『情報戦争(一)――真珠湾攻撃成功の陰の殊勲者、潜行諜報員
吉川猛夫少尉と浅海面魚雷開発者愛甲文雄大佐』
――追録篇その(十四)
古来、人間の歴史において、部族間の抗争であれ国家間の戦争で
あれ、そこにはほぼ例外なく諜報活動が付随していました。
その性質上、正史に記録されることは稀ですが、日本の場合、日
本の正史である日本書紀には正確な記録が残されています。
1.神武記
――初め天皇が早創の日、大伴氏の祖道臣命ーー密策を奉承し、
能く諷歌(そえうた),倒語(さかしまご)を以て妖気を掃蕩す。
(注。諷歌・倒語は現代の暗号の原型)
2.推古九年
――秋、新羅の間諜(うかみ)の者、対馬に到れりーー捕へて上
野国に流す。
(注。うかみは、窺い見るの短縮語とされています)
3.同年十月
――百済の僧来けり。ーー併せて遁甲方術の書を貢る。
(遁甲・方術は多くの忍術書で忍法の祖流とされているものです)
4.天武記
――天皇、遁甲を能くす。 (下に続く)
現代の情報戦の中心は、まず相手の情報の収集であり、次いで味
方の情報を隠蔽するための暗号戦略ですが、日本ではすでに古代か
らその存在が確認されています。
しかし対米戦に踏み切った段階では、実質五対一という国力の差
以上の情報力格差があり、この差が日本海軍を苦しめました。
結論的に言うならば、日本海軍が創意工夫と不撓不屈の努力によ
ってその格差を埋めたのに対して、米海軍が実力を過信して安易に
流れたことで、真珠湾では日本の快勝となり、米海軍が奮起して全
力を発揮したミッドウェーでは逆に彼らの大勝となったのです。
戦後長い間、この単純な事実が見過ごされてきました。
このため、真珠湾攻撃では日本軍の攻撃力が実力以上に評価され
た一方で、ミッドウェー戦では敗戦を個人の責任にする見解が横行
し、却って問題の本質を曖昧にしてしまいました。
これには資料不足にも原因があり、ようやく近年に至って、前掲
の淵田自伝に加え、後に述べる潜行諜報員吉川少尉関係の資料と、
新型魚雷開発者愛甲大佐ご子息の私家本の登場により、ようやく開
戦前後の情報戦の全貌が明らかとなってきたのです。
真珠湾攻撃
現地時間十二月七日午前七時四九分(東京時間十二月八日午前
三時一九分 )。連合艦隊の航空部隊総隊長淵田美津雄中佐は、第一
次攻撃隊百八十三機の全機に突撃命令を発し、同時に最も単純な
暗号電信のトトトの連送を打電させます。 (下に続く)
この暗号電送の意味は、「我奇襲に成功せり」です。
当初計算では、この時点で突撃を開始すれば、第一弾の投下は午
前八時となり、駐米大使による開戦通告後となる予定でした。
実際には大使館付事務官の怠慢によって、開戦後の通告となり、
いわゆる真珠湾のだまし討ちとして、戦争期間を通じて米軍の戦意
高揚にフルに活用されるのですが、この時点、突撃部隊は全くその
事実を知る立場にはありません。
八時〇四分。淵田中佐直率の爆撃第一中隊が爆撃態勢に入ろうと
する直前、牧秀雄大尉の第二中隊が投下した八百キロ爆弾二発が戦
艦アリゾナに命中。砲塔横の装甲甲板を貫徹して火薬庫が大爆発。
このアリゾナの損害が最も大きく、艦内の戦死者一一七七名。他
に例のない多人数ですが、なぜか一艦の被害を語る場合には別格と
されることが多く、米海軍も米国民も特別な感情と意味をこの戦艦
に抱いているのが分かります。
この間、村田重治少佐の雷撃隊四〇機は、低空で米艦に接近、対
空砲火で五機を失ったものの、三十五機が二十七の魚雷を命中させ
るという驚異的な戦果を挙げ、オクラホマなど戦艦四隻を撃沈また
は撃破しました。――浅海のため撃沈と撃破の識別困難。
午前八時五十四分。第一次攻撃隊を帰投させ、単機残る淵田総隊
長の許に島崎重和少佐の第二次攻撃隊一六七機が到着、直ちに突撃
開始。
この第二次攻撃隊には雷撃隊は含まれず、すべて爆撃隊と戦闘機
の制空隊によって構成されており、目標は残存勢力の殲滅です。
(下に続く)
島崎少佐直率の爆撃隊五十四機は各飛行場の格納庫を徹底的に狙
い撃ちし、残存機を殲滅。江草隆繁少佐の急降下爆撃隊七十八機は
残る艦艇を求め、黒煙けぶる中に一艦一艦と探し出して攻撃。
淵田総隊長の滞空時間約三時間の間に、米太平洋艦隊はほぼ全滅
しました。うち戦艦沈没4、大破4、航空戦力五百機も壊滅です。
わが損害二十九機、戦死五十五名。
以上が、淵田総隊長が自ら目撃し、戦後米軍側資料によって確認
された事実であり、細部の相違があってもほぼすべての文献で一致
していました。
ところが近年になって、この定説に重大な疑念の表明がありまし
た。ロバート・スティネットによって一九九九年に米国で出版され
二〇〇一年六月、妹尾作太男(七十四期)による監訳が出版された
「真珠湾の真実」です。
この著書の要旨は、連合艦隊の真珠湾攻撃は米軍の情報網によっ
て事前に察知されていたのに、敢えて事前の防衛対策を取らず、日
本に開戦責任を負わせ、欧州で苦戦する連合国支援の戦争に米国民
を立ち上がらせようとしたルーズベルトの陰謀というのです。
スティネットは、『情報の自由法』を活用して埋もれた政府情報
を掘り出し、当時の米海軍が質量共に充分な情報戦力を保有し、日
本の連合艦隊の接近と攻撃を知っていた筈であることを立証しよう
とし、その限りでは成功しています。
開戦直前の米軍は、ハワイを中心に、北はアリューシャン列島、
西はグァム、フィリピンを含む壮大な情報網を構築していました。
(下に続く)
この情報網は、多数の人員を二十四時間配置し、日本の外務省、
海軍関係の暗号通信を漏れなく傍受し、しかもその暗号の九〇%を
解読していたことが、戦後六〇年後に判明しました。
また、その解読の方法についても、必ずしも画期的な技術を適用
したわけではなく、税関で日本の要人の身体検査と称して携帯した
暗号表を盗撮するなど、違法すれすれの行為や、民間船舶の無線長
を買収するなどの事実もこの時明らかになっています。
(この買収金額が四万ドルという巨額なのは、彼らが情報価値をど
れだけ高く評価しているかが分かり、興味深いものがあります)
このような状況下で、空母6、戦艦2、巡洋艦3、給油艦8など
合計三十七隻の大艦隊が、南千島択捉(えとろふ)島の単冠(ひとか
っぷ)湾に集結し、十一月二十六日出撃、約十一日でハワイ近傍ま
で航海するのです。
この間、連合艦隊は極力電信を避けるなど、細心の注意はしてい
るとはいうものの、十二月六日午前十時半(現地時)には、司令長
官山本五十六の名で訓示が発信されています。
――皇国の興廃かかりてこの征戦に在り、粉骨砕身各員その任を完
うせよ。
なぜ米海軍の誇る情報網は眠っていたのか、陰謀説に説得力があ
るのは、それまでナチスの迫害を逃れて亡命してきた多くの学者・
科学者・文化人らの切望にもかかわらず、八〇%以上の米国民が欧
州への派兵に反対していたのに、真珠湾攻撃を機に、一〇〇%近く
が対日・対独戦賛成に変わったという現実があるからです。
(下に続く)
けれども、スティネット説はあくまでも情況証拠に基づくもので
あって、大統領の指令書のような確実な証拠があるわけではありま
せん。ここでは賛否を保留して、淵田航空隊の完全勝利の軌跡を改
めて辿ってみて、それが実は極めて多くの信じがたい幸運の結果で
あったのを知るのです。
例を挙げますと、
1.傍受されていたはずの重要電信が正しく解読されていません。
前掲の十二月六日の山本長官の訓示もそうですが、十二月八日の突
撃を最終的に指令した――ニイタカヤマノボレ1208――の暗号
にしても、最も初歩的なコード置換方式であるにもかかわらず、米
軍暗号班は解読していないのです。
(コード置換方式とは、サイファー方式の文字一対一置換に対し、
まとまった語句で置換する方法。日本軍が多用)
2.真珠湾の水深十二m、戦艦8の存在や空母の不在の情報が正確
であり、飛行場の配置、機数もおおむね想定通りであったこと。
3.低空攻撃阻止のための阻塞気球のないこと、魚雷阻止のための
防雷網を戦艦が用意していないなどの特殊情報が、十二月六日の最
終暗号電信で、日本軍に連絡されていること、などです。
いわば日本軍はほぼ完全に情報秘匿に成功し、米軍は丸裸状態だ
ったということで、情報戦自体が完全勝利だったのです。
ここで、その情報戦の中心となった若い海軍諜報員吉川猛夫と、
開戦直前に真珠湾攻撃のための浅海面魚雷を完成させ、勝利の隠れ
た殊勲者となった愛甲文雄大佐に焦点を当ててみたいと思います。
(下に続く)
潜行諜報員吉川少尉の場合
吉川猛夫、海兵六十一期海軍少尉、元軍令部諜報員。
一九四一年三月、日米関係は急速に悪化し、米海軍の秘密工作員
エマニュエルは、ホノルルに到着した日本の新田丸から下船する一
人の日本人を秘かに盗撮し、人物の特定を図ります。
その日本人は、日本領事館の一等書記官に着任した森村正と称し
ていましたが、米海軍はそれに強い疑いを持ったのです。
というのは、米側記録では外務省関係に彼の名が存在しなかった
からで、米側はおそらく日本海軍のスパイではないかと推理し、ご
く短期間で本人の特定に成功しました。
彼の真の名は、予備役ながら軍令部所属の吉川猛夫少尉でした。
米海軍情報部は、すでに日本領事館を盗聴していて、新たな延長
工事で領事館内の吉川の私宅の電話も盗聴し、二十四時間の尾行と
相まって、徹底的に彼を調べ尽くします。
事後的に評価すれば、極めて粗雑で誤った結論が下されます。
米海軍は、彼をお粗末スパイ、ダメ諜報員と判断したのでした。
当時の米海軍正式記録によれば、吉川諜報員は、若い仲居や芸者
の居る日本茶屋に入り浸り、休日にはホノルルの各地を女性同伴で
遊覧飛行したり、時には泥酔して酒場をつまみ出されたり、どう見
てもまともな諜報員とは評価できないということになり、最終的な
指示は、そのまま泳がせることになりました。
この恐るべき錯誤によって、この間、吉川は米海軍にとって大打
撃となる情報を発信し続け、ついに米海軍の致命傷となるのです。
(下に続く)
その年の五月十二日、ホノルルの喜多総領事経由外務省宛ての第
一報は、真珠湾在泊艦艇を記したもので、戦艦十一隻、巡洋艦十五
隻、空母一隻など、艦名なども詳細に記載されていました。
八月二十一日には、主要な軍事施設を対象にした爆撃計画地図も
作成されます。これらはすべて総領事館から外務省に送付されたの
ち、海軍軍令部に伝達されました。
当時の総領事は喜多長雄、総領事代理奥田乙治郎、諜報担当は米
国籍の二世リチャード琴城戸書記。
情報総数は二五四。最後の十二月六日電は次のように決定的な内
容の打電でした。
『東郷外務大臣宛 第二五四番電』
1.五日夕刻入港の空母二隻、重巡十隻は六日午後全部出港せり。
2.六日夕刻、真珠湾在泊艦船は、戦艦九隻、軽巡三隻ないし四隻
はドック入り、潜水艦三隻、その他多数。
3.艦隊航空兵力では航空偵察を実施していない模様。以上。
スチネットの調査によれば、空母のうち一隻はすでに前月の二十八
八日(現地地方日)出港しており、もう一隻が五日出港ですから、
吉川の調査とは誤差があるものの、大勢に影響を及ぼさない範囲内
であり、真珠湾の奇襲攻撃に必要な全情報は確保されていました。
また、阻塞気球や防雷網について改めて言及がないのは、以前に
連絡した通りということを意味し、予定された爆撃・雷撃併用攻撃
の変更を要しないことが確定され、これまで積み重ねられてきた吉
川情報の価値の大きさは、計り知れないものがあります。
(下に続く)
米海軍情報部が吉川を見る視点が間違っていたのです。
日本茶屋に入り浸っていたのは、遊興のためではなく、戦後明ら
かにされたように、その茶屋の位置が真珠湾内の艦船の監視には絶
好の位置だったからです。
酔い潰れたふりをした彼は、早朝に起きて、湾内に停泊する艦船
を詳細に調べて記録しました。これによって、常時この湾を根拠地
とする米太平洋艦隊の全容が明らかにされました。
阻塞気球の有無の調査も簡単です。女性を連れて、港の近くをそ
ぞろ歩きをすれば、目視だけで調査可能だからです。
最も困難だったのは、真珠湾内の水深の再確認と、湾口の対潜水
艦防御網、停泊時の戦艦の防雷網の有無の確認など、水面下部分の
確認作業です。
結果的には彼の報告は正確を極めており、村田重治少佐率いる雷
撃隊四〇機は、五機を失ったものの、阻塞気球のない湾内目がけて
低空接近、三十五の浅海面魚雷を発射。うち二十七が命中し、米海
軍も認める驚異の大戦果を挙げました。
ところが、この確認のために彼が実行したとされる方法がまだ解
明されていないのです。
戦後、彼は断片的に手記などを残していますが、それによると、
水遁の術を真似て一本の竹管を口にして潜水したとしており、どう
も劇画調であって、にわかには信じられないのです。
彼は厳格な父親からスパルタ教育を受けており、水泳も得意だっ
たようで、何回かは潜水探査は実行したかも知れません。
(下に続く)
しかし、広大な湾内を徹底的に調査するのは困難だったはずであ
り、それよりも効率のよい方法、たとえば米海軍兵士から内密に情
報を入手するなどの手段が、推測範囲内に浮かんできます。
泥酔して酒場で暴れたなどの逸話は、情報収集中、尾行の米情報
員に気付き、芝居をしたと見れば納得できます。何しろ、記録が残
っている以上、情報員がその場に居たのも確かな事実なのです。
この点について、戦後も吉川が明確にしないのは、おそらく米側
の協力者ないし二世のリチャード琴城戸書記が敗戦によって困難な
立場に陥るのを懸念したからだと思われます。
おそらくはその真相は永久に解明されないでしょう。
確かなのは、彼の情報が極めて正確だったという事実と、それに
対して米側の余りにも粗雑な情報解析です。
一体、そのほとんどを傍受していたはずの二五四通の暗号電報を
どう解析していたのでしょうか。理解に苦しむ所です。
真珠湾の惨憺たる敗北後の査問委員会で、責任者である高官の一
人が弁明したとされる発言の中に、
「まさか日本海軍が真珠湾に攻めて来るなどは、想像もしていなか
った」とあるのは、間違いなく全海軍、或いは全米国民の真意を端
的に示すものと断定できるのです。
その年の十一月二十六日、日本人が永久に忘れることを許されない
あのハル・ノートが突きつけられました。
現在ではどの国の歴史学者でも、これが最後通牒を意味すること
を否定しません。実に高圧的で礼節を欠く外交文書でした。
(下に続く)
これでは、どんな弱小国家でも、武器を取って戦うしかないとい
うのが、古今東西を問わず、むしろ国家間外交の常識です。
当時のアメリカはそれを無神経に実行してしまい、しかも日本人
は抵抗できないものと、早計・独善的に判断していたのです。
日本という国、日本人という民族は、その程度にしか評価されて
いない存在だったのでした。
潜行諜報員吉川少尉は、その傲慢と油断によって生まれた間隙を
巧みに突き、最高クラスの殊勲を挙げました。
これに対して、愛甲大佐の浅海面魚雷は、技術面で米軍の想像を
遙かに超えることにより、防御体制の不備を切り裂き、戦史に残る
大戦果を収めた例でありながら、しかも現在もなお、正当な評価を
受けていない希有の例です。
その原因は、これまで、開発責任者である愛甲大佐の手記ないし
証言が存在しないと思われていたからです。
今回、愛甲大佐のご子息による私家本が入手できたことにより、
私たちは初めてこの重大な歴史的事実に迫ることができました。
次回は、一般に入手困難なこの資料をできるだけ正確かつ簡明
にお伝えする予定にしております。
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