「特攻の人々」  (二)関行男大尉、運命の日十月二十五日


 十月二十三日、二十四日と、関行男は敷島隊を率いて出撃します
が、両日とも敵艦を発見できず、空振りは通算三回に及びます。
 記録によれば、この間は著しい天候不良で、雲高は六千メートル
に達して頭上を圧迫し、乱層雲の底辺部は暗い影を海面近くまで垂
れ込め、視界は著しく狭小、各隊の索敵は困難を極めたとされてい
ます。
 セブ島に進出した中島少佐の大和隊、ミンダナオ島ダバオ基地に
進出の横山岳夫大尉(海兵六十七期)の朝日・山桜隊、新たに追加
編成された菊水隊もすべて同様な状況であって、現地の第一線部隊
及び一航艦司令部のいずれにも、焦慮の色が濃くなってきました。


 この間二十四日には、戦艦武蔵が撃沈され、猪口参謀の実兄であ
る猪口艦長(少将)が艦に殉じて戦死したとの悲報が入ります。
軍命令により武蔵の沈没は極秘扱いとされますが、大西中将はじ
め幹部士官クラスには情報が走り、司令部全体に一気に緊張感が高
まる状況となります。
 同日、二航艦総力をあげての攻撃はまたもや失敗、損害甚大。


 十月二十五日未明、栗田艦隊のサンベルナルジノ海峡突破の報に
より、大西中将は一航艦の特攻隊全軍に出動命令を発動し、各隊は
それぞれの基地から次々に出撃してゆきます。爆戦(零戦体当たり
隊)十六機、直掩十機。これにセブ島で急遽追加結成された若桜隊
の爆戦四、直掩二を合わせ、合計の三十二機は、この日一航艦が動
員できた総力でした。                (下に続く)

 
  連合艦隊航空戦力の最大であった二航艦の失敗により、いまやこ
 のわずか三十二機の神風特別攻撃隊が、フィリピンに展開する日本
 軍陸海全軍の命運を左右する重責を担うこととなったのです。


  関大尉について語る場合、彼がどのようにしてその重責に応えた
 かが、最も重要な観点でなければならないはずです。
  ところが奇怪なことに、従来は、旧海軍関係者の一部による客観
 性のある検証を除けば、感情論、情緒論が支配的であって、歴史上
 の真実がまったく見えてきません。
 (作家の大岡昇平氏が陸軍の立場からその功績を冷静に評価してい
 るのが、ほとんど唯一の例外 ・ レイテ戦記)


  関大尉と敷島隊の行動をみてゆくと、まず驚かされるのは、その
 目的意識の明確なことと、行動の慎重さ、粘り強さでしょう。
  初出撃の十月二十一日、索敵に失敗、翌日帰投してから、二十三
 日、二十四日と、計三回にわたり敷島隊は出動し、終日索敵を続け
 ており、いわゆる見切り発車のような行動は決して取りません。
  戦中から戦後にかけて米軍が”カミカゼ”を称して「自殺攻撃」
 −SUICIDE ATTACK−と呼んだことから、日本側の論
 者の中にもその言葉を使う人がいますが、それが完全な言葉の誤用
 であるのは、この関大尉の行動からも明らかです。
  大尉には米機動部隊撃滅という明確な目標があり、その目標達成
 のためには無謀な行動は一切避け、好機のくるまで隠忍自重する強
 靭な精神力が際立っています。              (下に続く)    

  現実逃避の「自殺」とはまったくの対極にあるのは明白で、まし
 て老人・幼児を含む一般人を無差別に死傷させる衝動的な自爆テロ
 と同一視するなど、完全な歪曲というべきものでしょう。


  ついに隠忍自重の限界の日がやってきます。
  十月二十五日は、栗田艦隊がレイテ湾の米軍上陸地点に突入予定
 の日です。このまま放置すれば、栗田艦隊が壊滅するだけでなく、
 レイテ島の日本軍二万は孤立し、やがて全滅を免れないでしょう。
  どんなに天候不良であっても、必ず索敵を成功させ、少しでも米
 機動部隊に打撃を加えなければならないのです。


    この日もまだ天候は回復していません。しかし、マバラカットを
 はじめ各地から、三十二機は次々に大空に飛び立ってゆきます。
  レイテ湾に近いダバオ基地からは六時三〇分に早くも爆戦八機、
 直掩隊五機が三隊に分かれて展開し、索敵を開始、七時四○分、つ
 いにそのうちの二隊が米機動部隊を発見します。
  この艦隊は四隻の護衛空母から成るT.L.スプレイグ艦隊で、
 菊水隊の一機(甲飛十期出身の加藤一飛曹と推定)が空母サンティ
 の飛行甲板に激突、昇降機を作動不能にし、誘爆で船体に大穴を開
 けるなど、多大な戦果をあげます。
  同時刻、山桜隊がサンガモン、ペトロフ・ベイ、スワニーを攻撃
 し、うち一機(搭乗員不明)がスワニー突入を果たします。
                                  (下に続く)

  この艦隊の中ではスワニーの被害が最も大きく、飛行甲板の直撃
 によって、戦死七一、負傷八二の人的損害と、昇降機一基破壊とい
 う打撃を受けます。
  スワニーは、翌日も二機の命中によって、戦死一○七、負傷一七
 ○の大損害を受け、完全に戦線から離脱。また、ペトロフ・ベイも
 艦橋に突入を許し、艦隊はサンガモンのみを残して壊滅しました。


  ただこの時の米海軍は、日本軍の特攻攻撃を正確に理解できず、
 通常攻撃として司令部に報告したらしく、全艦隊への連絡が不徹底
 に終わり、直後の敷島隊によるC・スプレイグ艦隊奇襲を容易にし
 たばかりか、記録の上でも、敷島隊に特攻第1号の名を譲る結果と
 なってしまいました。


    菊水隊・山桜隊、それに敷島隊が、この日に限り米機動部隊を捕
 捉できた理由は歴史の謎の一つです。二航艦などは残存の約百機を
 総動員してほぼ全機が索敵に失敗しています。
  一つには、二航艦が依然としてハルゼーの主力機動部隊を目標と
 し、索敵範囲を北方まで広げていたのに対して、一航艦特攻隊各隊
 が、目標海域を栗田艦隊の行動予定地点に限定し、レイテ湾東方に
 集中したのが正解だったからです。
  しかしそれだけではなく、まだだれも言及していない重要な事実
 を指摘することができます。
                                   (下に続く)

  その第一は撃墜王西沢飛曹長の直掩隊隊長への起用です。
  前日の二十四日、敷島隊は重大な編成変更を行い、爆戦隊を一機
 増やし六機とし、さらに直掩隊の隊長に急遽西沢広義飛曹長を呼び
 寄せます。当時、日本海軍の撃墜王として高名な人物には、坂井三
 郎(生涯六十四機)、岩本徹三(同八十機)もいますが、坂井三郎
 は昭和十七年八月に重傷を負って第一線を引退、岩本徹三も病気か
 ら回復したばかりで、西沢広義が現役最高のエースでした。
  西沢飛曹長は翌二十五日米軍戦闘機を一機撃墜し、生涯撃墜数八
 十七機。名実ともに最高の撃墜王であり、護衛機としてこれ以上の
 存在はないばかりか、そのすぐれた視力が索敵にも大きな貢献を果
 たしたことに疑いの余地はありません。


  第二は、栗田艦隊とC・スプレイグ艦隊の戦闘の影響です。
  菊水・山桜隊到着の七時四○分、すでに日米両艦隊の海戦は開始
 されており、砲煙が海面や空中に散乱し、米軍艦載機が飛び交って
 います。日本機にも容易に察知できる状況だったことでしょう。
  敷島隊の戦場到着時間は十時三○分から四○分。すでに栗田艦隊
 は戦場から避退していますが、大きな贈り物を後に残しています。
    それは、最終的に沈没することとなる三隻の重巡の鈴谷、鳥海、
   筑摩の存在です。記録の示すところでは、鈴谷は十二時三○分、鳥
 海は二十一時五○分、筑摩は二十一時三○分に沈没したとされます
 ので、敷島隊到着時刻には三隻とも火災の炎と黒煙に包まれながら
 浮遊していたものと推定されます。           (下に続く) 

  火災による黒煙は時に二千メートル以上の高さにも及び、艦体自
 身よりもはるかに遠くから発見が可能です。
  おそらく、西沢飛曹長の鷹の目は、はるかの先からこの黒煙を捉
 えたものと思われます。


  爆戦隊6、直掩隊4で出発した敷島隊は、このころ一機が故障に
 より離脱し、爆戦5、直掩隊4となって、C・スプレイグ艦隊に接
 近していました。
  一番機、関行男大尉(戦死後中佐)二十三才
  二番機、谷暢夫一飛曹(同少尉)十九才
  三番機、中野磐雄一飛曹(同少尉)二十才
  四番機、永峰肇飛行兵長(同飛曹長)十九才
  五番機、大黒繁男上等飛行兵(同飛行兵曹長)十九才
  以上爆戦隊。全員突入に成功して戦死。


  直掩隊は、西沢飛曹長のほか次の三名。
 本田上飛曹、管川(すがわ)飛行兵長、馬場飛行兵長。
  西沢隊長はここで敵機2を撃墜しますが、管川機を失い、生還の
 西沢ら三名も翌日輸送機で移動中に戦死します。


  栗田艦隊の猛攻を受け、護衛空母1(ガンビア・ベイ)と駆逐艦
 3を撃沈され、空母ファンション・ベイが大損害を受けたC・スプ
 レイグ艦隊は、残りの空母4、駆逐艦4で輪型陣を組み、東南方向
 に離脱を急いでいます。                (下に続く)

  空母四隻は、前方右側にキトカン・ベイ、左側にカリニン・ベイ、
 後方右側にホワイト・プレーンズ、左にセント・ロー。
  不思議なことに(おそらくは米軍側の怠慢によって)、菊水・山
 桜隊によるT・L・スプレイグ艦隊奇襲成功の情報は届いていず、
 逆に、栗田艦隊の反転によって危機を脱したとの安堵感が支配して
 いたようです。


  米軍記録によれば、十時四九分。零戦一機、高度九一四mから四
 ○度の角度で急速に接近、キトカン・ベイに直撃、飛行甲板外側に
 激突。爆弾は機体を離れた位置で爆発し、艦体に損傷。
  このあとの後続機の体当たり攻撃によって、米海軍は日本軍が新
 たな決死作戦を開始したことを知ります。
                               (次回に続く)  
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