『回天隊和田稔少尉、久住(くすみ)中尉、高貴なる魂の人々』
――追録篇その(七)
黒木・樋口の二人の若き大尉が、その命を削りながら遺した記録
により、海軍の上層部は新兵器回天について、その改良を要する箇
所を知るとともに、基本的な方向は間違っていないとの確信を持つ
に至り、直ちに本格的な増強計画に着手します。
生産目標は千基(実際は五百基弱)。 量産体制の確立と要員の教
育訓練が急がれることになります。
十月初め、大津島基地と倉橋島に各地から要員が招集されます。
潜水隊、潜水学校出身者はむしろ少数で、土浦航空隊から百名、
奈良航空隊から二五〇名など、多くの飛行学校出身者が集められま
した。
予科練生の大量募集によって、操縦員については一応の充足が見
込まれる一方、航空機生産が停滞したという事情があったのが主因
と考えられますが、航空操縦員には視力、敏捷性などの肉体的条件
がきびしく、この事情による配置転換もあったと推定できます。
彼らには回天の内容の詳細は示されず、ただ生還は不可能な新兵
器とだけ知らされ、改めて志望の有無が確認されました。
航空特攻の場合もそうですが、とくに回天では強制的か半強制的
かなどの議論はあまり意味がないと断言してよさそうです。
というのは、幾つかの決定的な証言が存在するからです。
(下に続く)
たとえば、当時の回天隊員の手記(T・G氏、回天特攻学徒隊員
の記録など)のような批判的な色彩の濃い著書でも、強制の事実は
明確に否定しているばかりか、母一人、子一人の理由で辞退した同
僚の実名までが明記されているからです。
回天隊の場合、問題は意外な所にありました。
これを神風特攻隊と比較しますと、その意味がよく分かります。
神風特攻隊では、使用する兵器(飛行機)は以前から存在してい
たもので、隊員はすでに飛行学校で訓練を受けています。
隊員としては、戦場でその訓練の成果を発揮することが求められ
た任務です。
ところが回天隊では、まず兵器の構造から学び、次に実地訓練を
行い、しだいに習熟してゆくという、いわば回天学校の課程を経る
必要があったのです。
これは予科練の例と同じで、隊という名があっても、実態は学校
であり、しかも促成が必要ということから、凄絶とも言えるような
猛訓練が展開される結果となりました。
神風特攻隊の活躍がその傾向に拍車をかけることになります。
十月二十一日、狼部隊に所属していた零戦のエース久納好孚(よ
したか)中尉は、直掩機も戦果確認機も要らない、命も名誉も要ら
ないとの言葉を残し、端然と爽やかに特攻第一号として出撃し、帰
らぬ人となります。 (下に続く)
四日後の十月二十五日には、関行男大尉の敷島隊の爆戦5機、直
掩隊4機が米軍護衛空母艦隊に大打撃を与えたとの報が伝えられ、
回天隊の訓練はいよいよ激しくなってゆきます。
終戦までに、さらに十三人が殉職しました。その中には、戦後最
も有名な回天隊員の一人となった和田稔少尉がおります。
和田稔少尉
彼の名が知られるようになったのは、七月二十五日の殉職後、海
底に沈んだままの回天が、戦後の九月末に発見されたとき、遺体の
傍に日記が残されていたからです。
日記は『わだつみのこえ消えることなく』の題で出版され、彼の
比類ない優れた人間性が広く知られることになりました。
前記のT・G氏の著書や、永沢道雄の『発進セシヤ〜「回天」海
底の沈黙』などでも、彼は主役の一人として、周辺のすべての人々
からその死を哀惜される人物として描写されています。
和田稔は一高・東大出身の予備学生で、当時の代表的な秀才でし
た。しかも豊かな家庭に育ち、福岡の小学生時代から自宅にヴァイ
オリンの先生の出張を受け、父はマンドリン、母は琴、弟もヴァイ
オリン、三人の姉妹はピアノという音楽一家でした。
(和田稔の得意曲は、マスネ作タイスの瞑想曲とされています)
(下に続く)
一高というのは、第一高等学校の略で、当時の中学生が目指す最
難関校です。ここに合格すれば東大への道が開かれ、さらに高級官
僚、学者、医師など、立身出世のコースが約束されていました。
少年雑誌には、貧しい家庭に生まれた主人公の少年が、新聞配達
で学資を得ながら一高を目指し、あらゆる困難に打ち克って目的を
達成するというストーリーの小説が連載され、広く読まれたもので
した。今思うと、それは貧しい小国日本が先進国入りを目標に、必
死に這い上がろうとする姿の縮図でした。
少年たちは、敏感に国家の危機に反応し、立身出世を捨て、陸海
軍の諸学校を志望し、とくに人気の高かった海兵などは数十倍とい
う競争率で、一高か海兵かといわれるほどの難関となりましたが、
和田たちもまたここに合流することになったのです。
しかし、それでも彼は特別の目で見られました。
同僚たちは和田に、「死ぬのはおれたちの役割だ。君は生きる道
を選べ」と言って、回天隊からの転属を勧めたようです。
先述のように海兵出身の士官たちの戦死率は極めて高く、予備学
生には多方面でその補完役が期待されていました。
たとえば海兵最後の七十八期では、七部八十四分隊四千人の生徒
に対して、指導責任者である部付監事は僅かに七名。これ以前の各
期では多数の上級生が担当していた指導責任をこの人数で負ってい
ました。 (下に続く)
しかもこの七名のうち海兵出身は三名。残りは機関学校三名と予
備学生が担当しているのです。
英語、数学、国語などの学科の教官は、大部分が予備学生の担当
で、さらに不足する要員は民間人で補っています。
和田少尉のような人材には他にいくらでも道がありました。
だが彼は迷うことなく隊に止まります。
そればかりか、しばしの憩いの場などでは、積極的にヴァイオリ
ンで仲間を慰める労を厭わなかったとされています。
生きている時も殉職した時も、さらに加えて戦後も、遺された日
記によって、彼は多くの人に愛され、尊敬され続けました。
彼には音楽の才だけでなく、詩人の心も備わっていたようです。
遺された俳句の中の秀句を一つ。
――花一つ 沖に流して 春の雨
死を眼前にしてのこの静穏の心境。根底にある「高貴なる魂」を
思うと、ただ感嘆するしかありません。 (下に続く)
同期の桜
板倉光馬少佐が回天隊に着任した時、彼を当惑させた人物の一人
に帖佐中尉(海兵七十一期)がおりました。
何しろ長髪がすごかったようです。
海軍では、士官については長髪は禁止されてはいなかったとはい
うものの、帖佐中尉の場合は由井正雪並みの長さだったそうですか
ら、困惑した板倉少佐も何度か注意したらしいのですが、どういう
わけか彼は馬耳東風、一向にその注意が通じなかったようです。
間もなく(時期不詳)彼は、敵の上陸に備えて各地に配属された
基地回天隊に転属し、そのため戦後も生き残ります。
それと同時に、彼によって広められたあの歌もまた生き残り、最
もよく歌われるナンバーワン軍歌となりました。
それが「同期の桜」です。
正確に言えば、これは軍歌ではありませんし、帖佐中尉の作詞、
作曲でもありません。彼が発掘し広めた「戦場の歌」です。
どうやら原曲は西条八十(さいじょうやそ)の「二輪のさくら」
という上海での海軍の特別陸戦隊の活躍を讃えた歌らしく、その元
の歌詞も「君と僕とは二輪のさくら 積んだ土のうのかげにさく・・
・・・・・・・」で始まる可憐なものです。
この歌詞を戦場向きに代えたのが帖佐中尉の工夫で、しかもその
途中の「同じ回天隊の」を同じ兵学校や、同じ航空隊など自由に選
べるのが値打ちです。 (下に続く)
やや哀愁を帯びた曲、分かりやすい歌詞。これらはあのリリー・
マルレーンやブンガワン・ソロにも共通するもので、作曲家の堀内
敬三が、軍歌としては「元気もなければ将来への期待もない」と酷
評したのは見当違いの批評というべきです。
軍歌ではなく、戦場の歌と考えれば、広く歌われただけの価値は
充分にあり、それが回天隊という苛酷な環境の中で、帖佐中尉とい
う自由な雰囲気を持った人物の手によって生まれ、隊の人々に愛さ
れ歌い継がれたことの意味を深く考える必要があります。
伊四八潜水艦、塚本太郎少尉、吉本健太郎中尉
十一月七日、特別攻撃隊菊水隊が結成され、伊三六、伊三七、伊
四七の三隻にそれぞれ四基の回天が配属され、いよいよ戦闘体制に
入ります。
黒木大尉に後を託された仁科関夫中尉もこれに参加し、殊勲を挙
げますが、この詳細は都合により次回に回し、今回は翌年一月に出
動した伊四八の二人について語りたいと思います。
広島県呉市の名所、大和ミュージアムに隣接して、海上自衛隊呉
史料館「てつのくじら館」があります。
代表的な展示品は、実際に稼働していた潜水艦「あきしお」です
が、戦時中の回天も展示されていて、その歴史を知る者には万感の
思いがあります。 (下に続く)
付随した展示品の中に、『回天搭乗員塚本太郎少尉の遺書』があ
ります。彼が母親からもらったハンカチに書いた弟の悠策宛ての遺
書です。
「悠策 兄貴ガツイテイルゾ 頑張レ 親孝行ヲタノム」
さらに、レコード盤に自分の肉声を録音したメッセージが流され
ています。
塚本少尉は、東京出身、慶応大学を経て予備学生となり、回天隊
に入隊、昭和二十年の一月二〇日、伊四八潜水艦に吉本健太郎中尉
(海兵七十二期)、豊住和寿中尉(機関学校五十三期)とともに同
乗、ウルシー環礁の米海軍泊地攻撃に向かい、二十三日に母艦が撃
沈され、全員戦死したと推定されております。
平成十九年十月、開館間もないこの施設を訪れた海兵七十八期の
或る分隊の一同は、この塚本少尉の遺書を見て、奇縁におどろくの
です。
というのは、七十八期の期会誌「針尾」は、以前同乗者の吉本健
太郎中尉に関する記事を掲載したことがあったからです。
その記事によれば、七十八期三一二分隊の城島昭は、小学生のこ
ろ北朝鮮に住んでおり、近所の住人であった中学四年の吉本の颯爽
たる姿にかねてから憧れていたというのです。
二人の縁は続き、城島一家は横須賀に転居、吉本は海兵卒業後乗
艦が横須賀に寄港する度に城島家を訪問、互いに親交を深めます。
(下に続く)
この楽しく親密な関係は吉本が城島家の両親、姉、城島本人宛て
に別れの手紙と遺書と、墨書の漢詩を送ってきてウルシー出撃に発
つことで終わり、少年は自らも海兵を志望することになります。
そして終戦。
おそらく少年の心には、吉本の颯爽たる青年士官の姿は永遠に変
ることなく残っていたのでしょう。
平成十一年十一月、彼は横浜一中の同期生でもある三〇六分隊の
五十嵐鐵馬を誘って、大津島で行われた回天隊並びに伊号潜水艦の
乗員の慰霊祭に出席しています。
――永遠の記憶。
それは記憶する側にとっても、記憶される側にとっても、何物に
も代えがたい人生の宝です。私たちは、回天隊員の人たちが記憶に
値する人たちであったことに、救いにも似た感を覚えるのです。
久住(くすみ)宏中尉
彼もまた海兵七十二期の人です。
七十二期は卒業六二五名のうち三五七名が戦死し、戦死率五七・
一%。戦慄的な数字です。 中でも回天での戦死者七名(殉職者等を
含むと九名)は他の期を圧しています。
七十三期と比較しますと、どちらも航空隊での戦死者が多いのは
同じですが、七十二期は回天を含む潜水艦が多く、七十三期は艦艇
関係が多いという特色があります。
潜水艦が多いのは七十期、七十一期も同様で、これは海軍組織の
特殊性に由来しています。 (下に続く)
海軍ではそれぞれの艦艇が独立の組織です。海戦の状況によって
は孤立して戦うこともあり、時には中立国の海域に入って交渉に当
たる必要もありますから、原則として一艦艇には必ず一人以上、で
きれば複数の海兵出身者を配置しなければならず、それは潜水艦も
例外ではなかったからです。
むしろ七十三期が例外で、この時期には潜水艦の消失が著しく、
配置の必要性も大きく減少していた結果と解釈されます。
そのため、彼らの多くは連合艦隊に残された最後の決戦用艦艇へ
の配属が多く、これが彼らの戦死者の増加の主因となりました。
例示しますと、フィリピン沖海戦の山城、扶桑、瑞鶴で各6名、
武蔵、千代田で各5名、最上、多摩で各4名などです。
回天隊に配属された海兵七十二期生は十名。うち七名の戦死が確
認されており、他に殉職一(中島健太郎中尉)、詳細不明の戦死者
一(土井秀夫中尉)ですから戦死率は実に九〇%に達します。
回天隊に着任した総数は一、四二六人で、戦死、殉職者の合計は
一八六人。戦死率一三%。いかに七十二期の数字が突出しているか
がよく分かります。
(巷間の著書の中には、上層部が海兵出身者の回天特攻に消極的で
あったなどと記述しているものがありますが、全くの虚報であるの
は明らかです。死者の名誉に関わる記述については、もっと慎重で
あってほしいものです) (下に続く)
久住中尉は、多くの士官の中でも特異の存在感で知られた人物で
あったようで、いくつかの断片的な記録が残されています。
指導係としての彼は、若い隊員に対し回天の重要性を指摘したあ
と、必ず次のような言葉を付け加えたそうです。
「――諸君は、くれぐれも死に急ぎをしてはならない。いたずらに
死を急ぐことは、真の勇者の道ではない」と。
或る出来事によって、彼は身を以てその真の勇者の姿を体現して
見せることになります。
猛訓練が行き過ぎた結果、修正という名の鉄拳制裁が横行してい
ました。或る時、予備学生の緊張感が足りないというような理由で
海兵出の上級生が鉄拳制裁を始めたのです。
上級生は彼にもそれへの参加を期待したようでしたが、彼は逆の
行動に出ました。予備学生を庇って上級生に抵抗し、怒り狂った鉄
拳を我が身ひとりで受けたのでした。
十二月初め、金剛隊が結成され、同期の石川中尉、川久保中尉ら
とともに、久住中尉は翌年早々の出撃の準備を始めます。
遺書は淡々としたものでした。
――無名の防人(さきもり)として、南溟(なんめい)の海深く
安らかに眠り度く存じ居り候。
――命より なお断ちちがたき ますらおの
名をも水泡(みなわ)と いまはすてゆく
(下に続く)
昭和二十年一月五日、金剛隊の各潜水艦は順次基地を出発して南
方の目標に向かいます。伊三六、伊四七、伊五六、伊五八、そして
久住中尉の回天を載せた伊五三です。七十二期同期の石川中尉、川
久保中尉も他艦に乗っていました。
出発時、見送る母艦の電機長小家少尉に、久住中尉は一言残しま
した。「鯛の刺身が食べたい」と。
久住中尉の回天の出撃は一月十二日。パラオ諸島北部です。
戦後の小家は、毎年一月十二日、久住中尉ほか三名の隊員のため
に鯛の刺身を供え続けたと伝えられています。 (次回へ続く)
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