『紫電改「剣(つるぎ)部隊」三銃士、蒼空の死闘。
――鴛淵(おしぶち)大尉、林大尉、菅野(かんの)大尉』
      ――"日本海軍を想う"追録篇その(三)


 四国松山は、古来から瀬戸内航路西部の重要拠点でした。
 都に近い難波津を出発した船は、最後の難所である来島海峡を突
破し、高縄半島の北端を迂回、一旦この地の港に停泊します。
 近くの道後温泉で遠路の疲れを取り、次の潮の到来を待って再び
旅立つのです。
 松山の港の古名は熟田津(にぎたつ)。 あの万葉の秀歌によって
歴史にその名を残しました。


 万葉集巻第一の八は、卓越した女流歌人である額田王(ぬかたの
おほきみ)の最高作品として評価が定着しています。


――熟田津に 船乗りせむと 月待てば
      潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな


叙景歌とも、抒情歌とも解釈することのできるこの作品は、実は
或る重要な歴史的事実を背景にして誕生しています。
 国内的には六四五年の大化の改新に始まる一連の政治改革、海外
では唐の覇権確立と朝鮮半島での新羅の勃興です。 (下に続く)

  斉明天皇の七年(六六一年)正月六日、すでに六八才と老齢に達
 していた老女帝は、中大兄皇子、大海人(おおあま)皇子とともに
 兵を率いて難波津を発ち、十四日に熟田津に到着しました。
  その前年、唐・新羅の連合軍によって滅ぼされた同盟国百済(く
 だら)の遺臣たちの蜂起を救援するためです。


  当時の唐は、東アジアのほぼ全域を支配した超大帝国。その版図
 の広大さと国力は比類するもののない存在で、これを敵に回す決断
 は、国家存亡の危機を招きかねない重大事でした。
  額田王の歌には、その危機感と、将兵たちの緊張感が、叙景に隠
 れて巧みに表現されています。


  時過ぎること約千三百年。国家の危機を救う重責を担って、百三
 十人の搭乗員を含む三千人の大航空部隊が松山に結集しました。
  この航空隊の正式名称は第三四三海軍航空隊、通称は「剣(つる
 ぎ)部隊」。
  最新鋭戦闘機の「紫電改」を投入した精鋭部隊です。
  司令は源田実大佐(海兵五十二期)。 かつてサーカス的な技量を
 以て源田サーカスの名を馳せた海軍きっての実戦派で、この段階で
 満を持して登場したのです。
  飛行長志賀淑雄少佐(六十二期)、 副長中島正中佐(六十八期)
 志賀少佐は、新鋭戦闘機「紫電改」のテストパイロットとして、
 最もその機能を熟知していることにより、中島中佐は、数少なくな
 った実戦経験豊かな前線指揮官として選ばれました。 (下に続く)

  部隊を構成する各隊の隊長は、当時の状況下では最強の海兵出身
 の三人のエースです。


  戦闘七〇一維新隊、隊長鴛淵孝大尉(海兵六十八期)。
  戦闘四〇七天誅組、隊長林喜重(よししげ)大尉(六十九期)。
  戦闘三〇一新撰組、隊長菅野直(かんのなおし)大尉(七十期)。


  源田大佐の構想の根本は、圧倒的に優勢な米空軍に対し、たとえ
 局地的であっても優勢の場面を現出し、局面打開を図ろうとするも
 ので、とくに零戦の大敵となっていたグラマンF6Fヘルキャット
 に一泡吹かせたいという意図が強かったようです。
  この点では、紫電改は待望久しい新鋭機の資格を充分に備えてい
 ました。
  零戦は軽量で(自重二トン以下)、操縦性能が良く、航続距離が
 長く(最長三千キロ)、艦載機としては抜群の機能性を発揮しまし
 たが、その反面、エンジン馬力が約千馬力で、最高速度も時速五六
 五キロがやっとであり、二千馬力のグラマンが最高速の六〇〇キロ
 で逃走を図ると追い付くのが困難となります。
    そこで紫電改では、自重を二・六五七トンまで増し、エンジンに
 は一、八二五馬力の「誉(ほまれ)」を採用、最大速度五九五キロ
 とほぼグラマン並みの水準を確保、火力の点でも二〇ミリ機銃を零
 戦の二倍の四挺を装備し、総合力は飛躍的に向上しました。
 (戦後行われたテスト飛行では、紫電改の最高速度は、グラマンよ
 り早いコルセア以上というのが確認されました)。 (下に続く)

  この精鋭部隊構想は大西中将の賛同を得て、昭和十九年の十一月
 には始動を開始し、早くも菅野大尉はフィリピンより帰還、旧部下
 たちの松山への再結集を図ります。
  豹部隊所属の笠井智一、日光安治らの甲飛十期生を中心に、同じ
 甲飛十一、十二期、特乙一、二など、歴戦の勇士を集め、さらに分
 隊士として丙2出身の飛曹長宮崎勇が参集しました。
  翌年一月初めには鴛淵大尉、林大尉が相次いで着任。志賀飛行長
 も到着、さらに、西沢、岩本、坂井と並ぶ撃墜王の杉田庄一上飛曹
 も加わり、精鋭部隊の全容が明確となってきました。


  いつごろからか定かではありませんが、海兵出身の三人の隊長に
 は、それぞれに相応しい異名が捧げられました。
  鴛淵大尉は知将、林大尉は仁将、菅野大尉には猛将です。
 その後の活躍はその異名を裏切らないものとなりました。


  中でも逸話の多いのが菅野大尉であって、彼の勇名はすでにフィ
 リピン戦時代から知れ渡っていたようです。
  第一次神風特別攻撃隊の隊長を関行男に奪われた形になった彼は
 直掩隊長として活躍するのですが、先輩の山田恭司大尉の最期を見
 届けて報告した際、上官である中島少佐(当時)が戦果について疑
 問視したのを怒り、床に拳銃を発射したなど、本来ならば軍法会議
 にかけられても仕方のないにも関わらず、暴発としてうやむやに処
 理されたという噂が残っています。        (下に続く)

  松山基地でも彼は、公私にわたり「猛将」ぶりを発揮しました。
  外出先で酔い潰れ、翌朝、宿舎に戻る時間がなくて整列点呼の列
 に潜り込んだりと、逸話にはこと欠きません。
  それでも彼が重用されたのは、彼の技量が抜群で、しかもその闘
 魂が超絶的なものだったからです。
  空中戦に際しては、時には部下の機を置き去りにして敵中に突入
 し、しばしば部下の肝を冷やすことになります。
  彼が案出したとされる、米軍の戦略の大型爆撃機に対する攻撃方法
 は、その有効性が明らかとなっても、ほとんど追随者がなかったよ
 うです。
 (正面上方から敵機に迫り、背面飛行に切り替えて急降下、敵を一
 撃して離脱するというもののようです)。


 菅野大尉と対照的なのは、鴛淵大尉であって、彼は常に沈着冷静
 に大局を把握し、全軍の統括者として抜群の能力を持っていたとさ
 れます。(鴛淵大尉については、海兵同期の豊田穣の著書あり)


  以上の二人に比べると、林大尉は素朴で誠実な「静かなる男」で
 あって、むしろ最も典型的な海軍士官と言えるかもしれません。
  しかし、剣部隊の最後の戦いで、彼は人々を驚かす勇猛ぶりを示
 し、三銃士の一人としてその名を残すことになったのでした。
  三人のうち、最も早く戦死したのも彼となりました。 
                        (下に続く)

  昭和二十年三月十九日。この日は日本海軍にとっても、剣部隊に
 とっても、忘れ難い日です。
  源田大佐が強引に精鋭を集めて剣部隊を結成したのは、この日の
 戦いのためでした。


  日本海軍は、米軍の大機動部隊がはるか四国南方を本土に接近し
 つつあるという情報を得ました。
  近年明らかになった米側資料によれば、米軍機動部隊は、まず二
 月十六、十七の二日間、主に硫黄島上陸作戦の支援目的で、延べ千
 機の艦載機を動員して関東地区の日本軍基地を叩き、三月に入って
 からは沖縄上陸作戦支援を目的として、一転して西日本の"カミカ
 ゼ"基地と軍事施設を主要攻撃目標としたのです。


  三月十八日には、九州東部、南部に五百機以上の艦載機が襲来、
 零戦中心の日本軍はグラマンF6F、F4Uコルセアなどの米戦闘
 機に対抗できず、多くの貴重な特攻機を失ってしまいました。
  さらにその勢いのまま、米機動部隊の主力は方向を四国方面に転
 じます。瀬戸内海一帯の航空基地、軍港などが新たな目標です。
 空母ベニントンは種子島から、イントレピッドはその東から豊後
 水道を北上、ワスプ、バンカーヒルなど四隻の中央部隊とともに、
 呉方面を窺い、フランクリンなど三隻は神戸方面を指向します。
  主力の呉方面攻撃部隊は、戦闘機の一部を空母護衛に残し、三百
 五十機を以て払暁攻撃をかける予定です。    (下に続く)

 この時点、米軍は紫電改について充分な予備知識を持っていなか
 ったと見られます。
  二月十六日、十七日の関東方面空戦の際、すでに紫電改は参加し
 ているにもかかわらず、米軍側は陸軍の疾風(はやて)と誤認し、
 新たな高性能戦闘機の登場という認識に欠けていたのです。


  この両日について、米軍は日本機三二二機撃墜と記録し、大勝利
 を誇示していますが、実際の日本側の喪失機数は六一機。この余り
 にも隔絶した数字は、空中戦の戦果の確認が本来極めて難しいとい
 う理由だけでなく、連戦連勝に奢る米軍側に或る種の油断なり、奢
 りなりが生まれている証左とも言えるようです。


  一方の日本の剣部隊は、実戦に参加した搭乗員からの情報を得て
 改めて自信を深めます。
 あれほど渇望していた新鋭機が、期待通りの実力を実地で証明し
 たのです。
  三人の隊長、歴戦のエース級搭乗員に加えて、兵学校七十一期出
 身の五人も分隊(区隊)長を任せられるまでに成長し、戦闘部隊と
 しての態勢も整ってきました。


  この時期、日本の戦闘機部隊は、空中戦の戦法を大きく転換して
 います。                   (下に続く)

 戦争初期は、大編隊で出撃し、戦闘は各個単独というのを、最初
 から小編隊が連動して戦闘する方式への転換です。
  米軍機が日本機を編隊から切り放し、複数で包囲する作戦を採用
 したため、損害が甚大となったからです。そこで単独行動を禁じ、
 最小二機を基本戦闘単位として、連係攻撃を図ったのです。
  この最小単位を複数個まとめて一分隊、数個分隊で一隊。この三
 隊を以て剣部隊を構成します。


  この日、剣部隊の本隊で出動可能となったのは、維新隊十六、天
 誅組十六、新撰組十八の合計五〇機。ほかに「彩雲」偵察機隊三機、
 上空援護の「紫電」隊八機。


    作 戦


  歴史を形づくる無数の鎖の輪には、必然と偶然がないまぜになっ
 ているのが常の姿です。
  剣部隊にとって、必然というのは、松山基地が軍港呉の正面に位
 置することで、米軍機動部隊の大群がどの方面から襲来しようと、
 松山周辺上空が戦場となるのに疑問の余地はありません。


  偶然というのは、ここはあの秋山真之(さねゆき)中佐の生まれ
 故郷であったということです。         (下に続く)

  この時を遡る四十年前の一九〇五年、東郷元帥率いる連合艦隊は
 ロシアのバルチック艦隊を壊滅させましたが、秋山中佐はその作戦
 立案の実質責任者であり、戦勝貢献度は抜群でした。
  司馬遼太郎が語るように(坂の上の雲)、彼は伊予方面の海上の
 制海権を掌握していた村上水軍の能島流水軍書に学び、あのT字戦
 法を創案したとされています。


  当時の彼は、疑いなく天才戦術家であって、その本質を簡略化し
 て紹介するのは困難です。
    ところが、剣部隊の作戦を見てゆくと、逆に村上水軍と秋山流戦
 術に共通する本質の一端が浮かび上がってきました。


  それは瀬戸内海の島々の複雑な配置と、時々刻々変化する潮の流
 れを利用して、敵を混乱させ、脱落・孤立した艦船を各個撃破する
 という、機動的な艦隊運動に徹した作戦です。
  源田司令は、正にそれと同質の作戦指示を行い、三人の隊長はそ
 れに沿った作戦行動を取っていました。
  敵の大群に正面攻撃をするのでなく、孤立した小編隊を狙い打ち
 すること、とくに地上攻撃を終わって帰還途中の油断を突くこと、
 局地戦に敵を誘い込み日本側優位を保つこと、などです。


     決 戦


  日本側、米軍側、両軍とも整備関係者はほとんど徹夜でした。
                       (下に続く)

  日本側偵察隊は四時に起床。源田大佐によれば、暗夜に四国中部
 の山稜(石鎚山脈)の稜線が明瞭に見えたとされます。
  五時四〇分。日本側偵察隊発進。米軍も第一陣発進。米軍は八時
 までの間に、小編隊を逐次発進させています。波状攻撃によって、
 日本側航空基地、軍港、その他の軍事施設を徹底的に破壊するのが
 今回の攻撃の目的でした。
 (米軍の動向が判明したのは、二〇〇三年八月、日系三世のヘンリ
 ー境田、高木晃治共著の邦名"源田の剣"が発刊されたからです。
 ヘンリー境田による米側の調査は極めて細密です)


   呉方面への米軍攻撃部隊の総機数は最終的に三百五十機で、その
 うち戦闘機は約三分の一。通常は二分の一であるのに比べて少なめ
 なのは、特攻攻撃に備えて空母護衛に機数を割いたためと推定され
 ます。これは剣部隊に有利な要素となりました。


  六時五〇分、偵察隊室戸岬上空に敵機発見。サクラ、サクラ、ニ
 イタカヤマノボレ!の合図によって全軍始動開始。
  七時、発進完了。直ちに高度四千mに急上昇して散開。
  七時五〇分、鴛淵隊、空母ホーネットの一隊と接触。相互に一撃
 して直ちに離脱。新たな敵を求めて北進。
  菅野隊、他隊にやや遅れて進撃を開始、東方に大きく迂回して米
 軍攻撃隊を側面から襲い、大乱戦に持ち込みます。 (下に続く)

  このあとの空中戦は、日米両軍入り乱れ、呉、松山、岩国上空を
 中心に、お互いに相手を求めて飛び回るという壮絶な戦いとなりま
 した。
  林大尉などは、自機に故障が生じて岩国飛行場に不時着すると、
 他人の搭乗機を強引に奪って再度戦闘に参加するなど、両軍一歩も
 引かず、戦闘はお互いに燃料の尽きた約二時間後まで続きます。
  菅野大尉機は米機の一撃により火災発生、落下傘によって降下し
 民間人に救助される。大尉、火傷による負傷。


  もっともこれには付録があり、救助後に村人から差し入れの酒で
 ご機嫌の彼が帰還したとき、顔面の赤いのが火傷によるのか、酒の
 せいなのか、よく分からない状態だったと言われています。
  どこまでも豪傑伝説の似合う人物だったようです。


  この空中決戦の勝敗は、戦時中は両軍それぞれ自軍の大勝として
 いて、戦後も長くその状態が続いていました。
  たとえば日本では、空中戦で五十二機、地上砲火で五機、合計五
 十七機撃墜という数字が六十年近く信じられてきています。
  日本側で撃墜されたのは十五機ですから、圧倒的な大勝となりま
 す。
  ところがヘンリー境田氏の調査結果では、この間の米側の損害は
 対空砲火により撃墜されたもの十三機を除くと、空中戦での被撃墜
 十四機、不時着等による喪失七機、合計二十一機と、日本側発表を
 かなり下回っています。             (下に続く)

  たしかに日本側の発表数字は過大でした。しかし、この程度は空
 中戦の場合は許容限度内であり、むしろ米側が大勝利と称した根拠
 が薄弱で、誇大発表に近いものがあります。
  公平にみて、この松山上空の空中決戦は剣部隊の勝利であるばか
 りか、参加機数の差を考慮すれば快勝の部類に属します。


  日米両軍の動員機数は、六一対三五〇。まともに勝負したら惨敗
 は必至の状況下でのこの快勝に加えて、日本軍には全く予期しなか
 った"大戦果"が実現していました。
  特攻作戦に対する側面支援という戦果です。


  前回の美濃部少佐の項で触れましたように、三月十九日はあの正
 規大型空母、フランクリンとワスプが特攻攻撃によって大損害を受
 け、多数の死傷者を出して戦線を離脱した日です。
  この"大戦果"は、剣部隊の猛攻が予想をはるかに越える激しい
 ものがあって、米軍戦闘機隊が混乱し、空母防衛が手薄となったこ
 とによるのは、ほぼ間違いない事実と判断されます。


  この一戦で自信をつけた剣部隊は、その後も本土防衛の中心戦力
 として出撃を繰り返しますが、しだいに戦力は消耗してゆきます。
  四月十五日、杉田庄一上飛曹戦死。
  四月二十一日、林大尉戦死。
  同月三十日、全部隊九州大村基地に進出。    (下に続く)

  六月二十二日、菊水特攻隊の沖縄最終攻撃の護衛として出動。米
 機七を撃墜するも、当方も林敬次郎大尉(林喜重大尉の後任、海兵
 七十期)以下四名を失う。
  七月二十四日、鴛淵大尉戦死。
  そして終戦近い八月一日、ついに菅野大尉も機が敵弾を受けて墜
 落、今度は生還することなく戦死と推定されました。
 (以前、菅野大尉の戦死日を六月としたのは、明らかな誤りです。
 謹んで訂正させていただきます)
  菅野大尉。生涯撃墜数、単独三〇機、協同二四機。海兵出身者と
 しては他に追随する者はありません。


 紫電改は、戦局打開の決め手の一つとして登場し、その期待を裏
 切らない成果をあげながら、時すでにおそく、敗戦によって消え去
 るしかない運命にありました。
 一見、空しい存在のようにも見えるところから、例によって、戦
 後一般の論調は必ずしも好意的とは言えないものがあります。
  ところが、紫電改の真価は戦後に明らかにされるのです。
  終戦から約一ヶ月後の九月十四日、米軍の一団が大村飛行場に到
 着します。飛行場に厳重保管されている紫電改八〇機の引き取りの
 目的によります。


  米軍は、紫電改に特別の関心を持っていたのです。 (下に続く)

  その後二日間、まず整備状態の良好な紫電改六機を選定、さらに
 志賀少佐らに何度もテストを重ねさせ、最終的に三機を選び、十月
 十六日、護衛兼監視のため各機に二機づつのコルセアを付けて、横
 須賀まで空輸させます。
  この空輸の途中、日米双方にとって意外な事件が発生しました。
  志賀少佐が全速飛行を試みたところ、コルセアが追い付くのが困
 難となり、緊急に減速を命ずる事態となったのです。


  コルセアは、速度ではグラマンを越える米軍自慢の高速戦闘機。
 機銃で重装備をしていたためとはいえ、米軍は肝を冷やしたに違い
 ないと思われます。
 (米軍の調査では、コルセアの最高時速は六七二キロで、グラマン
 の六一二を大きく上回っています)


  戦時中は、日本機は充分な整備ができず、ガソリンの質も悪く、
 最高性能を発揮できないでいたのが、図らずもこのテスト飛行がそ
 の実力を米軍に見せつける結果になったのです。


     戦 後


  敗戦によって剣部隊が解散した後も、彼らに直ちに終戦が訪れる
 ことはありませんでした。
  占領軍筋から、天皇制の廃止などの情報が流れると、源田司令は
 ひそかに同士を集め、抵抗運動を企図します。   (下に続く)

  忠臣蔵の故事にならって、切腹覚悟の同士を募ったところ、二十
 三人が残り、これに一度は隊を離れていた中島中佐が加わって、二
 十四人が九州の山間に秘密組織を結成したのです。


  結局、占領軍が天皇制維持を決定したため、この秘密組織は解散
 し、源田司令は参議院議員となって正常な政治活動に入ります。


  直ちに米軍と和解した者もおります。
  志賀少佐は、紫電改引き取りのメンバーの中にいた有名俳優のタ
 イロン・パワー少佐と親しくなり、交友関係は長く続きます。
  この一方、指揮官として奮戦した七十一期の五人のうち、山田良
 市、松村正二の二人の大尉は、航空自衛隊に参加して共に空将とな
 り、山田良市は最終的に航空幕僚長の要職に就きます。
  この二人をはじめ、多くの航空自衛隊幹部は、海上自衛隊に劣ら
 ず、米空軍との良好な関係を保つのに成功しました。


  しかし、剣部隊と紫電改の最も大きな貢献は、零戦以来、日本が
 辛苦の末に獲得した航空技術を、さらに一段と高めて後世につなぐ
 という、歴史上の大きな役割を果たした点にあります。
  一度到達した技術水準は、占領軍による一切の武器製造の禁止に
 よっても抑止できるものではなかったのです。


  戦後日本の航空機業界は、アメリカの民間航空機への部品供給に
 活路を求め、高品質と低コストによって供給比率を高めるのに成功
 しました。一九九〇年代には二〇%を越え、二〇〇七年にはついに
 三五%に達するのが確実となります。      (下に続く)

  とくに日本が独占的技術を持つ炭素繊維は、その軽量と高強度に
 よって主翼を含む機体の大部分に採用され、二〇%以上の燃費・整
 備費の節減を可能にし、急速に需要が拡大しています。


  戦後の雌伏六十年。再び日本は、世界の航空機の中で、文字通り
 重要な一翼を担うことになったのです。
  しかもその成果をもたらした最大の要因は、かつて零戦、紫電改
 の開発者たちが追い求めた、あの極限までの軽量化という理想が、
 炭素繊維という革命的な素材によって実現したからです。
  戦時中の日本海軍は、零戦後の新鋭戦闘機の開発に当たり、零戦
 の軽量と高効率を維持しながら、米機の高速性能と重武装に対抗で
 きる機を開発するため、優秀な技術者を動員し、彼らに苛酷な課題
 を強いました。
  その結果誕生したのが紫電改です。
  ライバルのグラマンF6Fと比較しても、速度・武装はほぼ匹敵
 しながら、全備重量はグラマンの五、一六〇キロに対して、三、九
 〇〇キロと、軽量の伝統は揺らぐことはありませんでした。


  手品の種の一つが防御力の犠牲です。
  燃料タンク、操縦席の防弾壁は省略され、これが弱点となって何
 人もの戦士が命を失いました。
  もしもその当時、炭素繊維が存在しておれば、問題は一気に解決
 していたでしょう。              (下に続く)

  しかし逆の見方をするならば、紫電改の関係者たちの執念が、六
 十年の時を経て実現したというのが、正しい歴史の見方なのかもし
 れません。


  剣部隊は、終戦までに、鴛淵・林・菅野の三隊長をはじめ、八十
 八人の搭乗員が戦死し、当初望んだ起死回生は成りませんでした。
  けれども彼らの死は決して「徒死」ではなかったのです。
  これからの私たちは、巨大機の翼の輝きを見る度に、現在の日本
 の繁栄の礎(いしずえ)となった彼らの姿を偲ぶことができるので
 す。

日本史随想目次に戻る
トップページに戻る