『将たちの戦後。大西中将、米内光政、井上成美、そして・・・』


 昭和二十年五月、海軍首脳部の人事異動に伴って、大西中将は軍
令部次長に就任。作戦全般を担当することになります。軍令部長は
豊田大将で、連合艦隊司令長官の任を小沢中将に譲っての就任でし
た。前月、戦艦大和を沖縄特攻で失い、すでに残存艦隊はほとんど
なく、航空特攻が中心となった以上、この人事には些少の疑問の余
地もないように見られます。

 問題は、軍令部長が最高戦争指導会議の一員であることで、前年
六月のマリアナ沖海戦後、井上成美と共に和平工作に着手していた
米内光政海軍大臣が、なぜ主戦論者の大西中将の次長就任を容認し
たかです。
 事実、無条件降伏を求めるポツダム宣言の受諾をめぐり、当初は
米内光政に同調するはずだった豊田大将が、受諾反対に回り、一時
は米内ら和平派を窮地に追い込むに至っています。


 一方で米内は、海軍の大先輩である岡田啓介元首相を動かして、
天皇の信頼厚い鈴木貫太郎元侍従長・海軍大将を四月に首相に担ぎ
上げ、最後は天皇の聖断による受諾決定を期待していました。
                                 (下に続く)

  死後残された米内光政の日記は、最も重要なこの前後が廃棄され
 ているため、もはや彼の真意を知るすべは永久にありません。
  豊田大将の背信説、主戦論の陸軍の追及をかわすための陽動人事
 説など、幾つかの説が提示されていますが、決定的な結論はまだ存
 在していません。


  確かなのは、最後まで受諾に反対し、ついに高松宮に直訴するな
 どの「暴挙」を行った大西中将が、米内の一喝によって矛(ほこ)
 を収めたことで、その結果、厚木航空隊などの一部を除き、ほぼ全
 海軍が受諾路線でまとまることが可能になりました。
  結果として彼の起用と、その一連の行動が、日本海軍の整然たる
 武装解除に絶妙なアシストとなったのは、否定できない事実です。


  昭和二十年八月十五日深夜、大西中将割腹自決。
  家人からの急報で駆けつけた海兵同期の多田武雄中将と軍医に対
 し、一切の手当ても介錯も拒否した彼は、死までの約八時間、肉体
 の極限の苦痛に耐えて、特攻作戦の全責任をわが一身に負う意志を
 鮮明に表すのです。時に八月十六日午前十時。
  その遺書の一部。


 ―特攻隊の英霊にもうす、善く戦いたり、深謝す。
 ―中略―われ死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす。
                                (下に続く)

 ―次に一般青壮年に告ぐ
 ―中略―
  諸子は国の宝なり。―中略―日本民族の福祉と、世界人類の和平
 のため、最善を尽くせよ。
                    海軍中将 大西滝次郎


  米内光政は、かなり以前から井上成美に海軍大臣の地位を譲る意
 志を持っていたとされます。健康上の理由からです。
  昭和二十年五月の人事異動で、固持する井上を強引に大将に任命
 し、その機会を窺いますが、戦局・政局の切迫によって果たせず、
 ついに終戦を迎えることになりました。
  山本五十六、井上成美とトリオを組んで、日独伊三国同盟に強硬
 に反対し、対米英開戦の回避に力を尽くした米内は、今度は鈴木貫
 太郎首相を補佐して終戦工作にその命を削ることになったのです。


  戦争の最終段階で、米内光政という人物が存在したことは、日本
 にとって奇跡的な幸運でした。


  彼は、和平派でありながら、主戦派からも信頼厚く、最終的には
 全海軍を掌握し、昭和天皇の聖断の下で国論を統一し、最も避けな
 ければならない民族分断の危機を回避しました。
  もしも彼が存在しなくて、国論が分裂、戦禍が継続した場合、さ
 らにどれだけの悲劇が加わったか、慄然たる思いがあります。
                                (下に続く)

  戦後、彼を非難する者があり、その趣旨は「なぜもっと早く終戦
 しなかったか」というのですが、結果が分かってから批判するのは
 軽薄評論家の常で、当時主戦論が優勢な中、和平派は厳重な監視と
 脅迫に耐え、最後の機会を捉えて際どく成功したのです。


  残念なことに、彼の最も良き理解者は、東京裁判の主席検事のキ
 ―ナンであったようです。
  検事としてきびしく日本側被告を追及し、その証人として米内を
 尋問しているうちに、彼は米内という人物に尊敬感を抱き始めたら
 しく、尋問終了後、二度も彼を招待しています。
  一度は岡田啓介ら三人と共に、一度は彼一人です。


  東京裁判については、陸軍側に厳しく、海軍側に甘いという説が
 あり、一般にも信じられています。
  結果をみれば確かにその事実は否定できません。
  裁判の結果、絞首刑七名のうち陸軍六名、その他一名(広田元首
 相)。海軍は嶋田元海相、岡中将の終身禁固刑に止まります。


  その真の理由については、現在では明白な答えが可能です。
  当時の連合国側には、日本がナチスドイツと共同謀議を図り、世
 界征服を目指していたという牢固とした先入観があり、その立証に
 最大の力を注いでいました。            (下に続く)

  ところが、その共同謀議説が海軍については当てはまらないのが
 すぐに判明してしまいます。
  日本海軍は、終始一貫、日独伊三国同盟に反対しており、その中
 心が米内光政であり、トリオを組んだのが、山本五十六と井上成美
 であったのが、争う余地のない事実と認められます。
  おそらくは、この事実が確認された段階で、連合国側は海軍を裁
 く意欲を半ば失ってしまったのかもしれません。


  戦前から海軍代表として政権の中枢の一角を占めていた米内光政
 は、最初から告訴を見送られ、逆に他の被告の罪状、とくに陸軍側
 のそれの証言者の役割を期待されることになります。
  しかし彼は、陸軍に不利な事実は一切証言を回避しました。
  一般には余り知られていない逸話があり、元陸軍大臣で、米内と
 旧知の仲の畑俊六の言動について証言を求められた際、彼はにわか
 に突発型老人性健忘症となり、一切を忘れてしまったと証言。重ね
 てのキーナンの追及をかわし、畑を絞首刑から救っています。


  この時キーナンは、米内光政を非難するどころか、自分の立場を
 不利にしかねない行動によって畑の立場を救った彼の人柄と賢明さ
 に強い感銘を受けたとされます。
  東京裁判判決の日を遡ること七ヶ月の昭和二十三年四月二十日、
 米内光政逝去。重なる心労により命を削り尽くしての死でした。
                               (下に続く)

  井上成美には、孤高の人に相応しい戦後がありました。
  終戦とともに、彼は一切の表舞台から去り、横須賀郊外の僻地に
 隠遁し、近所の子供たちに英語を教える生活に入ります。
  海軍兵学校校長以来、彼の念頭から「教育」の二文字が消えるこ
 とはなかったのです。
  その生活が清貧にも及ばないのを知って、かつての教え子たちが
 支援を申し出ても、すべて峻拒。海軍関係者ともほとんど交わらな
 い孤独で静かな余生を送りました。


  ようやく最晩年、彼の健康も悪化し、第七十三期と第七十四期生
 (この中にはあのウオーナーの訳者の妹尾氏も含まれています)の
 支援を受入れ、徐々に敗戦直前の海軍の真相も語りはじめます。
  そのころの発言によれば、やはりあの人材キープ論は正しく、当
 時の状況から公言はできないにしても、もはや少年たちを教育して
 戦線に送るなどの余裕はなく、主に戦後復興のための教育をするた
 めの(海軍兵学校生)大量募集であったことが確認されました。
  井上成美、昭和五十年十二月逝去。現役時代は敵の多かった彼は
 戦後に最も見直された人物となります。


  なお海兵七十三期は、獰猛軍団と異名を与えられ、学校時代の鉄
 拳制裁も激烈を極めたようですが、戦死者も二八三名と全卒業生の
 三分の一に達し、これは先輩の七十二期を越えるものでした。
                                (下に続く)

  歴戦の末、最後の艦隊決戦の主力戦力を預けられた栗田中将ほど
 不運な提督はいないでしょう。
  航空戦力でみれば、十二対三。サッカーをこの人員差で試合をし
 たらどうなるか、結果は子供でも分かることなのに、なぜか彼には
 勝手に大きな戦果が期待され、そして不当な非難が浴びせられまし
 た。
  彼は敗北責任まで問われ、挙げ句の果ては、あたかも臆病者、卑
 怯者であったかのように扱われ、誹謗・中傷の的となったのです。


  充分な資料を与えられた現在では、それらの非難には何の根拠も
 ないばかりか、神風特攻隊との絶妙な時間差攻撃によって、無敵の
 米軍機動部隊を震撼させ、レイテ攻撃軍の補給を脅かし、日本陸海
 軍幾万の命を救ったことが明らかですが、栗田中将自身は全くその
 事実を知ることはありませんでした。


  それでも彼が昂然と生きたというのは、一つには実戦の中で、彼
 の武人としての本能が働き、米軍に大打撃を与えた確信があったこ
 とと、撤収命令を出した時の危険感覚についても生涯自信を失うこ
 とがなかったからでしょう。


  しかし今にして思うと、彼は自分の気づかない点で、もっと誇り
 高い戦後を過ごす権利がありました。        (下に続く)

  彼は、自分の艦隊の一万数千の将兵を無事に基地に連れ戻し、そ
 の後も活躍させ、次いで海軍兵学校校長としては、七十五期から七
 十八期までの約一万五千人を、一人も戦場に送ることなく、井上成
 美が期待したように、全員を戦後の日本の復興に有用な人材として
 送り出しております。


  最も多くの敵艦を沈める提督にはなれなかったとしても、これだ
 けの数の人材を失わなかった点で、最も強運の提督であるのは間違
 いありません。
  さらに彼の場合、井上成美が理想としていて果たせなかった海軍
 の悪しき伝統、上級生による鉄拳制裁の排除を七十八期という実験
 舞台で成功させました。


  この伝統については、常に批判論はあるものの、一度「被害者」
 になった下級生は、自分が上級生になった時に借りを返さないと損
 をした気になるらしく、断ち切るのが難しかったのです。
  それが、七十八期を予科の名目で別地に隔離することで、実に簡
 単に成功してしまいました。


    落胆したのは七十七期の面々。徹底的な扱き(しごき)でこれま
 での借りを返してもらう目算が外れてさぞがっかりしたらしく、中
 には現在に至っても七十八期の存在を認めない豪の者もいます。
                                (下に続く)

  彼らの気持ちを鎮めるために、七十八期の記事である前出の「針
 尾の島の若桜」に記載されている或る挿話を紹介しましょう。


  七十八期には七つの部があり、それぞれ十二分隊、合計八十四分
 隊がありました。
  上級生に相当するのは各部に一人だけの部付監事で、海兵出身三
 名、海軍機関学校出三名、予備学生出一名という構成であり、いわ
 ばこの七名が全四千名に対し絶対権力を持っていたわけです。


  だが彼らには、鉄拳制裁は固く禁じられていました。
  その証拠に、禁を破った一人、第三部監事の松本大尉(海兵七十
 一期)の懺悔が前掲書に記録されております。記録の日は平成三年
 六月。終戦から遠ざかること約五十年。大尉の心の痛みの深さが偲
 ばれるのです。


  松本大尉の発言要旨。
 ―私には後悔に堪えないことがあるのです。それは部の生徒全員の
 前で一人の生徒を殴ったことだ。
  かつて先輩から「殴って言うことを聞かせるのは牛や馬などの動
 物を扱う時だけだ。殴らなければ人を使えないのは指導力がないか
 らだ」と言われ、「絶対に人を殴らない」と心に決めたのに、破っ
 てしまった。誠に恥ずかしく、今も忘れられない――と。 
                                 (下に続く)

  七十七期の方々は、この大先輩の言葉をどのように受け止められ
 るでしょうか。


  ともあれ、七十八期の教育に関する限り、井上=栗田の理想は果
 たされたのです。
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