――追録篇 その(1)
『日米海軍の武士道と騎士道。鈴木貫太郎首相、
工藤俊作中佐、
キャラハン大佐』
一九四五年四月十一日、連合軍がナチスドイツを東西からベルリ
ンに追い詰め、ヒトラーの命運も尽きかけたころ、米国大統領ルー
ズベルトが病死しました。
その直前の四月七日に日本の首相に就任したばかりの鈴木貫太郎
は、同盟通信社の古野伊之助を呼び、アメリカ国民に対する弔電の
発信を依頼しております。
その内容は国内には公表されず、古野の独断で英文により世界に
発信されました。
その要旨。
「今日の戦争においてアメリカが優勢であるのは、ルーズベルト大
統領の指導力がきわめて優れているからです。―――その偉大な大
統領を今日失ったのですから、アメリカ国民にとっては非常な悲し
みであり、痛手でありましょう。―――ここに私は深甚なる弔意を
アメリカ国民に申し上げる次第です」 (下に続く)
一方、同時期に発表されたドイツ政府の公式声明は、
「ルーズベルト大統領は今次の戦争を第二次世界大戦に拡大した扇
動者であり、さらに最大の対立者であるソ連を強固にした愚かな大
統領として歴史に残るであろう」というもので、死者への礼に欠け
品格の低さを露呈するものでした。
ナチスの圧迫を逃れて米国に亡命中だったドイツの作家トーマス
・マンは、日独両国の対応の余りの差に愕然とし、急遽祖国に向け
て声明を放送します。
「ドイツ国民諸君。皆さんは大日本帝国の鈴木貫太郎首相が、故ル
ーズベルト大統領を偉大な指導者と呼び、その死に際してアメリカ
国民に対し深甚なる弔意を表したことをどう考えますか。
―――東洋の国日本には、いまなお騎士道が存在し、人間の品性に
対する感覚が存する。今も死に対する畏敬の念と、偉大なるものに
対する畏敬の念が存する。これが日独両国の大きな違いでありまし
ょう」と(半藤一利、聖断―鈴木貫太郎、他による)。
愛する祖国への痛烈な批判です。
面目を失墜したドイツは、駐独の大島大使に不満を訴え、連絡を
受けた陸軍の将校(氏名不詳)が軍刀を鳴らして首相に詰め寄りま
すが、七十七才の高齢ながら、日清・日露両戦争を経験し、二・二
六事件では反乱軍により重傷を負った老首相は、少しも怯みません。
(下に続く)
「古来より、日本精神の特性の一つに、敵を愛す、ということがあ
る。私もまた、その日本精神に則ったまでです」と、穏やかな口調
ながら一蹴しています。
トーマス・マンに指摘されるまでもなく、この日独対決は完全に
ドイツの負けです。
戦士が戦場において敵と戦うのは、戦士としての義務を果たすた
めであって、個人の憎悪によるものではありません。武士道・騎士
道を問わず、死者を鞭打つなどの行為は恥ずべきものであり、たと
え敗者に対してもその死を悼み、死者に礼を尽くすのは、少なくと
も指揮官以上の者に求められる高度の倫理なのです。
太平洋戦争においては、日・米・英・豪の海軍の間の激闘の中で
決して少なくない武士道・騎士道が見られました。
私たちは、すでに豪州海軍のグルード少将においてその騎士道の
片鱗を見ています。
敵の死を手厚く葬るというのは、一見簡単なようでいて、自国民
と対立しかねない勇気ある行動であって、根底に騎士道がなければ
不可能であったでしょう。
戦艦大和が最後の出撃を敢行した際に、スプルーアンス大将が、
大和に対する敬意をこめて、航空機ではなく、米海軍の主力戦艦部
隊による艦隊決戦を提案したとされるのも、やはり騎士道精神にほ
かなりません。 (下に続く)
(結果的にはミッチャー中将が機動部隊艦載機を独断で発進させて
大和を葬り、スプルーアンスの騎士道は実現しませんでした。日本
海軍よりも米海軍にとって、痛恨事であったかも知れません)
甚だ遺憾なことに、戦後の日本海軍についての記述の多くは、栗
田艦隊の例のように、資料不足や意図的な故意によって歪曲され、
戦場の武士道についてはほとんど埋没されてしまいました。
武士道の極致とも言える特攻隊ですら、正当に評価されるまでに
は長い時日と多くの人たちの努力が必要であったなど、そのほんの
一例に過ぎません。
幸いなことに、ごく最近(二〇〇六年七月)、戦後の江田島の幹
部候補生学校卒業生によって新しい事実が発掘されました(恵隆之
介、敵兵を救助せよ!)。
偶然というか、当然というか、その主人公は海軍兵学校五十一期
卒の人物で、鈴木貫太郎校長時代の生徒であった駆逐艦「雷」(い
かづち)艦長工藤俊作中佐です。
当然というのは、鈴木貫太郎校長は、人間教育に重点を置き、鉄
拳制裁を禁じ、歴史・哲学教育を重視するなどの異色の校長であり、
工藤艦長もまた自艦内での鉄拳制裁を禁ずるなど、その方針を踏襲
していた人物だったからです。
工藤艦長の戦いの舞台はインドネシアのスラバヤ沖です。
(下に続く)
開戦の翌年(一九四二年)二月二十八日、スラバヤ沖開戦で日本
海軍は米・英・蘭・豪連合艦隊と会戦し、これを撃破します。
三月一日、英巡洋艦 「エクゼター」、駆逐艦 「エンカウンター」
ほか駆逐艦一隻はインド洋方面への脱出を図って、日本の重巡 「足
柄」「妙高」「那智」「羽黒」など四隻に捕捉され、相次いで撃沈され
ます。
工藤中佐の「雷」は、補給のため遅れて戦場に到着し、 「エグゼ
ター」、「エンカウンター」の乗員が救命艇に分乗して重油塗れの海
に漂流しているのを発見します。
中佐は迷うことなく救命開始を命令、敵潜水艦の襲撃を警戒しな
がら四二二人を救助、乗員二二〇人の自艦に収容し、体を洗わせ、
衣食を与え、負傷者の手当てをします。
その上で英海軍士官を集めて、英語にて「本日、貴官らは日本帝
国海軍の名誉あるゲストである」とスピーチし、彼ら士官たちに深
い感銘を残しました。
この時救われた英海軍士官の一人、元海軍中尉サムエル・フォー
ル卿もまた騎士道の人であって、命のあるうちに工藤艦長への恩を
返したい一心から、平成十五年十月、初めての日本訪問を決行しま
す。その年齢はすでに八十四才。
死の近づくのを予感した高齢の彼の執念でした。 (下に続く)
これ以前、昭和六十二年には米海軍機関誌 「プロシーデングス」
は、彼の、「騎士道、Chivalry」という一文を、七ページ
にわたって特集しています。
彼のその一文は、終生その心から消えることのなかった工藤艦長
に対する純粋な感謝から生まれたものですが、日本にとって思いが
けない恵みをもたらすことになります。
当時、英・米などの旧敵国への天皇の訪問には、退役軍人を中心
とする勢力による反対運動や、戦時犯罪に対する謝罪要求が大きな
障碍となっていましたが、フォール卿の発言には反論を許さない真
実の力が存在し、これらの動きも次第に鎮静してゆくのです。
来日したフォール卿を遇するため、十月二十六日、日本の防衛庁
(現防衛省)は、四代目の護衛艦「いかづち」に招待し、特別に観
艦式を行います。
この艦は、四五五〇トン、乗員一七〇人。遠路訪日のフォール卿
をねぎらい、工藤艦長と「雷」の乗員の武士道に敬意を表するため
の粋な計らいでありました。
しかしこの日、工藤艦長の姿を見ることはできませんでした。生
死を含めて完全に消息不明となっていたからです。
落胆したフォール卿は、日本側に調査を依頼して帰国。日本側は
旧部下、出身地の山形県の関係者などを中心に調査を進め、数ヶ月
後中佐の死と墓地を確認し、フォール卿に報告します。(下に続く)
工藤中佐はすでに昭和五十四年一月に、埼玉県川口市で死去して
いました。
戦後の中佐は、海兵のクラス会にも出席することなく、元部下や
何人かの同期生などのごく少数の人たちと交流するだけで、親戚の
医院の事務を手伝う傍ら、楽しみに防衛大学志望の少年に英語と数
学を教えるという、あの井上成美に似た日々だったようです。
ようやく今私たちは、関係者と恵氏の努力によって、工藤中佐の
艦長時代の武士道の全貌をほぼ正確に知ることができるようになり
ました。
前掲の著書には、駆逐艦「雷」に救助される英海軍将兵を写した
貴重な写真が掲載されております。
野蛮な未開人種と教えられていた日本軍に撃沈され、辛うじて海
上に脱出した彼らは、まず自分たちが射殺されるのではないかと脅
え、やがて日本兵が救いの手を差し伸べているのに気付き一転安堵
する、波間に漂う多数の英軍兵士たちの迫真の表情が、改めて工藤
艦長の決断の偉大さを如実に示しています。
第二次世界大戦を記録した報道写真は数多く、その中には例えば
あの硫黄島に星条旗を掲げる海兵隊員の群像のような、歴史的に重
要な意味を持つ作品などもありますが、このスラバヤ沖の敵兵救出
劇は、その人間的感動の重さという点で、あらゆる作品のうちでも
群を抜く位置を占めるものです。 (下に続く)
他方のアメリカ海軍では、戦艦ミズーリの艦長ウィリアム・キャ
ラハン大佐の騎士道が傑出しております。
実は、彼の行動が日本に知られた時期もまた極めて新しく、二〇
〇五年五月の可地晃(かちあきら)氏の著書『戦艦ミズーリに突入
した零戦』が最初と思われます。
日本への紹介が遅れた最大の理由は、突入した零戦搭乗員の特定
が極めて困難だったからで、可地氏によって最終的に確定した結果
私たち日本人もキャラハン艦長の見事な騎士道と、日本軍特攻隊員
の名誉ある最期を確認することができたのです。
ここには、敗者・死者に対する畏敬を失わない騎士道の真髄を見
ることができます。
一九四五年四月十一日、四日前に戦艦大和を撃沈して意気上がる
五十八機動部隊の一隊を護衛して、新鋭戦艦ミズーリは喜界島南方
に展開していました。
攻撃に向かったのは第五建武隊の零戦十三機です。
この部隊は、あの人間爆弾と通称される 「桜花」特別攻撃隊が、
三月二十一日の初動で、野口少佐 (六十一期)、第一分隊長三橋
大尉(七十一期)以下四十八機が潰滅したことから、一旦規模を縮
小し、残りの三分隊を通常特攻に再編成したうちの一隊であって、
「桜花」部隊の第四分隊長林富士夫大尉(七十一期)が隊長となっ
ていました。 (下に続く)
戦後生き残った林大尉の協力もあって、突入した零戦は石井兼吉
二飛曹 (戦死後四階級特進で少尉)、石野節雄二飛曹(同少尉)の
いずれかというのが確かめられました。
突入後、大火災が発生しますが、この時期の米海軍の消火能力は
著しく向上しており、直ちに消し止められ、その後には恐怖と疲労
の限界に達したミズーリ乗組員と、日本機乗員の遺体の一部が残さ
れます。
この時、遺体を海中に落とそうとする乗組員を制止したキャラハ
ン艦長は告げます。
「この日本のパイロットは、われわれと同じ軍人である。生きて
いる時は敵であっても、今は違う。激しい対空砲火や直衛戦闘機の
執拗な攻撃をかい潜って、ここまで接近してきたこのパイロットの
勇気と技量は、同じ武人として賞賛に値する。
よって、このパイロットに敬意を表し、明朝水葬に付したい」―
―と。
当然ながら多くの乗組員は反対し、不満の声があがりますが、キ
ャラハン艦長は断固として命令を実行させます。
翌朝。シーツに赤い日の丸を描いて作られた日彰旗で遺体は包ま
れ、五発の弔銃と、艦長以下の挙手の礼を以て、静かに海中に滑り
落とされます。名誉ある水葬の儀礼でした。 (下に続く)
零戦が突入する寸前の写真も、その翌日の水葬のフィルムも奇跡
的に残されていて、日本軍特攻隊員の勇気と、それに対し名誉を以
て遇したキャラハン艦長の騎士道は、こうして歴史に残り、この結
果は、米海軍全体の評価をも高めることになるのです。
いま私たちは、もともとは全く異なった起源を持つ武士道と騎士
道が、その倫理性の本質において、ほとんど同質であるのに驚きを
禁じ得ません。
自己に課せられた責務を果たすためには死をも恐れない勇気。そ
の反面では老人に対する尊敬。女性に対する優しさ、子供に対する
慈愛。そして敗者への労りと死者への畏敬。
そこには、国境を越え、民族の壁を破る。普遍的な価値が存在し
ています。
工藤中佐、キャラハン大佐、この二人の艦長のどちらがより偉大
であったか、比較はあまり意味のあるものではないでしょう。
救われた人命の数ならば工藤艦長がはるかに勝るのは明らかです。
しかし、勝者の在り方を身を以て歴史に残した点では、キャラハ
ン艦長の行動もまた不滅の輝きを持っています。
後生の人々の心に残す感動の深さには敢えて差をつける理由はあ
りません。
問題は戦後の二人の人生に起こった差です。
キャラハンは順調に昇進し、戦後は太平洋艦隊の司令長官に就任。
日本とも深い縁を保ち、その地位にて一九五七年退役。(下に続く)
戦艦ミズーリは艦上において日本が降伏文書に調印したことから
歴史的名艦として真珠湾に係留され、二〇〇一年四月十二日、死去
したキャラハン艦長を偲ぶ日米合同の追悼式が開催されました。
日本側で招待されたのは、あの第五建武隊の遺族たち。
多くの反対意見、批判論があるにもかかわらず、米海軍首脳部が
一貫してキャラハンの騎士道を支持し、同時に日本の特攻隊に敬意
を保っているのが分かります。
これに比較すると、いかに敗戦という事情があったにせよ、フォ
ール卿が老躯を押して感謝のための訪日を行うまで、工藤中佐の存
在すら埋没させていた日本側の対応は、大いに批判の対象となりま
す。
これは誰の責任というより、戦後日本全体を覆っていた自虐的・
被虐的風潮全体に由来するものと言えるでしょう。
敗戦直後、占領支配を容易にするため、占領軍が過去の日本はす
べて悪であったと強調したのは、方便として止むを得なかったかも
しれません。
問題は、そのため本来は歴史に残す価値のある重要事実まで埋没
させてしまったことで、日本の報道機関(マスメディア)、学者・
評論家などは、その責任を免れません。 (下に続く)
余 滴
ともあれ、工藤中佐の武士道は歴史に残ることができました。
その結果、予期しない幾つかの派生的な事実も表面化することに
なります。
その一つ。彼に大きな影響を与えた鈴木貫太郎校長の、すぐれた
教育者としての面に光が当たり、或る重要な事項についての関与の
可能性が大きくなってきたのです。
これまで鈴木貫太郎は、終戦を成功させた首相として論じられる
ことが多かったのですが、実は武士道と紳士教育を基底に、一般教
養の充実を主眼とする独自の教育理念を持っていた人物であったの
が判明しました。
私たちは、それに近い思想の人物をもう一人知っています。あの
井上成美です。
二人の関係は、鈴木大佐が巡洋艦宗谷の艦長時代、井上が士官候
補生として配属され、遠洋航海を共にした時に始まり、ここで教育
方針について共通認識に達したのではないかと推察されます。
終戦一年前の昭和十九年の夏、まだ兵学校の校長職に在った井上
の許を鈴木貫太郎が訪ね、二人で教育論を話し合い、鈴木から「海
軍士官を養成するには二十年を要する」という、かねてからの持論
が語られたとの記録があります。 (下に続く)
時期的にみると、ここで七十八期の教育方針についての言及があ
って、例の「人材キープ」の基本構想に到達したと考えるのが自然
です。
少なくとも、鉄拳制裁の禁止、英語・数学・国語等の一般教養の
重視などは、鈴木校長時代と酷似した教育方針であるのは確かなこ
とです。
次に、五十一期を代表する人物で、日本海軍の宝となるのを期待
されながら、山本五十六と共に戦死した樋端久利雄(といばなくり
お)が堀り起こされたことが収穫です。
掘り起こしたのは、ここでも七十八期出身の衣川宏(きぬがわひ
ろし、四〇四分隊)で、著書「ブーゲンビリアの花」では、彼の万
能の秀才ぶりと、兵学校の自由で闊達な雰囲気が生き生きと描写さ
れています。
彼は学業において五十一期きっての秀才である一方、体育も抜群
名物の登山競争では断然のトップ、海外ではフランス語を流暢に操
り、社交ダンスの名手でもあるという、絵に画いたような文武両道
の達人であり、理想的な紳士でした。
その彼が、兵学校・海軍大学を通じて総合成績トップを維持した
ということは、鈴木校長時代の兵学校の目指した教育目標の特性を
余す所なく示しているのです。 (下に続く)
最後に、恵氏の著書の協力者の一人となっている同じ七十八期の
板垣裕(三一〇分隊)について触れましょう。
彼の亡父の板垣金信は五十一期です。海軍では親子で海軍という
のは決して珍しくはないのですが、板垣父子の場合、子の裕が世話
役となって、青葉会という父の同期生の子息たちの会を組織してい
るのが異色で、多分、他には例がないと思われます。
驚嘆するのは、その集まりが長期にわたり、継続的に、かつかな
りの頻度で行われていることで、結束力を云々するよりも、それぞ
れの父子の間を結ぶ絆の強さに心を打たれるものがあり、一陣の清
涼の風のごとく、爽やかな感銘を覚えます。
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