『愛甲文雄大佐の浅海面魚雷開発と「愛甲文書」』
             ――追録篇その(十五)


 現在、私たちがこの貴重な資料を知ることができるのは、愛甲大
佐のご長男である故愛甲一郎氏(海兵七十八期六〇四分隊)が、病
を押して、「栄枯は夢か幻か」の表題の著書を平成十三年に上梓さ
れたからです。


 この本の著述の本来の目的は、一家の記録を残すためであったら
しく、表題も出身地に因み薩摩琵琶『城山』の一節に拠っており、
配付先も縁故関係に限定されていました。
 内容においても、愛甲一郎個人の歴史観、戦争観、文明観に及ん
でいる部分が多く、配付当初はその観点で読まれていたようです。


 ところが、平成十五年十一月に著者が長年の闘病の末に死亡し、
著者と同期同分隊の下平武氏が遺された著書の配付を引き受けた頃
から、状況が変化し始めます。
 というのは、下平氏はその後七十八期の代表幹事を勤めるなど、
海軍関係者と接触することが多く、二九六ページの著書のうち五六
ページを占める浅海面魚雷開発経緯の部分が脚光を浴びてきたので
す。
 下平と、愛甲大佐の四男で自衛隊OBの四郎氏の調査によって、
この著書の基礎資料は、リストだけでA4版8ページ七百点に達す
ることが判明。たまたま某放送局が「その時歴史は動いた」で真珠
湾攻撃を採り上げた際に防衛庁(当時)資料室に連絡します。
                          (下に続く)

  防衛庁資料室は、その膨大な原資料の中から、愛甲文雄の「水中
 兵器について」、「真珠湾雷撃秘話」ほか2点の寄贈を要請し、遺族
 は前記の著書を添えて防衛庁に寄贈しました。
  結局、某放送局の放送内容は、真珠湾攻撃の核心である浅海面魚
 雷に触れることなく、H・K氏の解説もまた従来の通説の域を脱す
 ることができず、新鮮さに欠けたままで終わります。
 (H・K氏は、栗田中将に関しても、七十八期六〇二分隊大岡次郎
 が期会誌「針尾」に投稿した記事を見る機会がなく、誤った栗田中
 将観を主張する結果となっていました。栗田中将については、最晩
 年に至って大岡次郎に語った言葉以上に信頼できる証言は存在しな
 いのです――この点については以前に叙述済。
 H・K氏にとって、どうやら海兵七十八期は鬼門のようです)

  この不幸な行き違いによって、浅海面魚雷は再び脚光を浴びる機
 会を失ってしまいました。
 現在私たちが利用することのできるほぼすべての著書・参考資料
 は、画竜点睛を欠く(最も大事なものが欠けている)状態です。
  たとえば淵田美津雄の著書でも、魚雷攻撃の成果を高く評価して
 いながら、浅海面魚雷開発の経緯には全く触れていません。
  彼が故意に無視したのではなく、開発が極秘に進行していて、攻
 撃部隊にはその結果だけが与えられていたからです。

  また米人のゴードン・プランゲは、日米双方の関係者多数と面談
 して真珠湾攻撃に関する彼の著書(邦名トラ・トラ・トラ)を出版
 していますが、その中での愛甲文雄は姓名の引用のみなのです。
                           (下に続く)

  おそらくは、愛甲大佐自らの意志によって、積極的発言を控えた
 ばかりか、一切の取材にも応じなかった結果と思われます。
  ここにもサイレントネービーが存在していたのでした。

  なぜ愛甲大佐が発言も取材も拒絶したのか、その真意は前掲の著
 書によっても明らかにされていません。
  幾つかの推理は可能であっても、ここでは敢えてそれに立ち入る
 ことなく、この貴重な資料の持つ重大な意味の解明に集中したいと
 思います。
  なお、その重要性に鑑み、前記著書のうち浅海面魚雷に関係する
 部分を、これから「愛甲文書」と特別に呼ぶこととします。

    「愛甲文書」の概要

  愛甲大佐は海兵五十一期生です。
  これまで述べてきましたように、この期は日本海軍の歴史の中で
 も特別な役割を担っています。
  当時の校長はあの鈴木貫太郎であり、武士道と紳士教育を基底と
 し、一般教養の充実を主眼とした独自の教育が行われました。
  工藤俊作、樋端久利雄(といばなくりお)、それに小園安名など
 の個性的な異色人物がこの随想の追録篇にも登場しています。
  また、子が七十八期というのでは、愛甲父子のほか、板垣金信と
 裕の例が紹介されています。
  一期後輩の五十二期には、淵田美津雄、源田実、第一次神風特別
 攻撃隊当時の副長玉井浅一など。それに高松宮です。
                           (下に続く)

  大正十二年七月に兵学校を卒業した愛甲文雄は、米内光政が艦長
 をしていた練習艦磐手に乗艦、この間、豪州遠征も行っています。
  次いで大正十四年、軽巡洋艦多摩に移り、ホノルル港に寄港。当
 時の印象を勤務録に書き残していました。
  平成三年十一月、愛甲文雄(九十歳)が出火により死亡した際、
 かつての勤務録が焼け跡に残っているのを四郎氏が発見。その内容
 の一部を下平氏が期会誌「針尾」四九号で紹介しております。

  その勤務録の抜粋。
 「――背ハ険阻ナル厳山ニシテ天然ノ要害ヲナセ共湾ハ水浅ク且ツ
 又東風ノ影響ヲ蒙ルコト大ナリ」
  これが愛甲文雄と真珠湾の関わりの第一歩です。
 (もしも某放送局やH・K氏がこの事実を知っていたならば、青年
 士官愛甲文雄が真珠湾を背景に佇む姿に、後年の村田少佐の雷撃隊
 奇襲の映像を重ねて、印象的な演出が可能だったはずですが、そう
 ならなかったのは、局側にとっても視聴者にも不運でした)

  彼は当初から水雷屋であって、魚雷には縁が深く、選ばれて航空
 魚雷の研究に専念し、やがて浅海面魚雷開発に進むのです。
  昭和十二年十二月、彼は同期の片岡政市と共に、第一回の雷撃専
 攻特修科学生を命じられ、翌年七月に卒業するまで、二人だけで魚
 雷の基礎知識の習得に没頭しました。
  二人は研究効率を上げるために、研究の分担を発案、愛甲はハー
 ド面と兵器本体を、片岡は射法などのソフト面と照準器等の付属品
 部分を担当し、このコンビはその後長く続きます。   (下に続く)

  航空魚雷自体の開発は、すでに昭和十一年に成功しています。
  これは昭和六年に登場した九一式魚雷を改良したもので、空中を
 飛ぶ際の雷道を安定させるための安定器に工夫がありました。
  しかしこの時期には魚雷を運ぶ艦上攻撃機も、魚雷そのものも、
 日進月歩であって、魚雷については日本海軍の最高傑作と言われる
 九三式酸素魚雷が誕生し、艦上攻撃機に関しても以前より高速の九
 六式に変わり、水上または水中発射用としてはほぼ理想的な状態に
 達していたものの、これを航空魚雷に適用するのには無数の課題が
 山積していました。

  九三式魚雷は、従来の魚雷が燃料の燃焼に空気を使用する所を、
 酸素使用に代えることにより、速度は約十ノット速く、走行距離は
 実に四万m、さらに気泡が生じないため敵艦が回避できず、命中す
 れば炸薬五百キロ一発で巡洋艦を撃沈できるとされ、終戦まで優位
 を保ってきた日本海軍の誇る無敵の兵器でした。

  意外にも、この高性能が航空魚雷には障碍となったのです。
  航空魚雷は或る程度の高度で発射され、海面に激しく叩き付けら
 れるので、精密機械である九三式酸素魚雷では機能不全や故障を引
 き起こしやすいのです。
  愛甲・片岡はまずこの難問の解決を迫られました。

  「愛甲文書」によれば、その解決のために彼らが到達した結論は
 正に『逆転の発想』そのものでした。進歩の頂点に至った九三式酸
 素魚雷を捨てて、旧型の九一式魚雷の採用を選んだのです。
                           (下に続く)

 「雷撃部隊には射程の長いのは必要ない」――愛甲
 「無航跡(気泡が出ないこと)は艦船用魚雷には利点だ。しかし、
 航空魚雷には関係ない」――愛甲
 「実戦の場合、飛行機は敵が回避できないような至近距離に肉薄し
 発射する。雷跡が見えようが見えまいが関係ない」――片岡
 「魚雷は精密機械だ。しかし、実戦では頑丈の方がよい。雷撃部隊
 では扱い易いものが必要だ」――愛甲
 「長期間連続貯蔵でき、その上量産できること」――片岡
 「酸素魚雷では、酸素の詰め込み作業が大変だ。何十機もの雷撃機
 では不可能だ。しかも銃弾一つで爆発する。空気式ならば作業も楽
 だし、機銃で撃たれても空気が洩れるだけ」――愛甲・片岡

  こうして、航空魚雷としては九一式魚雷を改良した九一改の採用
 が決定され、昭和十三年末から改造準備に入ります。
  改造と量産は平行して進められました。
  まず長崎で量産された九一式魚雷の改一を改二に改造。その図面
 を検討して改三とし、量産に入る。こうして最終的には改七まで生
 産され、充分に実戦に耐えられる性能を獲得します。

  昭和十四年夏。佐伯湾での演習で、魚雷の発射訓練も行われた時
 のことです。首席審判官に魚雷の効果を諮問された愛甲少佐は、答
 えました。
 「無効です。こんな浅い海では魚雷は皆、海底に突きささって、全
 部射点沈没です」
  水深二〇mの佐伯湾を念頭に置いた回答です。    (下に続く)

  これに基づいて審判官は雷撃の無効を宣告し、同時に、愛甲少佐
 には積年の課題を解く発想が閃くのです。
  「愛甲文書」は、この間の事情を明快に記録しており、浅海面魚
 雷の最初の発想が昭和十四年夏であるのは確かな事実です。

    浅海面魚雷の発想

  戦後の一般人も、歴史研究者も忘れてしまったことの一つに、当
 時の若い海軍士官たちが抱いていた、祖国日本に迫る危機への意識
 と、国家防衛への責任感の強さがあります。
  彼らは、強大な米英海軍との艦隊決戦は絶対に避けなければなら
 ないと知っていながら、次第に国がその方向に向かっているのも予
 感し、その時に自分たちがなさなければならないことを、自らの責
 任として受け止め、対応策の案出に苦慮していました。

  愛甲の発想は、米海軍の進出を阻止する最善の戦術は、碇泊中の
 艦艇を航空隊で奇襲、魚雷攻撃によって大打撃を与えるという作戦
 でした。
  この戦術の成功のためには、攻撃対象となる港湾の地形・水深の
 事前調査と、それに対応できる魚雷の開発が不可欠です。
  愛甲は、軍の機密地図によって、マニラ、グァム、香港、真珠湾
 などの軍港の水深を調査し、沈度十二mという目標を設定、この目
 標値を目指した彼の科学的実験が始まります。
  魚雷を発射する艦上攻撃機の種類と速度、発射の高度と角度、飛
 行機の起こす気流が魚雷に与える影響、などの実験です。
  多角的な知識と、直感力を必要とする実験が予想されました。
                           (下に続く)

  実験目標は、本来は水中を推進するように設計された魚雷を、空
 中発射した時、空中での安定姿勢を保つ最善の方式の確立です。
  従来は、魚雷の尾の部分に框板(きょうばん)と言われる木製の
 板を取り付けることで、回転を制御し、方向と射入状態を調整する
 だけでしたが、愛甲は徹底的な実験の反復によって、これだけでは
 沈度十二mは不可能なことを発見しています。
  原因は、飛行機で運ばれている際に、飛行機の進行とプロペラの
 回転が引き起こす気流が魚雷に影響し、一定の回転力を発生させる
 からです。これが、愛甲の名付けた『魚雷の転動』で、これを抑止
 する方法が求められたのです。

  苦心の末に発見された解決方法は、框板に楔形の角度板を取り付
 けて、ここに発生する風圧で逆回転力を加えることでした。
  これによる改良で、射入状態が安定し、ついに沈度十二mがほぼ
 七五%の確率で達成されるという成果が得られました。
  こうして浅海面魚雷の開発は技術的には成功したのです。
  第二の問題は、愛甲の戦術思想が、上層部には容易に理解できる
 ものではなかったことでした。
  軍令部、連合艦隊司令部には、駆逐艦、水雷艇、潜水艦出身者が
 多く、日本海軍の最高傑作の一つである九三式酸素魚雷に逆行する
 かのようなこの発想は、本来受入れ難いものがあったようです。

  この状況を一変させたのは、連合艦隊司令長官の山本五十六で、
 昭和十四年十一月、長官直々の意向で、愛甲は連合艦隊司令部付を
 命じられ、開発の継続が認められたのです。      (下に続く)

  「愛甲文書」によれば、この時、愛甲が成功率一〇〇%にこだわ
 るのに対して、山本長官は次のように激励したということです。

  「万一太平洋で戦争が起こったら、あの魚雷(=浅海面魚雷)が
 主兵器となる。成功率七五%でもいい」と。
  すでにこの時には、山本五十六が、愛甲と同じように、米英海軍
 に対抗するため、港湾泊地の敵艦への魚雷攻撃を主体とする戦術構
 想を抱いていたのは確かです。

  この後、依然として山本長官以外の上層部の無理解に苦しみなが
 らも技術的な開発を続けていた愛甲に、有力な味方が現れました。
  中学の同級生が帝大から海軍の技術士官となり、工場の副工場長
 格となっていたのが一つで、この池田技術中佐の協力を得て、品質
 改良と量産は極めて順調に進みます。
  もう一つは、昭和十三年以降、技術士官にも二年現役制度ができ
 て、大学の理工学部、高等工業学校から優秀な人材が多数採用され
 たことです。
  こうして、多数の技術士官の採用、工員の増員、九一式魚雷専用
 工場の建設が軌道に乗ってきました。

  昭和十五年十一月ころから、全国に魚雷調整設備の整備計画を開
 始します。
  北は北海道から南は台湾まで、さらに南洋群島も包含して、合計
 約三十カ所。すべてに訓練充分な人材を配置できるだけの組織も確
 立していました。                  (下に続く)

  浅海面魚雷の推進が軍令部の作戦参謀の三代中佐から愛甲に伝え
 られたのは、開戦年の昭和十六年の正月早々のことです。
  三代中佐は、愛甲に実験の再開と、成功率百%への向上を求めて
 きました。
  軍令部がこのような積極姿勢を見せたのは初めてのことです。
  愛甲はこれまでの非協力の憤懣をぶっつけて、これを拒絶し、二
 人の激論となり、ついに根負けした三代は軍機密を明かすことにな
 ります。

 「日米関係は重大局面を迎えた。山本長官の提案に対し、永野軍令
 部総長も真珠湾攻撃に同意された。この成否は、一にかかって雷撃
 にある。ぜひ頼む」
  もはや愛甲は断ることはできないのを知ります。
    三代はさらに、新型魚雷の必要な時期と本数を指定しました。
  時期は十二月末。必要本数は百五十本。うち百本が真珠湾用、五
 十本が内地用というのです。
  また彼は、浅海面魚雷の訓練場所の選定も依頼しました。

  二月、海軍大臣決裁。訓令により直ちに委員会開催。
  指示された十一月三十日を目標に、今まで舞台裏に潜んでいた浅
 海面魚雷の発射実験は、一躍、全海軍の期待を受けて檜舞台に飛び
 出すことになったのです。
  発射訓練場については、すでに横空(横須賀航空隊)の雷撃担当
 の楠本少佐と全国的に適地を探したことがあり、改めて真珠湾に地
 形が類似しているのを第一条件として、選定作業に入ります。
                          (下に続く)

  候補地は七カ所。最終的に鹿児島湾の垂水沖に決定しました。
  桜島が大隅半島に接するあたりで、錦江湾の中心部です。
  猛訓練が始まります。第十一艦隊の雷撃隊は、夜明けとともに鹿
 児島市の鴨池を離陸し、城山方面の上空四千mから高度三、四十m
 まで急降下。さらに旋回しながら高度五m、目標まで二百mの距離
 で魚雷発射。命がけの訓練です。
  訓練結果は上々でした。参加百機は一機も事故を起こさず、魚雷
 の性能も大きく向上しており、海底の砂に潜らず回収された数は九
 十五本。見事な成功率でした。

  これに自信を得た愛甲らは、公式の発射実験を行うこととし、実
 験計画の責任者に、これまで病気療養のため一時離脱していた片岡
 政市を呼び戻し、さらに改良を加えたうえ、八月二十二日、横空教
 官の高松宮臨席の場で公式実験を実施します。開戦まで三カ月強。

  この日以降、二回、三回と実験を重ね、九月十五日までには、沈
 度十二mでの成功率百%を確保。さらに、空中、水中の雷道が安定
 し、命中精度が大きく向上。しかも炸薬の量が増して爆発威力が酸
 素魚雷の二倍となり、すべてが良い方向に動いていました。
  最後の難関は、納期が十五日早められ、十一月十五日となったこ
 とです。当初の十一月三十日でも不可能に近いのに、一段の短縮は
 全く無理と思われましたが、命令は絶対で、工場は三十六時間連続
 作業を決行して対応します。
  十二月八日に至って、生産部門は初めてこの納期繰り上げの真意
 を理解し、同時にその労苦が報われたのを知るのです。
                           (下に続く)

  納入は納期前日の十一月十四日。
  それでもハワイ攻撃隊の主力は前日に出発していて間に合わず、
 空母加賀と駆逐艦二隻が佐世保に残り、十五日に魚雷百本を積み込
 み、単冠湾に急ぎ、そこで魚雷を配分するという綱渡りでした。
  片岡政市を中心に作成された詳細な仕様も、横須賀の巡洋戦艦比
 叡の出港寸前で間に合ったとされ、正に間一髪でした。

  真珠湾攻撃の成果は、誰の予想も上回るものでした。
  湾内に二列で碇泊していた米海軍の戦艦等のうち、外側の艦はほ
 ぼ全艦が魚雷で仕留められました。
  日本軍は、第一次、第二次併せて、爆撃機二三二機と雷撃機四十
 機を投入、その戦果は拮抗していて、雷撃隊の効率の高さが光って
 います。
  愛甲文雄が、その戦果に全く触れていないことで、却って読後感
 に爽やかな印象を残すことになりました。

  「愛甲文書」は、また、従来から異説の多い重要事項に決着を付
 け、真珠湾攻撃の本質に迫る役割を果たしています。
  その第一は、連合艦隊が真珠湾攻撃を決定した時期で、愛甲は明
 確に昭和十六年の正月としています。三代中佐が開発の促進を依頼
 (強要?)に来た日であって、開戦の数年前とか、半年前などの説
 はいずれも誤っているのが明らかです。
  第二は、真珠湾攻撃が十二月八日に決定された時期についてであ
 り、なぜ予定を繰り上げてまでこの日に決めたかが大問題です。
                           (下に続く)

  実はこの二点が、真珠湾攻撃について決定的に重要な意味を持つ
 のですが、今回その点が確認できたことで、次回には改めてその根
 本的な考察に入ることができるのです。
  ここでは、文字通り万難を排して浅海面魚雷開発を成功させた愛
 甲文雄氏と、その記録に基づいて病魔と闘いながら貴重な著書を完
 成させた故愛甲一郎氏に敬意を表し、また愛甲四郎氏らご遺族と、
 愛甲一郎同期生の下平氏が、著書の保存と普及に尽力されたことに
 対して、深い感謝を表明したいと思います。

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