『特攻の人々』その(4) 植村少尉、幼なき子に遺した手紙


 東京都府中市の多磨霊園に、植村眞久(まさひさ)海軍大尉(戦
死後の昇進)の十字架の墓碑があります。享年二十五才。
 生前の昭和十八年九月、第十三期飛行予備学生として海軍航空隊
に入隊するまで、彼は立教大学に在学し、サッカー部の主将として
活躍していました。
 教養課程を省略できる予備学生の実戦参加は極めて早く、彼は翌
年の八月一日には最前線のフィリピン・セブ島基地に配属され、い
きなり激戦の渦中に身を置くことになります。


 九月。短い休暇を許された彼は、生後三ヶ月の愛児(女子)と面
会し、一枚の写真と一通の手紙を残し、戦場に戻りました。
 戦後の昭和二十七年、猪口・中島共著の前出の著書が植村少尉の
神風特攻隊参加の経緯を取り上げ、ほぼ同時期に第十三期予備学生
の遺書を中心にした「雲ながれる果てに」でその手紙が紹介され、
その名は一部に知られることになります。


 十月二十六日。前日の神風特攻隊三十二機の大戦果を受け、急遽
追加編成されたセブ島の大和隊は爆戦五機、直掩隊三機。これが二
隊に分かれ、その一隊を植村少尉が指揮することになりました。
目標は、前日急襲撃破したT・L・スプレイグ艦隊の残存部隊。
                                  (下に続く)

  この日、ようやく前日の日本航空部隊の攻撃が新たな決死攻撃と
 知って、T・L・スプレイグ艦隊は全戦闘機を上空に配置して、日
 本機の襲撃に備えます。米軍記録では六十機となっていますから、
 艦隊の残存戦闘機に加え、他の艦隊からの補充を合わせ、最大限の
 警戒態勢を敷いていたものと思われます。


  植村隊三機の最後の模様はまったく記録に残っていませんが、先
 行出撃したことから、この六十機の米軍戦闘機隊と遭遇し、激闘の
 末に散華したものと推定されております。
  しかし、彼らの死は充分な効果を収め、約十五分後に到着した後
 続隊の勝又、移川、塩田一飛曹の三機は、空戦の隙を突いてスワニ
 ―、ペトロフ・ベイ突入に成功、スワニーは連日の猛襲によって大
 破し、惨憺たる敗退を余儀無くされます。


  十月二十六日の大和隊の活躍について、戦後語られることの少な
 いのは、不当というべきでしょう。
  スワニーの甚大な損害は、単に戦力の低下を意味するだけでなく
 日本海軍の不屈の意志を示すものと受け止められ、楽観ムードの米
 海軍を戦慄させることとなりました。
  応急対策が急がれました。護衛空母艦隊を第一線から外し、正規
 空母艦隊がその任務を受け継ぎ、各空母の艦載機の戦闘機比率を増
 やし、陸上部隊支援の任務を陸軍に移すなどです。
                                  (下に続く)

  米海軍のこのような方針転換は、フィリピン方面の全作戦にも大
 きな影響を与える結果となり、戦後、マッカーサー以下の陸軍から
 米海軍の支援不足を指摘される一因となるものです。
  植村少尉にとって、この結果は望外のものと思われます。
  というのは、彼は、短い教育期間、乏しい実戦経験から、十分な
 戦果が得られると確信していたわけでなく、それでもなお、特攻志
 願に導く強い意志があったからです。


  猪口・中島の著書によれば、彼は三日にわたり中島少佐を尋ね、
 しばらくの躊躇の末に、ようやく「経験も不足、技量も未熟な自分
 にも特攻隊の資格があるのだろうか」との心情を吐露したとされて
 おります。
  中島少佐はこの挿話を、植村少尉の謙虚さと、その彼にして特攻
 隊を熱望したという美談の一つとして紹介したのですが、戦後これ
 に異議を唱えた一人に、あの大岡昇平がいます。


  大岡昇平は、植村少尉のためらいを、特攻作戦への消極姿勢と判
 断、この文章の裏に、本来消極的な植村少尉を特攻死させた中島少
 佐の自己弁護があると判定しています(レイテ戦記)。
  それに加えて彼は、同じころ公開された植村少尉の幼な子への手
 紙にも言及し、普通の出征兵士の手紙と変わるものではない、と切
 って捨てました。                      (下に続く)

 大岡昇平は、作家・文化人の中では、坂口安吾、山岡荘八らとと
 もに特攻隊を正当に評価した人物で、レイテ戦記においても、「想
 像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、わ
 れわれの中にいたのである」と称揚しております。
  その彼にとって、植村少尉の行動のどこかに心許ないものが感じ
 られたのかもしれません。


  ところが、植村少尉の戦死からちょうど二十二年六ヶ月の昭和四
 十二年四月二十六日、彼が重大な誤りを冒していたのが明らかとな
 るのです。
  あの時に残されていた写真の一人、三ヶ月の幼な子が、立派に成
 長した姿を世に現し、父が手紙で約束したことを果たすため、靖国
 神社に日本舞踊(桜変奏曲)を奉納したからです。
  そこで、彼の手紙を改めて検証する必要が生じてきました。
  その手紙の要点をまとめてみましょう。


   (前略)名前は私が付けたのです。素直な心やさしい思ひやり
 の深い人になる様にと思って、御父様が考へたのです。(中略)
  私は御前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、仕合せにな
 ったのを見とどけたいのですが、若し御前が私を見知らぬまま死ん
 でしまっても決して悲しんではなりません。御前が大きくなって父
 に会ひたいときは九段へいらっしゃい。(中略)
                                 (下に続く)

  心に深く念ずれば、必ずお御父様のお顔がお前の心の中に浮びま
 すよ。(中略)私に万一の事があっても親無し子などと思ってはな
 りません。父は常に身辺を護って居ります。先に言った如く素直な
 人に可愛がられるやさしい人になって下さい。お前が大きくなって
 私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。
 昭和十九年○月吉日


  追伸 (中略)生まれた時おもちゃにしていた人形は、御父様が
 載いて自分の飛行機に御守り様として乗せて居ります。だからあな
 たは御父様と一緒に居たわけです。知らずに居ると困りますから教
 へて上げます。


  明らかにこれはすでに「死」を覚悟した者の遺書です。
  改めていま公開されている写真を見ても、純白の海軍士官正装に
 身を包んで、じっと愛児を見守る父の表情にその覚悟を読み取るこ
 とができます。わが命に代えても子の命は護るとの決意です。


  いつか子は成長して父の遺書を読み、父の愛の深さと決意の強さ
 を悟り、同じ大学に学び、卒業の翌月の四月、命日の二十六日を選
 んで再会の約束を果たしたのです。
  こうして、ようやくこの希有の親子の物語が完結しました。誰も
 予想できなかった結末。親子だけが確信を持っていた結末です。
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