「栗田艦隊」 決戦まで(二)


 試練は出発間もなくやってきました。それも空からでなく、海面
下から襲ってきました。
 十月二十三日、六時三二分、米潜水艦ダーターが栗田艦隊の旗艦
愛宕(重巡)に六発、高雄(同)に四発の魚雷を発射、愛宕は沈没、
高雄は大破して戦線離脱。六時五七分、重巡摩耶に別の潜水艦の魚
雷四本命中、同艦も間もなく沈没。厳重な警戒にも関わらず僅かの
間に三隻の重巡を喪失するという大損害でした。
 しかし艦隊は、旗艦を大和に変えて進撃を続行します。


 十月二十四日、十時二六分、シブヤン海入りした栗田艦隊に米機
動部隊艦載機の第一波四十五機が殺到。武蔵と重巡妙高に各一発の
魚雷が命中、早くも妙高は戦線を離脱します。
 十二時六分、第二次攻撃隊三十一機攻撃開始。その後第五次攻撃
まで、攻撃は武蔵に集中し、魚雷命中二十本。十九時三五分、つい
に力尽き、艦長猪口少将と共にこの超戦艦は蒼海の底に沈みます。


 一群に大型正規空母2、軽空母2を配置した米機動部隊四群のう
ち、はるか東方のウルシー環礁の基地に止まっている一群を除く三
群がこの攻撃に参加したとみられ、米軍は日本艦隊に大打撃を与え
たと判断、攻撃を中止して艦載機を収容してしまいます。
                             (下に続く)

  栗田艦隊もまた、一旦進撃を放棄して西に進路を変え、後退の構
 えを見せます。これが米機動部隊の重大な錯覚を招くことになりま
 した。


  司令長官のハルゼーは、栗田艦隊が武蔵の沈没によって戦意を喪
 失して退却したものと速断し、攻撃の矛先を北方の小沢機動部隊に
 向けました。錯覚というより、彼にとっては常識だったのかもしれ
 ません。航空援護もない栗田艦隊はもともと陽動部隊で、空母四隻
 の小沢部隊こそ本命の主力艦隊という彼なりの常識です。
  十七時十四分、栗田中将は艦隊の再反転を命令、艦隊はシブヤン
 海を通過、米機動部隊の撤収したサンベルナルジノ海峡を悠々と、
 しかし細心の警戒を以て突破し、フィリピンの東方に進出します。
 十月二十五日午前○時三○分と記録されています。


  ハルゼーが「常識的な錯覚」に陥ったとすれば、レイテ湾防衛の
 責任者であったキンケード提督には、「不満に起因する思考錯誤」
 があったようです。
  彼は、海軍の中将でありながら、陸軍のマッカーサーの指揮下に
 置かれ、き下の兵力も、戦艦六隻はどれも旧式戦艦、空母は格下の
 護衛空母。花形の機動部隊とは余りにも格差があります。
  その彼の艦隊の偵察機が西村艦隊の接近を探知しました。南方の
 スル海の方向です。そこからレイテ湾に至るにはスリガオ海峡を通
 過するしかありません。キンケードの血が騒ぎました。 (下に続く)

  彼は、艦隊のほぼ全勢力をスリガオ海峡の出口付近に配置し、西
 村・志摩艦隊に備えます。陸軍の護衛のためよりも、海軍の提督と
 しての戦意とプライドが優先しました。
  この結果、東方から進撃しつつある栗田艦隊に対しては、ほとん
 ど無防備状態となってしまったのです。        (続く)
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