「特攻の人々」  (一)若き武人(もののふ)久納中尉の士魂


 久納中尉、二十三才。法政大学出身第十一期海軍飛行予備学生。
第十一期の予備学生は一二一名、うち七〇名が戦死。特攻死は久納
中尉を含めて四名。
 飛行予備学生数は十三期から急増、十三期五、一九九名、十四期
五、五二〇名(予備生徒を含む)と主要戦力を形成しますが、十二
期までは少数精鋭主義であって、その中でも久納中尉は抜群の技量
と積極性で、エース級の評価を受けていました。
 彼は、法政大学に在学中から海軍の主催する航空団に参加するほ
どの飛行機好きで、入隊後もすぐに頭角をあらわし、早くから第一
線の零戦隊指揮官に配属されています。フィリピンでは鈴木宇三郎
大尉の「狼部隊」に属し、ハルゼーの機動部隊が猛威をふるってい
るさなかの九月二十二日、零戦十五機の半数に六十キロ爆弾二個を
搭載して米軍機動部隊を奇襲するなど奮戦。鈴木大尉が十月十二日
に戦死後は関大尉の指揮下に入っていました。


 特攻作戦については、中堅士官の中で最も積極的であっただけで
なく、若い部下たちの躊躇や不安を取り除くために、細かい配慮と
強い指導力を発揮しております。          (下に続く)

  最初、玉井副長が志願者を募った際、作戦としての成否に自信を
 持てない気配を察知すると、「どうせ間もなく戦死する身だ。やっ
 てみようじゃないか」という趣旨の発言をして、自ら第一号の志願
 者となり、また、「直掩機は無駄だから他に使ってほしい、戦果の
 確認も不要。名誉も要らない。ただ敵艦に突入するだけ」と発言。
 そのとおり何の気負いもなく端然と出撃し、淡々と戦死しました。


  その立ち居振る舞いの見事さは、源平合戦や戦国時代の名ある武
 将のそれを彷彿させるもので、戦後多くの論者が説くような「絶望
 的」「苦悩」「懊悩」などは微塵もみられません。
  戦時中、関大尉の名が特攻第一号として発表され、戦後もほぼ定
 着してくると、彼に同情的な人たちは、第一号以前の人という意味
 で、彼を「ゼロ号の男」と呼ぶようになりましたが(大野芳、神風
 特攻隊ゼロ号の男)、おそらく彼にとってはその好意も無用なもの
 であったでしょう。


  出撃前夜、彼がベートーベンの「月光」を弾いたという事実は、
 戦後間もなく(戦後七年ころ)、当時の上官である猪口力平参謀・
 中島少佐共著の「神風特別攻撃隊の記録」で世に知られ、その時に
 同席していた篠原通信少尉の証言によっても確認されています。
  しかし、猪口・中島両氏とも、その意味を正しくは理解せず、一
 種の余裕と解釈していたように見受けられます。
                              (下に続く)

  その後の論調を見ても、しばしば感情過多であって、中尉の実際
 の澄明で透徹した言動とは大きくかけ離れています。


  正しくは、彼のピアノ演奏は、昔の武将が出陣前に能を舞い、和
 歌を詠んだりした所作に例えるべきものでしょう。
  久納中尉に限らず、これは、「狂気」(MADNESS)や、「野
 蛮」(SAVAGE)などの侮蔑的な表現で特攻隊を矮小化しよ
 うとした連合軍側の宣伝を打ち砕く真実の姿だったのです。


  戦後数十年経ち、敵艦に損害を与えたわけでもない彼の人間的な
 大きさがようやく評価されるようになってきました。
 (前掲、金子敏夫、神風特攻の記録など)
  後で明らかになるように、連合国側の世論が急速に転換(好転)
 した最大の要因は、彼に代表される特攻隊員の人間性の高さにあり
 ます。
  死の前夜、絶望的な状況の中で、錯乱状態にあると予想されてい
 た特攻隊員のほとんどが、静かにその運命を迎えているばかりか、
 積極的な意志の力でそれを克服している事実を知り、そこに日本人
 戦士の精神の根幹にある武士道に注目しはじめたのです。


  もし天国が実在するとするならば、おそらく久納中尉は、「最後
 の武士」として、最高の歓迎を得ることでしょう。
                              (下に続く)

  その中でも、彼より約三ヵ月早く天国に召されたフランスの飛行
 士で作家のサン・テグジュペリなどは、最も良き話し相手として、
 彼の到着を待ちかねているのではないでしょうか。


    サン・テグジュペリは、日本ではもっぱら「星の王子さま」の童
 話で有名ですが、彼の本質はむしろ生涯飛行機に愛着を持ち、その
 飛行機を以てナチスドイツと戦い続けた愛国者にあります。
  一九四○年五月十日、ドイツの大機甲軍団が独仏国境を突破して
 フランス国内に雪崩れ込んできた時、彼は直ちに志願して航空部隊に
 参加、六月二十二日にペタン元帥のヴィシー政権が降伏すると、ア
 メリカに亡命して参戦を促す運動に没頭します。
  一九四二年、連合軍が北アフリカのモロッコ、アルジェリアに上
 陸すると、ふたたび帰国して航空部隊に入隊、主に偵察機の乗員と
 して活動します。このときの年齢はすでに四十二歳で、現役の標準
 を大きく越えていました。
  一九四四年七月三十一日、偵察機で出動した彼は、ついに帰還す
 ることなく、独空軍によって撃墜されたものと推定されました。
  この飛行機と祖国を愛した男の享年は四十四才。同じ立場の久納
 中尉よりは二十一才の年長です。パイロットとして大空を翔けるこ
 とを何よりも生き甲斐とした二人は、祖国の危機に際して自らの命
 を捧げ、相次いで天空はるかの彼方に去って行きました。
                                   (下に続く)

  死後、サン・テグジュペリは「星の王子さま」など多くの著書
 を残し、久納中尉は「月光の曲」の記憶を残すことになります。
  二人は、ともに詩魂を持った戦士でした。サン・テグジュペリに
 は残された著書がありますが、久納中尉には記憶しかありません。
  彼の意を汲み、出撃前夜のその心境に最も相応しい詩、東洋の吟
 遊詩人李白の詩を捧げることにいたしましょう。


  静  夜  思            李  白


   床前に月光を看る     是れ地上の霜かと疑う
   頭を挙げて山月を望み  頭を低くして故郷を思う
                       (由岐 真 訳)   
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