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『特攻の人々』そのB 阿修羅の敷島隊


 高度九一四mというのは、明らかに米軍側が敷島隊の攻撃を認知
した時間であって、攻撃開始の高度ではありません。
 攻撃開始時の高度はそれよりもずっと高く、一、五〇〇m以上、
一、八〇〇mまでの間と推定されています。
 しかし事前の打合せでは、三、〇〇〇mまで上昇と決められてい
て、それを否定する事情も存在しませんので、一度その高度まで上
昇し、全体の状況を瞬時に判断しながら、徐々に高度を下げ、二、
〇〇〇m以下となったとき、「攻撃開始」のバンク(翼を振って行う
万能の合図)がなされたものとみられます。


 攻撃開始時の高度が重要な意味をもつのは、突入までの時間に関
係があるからです。
 零戦の降下速度を時速五百キロとすれば、高度九一四mでは七秒
足らず、二、〇〇〇mで十四秒少々。ほんの一瞬に過ぎません。
 この短い時の間に、全速で避退する敵護衛空母の動きを的確に把
握し、目標である昇降機の位置に正確に突入するというのが、どれ
ほど困難で、かつ精神の集中を必要とするものであるか、いかなる
想像力も遠く及ばないものがあります。
 この点をまったく考慮に入れない情緒過剰な感情移入など、事実
を歪める俗論であって、とうてい許されるものではありません。
                          (下に続く)


たとえば、「お母さんと、泣きながら」とか、「命令を下した上官
を恨みながら」などと、突入時の心情を描写している解説や小説が
多数ありますが、いくら想像は自由と言っても、これは論理的に成
立しないものです。
 時速五百キロで数秒間。雑念や妄念が入り込む余地のあるはずが
ありません。目標を絶対に外すことのないよう、全身全霊を機の操
縦に傾注する以外の状況を想像するのは、全く無理なのです。


 現実はむしろ逆でした。
 雑念・妄念どころか、当初に司令部が懸念していたような、本能
的な恐怖感から無意識に目をつぶってしまうとか、緊張のあまり操
縦を誤るなどの例もほとんどみられません。
 これは、久納中尉の場合のように、隊員自身が「徒死」を避け、
絶対に戦果をあげなければ死にきれないという意識が強く、平常心
を保つための最善の努力を払っていたからです。


 敷島隊の攻撃は、おそらく地上で何十回も繰り返して演習された
通りに遂行されたと考えられます。それほど整然と行われ、予定し
ていた以上の戦果をあげました。
 一番機、キトカン・ベイに激突。
 二番機、カリニン・ベイの前部昇降機に命中。三番機後部昇降機
に命中。すでに栗田艦隊により中破していた同艦は大破。
                          (下に続く)


 四番機、ホワイト・プレーンズの艦尾に接近するも、対空射撃を
受け、甲板上空6mで爆発、負傷十一名。
 五番機、セント・ロー上空二〇〇mで対空砲火に被弾。黒煙を吐
きながらセント・ローの飛行甲板に激突し、直前に落下した爆弾が
甲板を貫いて艦内格納庫に到達、大爆発。
 突入した零戦は炎に包まれながら飛行甲板上を回転し、出撃準備
中の艦載機を次々に炎上大破。格納庫内の爆発は、庫内の爆弾・魚
雷に引火してさらに二次三次の爆発を誘発。中爆発二回、大爆発五
回の後、八回目の誘爆によってついに十一時二三分、セント・ロー
沈没。乗員は争って脱出。
 乗員戦死一一四名、救助者七八四名。うち約半数が負傷。


 この間、別の一機(直掩隊の管川機と推定)がカリニン・ベイに
突入を図ったが、寸前に集中砲火を受け、艦首方面海上に墜落。避
弾後の突入か最初から意図していたものかは不明。
 なお、西沢隊長はこの乱戦の中で米戦闘機(グラマンF6F)二
機を撃墜。


 ここにC・スプレイグの艦隊6隻は、栗田艦隊と敷島隊の時間差
攻撃の結果、沈没2、大破1、中破1、小破2と、全艦すべて何ら
かの被害を受け、艦隊の機能を喪失。残存四艦も護衛の任務を解か
れ、修理態勢に入る(実態は乗員のほとんどが戦意喪失状態)。
                          (下に続く)


 敷島隊の特攻攻撃がどれほどの衝撃を与えたかは、米海軍が厳重
な報道管制を敷いたことによって明らかです。
 この管制は翌年の四月末まで続けられ、その後も積極的には公開
されず、したがってその被害の実態なども長く秘密のベール下に置
かれていました。


 当初の報道管制の理由は明白です。米海軍将兵の受けた衝撃が余
りにも大きかったからです。
 自軍の強大な機動部隊に絶対の信頼を置き、太平洋上を我が物顔
に展開していた米海軍は、この最初の攻撃の報を知った瞬間、自分
たち艦隊の決定的な欠点に気付きました。
 それは、編隊を組んで攻撃してくる日本航空隊に対しては、まず
レーダーで発見して優勢な戦闘機部隊で迎撃、それを突破されたと
しても、輪型陣で空母を囲めば完全に空母を守り切れるとしていた
作戦が、神風特攻隊にはほとんど通用しなかったということです。


 神風特攻隊は、わずか数機で超低空を飛行するため、レーダーは
無効であり、米艦隊に接近すると一気に高度を上げ、輪型陣の真上
から突然殺到してくるので、対空砲火の準備時間がありません。
 しかも何よりも決定的な脅威は、彼らの飛行機(零戦)はそれ自
体が爆弾であり、魚雷であり、少々の被弾によっても決して回避し
ないことでした。                  (下に続く)


 当時の米海軍司令官の一人(氏名不詳)が語った言葉として、
「搭乗員一名の一機がわが空母一隻を撃沈できるとしたら、わが方
には対抗する手段がない」という趣旨のものが記録されており、米
海軍首脳部が大恐慌を来したのは間違いありません。
 敷島隊の直接戦果は、少数戦力で大敵を葬った点で、戦史に例の
ない偉業には違いありませんが、注意を要するのは、この心理面で
の衝撃の大きさと波及効果です。


 二人のスプレイグ少将の艦隊の中間に在って、直接レイテ湾守備
に当たるスタンプ艦隊の護衛空母6隻はまだ健在でしたが、ここは
最後の砦であり、戦線参加どころか、まずこの護衛艦隊の「護衛」
が問題となってきます。
 のちの記録によると、この日一日での護衛空母艦隊の艦載機の喪
失数は一二八機。死傷二、七〇〇名。一日一カ所での犠牲としては
緒戦の真珠湾攻撃以来と言っていい大損害で、もはや自らも守る力
も残っていないのです。


 北方から急遽反転南下中のハルゼー・ボーガン隊、東方から参戦
に急ぐマッケーン隊、それに南方の護衛空母艦隊。この三機動部隊
は、あと一歩で栗田艦隊を包囲殱滅できる所まで追い詰めながら、
一転、作戦の中核であるレイテ湾周辺の体勢建て直しに重点を転換
するしかなくなりました。              (下に続く)


 現代の米軍を見ていて不思議に思うことがあります。彼らは、軍
事行動を開始するに当たっては、実に緻密かつ計画性があり、必ず
完璧な準備を整えてから行うのに、しばしば実行段階で頑迷であっ
たり、粗雑であったり、融通性に欠ける場合が多いことです。
 朝鮮動乱、ベトナム戦争などにその例が見られ、とくに陸軍並び
に陸戦にその傾向が顕著のようです。


 一方、米海軍については、一貫してその弾力的な対応を評価する
ことができます。
 フィリピン沖海戦の場合、十月二十五日の午後には、早くも米海
軍は攻めから守り重視に転換しています。
 栗田艦隊がふたたび敵中を突破してサンベルナルジノ海峡に到達
したとき、たしかに米軍機動部隊艦載機の攻撃はありましたが、そ
れは予想よりもはるかに微弱であって、大きな損害はありませんで
した。
 栗田艦隊生き残りの人たちの手記によると、将兵の多くは、自分
たちは海戦に勝利して凱旋中と考えていたようで、戦後の評価との
余りにも大きな格差に戸惑っているのが印象的ですが、この米海軍
の追撃力の弱さを見れば、敵機動部隊に大打撃を与えたと判断した
のも無理ではなかったのです。
 ただその大打撃が、自分たちの攻撃だけではなく、神風特攻隊と
の連携作戦によるものとは、ついに知る機会はありませんでした。

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