「栗田艦隊」 決戦と撤収(一)
十月二十五日六時四十五分。雨期の終わりの洋上は低く垂れ込め
た黒雲と、不意に襲ってくるスコールで、視界は限られています。
僅かな晴れ間に、艦隊の列が浮かび上がってきました。
味方のはずはありません。小沢艦隊ははるか北、西村・志摩艦隊
は南です。艦型によって、間違いなく米機動部隊と確認した栗田長
官は、艦隊の隊列を整える間もなく、全軍に攻撃開始を命じます。
航空戦力を伴わない艦隊が機動部隊と洋上で遭遇することはほと
んどありえません。機動部隊はその航空機による偵察で、艦隊の火
砲の射程距離外で相手を発見し、艦載機で一方的に攻撃できるとい
う決定的な利点を持っているからです。
この遭遇は明らかに米軍の失態であり、日本側にとっての天佑で
した。
米艦隊との距離は三十二キロ。旗艦大和の主砲の射程内です。敵
艦隊の戦力は正規空母六隻、巡洋艦七隻と判定されました。
のちに、戦後の米軍からの尋問の過程で、これはC・スプレイグ
少将き下の護衛空母艦隊であり、巡洋艦と判定していた艦艇は駆逐
艦であることが判明、関係者に衝撃を与えます。
(下に続く)
というのは、護衛空母艦隊であれば、艦隊速度は十八ノット程度
であって、栗田艦隊の巡洋艦、駆逐艦はもちろん、戦艦群でも十分
に追跡可能だからです。ところが実戦においては、空母1、駆逐艦
3の撃沈と空母1の中破に対して、味方は重巡三隻を失い、一隻は
大破という状況で、結局は網に入った大魚を逸した形になっていま
す。
この結果に基づいて、米軍側がC・スプレイグ艦隊を高く評価、
戦後の日本側の論評もほとんどがそれに近い結論となっています。
ただ何となく釈然としないため、その理由を雨期特有の激しいス
コールと米艦隊の煙幕戦術に求める意見が台頭し、その後の大勢を
占める結果になりました。
しかし、どういう理由をつけようと、それによって栗田艦隊の評
価が変わるものではありません。追撃の方法に問題があったのでは
ないか、追撃断念の時期が早すぎたのではないか、という疑問は長
く残り、それがレイテ湾での反転撤収への批判も加わって増幅し、
ついには敢闘精神不足を云々する声まで現れました。
小柳元参謀長などは別として、伊藤正徳氏らはかなり婉曲に、米
太平洋艦隊最高指揮官ニミッツや一部の日本側論者は辛辣に、この
線に沿ったきびしい栗田艦隊批判をしています。
(下に続く)
これらの批判論は、一方で小沢機動部隊が四隻の空母を全滅させ
て、立派に囮の役を果たし、西村艦隊もまた戦艦二隻と司令官の西
村中将の犠牲によって、陽動部隊としてキンケードを眩惑するのに
貢献したことが心情的な支援材料となり、一段と拍車がかけられた
感がありました。
だが何事も情緒がからみ過ぎると思考に狂いが生まれます。
調べてゆくと、やはり盲点があったのが分かってきました。
手掛かりは公式記録ではなく、実戦に参加した青年士官たちの記
録にありました。(岩佐二郎 戦艦大和など)
彼らによれば、まず米軍護衛空母の艦載機の攻撃が極めて勇敢か
つ執拗で、どうやら駆逐艦よりもこのほうからの攻撃が大きな被害
を与えたようなのです。
こうなると、従来は駆逐艦から発射された魚雷と記述されていた
記録も、艦載機による可能性が高まってきました。
護衛空母という言葉が思考を呪縛し停止させていました。
この空母は、日本の改装空母と同種のもので、元はタンカーや商
船です。海戦と同時に改造に着手し、戦争期間中に約八十隻が就役
しています。
トン数は一万トン前後、搭載機数は二十ないし三十機。艦速が遅
く(十八ノット前後)、防御力が弱いため、ジープ空母などと呼ば
れ、米海軍内でも格下扱いであり、日本側も軽視していました。
(続く)
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