「神風(しんぷう)特別攻撃隊」  結成まで(一)


 十月二十五日午前九時十分、栗田長官は追撃中止を命じます。追
っても追っても勢いを増すばかりの米軍艦載機の数から、米軍大機
動部隊の重囲下にある公算が大きいと判断したからです。
 これに対して、味方の支援機の姿はなく、囮作戦実行の情報もあ
りません。栗田艦隊は米軍の包囲陣の中に孤立している疑いが濃く
なってきました。
 それでも栗田艦隊は、一時間半あまりをかけて十時五十分ころに
は再結集を完了し、改めてレイテ湾に向かって進撃を開始します。
 十一時。北方に機動部隊発見の情報があり(結果的に虚報)、反
転して北に向うものの、敵を発見できず、十二時二六分、戦機の去
ったのを知り、撤収に移ります。
 この時点、栗田艦隊の戦力は、戦艦四、重巡二、軽巡二、駆逐艦
八。合計十六隻。
 ブルネイ出発時に比べると、戦艦(武蔵)一、重巡八、駆逐艦七
を失い、丁度半減。残存艦も大なり小なり損害を受け、戦力の大幅
低下は否めない状況でした。            (下に続く)

  他方、米軍側は栗田艦隊の奇襲による混乱からようやく立ち直り
 つつありました。
  レイテ湾護衛に当たるキンケード中将の第七艦隊は、未明の四時
 過ぎには西村艦隊の戦艦、山城、扶桑を相次いで撃沈、後続の志摩
 艦隊も一蹴し、苦戦するC・スプレイグ隊の支援に総力をそそぎま
 す。艦隊主力はレイテ湾に、他の二群の護衛空母部隊は栗田艦隊攻
 撃に転じます。
  北方の小沢機動部隊に向かったハルゼーの正規機動部隊も、重ね
 てのキンケードの要請とニミッツの裁定によって、ウルシーのマッ
 ケーン隊はレイテ方面に出動(八時四八分)、また北方部隊の中か
 ら大型空母一、軽空母二のボーガン隊が引き抜かれ、ハルゼー自ら
 指揮してレイテ方面に転進します(十時五五分)。


            (この結果、ハルゼーに代わってシャーマン、デヴィソ
 ンの二隊を率いることになったミッチャー中将は、大型空母四、軽空母
  三を以て小沢艦隊撃滅を目指すこととなり、意外に苦戦します。
  八時十五分に攻撃開始、同五三分には瑞鶴を大破したものの、全四
  隻の空母の撃沈には午後四時四七分まで要することになります。)
                             (下に続く)

  しかし、マッケーン隊の艦載機の到着予定時刻は午後十三時半、
 ボーガン隊に至っては早くて当日の夕方であって、当面はキンケー
 ドの艦隊が全責任を持つのは当然の成り行きでした。
  キンケードには同情すべき点が多々ありました。
    結果的にボーガン隊、マッケーン隊を投入するくらいならば、ハ
 ルゼーは当初からそうすべきだったのです。
  この二隊がサンベルナルジノ海峡の出口を扼して栗田艦隊の進入
 を阻んだならば、キンケード艦隊の苦戦はなく、日本側は全方面で
 壊滅的な打撃を受け、作戦の全面的な崩壊となったに違いありませ
 ん。キンケードは平穏無事にその任務を全うできたでしょう。
  けれども、当時の状況下においても、日本側には全面崩壊の危機
 が迫っており、キンケードには真のヒーローの好機がありました。


  米軍側で決定的に苦戦していたのはC・スプレイグの部隊だけで
 あって、その彼の艦隊にはまだ五隻の空母が残っており、さらに他
 の二群十隻は健在です。レイテ湾防衛を六隻の戦艦を中心にした艦
 隊に委ね、全艦載機による間断ない攻撃を繰り返し、マッケーン隊
 の到着を待つ作戦を取られたら、栗田艦隊は危なかったのです。
                          (下に続く)

  歴史はその道を選びませんでした。彼らにはもはやその好機を生
 かすだけの気力は残っておらず、もし残っていたとしても、"あの
 出来事"によって実現不可能な運命にありました。
 (彼らの不名誉を救い、ふたたび彼らをヒーローにしたのは、ニミ
 ッツのトリックがあったからです。彼は、戦後の一九六二年、太平
 洋海戦史を刊行、巧妙な叙述トリックによってC・スプレイグをヒ
 ーローにし、同時に、ハルゼー、キンケードの判断ミスのすべてを
 消滅させてしまいました。その一方で、悪役に仕立てられたのが栗
 田艦隊でした。この点については後述します)


  日本側の誤算は、最大の航空戦力を擁する福留中将の二航艦(第
 二航空艦隊)がほとんど成果を挙げられなかったことにありまし
 た。
  十月二十四日には、二百機近い全部隊を動員してハルゼーの艦隊
 攻撃に向かいましたが、その多くは迎撃態勢を整えた米戦闘機に撃
 墜されるか、敵艦を発見できず空しく彷徨うしかなかったのです。
  十月二十五日の決戦の当日に至っては、すでに兵力も激減、その
 上に悪天候もあって、ついに作戦参加の機を逸してしまいます。
  わずかに、彗星爆撃機の一隊が二十四日軽空母プリンストンを撃
 沈したのが、二航艦二百余機の戦果のすべてでした。
                         (下に続く)

  なぜ二航艦が空しい米機動部隊攻撃に固執したのか、その真意は
 明らかではありません。
  この年の六月、マリアナ沖海戦において、日本連合艦隊は、三百
 二十を越える攻撃機、戦闘機の大編隊で米機動部隊を正面攻撃し、
 ある程度の成果を期待したのに、実際は米軍が四百五十機の戦闘機
 で待ち構えていて、二百機を失って惨敗しています。
  日本側の操縦員の技量低下が原因とされましたが、基本的には機
 数の差によるのは自明のことです。
  一航艦の大西滝次郎中将以下の中堅の前線指揮官たちは、すでに
 早い段階で事態の深刻さを痛感していました。


  こうして日本側航空部隊が無力化した十月二十五日、栗田艦隊の
 虎口を辛うじて脱した米護衛空母艦隊は、上空警戒がやや手薄にな
 っていました。
  十時二分。C・スプレイグの艦隊は、烈しい戦闘のあとの艦載機
 の収容、給油、傷ついた機体の補修などに没頭していました。警戒
 したつもりでも、どこかに油断があったのは否定できません。
  静かに、しかし刻々と、危機が近づいていました。
  レーダーによる感知を避けるため、海面上を低く高度を取り、九
 機の零戦がひそかに接近してきているのを、米艦隊のだれ一人気づ
 かなかったのです。               (下に続く)

  十時四九分。(日本側記録では十時四五分)
  雨期のスコールの元となる乱層雲と、千切れ千切れの片乱雲の間
 に、一点また一点、小さく姿を見せた物体がみるみる大きくなりま
 す。接近とともに高度を一気に二千メートルに上げていた日本機の
 編隊です。
  日本機と気づいた対空砲火が一斉に烈しく火を吹きます。
  だれもが急降下爆撃と思いました。これまで一機も現れなかった
 のが不思議でした。ここでの奇襲は、意外であっても予想できない
 ものではありません。
  だれにも予想できなかったのは、その日本機が、艦に接近しても
 爆弾も落とさず、急転回もしなかったことでした。
  日本機は怪鳥のように翼を広げ、一気に眼前に迫ってきます。
                            (次回に続く)
日本史随想目次に戻る
トップページに戻る