『戦後の海軍。不滅の五省(ごせい)』――(完)


昭和二十年八月十五日――。
 多くの日本人にとって、この日には暑さの記憶が伴っています。
 これからの先について確かな展望を持っていた人は、おそらく一
人もいなかったことでしょう。
 この日から約十年。歴史上初の敗戦によって虚脱状態となった日
本人は、一方ではただ生きるための日々を営むとともに、他方では
痛恨の想いを以て過去を振り返っていました。
 この時期の日本人の屈折した心理が、その後長く人々の思考を歪
め、やがては現実と大きな隔たりを生む結果になります。


 たとえば、国家の根幹の一つである経済の世界の場合。
 戦後数十年、経済学者の予想はことごとく外れております。
 彼らは、戦後復興期には、復興が一段落すれば安定期に入り、成
長は鈍化すると予想してまず誤り、次に高度成長期には、下村治氏
ら少数を除き、ほとんどのエコノミストが成長期の終焉を予想する
という誤った結論に陥ってしまいました。


 戦争によって二百万人以上の戦死者を出し、大半の都市が焼野原
となった印象が余りにも強い呪縛となり、日本人自身がその過去の
成果も未来の明るさをも否定してしまったのです。 (下に続く)

  ところが、経済の世界においては、表面の壊滅的打撃にもかかわ
 らず、根幹の部分で日本の底力が温存されていたのが、やがて明ら
 かになってきました。
  まず鉄道、道路、橋梁などの基本的社会設備(インフラ)。
  これが温存された原因に関しては、前掲の安延多計夫氏がその著
 書で、米軍機動部隊の破壊活動が"カミカゼ"によって阻害された
 点を指摘していますが、異色かつ適切な指摘といえましょう。


  この指摘は工場などの生産設備についても適用されます。
  なぜかといえば、工場の建屋を基地からの長距離爆撃機によって
 破壊しても、機動部隊艦載機のピンポイント攻撃が伴わない限り、
 その効果は限定されるからです。
  工場には、金型(かながた)、治具、工具などの重要資材がほと
 んど無傷で残されており、これが戦後復興に転用され、大きな貢献
 を果たすことになります。


  さらに重要なのは、設計、加工などの技術が失われなかったばか
 りか、戦時中の必死の努力によって、むしろ大幅な進歩を遂げてい
 たことです。
  その代表例が零戦であり、戦艦大和であったわけですが、細部ま
 で辿ってゆくと、ほとんどの生産現場で飛躍的な工業技術の進歩が
 達成されているのが分かります。            (下に続く)

  悲観論者たちには大きな見落としがありました。
  彼らが誤っていたことは、その後の実績が証明しています。
  もともと欧米先進国に立ち遅れていた東アジアの小国が、敗戦の
 痛手から立ち直り、いつか多くの国々を追い抜き、ついにはアメリ
 カに次ぐ経済大国となり、列強の地位を確保するに到ったのです。


  これを奇跡と呼ぶ人がありますが、完全な言葉の誤用です。
  成るべくして成ったのであって、もともと悲観論者の判断の前提
 に大きな誤りがあったというべきものです。
  簡潔にいうと、日本の工業力は戦前から急速に国際競争力を高め
 ており、それが戦時中に一段の飛躍を遂げていたのです。


  日本海軍を語るはずの本稿が、こうして日本経済についての議論
の誤りに拘る(こだわる)のは、全く同種の誤りが「あの戦い」に
 ついても広範に信じられてきているからです。
  しかも困ったことに、経済の場合のように結果によって誤りが正
 されることもなく、依然として尤もらしい俗説や妄論が横行してい
 るのが実情です。


  特攻隊については、最新の資料を精査することによって、現在も
 流布されている所論の多くの誤りを正してきましたが、やはりここ
 にも、根本の前提に問題があったことが確かめられます。
                                  (下に続く)

  根本の間違いは、特攻隊のような作戦は他に例のない日本だけの
 特異なものであり、したがって国際的には理解されないばかりか、
 異常行為として批判されるであろうと判断したことです。


  ところが、そういう特殊性を西欧社会の常識とは相異なるものと
 しながらも、本質的にはすぐれた美徳と評価する意見が相次いで現
 れてきました。
  その一人、フランス人のべルナール・ミローの著書(邦訳、「神
 風」)によると、彼は、全く生還のない英雄的行為を、集団的かつ
 組織的に遂行した事実は、西欧人には理解しがたいとしながら、
 ――それは偉大な純粋性の発露であり、(中略)日本国民はそれを
 あえて実行したことによって、この世界に純粋性の偉大さというも
 のについて教訓を与えてくれた。彼らは、千年の遠い過去から今日
 に、人間の偉大さというすでに忘れられてしまったことの使命を、
 とり出して見せつけてくれたのである――。
  と、高い評価を与えているのです。


  また、著名な作家であって、ド・ゴール将軍のもとで文化相を担
 当した政治家でもある(一九六〇〜一九六九)アンドレ・マルロー
 は、引退後の一九七四年に来日し昭和天皇に拝謁。その際とくに特
 攻隊について発言したとされます。
  その内容は、なぜか日本では報道されておりません。
                                 (下に続く)

  しかし幸いなことに、彼の帰国後、リヨン大学教授である長塚隆
 二氏に語ったとされる談話が記録されております。
  それによれば、
  「日本は敗れたが、何ものにも代え難いものを得た。それは世界の
  どの国も真似できない特攻隊である。
   スターリンもナチスも権力を求めた。特攻隊員は権勢欲も名誉欲
  もない。祖国を憂える貴い熱情があるだけ。
   代償を求めない純粋な行為。そこに真の偉大さがある。紙一重の
  ファナチズムとは根本的に異質である。(中略)
   陛下にはとくに申し上げた。母や姉や妻の命が危ういとき、命を
  捨てて戦うのが息子、弟、夫の道である」――と。


  ミロー、マルローが共にフランス人であるのは決して偶然ではあ
 りません。
  第二次世界大戦において、フランスは二度にわたって決定的な過
 ちを犯しました。
  一度はナチスドイツに対する融和政策。
  一九三六年、ラインラントの非武装地帯への進駐を看過し、一九
 三八年のミュンヘン会議では英のチェンバレン首相、仏のダラディ
 エ首相がヒトラーに大幅な譲歩をして束の間の和平に逃避します。
  これが致命的な失敗であったのは、翌年九月一日のドイツ機甲軍
 団のポーランド蹂躙によって立証されます。     (下に続く)

  二度目の失敗は、一九四〇年四月にドイツ軍がデンマーク、ノル
 ウェーを侵攻した際に傍観し、五月、フランス本土内に進攻される
 と、わずか六週間の抵抗で降伏してしまったことです。


  これに対して、英国はドイツ空軍の空襲に耐え抜き、オランダ、
 ノルウェー、デンマークなどの小国も必死の抵抗を試み、たとえば
 オランダの抵抗作戦での犠牲者は約二十五万人。これはフランス軍
 戦死者の二十一万人を上回る数となったのです。
  自由・平等・博愛の本家の威信は地に墜ちてしまいました。
  ド・ゴール、マルローらには、戦後体制の中で、ベトナム、アル
 ジェリアなどの植民地が雪崩を打って独立してゆくのを、もはや止
 める力は残されていませんでした。
  マルローの発言には、口先だけで行動を伴わない自国民に対する
 痛切な批判が含まれていると見ることができるのです。


  一九七〇年代は、世界的に大きな変化があった時代であると同時
 に、日本が一流国として国際的に認知された時代でもあります。
  冷戦の一方の雄であったソ連邦がアメリカとの軍備拡張競争に敗
 れ、経済も破綻して農業が崩壊、一千万トンを越える穀物輸入が必
 要となって、アメリカに膝を屈する破目となり、他方のアメリカも
 ドル安で窮地に立ち、いわゆるニクソンショックによって日本も円
 の変動相場制に踏切っております。          (下に続く)

  このころから、多くの分野で日本に対する風当たりも強くなって
 くるのですが、かつてあれほどの死闘を演じた日本海軍に対する評
 価も、戦後に誕生した海上自衛隊への対応も、大きな変化を示し始
 めます。しかも意外なことに好意的な方向への変化です。


  一九七〇年ころに原本が発行され、昭和六十年(一九八五年)邦
 訳されたA・J・パーカーの「神風特攻隊」などは、出陣前夜まで
 節制と訓練に励む隊員の姿を尊敬を以て描写するなど、ハルゼーや
 ミッチャーの時代とは確然とした相違が見られます。
  かつての驚愕と恐怖は、やがて畏怖となり、さらに進んで畏敬と
 共感が生まれてきているのです。


    さらに重要な変化が、米海軍の中枢にも現れてきました。
  一九七〇年ころ、米第七艦隊司令長官、ウィリアム・マック中将
 (のちにアナポリスの米海軍兵学校長に就任)が江田島を見学、そ
 こに揚げられた五省に深く感銘し、賞金千ドルで英訳を募集、これ
 に海兵七十六期の松井康矩氏が当選します。


  ウィリアム・マック中将は、兵学校校長に就任すると、一九七六
 年のアメリカ建国二〇〇年を記念して、国防省の機関紙にその訳文
 を掲載、同時に兵学校の教材に採用することを宣言します。
  勝者の米国が敗者である日本海軍に学ぶことを公表したのです。
                                 (下に続く)

  私たちは、率直に米海軍の寛容と謙虚を賞賛すべきでしょう。
  それは一部のアメリカ人の独善と傲岸とはまったく異質のもので
 あって、その異質さを考慮せずに一律に一つの国を評価する愚を悟
 らせる好例でもあります。


  中枢部でなく、いわば現場の段階でも、米海軍は着々と日本との
 連係強化を進めていました。
  戦後の一九四五年から五年間、日本周辺に残る機雷除去のため、
 海上保安庁所属の旧海軍掃海艇が動員され、参加人員は最盛期には
 延べ二万人に達しています。
  一九五〇年の朝鮮動乱時には延べ四六隻が朝鮮水域を掃海、一名
 の戦死者まで出していますが、当時海軍中佐であったジェームズ・
 アワーは、日本の協力についての論文を執筆、これが機縁となって
 日本勤務十三年、国防総省日本部長の要職に就き、国務副長官のア
 ーミテージと並んで最も知日の高官となります。
 (なおアーミテージ氏もまた海軍出身です。不可解なことに日本の
 外務省はこの二人に対し冷淡であって、一人の女性外務大臣はアー
 ミテージを、もう一人の外務政務官はジェームズ・アワーを、いず
 れもいわゆるドタキャンするという非礼で対応しています)


  一九八〇年二月、ハワイ周辺での米太平洋艦隊演習に海上自衛隊
 初参加。                          (下に続く)

  一九九一年。対イラクの湾岸戦争に際して、戦後処理の段階で日
 本は人的貢献を回避したばかりに、百三十億ドルの巨額な資金支援
 をしながら全く感謝されないという外交上の大失敗をしますが、最
 後に四隻の掃海艇を派遣してようやく面目を保ちます。


  しかしこれも、実行部隊の薄氷を踏む危機感と、それを救った米
 海軍の予想外の協力によって辛うじて成功したものです。
  艦隊派遣に当たって、日本の国会は、何を思ったか、機関銃以上
 の武器の携行を禁ずるという付帯条件を付けました。
  正規軍の海上襲撃や空襲があればもちろん、テロリストがボート
 にロケットや機関砲でも積んで襲ってきたら抵抗の術(すべ)もあ
 りません。


  決死の覚悟で出航した掃海艇艦隊は、やがて米軍艦艇が護衛目的
 で周辺を航行しているのを知ります。
  どういう事情で、だれの指示で、この措置が取られたのか、記録
 は一切残されておりません。
  日本側が外交ルートで正式に依頼するはずはなく、米海軍の独自
 の判断で行われた可能性が高いのですが、真相は霧の中です。


  いずれにしても、日本の国会から見放された掃海艇艦隊は、米海
 軍の協力を得て、無事に現地に到着、任務を完遂しました。
                                 (下に続く)

  一九九三年、アメリカ海軍以外では初めて、最新鋭のイージス艦
 "こんごう"が就役しました。
  トン数こそ七、二五〇トンと、軽巡洋艦程度であっても、ハイテ
 ク機器を装備し、五、六分でミサイル攻撃の発射地点、方向を計算
 して迎撃体制を取れるという強力艦で、これの配置を認めたという
 ことは、米海軍が日本の海上自衛隊を最高のパートナーとして認知
 したことにほかなりません。


  二〇〇一年九月のニューヨーク・貿易センタービルのテロ攻撃の
 あと、今度は、海上自衛隊は多国籍軍艦艇への洋上給油任務を担当
 しますが、その評価は極めて高く、歴代の米太平洋艦隊司令長官は
 全員が最大限の感謝と評価を表明しています。


  日本の国会議員の中には、「ガソリンスタンドのようなものでは
 ないか」などと軽視する者もおりますが、無知も甚だしいというし
 かありません。
  甲板上温度八十度、並行航行しながらパイプを張り、その一方で
 テロへの警戒を続けて給油するという任務が、いかに過酷で危険な
 ものか、少しでも想像力があれば容易に理解できるはずです。


  おそらく、アメリカはもちろん、仏・英などの諸国の海軍も、こ
 の分野だけは避けたいというのが本音でしょう。    (下に続く)

  四面を海に囲まれ、食料も工業原料も大半を海外に依存する日本
 にとって、世界最強の米太平洋艦隊と同盟関係を結んだことは、こ
 の上ない幸運であり、一方の米海軍にとっても、日本の海上自衛隊
 の存在は、西太平洋・インド洋方面の安定確保のために不可欠のも
 のとなってきています。


  原子力空母、同潜水艦など、近代海軍の主力戦力こそ米海軍に依
 存するしかないものの、日本の中小艦艇群は、その訓練度の高さ、
 厳正な規律など、国際レベルを大きく越えており、近年はイージス
 艦の増強によってさらに総合戦力を高めています。


  かつてあれほど熾烈な戦いを演じた両国が、どのようにして歴史
 上も例のない現在の緊密な関係を築き上げることができたのか、そ
 の過程について検証する必要がありそうです。
  その一つに、米内光政らが戦後に海軍の権益を護るため、敢えて
 終戦時期を延ばす工作までしたというのがありますが、拙い推理小
 説を読むようで、どうにもいただけません。


  たとえば米内光政・井上成美の戦後を見ても、二人とも政治とは
 完全に無縁であり、井上に至っては、海軍関係者との接触もほとん
 ど絶っていて、陰謀の行われた匂いさえありません。
  珍説・奇説の一種というべきでしょう。        (下に続く)

  もう一つは、開戦時の駐米大使であった野村吉三郎大将のグルー
 プの活動と結びつける説で、たしかに彼らが米海軍の提督たちとの
 交流を通じ、その後の日米海軍親交に大きな貢献をしたのは事実と
 しても、政策決定に影響力を持ったとは立証できません。


  むしろそれらよりは、あの激烈を極めた戦争の過程の中で、圧倒
 的に優勢な米海軍に対し、恐れず怯まず、死力を尽くして真っ向か
 ら対決した日本海軍の勇気と精強さに、同盟軍として必要な資質を
 見出したと考えるのが妥当でしょう。


  戦後の日本人は、旧海軍関係者も例外ではなく、歴史検証と称し
 て、実はその暗い側面、裏の面のみを強調してきました。
  それがあの「空しい戦い」「愚かな戦争」などのステレオタイプ
 (固定観念、決まり文句)の発言の繰り返しとなり、逆にかつての
 戦勝国側から、「経済を再生するには、もう一度戦争をして敗戦国
 となればよい」と皮肉られる始末となるのです。


  終戦直後ならばともかく、今は安易にその言葉を述べる時期は去
 っています。
  払った犠牲が大きかったのは事実としても、日本経済はかつての
 植民地帝国を凌駕し、海上自衛隊は新たな活躍舞台を得、戦前の差
 別と侮蔑は消えて、尊敬さえ生まれるまでに至っているのです。
                                 (下に続く)

  もう一つ、最も重要な指標を示しましょう。
 国際基準の五年未満幼児死亡率というのがあります。
  或る年の新生児のうち、五年未満で死亡する幼児の比率です。
  その数字は現在の日本で一・八%。戦前の日本や現在の多くのア
 フリカ諸国では二〇〜三〇%となっています。


  毎年平均して百五十万人が誕生するとして、五才未満で、多くの
 国々で三十万人から四十五万人が死亡することを意味します。
  内戦、飢餓、疫病の流行、栄養不良、全体的な貧困などが原因で
 す。
  もし日本がかつての貧困のままであったなら、戦後六十年の間に
 千八百万人から二千七百万人の幼児の命が失われていた可能性があ
 ったのです。


  列強諸国の圧迫と差別の壁に果敢に挑み、先進国の仲間入りを目
 指した日本は、一度は戦争によって挫折しながら、ついに目的を達
 成し、これだけの子供たちの命を救うのに成功したのです。


  この劇的な数字こそ、わたしたちの先人・先輩の払った犠牲によ
 って得られた最大の贈り物であります。
  こうしてみると、あの空しいとか、愚かとか、安易に語られた月
 並みの言葉のほうが、よほど空疎にひびくのです。   (下に続く)

  いよいよこの稿も終わりに近づいてきました。
  結びに当たって、日米海軍和解の象徴として英訳の「五省」と、
 四、五〇〇を越える万葉集の歌の中から、山上憶良(やまのうえの
 おくら)の歌一首を選んで載せることに致しました。
  その意味を汲み取っていただきたいと思います。    (下に続く)



     Five reflections


 1.Hast thou not gone against sincerity?

 2.Hast thou not felt ashamed of thy words and deeds?

 3.Hast thou not lacked vigour?

 4.Hast thou not exerted all possible efforts?

 5.Hast thou not become slothful?

   万葉集八〇三
  山上憶良の歌の反歌


  しろかね(銀)もくがね(金)も玉も何せむに
       まさ(勝)れる宝 子にしか(及)めやも
                                 



       『 注 』
 1.撃墜王の撃墜数は正確なものではありません。乱戦の中では見
 誤りも多く、また味方同士で重複する例も多いので、通常は申告過
 大になります。
  ここでは、上官や同僚が修正した数字を用いています。敷島隊攻
 撃の際の西沢飛曹長の撃墜数についても、一機説、二機説と両説が
 あります。


 2.小川少尉機の五〇〇キロ爆弾にはかなりの疑問があります。自
 重二トンの零戦には無理な重量だからです。
  おそらく、五〇〇ポンド(二三〇キロ)の翻訳ミスと思われます
 が、確認の方法がないので、記録通りとしてあります。

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