日本探訪HOME > 日本史随想 >山本五十六と真珠湾攻撃前編 ≪前のページ |次のページ≫
『山本五十六と真珠湾攻撃』――前編
――追録篇その(十六)
山本五十六については、戦後多くの評論がなされており、それに
は、最高の評価から「凡将」「愚将」の低評価に至るまで、極めて
大きな巾のあるのが特徴です。
その中には、珍説・奇説に類するものもあり、たとえば、或る論
者は、真珠湾攻撃が米国民の怒りを呼び起こし、リメンバーパール
ハーバーの合言葉のもとに結集させたのが愚策としています。
その論に従うならば、山本長官は、開戦当初は攻撃を手加減して
勝ち過ぎないようにし、その後も極力逃げ回って相手を喜ばすべき
となり、到底まともな意見とは思われません。
それに比べれば、一応は真珠湾攻撃での山本戦略を評価したうえ
で、それとは対照的なミッドウェー戦の敗北を批判する所論のほう
がまだ公平な見方であって、これまでの所、これが最も常識的で一
般的な結論となっているのは、周知の通りです。
ところで、いま私たちは、「愛甲文書」によって、新しい山本五
十六の人物像を構築できることが可能となりました。
それは、古来の多数派の武将のように、悠揚迫らず部下を掌握し
充分に意見を述べさせたのち、万全の正攻法で行動を起こすタイプ
ではなく、当初から常識を越えた発想を持ち、その発想を徹底して
貫き通す奇想と信念の天才型人物像です。
彼は、真珠湾攻撃によって、その壮大な戦略構想が古今の名将た
ちに充分匹敵できるものであるのを立証しています。
(下に続く)
歴史上の人物の中で彼に近いのは、源義経、楠木正成、真田幸村
などが想起されます。織田信長ならば桶狭間の戦い、秀吉ならば山
崎の合戦のような相手の意表を突く奇襲戦です。
外国の例では、カルタゴのハンニバル、三国志時代の諸葛孔明、
ドイツのロンメル将軍などが挙げられます。
彼らには共通点があり、秀吉以外はいずれも壮図半ばで倒れるか
敗軍の将となるかであって、決して覇者でもなければ栄光の勝利者
でもありません。
それでもなお歴史に名を止め、今も多くの人が敬愛するのは、そ
の生き方に魅力があるからで、単に覇者の興亡を記録するだけの平
板な歴史観には、魅力も深みも乏しいことの証明でもあります。
(歴史の観点からは、時代に逆行したテロリスト集団に過ぎない新
選組の隊士たちに人気があるのも、彼らの人間性に由来するもので
あって、一概に否定的に捉えるべきではありません)
真珠湾攻撃の発想が、愛甲文雄を除けば、軍令部を含む日本海軍
のほぼ全軍の反対を受けていたことは、紛れもない事実です。
山本長官はその反対意見を封ずるために、先任参謀の黒島亀人を
交渉責任者として派遣し、自分の意見が通らない場合には連合艦隊
司令長官を辞任する意向を伝え、ついに自案を認めさせます。
その識見、統率力、すべてを総合して彼に優る適材は存在しなか
ったから押し通すことができたのです。
戦後、例によって結果論評論家たちは、最終的には日本海軍は敗
れたのだから、その端緒を作った山本五十六もまた凡将であると結
論するのですが、これは月並歴史観の典型であり、歴史はそれほど
単純でもなければ無味乾燥なものでもありません。 (下に続く)
「愛甲文書」の出現は、真珠湾攻撃の戦略に個人の存在が深く関
わっていることを、私たちに教えてくれました。
ここではそれに加えて、山本戦略を検証するうえで重要な意味を
持つ長岡藩との関係、中でもあの越後の英傑河井継之助との関係に
注目してみたいと思います。未来を正確に洞察しながら、時代の荒
波に翻弄され、ついに挫折したあの偉大な人物との関係です。
越後長岡藩の家老河井継之助は、幕末の動乱を予期し、長岡藩七
万四千石の独立を確保するため、当時の日本に三台しかない機関銃
のガトリング砲二台を購入し、戦備を整い、北陸路を東進する新政
府征討軍と外交交渉に入ります。
長岡藩の主張は、徳川幕府恩顧の藩としては新政府に敵対する意
志は毛頭ないが、徳川家に銃口を向けることはできない、従って中
立の立場を維持したいというのです。
薩長、土佐藩を中心とする新政府軍は、その河井案を一蹴し、長
岡藩が会津・庄内などの佐幕諸藩の征討に加わることを強要、交渉
は決裂。ついに戦端が開かれ、長岡藩一二〇〇人は一万人以上の征
討軍を相手に一進一退の激闘を繰り広げるに至りました。
戦闘員の人数では問題にもならない長岡藩は、河井継之助の指揮
下、散々征討軍を脅かすのですが、周辺諸藩が次々に降伏し、やが
で河井も負傷、会津に落ちる途中で一命が尽き、彼の描いた長岡藩
武装中立の夢もまた空しく消え去りました。
北越の一角で展開されたこの戦いは、七十数年後の山本五十六と
は、不思議な縁で結ばれていました。 (下に続く)
というのは、当時の長岡藩の弱冠二十三才の若い家老、山本帯刀
(たてわき)は、藩の一隊を率いて奮戦。激戦の中で戦死し、家督
断絶を防ぐため養子となったのが山本五十六だったからです。
幕末長岡藩の苦難と再生
北越戦争で敗れた長岡藩は、朝敵として徹底的な圧迫の対象とな
り、藩主、藩士ともども、塗炭の苦しみに喘ぐのですが、ここに有
名な小林虎三郎が登場し、窮状を見兼ねて支藩の三根山藩から送ら
れた米百俵を学校設立資金に使用、今日の一食よりも未来のための
教育を選ぶ伝統を確立しました。
この伝統はその後も絶えることなく続きます。
越後の中都市長岡は、県都新潟に劣らず教育施設は充実し、進学
率も高水準を保っています。
長い間、県内では、「女は新潟、男は長岡」というのが、ひそか
に伝えられた言葉でした。
長岡藩は、教育を基礎に再生を果たしたのです。
山本帯刀の戦死によって、図らずも養家の当主となった山本五十
六は、幼いころからこの長岡藩の苦難と再生の歴史を、身を以て実
体験することになりました。
錦の御旗を掲げて交渉に臨んだ新政府軍の高圧的な姿勢と、交渉
とは名ばかりの一方的な押し付けは、後年の日米交渉と奇妙に符合
しており、とても偶然と片付けられないものがあります。
(下に続く)
昭和日本の窮状
米内、山本、井上の三人が命を懸けて反対した日・独・伊三国同
盟は、昭和十五年(一九四〇年)九月二十七日に締結の日を迎えま
す。その年の六月のドイツ軍パリー入城と独仏休戦が同盟派を決定
的に有利にしたのです。
当時の日本は、経済的・政治的に窮迫していました。
昭和五年、世界大恐慌に巻き込まれた日本は、主要輸出品目の生
糸価格や国内米価の大暴落で、経済は崩壊寸前となり、都市も農村
も疲弊し、国民はしだいに希望を失い始めていました。
日本を支援しようなどという国はどこにもいません。そればかり
か、欧米列強諸国は、それぞれ自国と植民地に保護主義という強固
な壁を張りめぐらし、日本製品を排除します。
昭和九年には東北地方を中心に冷害が発生、未曾有の大凶作とな
り、その惨状は目を覆うものとなりますが、戦後の人たちはほとん
どその事実を知ることはありません。
多くの人が、「戦争によって平和で幸せな生活が破壊された」と
語っていますが、おそらくそういう生活のできた国民は一割もいな
かったと思われます。日本全体が貧窮の中に沈んでいました。
一つの実例を示しましょう。長岡近く、人口は二万五千人ほど、
軽工業と農業の町の実例です。
医師は五人。その人数の少なさがまず驚きです。
現在の日本では人口千人当たりの医師数は二・三人程度が適正と
されますから、この町ならば五十七人が必要なのです。
(下に続く)
適正人数を語る以前に、それだけ貧しかった現実があります。
しかも、自動車が普及していない時代ですから、往診は徒歩か自
転車で、稀に人力車。吹雪の夜など、医師側も必死の思いです。
健康保険制度もない時代で、支払いの多くは盆と暮れの年二度払
い。凶作となれば焦げ付きも多く、何年も続けば娘の身売りで解決
するしかありません。
農村歌人結城哀草果の、時代の悲劇を歌った一首。
――貧しさは 窮まり遂に 年頃の
娘悉(ことごと)く 売られし村あり
明治維新以降、近代日本の建設に向けて営々と努力を重ねてきた
日本は、この窮状から抜け出すために、満州国の創設、支那での権
益の拡大を急ぎ、それが国際社会の承認を得られないことに焦り、
最も危険な悪魔であるナチスドイツと手を組む道を選んでしまった
のです。
アメリカの強硬姿勢、山本五十六の苦哀
日独伊三国同盟が締結された時、連合艦隊司令長官である彼の前
には二つの道がありました。
あくまで反対の意志を貫いて長官を辞するか、天命として受け止
め、その職を全うするかです。
その職のまま反対するというのは、選択技にはあり得ません。三
国同盟は国家の機関が決定した外交行為だからです。
(下に続く)
もしも山本が連合艦隊司令長官のまま反対すれば、完全な軍事的
クーデターとなって、直ちに鎮圧されて逮捕されるか、急進派によ
って暗殺されるかでしょう。
職を辞するのも無責任です。誰かがその任を負わなければならな
いからです。彼には、最も彼が望まなかった道、最も困難が予想さ
れる道を選ぶしかなかったのです。
開戦前、日米間では、日本という独立国家の命運を決するような
厳しい外交交渉が行われていました。
奇妙なことに、決定的な争点は、日米間ではなく、支那(現在の
中国)での権益をめぐるものでした。
日本は、新たに建国された満州国の存在の認知を求め、また支那
での経済的権益を確保し、在留日本人を保護するための日本軍の駐
留継続を要求し、米国代表は支那側に立ってこれを拒否しました。
相互の意見対立は益々先鋭化し、米側は鉄スクラップ、石油の禁
輪を強行、日本側は仏領印度シナ進駐で対抗し、両国とも妥協の余
地のない事態にまで追い込まれていたのです。
戦後数十年を経て、米側の強硬姿勢の理由が分かりかけてきまし
た。幾つかの異なった要素がその背景にあったらしいのです。
一つは、旧ソ連側の画策で、ドイツ国防軍の猛攻によって風前の
灯となった自国の危機を救うには米国の参戦しかないとして、日米
間の緊張を高める方向に誘導したとする説です。ソ連側ではパプロ
フ、米側ではホワイトなどの名が挙げられています。
( ホワイトは、ハル・ノート原案作成者モーゲンソーの側近です)
(下に続く)
第二の説は、国民党総統の蒋介石の干渉と、彼の夫人で米国在住
の宋美齢のロビー活動を重視するもので、これには多くの実証され
た成果が記録されています。
たとえば、交渉の中途段階において、蒋介石がしばしば決定的な
意味を持つ内容にまで干渉したのが判明しています。
最初の干渉は、日本軍の撤退について米側が妥協案を提示した時
に発動されました。当初案の、支那と仏領印度シナからの全面撤退
要求を緩和し、後者に限り二万五千人の日本軍駐留を認めようとし
たのに、蒋介石は徹底的に反対し、撤回させています。
彼の干渉はその後も続き、最終段階の十一月二十五日、ハル・ノ
ートの内示を受けた野村大使が、交渉の決裂を回避するため、この
案を最終案ではなく暫定案とするよう提案したのに対し、蒋介石は
電報で反対意見を表明。ハル国務長官、スチムソン陸軍長官もその
意見に同調、ついに日本の最後の希望は断たれました。
この時期、なぜアメリカがここまで蒋介石・宋美齢の意向を重視
したのか、当時も今も理解不能な部分が残っています。
当時の世界情勢では、欧州におけるナチスドイツの進撃阻止が、
自由主義諸国にとって最重要かつ緊急の課題でした。
英ソを始め、欧州諸国の亡命政権、ナチス占領下の各国の地下組
織などは、すべて米国の参戦を熱望しています。しかもソ連などは
全面崩壊寸前で、事態は極度に急迫していたのです。
参戦するなら、まず欧州戦線が最優先なのは自明の理であり、世
界全体の中では東洋の優先順位は決して高くはありません。
(下に続く)
歴史に「もし」はなく、仮定条件に基づいての議論は禁物である
という見解には、筆者も基本的には賛成です。
ただし、それならば歴史上の人物に責任を負わせたり、過去の行
為を裁くのに、私たちはもっと慎重であるべきだと思います。
日米開戦の場合、交渉の経緯を見てゆくと、米側にも大きな誤算
があったのは明白です。
アメリカは、日本の国内世論がすでに暴発寸前に達しているのに
気付いておらず、蒋介石の強硬意見を全面的に採用しても、結局は
日本は屈伏するに違いないと思い込んでいました。
日本の軍事力についても、過少評価していた疑いがあります。
すでにソ連スパイのゾルゲによって、日本がソ連と戦う意志のな
いのを米国情報機関は把握しており、日本は支那・満州の維持に手
を焼き、米英ソとの本格的戦争を企図する意志も能力もないと即断
していたようで、これが蒋介石の強硬姿勢を不用意に受け入れた背
景にありました。
戦争直後の六年間を日本で過ごしたゴードン・プランゲは、前掲
の著書(トラ・トラ・トラ)で、開戦直前の日本マスコミの論調を
丹念に記録しています。
一月十八日の都新聞(のちの東京新聞)の主張。
「われらは米国と事を構えることを欲せざるも、わが生命線は死を
もっても守らねばならぬ。しかして日本国民にはすでにその覚悟と
用意あるを米国政府ならびに国民にお知らせする。ウサギも七日な
ぶれば噛みつくということわざがある。いわんや東亜の盟主をや」
(下に続く)
翌日の朝日新聞。
「ハル長官は今日の国際危局が満州事変勃発より始まるとなし、全
責任を日本に転嫁し、――中略――これがため米国を含む他の諸国
の合法的権益は無視され破壊されたと極論しているが、日本の提唱
する大東亜共栄圏は東亜において白人より搾取圧迫されていたアジ
ア民族を解放せんとするものであり――以下略」
戦後の論調の中で、日本の軍閥が強引に政治を主導し、侵略戦争
を仕掛けたというのが大勢を占めていた時代があり、いかにも一般
国民が反戦・反軍隊であったかのように描写されていましたが、プ
ランゲは明確にそれを否定しています。
実際には、大陸進出によって多くの日本人が職と食を得ることが
できたのは、否定できない事実ですし、ドイツに対しても、その電
撃作戦の熱狂的賛美者が大多数でした。
軍事力についても、あれほど軍縮会議で警戒していながら、米国
民には基本的に日本の工業力が評価できなかったらしく、日米間の
緊張が高まってきた段階に至っても、その警戒感の乏しさは信じら
れないほどのものがあります。
その好例が鹿児島湾での雷撃隊の浅海面魚雷発射訓練で、市街地
のすぐ近くで反復実施されたのですから、その意志があれば数名の
諜報員によって情報を得るのはごく容易だったはずなのです。
日本とアメリカの間には、広い太平洋にも劣らない広漠たる相互
無理解という空白地帯が広がっていました。 (下に続く)
しかもお互いに理解しようとしないまま、徒らに交渉を続け、結
局は捨て身の蒋介石に主導権を奪われてしまったのです。
この間、日本海軍は、幕末長岡藩と同じ道を歩む運命にありまし
た。好むと好まないとに関係なく、急速に戦時体制に組み込まれて
ゆき、米海軍を仮想敵国とする猛訓練に拍車がかかります。
山本五十六がかねて恐れていた最悪事態です。
前年九月、日独伊三国同盟締結直後、彼が友人の原田熊雄男爵に
語った言葉に「全く狂気の沙汰である。事態がこうなった以上、私
は自分の全力を尽くすつもりである。おそらく私は旗艦長門の艦上
で戦死するだろう」というのが記録されていますが、まさにその通
りに進行してきたのです。
戦争も辞さない、ただし最後まで外交交渉を続ける、と御前会議
で決定されたのが十月の下旬。この時点で山本五十六は強引に軍令
部を説得し、真珠湾攻撃構想を確定。
十一月十一日、潜水艦隊先鋒八隻、ハワイ方面に出発。十八日ま
での追随二十二隻。
十二月一日、最後の御前会議で開戦やむなしと決定。
同日、軍令部総長永野修身、連合艦隊に出撃命令。
――次回に続く
日本探訪HOME > 日本史随想 >山本五十六と真珠湾攻撃前編 ≪前のページ |次のページ≫