撃
力・防御力・高速性の三つの目標をどのように調和させるかに各国
海軍は苦心し、少づつ個性が分かれてゆきます。

 弩級戦艦以来、世界のトップを走ってきた英海軍は、その全方位
艦隊構想をそのまま進めます。弩級戦艦を超弩級戦艦に更新して、
高速化を図り、巡洋戦艦については、フッドのような巨大艦の新造
と既存艦の火力・装甲の強化を平行して行います。

 米海軍は、早くから巡洋戦艦という艦種に見切りをつけていたよ
うで、隻数もアラスカなど少数に止まりました。
 戦艦については、大西洋中心という国家戦略と、パナマ運河の通
過可能という物理的制約が長い間制約条件となっていました。
 対日戦を強く意識するようになってから、主砲を四〇.六センチ
とするなど、欧州基準を越える水準に到達し、質・量共に世界最高
を目指します。最後には戦艦大和級のモンタナを計画し、未完成。
                          (下に続く)


 ジ海戦以来、ドイツは大海軍国の地位を下り、超戦艦ビスマルク
とUボートだけの海軍となり、仏、伊の二国も英、米とは大きな差
を生じ、花形戦艦もなく、寂しい海軍となっていました。 
 その中で、英、米には数で劣るものの、独自の道を開拓したのが
日本海軍の戦艦部隊で、果敢に世界の最高峰を目指します。
         (『戦艦』の@終わり。次回は『戦艦』のAです。)

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