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『山本長官最後の出撃の意味するもの。その背景と展望』
     基礎知識篇その十五――空母篇、続編の第九部


 この時期のソロモン周辺の実働飛行場数は、米豪軍の21に対し
日本軍はラバウルの3と、その南のブーゲンビル島のブインが主。
 さらに何カ所かの飛行場の建設と整備を急いでいましたが、米軍
航空部隊の間断ない攻撃に妨害されてほとんど活用できない状態で
あり、いち早く占領したニューギニア北部方面の豪州軍の各飛行場
についても同じような有り様でした。


 ガ島戦では陸軍が航空隊派遣を拒否したことが上陸部隊を窮地に
追い込む一因(主因?)となりましたが、この段階に至っては参謀
本部もようやく重い腰を上げないわけにはゆきません。現実に海軍
は、主戦力の航空隊も、八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍中の
水雷戦隊(駆逐艦隊)も、すでにその能力の限界を越えつつあるこ
とは誰の目にも明らかな事実でした。


 しかもここでの陸軍の対応は余りにもその場凌ぎのものでした。
基本的には所有する飛行機の品質と搭乗員の能力に問題があるの
が次第に分かってきました。疑いなく基本戦略面での大失敗です。
 当時の陸軍の主力機は九七式で、これは時速は470キロ、機銃
は7.7ミリが2挺という前近代的な代物で、最初から落第。
 変わって投入されたのが通称「隼」の名で有名な一式戦ですが、
時速495キロ、機銃は12.7ミリが2。これでは米軍のF4F
の509キロ、機銃は同じ12.7ミリ計5には対抗できません。


  (下に続く)



 しかも陸軍機には計器飛行に必要な機器の備えがなく、したがっ
 て訓練も受けず、その作戦行動は著しく限定されていました。
  何度かの投入がすべて失敗に終わった参謀本部は、ついに一九四
 三年初に開発された新鋭の三式戦、通称「飛燕」を投入します。
  これは時速590キロ、機銃12.7ミリ2、7.7ミリ2で、
 どうにか零戦並みの戦力を期待したのですが、エンジンが液冷式で
 故障が多いのと、自力での洋上飛行が困難なために大量輸送は至難
 な作業となりました。


  一九四三年一月に出発した68戦隊は、遠回りをし、その間に機
 関などの調整をしながらようやく四月に戦場に到着。第二陣の78
 戦隊27機は四月二十七日にトラック島を出発し、おそらく陸軍機
 としては大勇断の洋上編隊飛行を決行しますが、最終的にラバウル
 に到着できたのは、辛うじて約半分の14機に止まっています。
 (飛燕はその後に独より輸入した20ミリ機関砲800を一機に2
 門を装備して攻撃力を強化、機関も改良し、本土防衛戦の中核戦力
 となりました。大尉時代に弱冠二十四歳で戦隊長となった小林照彦
 少佐の「つばくろ戦隊」は首都防空戦や九州上空防衛戦で大活躍。
 なお海軍の紫電改と同じエンジンを搭載した「疾風―はやて」は、
 前年に完成し、大陸では成果を挙げていましたが、南方戦では一九
 四四年十月の比島戦からの投入が最初となっています)
  陸軍の新鋭機飛燕と疾風の合計の製造数は6380機。零戦のそ
 れは約一万機ですから、せめてその半分でも生産枠を海軍に譲る努
 力をすべきだったというのが率直な感想ですが、当時はもちろん、
 戦後でもまだその種の批判や論考の存在は確認されていません
                           (下に続く)


  そればかりか、陸軍出身者の中には、海軍について信じられない
 ような「虚説」を誤ったデータを基に堂々と書いている人物がおり
 ます。例えば「帝国海軍が日本を破滅させた」の著者のS・A氏な
 どは、この戦争での日本海軍航空隊には見るべき戦果はほとんどな
 く、逆に米軍の被害は極めて少なかったとして、次のようなソロモ
 ン戦での数字を示しています。
① 一九四一年、四二年 266機
② 一九四三年、    233機
③ 一九四四年     146機


  ① の二年間ではガ島戦の六カ月が主で、例えば栗田中将が率いる
 金剛・榛名のヘンダーソン基地砲撃での50機、南太平洋海戦での
 74機、日本軍潜水艦によって撃沈された空母ワスプの艦載機の数
 十機の損害を含みますから、これだけでも約150機となります。
  最も犠牲の多かったのは、何百回となく行われた日本軍零戦との
 空中戦で、全体としては分が悪かったのは事実ですから、この間の
 日本軍の航空機の喪失数900機と対比すれば、この程度の損害で
 収まっていた筈がありません。おそらく計算の基準が違っているの
 を見落としているものと判断されます。


    また軽率な誤りも数多く見られます。
 例えば海兵七十八期の学校所在地の針尾を「鉢尾」としているな
 どは噴飯ものであり、ここが真珠湾攻撃に先立ちあの有名な電信文
 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が発信された歴史的に重要な地名
 であることを考慮すると、単純ミスでは済まないものがあります。
                           (下に続く)


  唖然とするしかないのは、氏が日本海軍と航空隊の実績を批判す
 るだけではなく、近代戦には不可欠な航空戦力自身までを否定的に
 捉えるという時代錯誤的な発想を基礎に置いていることです。
  彼によれば、航空機はもともと脆弱で墜落し易い武器であり、無
 限に近い生産力を持つ米軍ならばともかく、日本軍は石原将軍が提
 唱していたように、拠点となる各島に難攻不落の地下要塞を築くべ
 きだったとし、その成功例として硫黄島などを挙げています。


    しかしこれは栗林中将とその将兵たちの善戦の例とすべきもので
 あって、航空戦を越え、それに代わる作戦でないのは自明です。
  現に硫黄島では、航空隊が健在の時期には弾薬・食料の補給も潤
 沢だったのが、航空戦力が壊滅すると共に一切の補給が途絶し、あ
とは米艦隊の艦砲と米軍機動部隊の空爆の弾雨を一方的に浴び、最
後には上陸部隊との白兵戦で終わるしかなかったのです。


 どうやら日本陸軍の中には、武器としては大砲と機関銃あたりま
でが限界で、飛行機や戦車などの近代兵器を疎ましく思う人たちが
相当数存在していたようです。
    その人たちがノモンハンの戦場で、ソ連軍の戦車の大集団に愕然
 とし、今度は碧空に乱舞する航空部隊の飛行機に目を奪われること
 になりました。もともと機械技術に馴染まない性格だったのか、陸
 軍の体質の問題だったのか、近代兵器の導入は著しく遅れました。
  似たような状況下で、草創期の日本海軍は懸命に学び、工夫し、
 猛訓練で技能を高め、気付いた時には世界の最高レベルに到達して
 いました。これがソロモン戦の頃の陸海日本軍の真実の姿です。
                           (下に続く)
 

 いまその優位の部分までが危うくなってきました。
  飛行場建設用諸機械の欠如、レーダー技術の立ち遅れ、そして何
 よりも飛行機を筆頭とする武器・資材の生産能力の不足と、全般に
 わたる輸送力不足、そして次第に危険領域に入りつつある操縦員不
 足が連合艦隊の目前に迫っています。


    これらの課題に対する大本営の対応は余りにも官僚的で、その場
 凌ぎなものが多く、前線将兵の期待に沿うものではありません。
  ガ島撤収一つをとっても、当然の決断に対して合意を得るのに数
 カ月を要しており、しかもその間、関係者の情勢判断の相違、責任
 問題、それぞれの面子などが錯綜し、最後には海陸の現場の最高責
任者である山本長官と今村司令官の意見が一致したことにより、よ
うやく大本営命令による撤収が決定されています。


 独特の勝負勘を持つ山本は、国際感覚に優れた樋端航空参謀を得
ることができました。彼は海兵五十一期を卒業後、飛行学校で操縦
訓練を受け、その後長期の海外駐在経験もある国際人です。
 開戦後に米本土の諜報組織が壊滅した日本軍にとって、英語能力
に優れた士官の存在と、戦艦大和や武蔵のような大型艦に備えられ
た長大なアンテナによる米豪などからのラジオ放送の傍受は、極め
て手軽で、しかも有効性の高い存在でした。
 カサブランカ会談のような秘密会議の情報を得るのは困難として
も、それに伴う一般の反応をラジオなどで知るのは決して難しくは
ありません。この方法によれば、山本・樋端らの現地首脳陣には、
いわゆる天下の大勢を把握するのはむしろ容易だったのです。
                          (下に続く)


 戦後になっても、なお山本長官の作戦意図がよく分からないと語
る海軍関係者がいますが、マリアナ沖海戦を不当に批判した先の軍
 令部出身者と同様に、こうした天下の大勢についての情報不足に原
 因があるのであって、本来は極めて自然な発想だったのです。


    此身滅すへし此志奪ふ可からす――山本五十六『述志』より
                    昭和十四年五月三十一日


    平成二十年十二月、山本五十六から盟友の堀悌吉(ていきち)中
 将宛の二通の書簡が発見されました。一通は開戦日の昭和十六年十
 二月八日の日付で開戦の日の彼の覚悟を記していますが、もう一通
 は日独伊三国同盟問題が始まった昭和十四年五月三十一日付けで、
 共に「述志」と表記されています。
堀中将は、米内光政、井上成美などと共に対米戦争を導く可能性
   のある三国同盟に絶対反対を唱え、一度はそれを潰した文字通りの
 「盟友」です。海軍のホープとされた堀は、そのために陸軍の陰謀
 によって予備役に追放されたのですが、山本五十六はこの書簡によ
 って、すでに早い時期から三国同盟が対米戦を導くことの危険性を
 前提に、その必死の思いを盟友に語っているのです。


    さらに進んで、開戦後四カ月の一九四二年三月下旬、彼はあの空
 母開発時代からの信頼する部下の一人、桑原虎雄少将(当時)に次
 のような発言をしています。(戦史叢書による)
 「今が戦争のやめどきだ。それには今まで手に入れたものを全部投
げ出さぬばならない。しかし中央にはとてもそれだけの腹はない。
我々は結局斬り死にするほかなかろう」と。      (下に続く)
 


  陸軍が最も期待していた独逸国防軍も苦戦していました。
  一九四一年五月、ロンドンに大空襲をかけて英国軍を牽制した独
 軍の機甲軍団は、2000機の航空部隊の援護下、国防軍150、
 同盟国軍30師団、兵力総数400万、戦車3300台の大兵力を
 北軍、中央軍、南軍の三軍に分けて、六月二十二日ソ連領内に殺到
 します。
  迎撃するソ連軍190師団、航空機2500に戦車4000。
 数こそ多いものの、まず空軍が壊滅し、戦車軍団も3500を失っ
て敗退。歩兵部隊の捕虜は200万人に達しました。


 しかし同年の冬、モスクワ、レニングラードの手前で寒気に阻ま
れて後退した独軍は、翌年までに米英の緊急援助を受けて崩壊を免
れたソ連軍の反撃を受け、一九四二年十一月、日本軍がガ島撤収を
決意した丁度そのころ、突出した独軍のパウルス将軍の第六軍30
万がソ連軍の包囲網に摑まってしまったのです。


 北アフリカ戦線でのロンメル軍の興亡も劇的でした。
対仏戦での画期的な機甲師団の運用で頭角を現したロンメルは、
日本軍の開戦の年の二月に伊領リビア駐屯軍司令官に抜擢され、事
 実上北アフリカの枢軸軍の全権を委ねられました。
  四月の英連邦軍との緒戦で勝利。十一月以降の一進一退の攻防戦
 の後、翌年六月十日トブルクを奪回。六月二十一日には弱冠五十歳
 で元帥に昇格。長駆エジプト領内に進出し、スエズ運河を指呼の間
 に臨むアレキサンドリア近郊に到達し、スエズ運河危うしの報は連
 合軍首脳を震撼させました。             (下に続く)
 


  しかしここが彼の絶頂期で、同年十一月、エル・アラメインで米
 軍の新鋭戦車の供与を受けた英連邦軍に完敗。日本軍が奇跡的なガ
 島撤収に成功した直後の一九四三年三月にはロンメルは体調不良も
 あってアフリカを脱出しています。(残留枢軸軍は五月に降伏)


    正にこの時期が第二次世界大戦の真の意味での転換点であり、連
 合国軍がその勝利を確信できた時点だったのです。
  スエズ運河が確保できれば、連合国軍はインド洋を経由して自由
 に米国製の武器をソ連や中国に輸送可能です。独海軍のUボートに
 はもはやそれを阻止する力は残っていないのです。
  その情勢に呼応し、米海軍のキング作戦部長は、北アフリカへの
 派兵を決断。トーチ作戦の名を以て350隻以上の大輸送船団に米
 英兵50500を満載した北アフリカ上陸部隊に、護衛空母を含む
 護衛艦隊の一隊を派遣しました。十一月八日と記録されています。


    驚くべきことに、北フランスを舞台にした映画「カサブランカ」
 の製作が一九四〇年であることです。この年の六月二十二日には仏
 政権が降伏調印をしていますから、最悪の時期での製作ですが、映
 画では米仏が協力してナチス打倒に立ち上がっています。製作者た
 ちの未来を見通す目の確かさと、喝采して受け入れた一般国民の強
 靭な正義感には感嘆するしかありません。


  山本五十六らも鋭敏にこの転換点を察知できていました。これは
 英語教育を徹底してきた海軍の教育の勝利でもあります。ただ彼ら
 の痛恨は、神が最後の晴れ舞台を用意していなかったことでした。
                           (下に続く)
 


  歴史の精妙さの一つは、米軍がその事実を事前に知っていたこと
 で、出陣する時の注意書に、「捕まった時は情報は包み隠さず与えて
 良い。しかし相手を神の如く扱え。できれば陸軍よりも海軍に捕ま
ったほうがよい」とあります。こうして海軍の最前線部隊は、海軍
 の内地の高官や陸軍参謀本部よりも、いち早く天下の大勢を知るこ
 とが可能となり、山本五十六は彼の最後の決戦であるイ号作戦を決
 断するに到ったのでした。


  残念なのは、カサブランカ会談の結論を得て米海軍総帥のキング
 が全面衝突を避けさせたために、四月七日から十四日までの間に、
 ソロモンからニューギニアまで、わが軍は残存航空戦力を総動員し
 て反復攻撃を加えながら、戦果、被害共に不確実で、米軍側の資料
 では日本側の損害40ないし50機、米側25機とあり、勝敗いず
 れにしても微妙な差で、これを契機に、講和か戦争継続かの方向を
 見定め、継続であればどのような改革が必要かの判断をし、海陸一
 体となって難局に対応しようという山本の意図は打ち砕かれてしま
 ったのでした。
  こうして彼は、新たな挑戦のために、宇垣参謀長、樋端航空参謀
 と共に前線視察に出発、米軍が放った刺客のP38戦闘機16機に
 襲撃されて、樋端航空参謀と共に戦死したのです。その日は四月十
 八日。米軍空母による日本本土空襲から丁度一年目でした。
 (樋端久利雄については、針尾出身の海兵七十八期の衣川宏による
 『ブーゲンビリアの花』がほとんど唯一の資料です。以前に紹介し
 た同期の愛甲一郎、大岡次郎の著書と並んで、独自性の価値の高い
 貴重な海軍関係資料の一つです)

 ――次回は山本五十六戦死後の南太平洋戦線についてです。


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