『八月十五日の史劇――後篇。北辺の防人(さきもり)喜多大尉の
奮戦と厚木航空隊小園安名大佐の反乱』  ――追録篇その(十三)


 終戦を迎えて、高位の上官たちも若い指揮官たちも、それぞれの
信念に従って自分たちの道を選びます。
 潜水空母伊号四〇〇、四〇一を率いてウルシーの米海軍基地攻撃
に向かった艦隊司令官有泉龍之助大佐は、停戦命令を受けて横須賀
軍港に回航途中の三十一日早暁、軍刀を前に置いて拳銃で自決。
 前日に米軍から軍艦旗を下ろし、星条旗掲揚を命じられた時に決
意したものであって、遺書には次のように記されていました。
――前略――われわれが最も誇りとする軍艦旗とともに、小生は太
平洋の底深く身を沈めることを光栄とする。午前五時には星条旗の
掲揚を余儀なくされたが、それを見るに忍びない――。


 回天隊では、当初から教官専任のため生き残った橋口寛大尉が、
同期の仲間(七十二期)の後を追って自決。この結果、同期では小
灘利春大尉一人が生存者となって仲間を弔うことになりました。
 上層部はその波及を懸念し、呉鎮守府司令長官の金沢正夫中将が
自ら水上機で各基地を巡回して説得。これでほぼ全部隊が鎮静化に
向かい、二十五日の大浦突撃隊松尾秀輔中尉の自決を最後に、回天
隊の過酷な任務は終了しました。(松尾中尉は海兵七十四期)
 この間、橋口大尉、松尾中尉の死を止めることはできなかったに
しても、金沢中将らは最善を尽くしたと言えるのです。
                          (下に続く)

  天皇の詔勅に従って大多数が停戦した中で、やむを得ず戦いに巻,
 き込まれた部隊と、頑強に終戦に抵抗した部隊もありました。
  前者が北千島占守島(しゅむしゅとう)防衛に当たった海軍北東
 空・北千島分遺隊喜多和平大尉隊で、後者が小園安名(こぞのやす
 な)大佐です。


  喜多大尉は東京物理学校卒の十二期飛行予備学生で、部隊の主力
 が北海道防衛に転進したあと、四機の九七式艦攻を率いて占守島の
 空を守っていました。ソ連領のカムチャッカまで僅か十三キロ。
  陸軍の航空戦力は一式戦(隼)三機。陸上には第九一師団の戦車
 第十一連隊の戦車約四〇台が駐留していました。


  十八日午前〇時、折からの濃霧に乗じて、対岸のソ連軍砲台が砲
 撃を開始し、やがて数十隻のソ連軍艦船が迫ってくるのが察知され
 ます。極北に近い夏の海、その早い夜明けが霧を払ったのです。
  これは明らかにポツダム宣言に違反する一方的武力攻撃でした。
  日本軍の通信隊はすでに十三日に英文の諜報電報を傍受していま
 したから、当然ソ連軍側から停戦の申し入れがあるものと判断し、
 和戦両用の態勢で待機していたのです。


  不意の攻撃を受けた日本軍は躊躇なく反撃を開始しました。
  戦車隊は上陸地点に急行してソ連軍上陸隊を攻撃し、航空部隊は
 二日間にわたって何度も輸送船団に攻撃を反復して大損害を与え、
 その後二十一日の正式な停戦交渉まで敵の攻撃を阻止します。
                          (下に続く)

  この戦闘での日本軍の損害は、死傷六〇〇、戦車十数台、艦攻一
 機。戦死者の中には戦車隊長池田大佐も含まれていました。
  対するソ連軍は死傷一五六七、艦船沈没四隻、損傷八隻。艦船の
 損害はほぼすべてが海軍の艦攻機によるものでした。


  簡単に撃破できると予想していた日本軍の反撃を受け、ソ連軍は
 武力制圧を断念、不本意な和平交渉に転換することとなります。
  それまでの過程で、ソ連軍航空隊の弱体が露呈され、この重要な
 作戦に一機の護衛も参加していませんでした。
  なぜソ連軍に航空機の援護がなかったのか、実はその真の理由は
 まだ解明されていません。或いは対独戦でほとんどの航空機を消耗
 し尽くしていたという単純な理由かもしれません。


  既述の通り、ノモンハン事件の場合でも、陸上戦では大苦戦した
 日本軍も航空戦では完勝していることから、ソ連軍の航空部隊には
 何らかの根本的欠陥が存在していた可能性もあります。
 (これは現在もまだ解明されていない重要分野です)


  八月二十一日、日ソ両軍の正式な停戦交渉開始。
  翌二十二日、停戦成立。二十三日武装解除。
  北千島部隊全体としての痛恨は、美幌に集結を命じられた一万三
 千の日本兵が、十二月初旬、小樽行きと騙されてシベリアに連行さ
 れ、そのまま酷寒の地で長期に抑留されたことです。
                          (下に続く)

  その一方で彼ら北方の防人たちは、忘れてはならない大きな仕事
 を成し遂げています。
  その一つは、ソ連軍攻撃開始と同時に、占守島一〇〇名、隣接の
 幌筵(ほろむしろ)島四〇〇名の日魯漁業の女子従業員を二七隻の
 船に分乗させて北海道まで脱出に成功させたこと。
  その二は、航空部隊の撤収成功です。
  海軍の艦攻機部隊は敵艦船を攻撃して大きな戦果を挙げています
 が、山中上飛曹らの機と乗員三名を失っていました。
  記録によれば、その機は、敵艦に爆弾を投下して撃沈した時に被
 弾し、墜落しながら別の艦船に突入して撃破したとされています。
  また一機は損傷を受けて使用不能となり、残存は二機です。


  喜多大尉は、停戦交渉が開始されると同時に、残存機の接収を避
 けるため撤収を決意、飛行可能な艦攻機2と陸軍機3に乗れる限り
 の乗員を収容しての脱出を指示します。
  残念なことに、洋上飛行に不慣れな陸軍機は三機とも行方不明と
 なり、海軍の二機だけが無事北海道の基地に到着できました。
  この時の海軍機の乗員については、八人説と十人説があり、もは
 やそのどちらが真実かを確認することも困難となっていますが、彼
 らが撤収に成功したことは確かな事実です。


  喜多大尉は自分の意思で残りました。おそらくは、飛行機に収容
 できない部下を配慮しての決断と思われますが、その結果は厳しい
 もので、彼は約四年間ソ連に抑留される不運に見舞われました。
                              (下に続く)

  不運な結果に終わったとはいうものの、その原因は相手側にあっ
 て彼の責任ではありません。
  北千島防衛部隊は立派に防人としての責任を果たしました。
  彼らは敵の不当な攻撃に対して全力を以て抵抗し、大打撃を与え
 ると同時に、多数の民間女性の救出に貢献しました。
  ことに喜多大尉の指揮官としての行動は見事というしかなく、敗
 戦時の混乱の中で、特筆に値するものがあります。


  ここで注意しなければならないのは、内地から遠く離れた僻遠の
 地で、喜多大尉のような若い指揮官が、総理大臣にも劣らない重大
 決断を迫られ、しかも最善の対応ができたという事実です。
  戦後の平和に馴れた私たちは、有事に際しての行動まで細かく事
 前に規制しがちですが、事実はこの北千島の例のように、何が起こ
 るかは全く予測できず、最終的には現場の責任者の判断に委ね、彼
 らの能力と責任感を信頼するしかないのが真実なのです。


  彼は日頃から、自分は海兵出のように長い教育期間を持たない促
 成の士官と自認していた謙虚な人物でありながら、この最後の戦い
 では誰にも恥じることのない成果を示すことができました。
  これは彼の部下で体当たり戦死した山中、荒谷、樋口らの上飛曹
 三人も同様です。彼らは乙飛十六期の同期生でしたが、この乙飛の
 資格が高等小学校卒業程度の学力というだけで、心ない人たちから
 不当に低く評価されているにもかかわらず、敵の心胆を凍らせるよ
 うな技量と勇気を発揮したのです。(末尾の注を参照のこと)
                         (下に続く)

 厚木航空隊始末記


  早期終戦の方向にほぼ一致した海軍の中で、唯一の反対勢力とな
 ったため、小園安名(こぞのやすな)大佐は戦後史の中での有名人
 物となってしまいました。
  しかし子細に検討すると、彼が何を目指したのか、余りにも謎が
 多くて理解困難なのです。
  陸軍の反乱青年将校については、その狙いも目指す方向もはっき
 りしていました。
  竹下、井田、稲葉らは、阿南陸相を動かして聖断を実質的に破棄
 して戦争継続に持ち込もうとし、阿南の拒否によって計画を断念、
 その結果、戦後を生き残りました。


  畑中、椎崎の二人は皇居占拠と玉音奪取によってクーデターを成
 功させ、新たな政権の樹立をめざしていて、それが失敗となった時
 点で即座に自決の道を選びました。
  上原大尉も、この二人に遅れたものの、森師団長の葬儀を確認し
 て十八日に自決しています。


  小園大佐は、玉音放送の終わった直後から行動を起こしました。
  放送を聞くために整列していた基地隊員三千人に対して、彼は宣
 言しました。
 ――本日を以て日本の軍隊は解体したものと認める。今後は各自の
 自由な意志で私と共に防衛戦争に参加するか、或いは帰郷するかを
 決断せよ。                   (下に続く)

  帰郷希望者は一人も現れず、基地全体は直ちに戦闘態勢に入りま
 した。
  航空戦力は、零戦、月光、彗星、銀河など百七十機。予備機は三
 百近く、総人員五千五百。二年分の弾薬・食料を備蓄していたとさ
 れ、東日本最大・最強の戦力でした。


  午後二時。指揮所に菊水の旗が揚げられます。
  急遽刷られた数万枚のビラは、十七日には関東地方一帯を中心に
 北海道から九州まで全国規模に拡大散布されます。
  そのビラは、天皇の軍隊には絶対に降伏はないことを強調し、今
 にして起て、われに必勝の策あり、という激烈な内容です。


  米内海相を筆頭とする海軍首脳部は、この厚木航空隊の決起に驚
 愕します。
  というのは、すでに米軍側との折衝の中で、米軍総司令官マッカ
 ーサーの進駐飛行場が厚木であるのはかねてから予想されており、
 今後は進駐の日時が争点となるものと覚悟していたからです。
  厚木の反乱は、終戦合意そのものを根本から破壊する危険性を孕
 んでおり、海軍首脳としては絶対にそれを回避しなければならない
 のです。


  この間の事情を記した著書は数多く存在し、それぞれ多少の違い
 が見られるので、ここでは最も新しい資料として、真珠湾攻撃隊の
 総隊長淵田美津雄の自叙伝の中の記述を中心とします。
                         (下に続く)

 ――この自叙伝は、編集・解説者の中田整一氏の検証や補説が適切
 なため、原資料の若干の偏りも修正されていて、信頼するに足る著
 書となっています。
  例えば、先述のビラ散付について、この著書以外で当日から大量
 散付されたとしている記述は誤りです。当時のいわゆるガリ版印刷
 は手書き原稿の手動式印刷であって、当日それほど大量の印刷は不
 可能なのです――


  その記述によりますと、終戦特使の輸送を担当した海軍は、一式
 陸攻を平和目的を象徴する白色緑十字に塗り代え、指揮官にベテラ
 ンの寺井義守中佐を起用、横須賀航空隊木更津基地を八月十九日に
 発進し、最短空路であるが厚木隊の勢力下の伊豆半島を避け、一路
 南下後大きく迂回して沖縄に着陸し、ここで米軍機に移乗してマニ
 ラに到着しています。


  マニラでの米軍参謀長サザーランドとの協議は難航します。
  すでに厚木の状況は伝えられていて、日本側は当初予定の八月二
 十三日の先遺隊到着、二十六日のマッカーサー進駐という米軍案の
 再考を申し出、結局二日間の延長が認められます。


  周知のとおり、最後には米軍の到着までに小園大佐は病院に収容
 され、厚木の武装解除と飛行場の整備も完了するのですが、それま
 での過程は正に薄氷を踏む緊張の連続でした。 
                          (下に続く)

  海軍首脳らは最終的には武力排除も辞さない覚悟を固め、特別陸
 戦隊に出動待機を命じながら説得に当たります。
  まずかつての上司である海軍総隊参謀副長菊地朝三(ともぞう)
少将が派遣されますが、激論の末説得に失敗。
  次に直接の上司となる第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将の場合
 は、基地入口で機関銃を構えた守備隊が拒否。


  八月二十四日、早朝。海軍総隊航空参謀を名乗った淵田美津雄は
 検問通過を許され、旧知の三〇二空副長菅原中佐と面会し、小園大
 佐の様子を聞きます。
  小園大佐は、十四日以来約十日間、ほとんど不眠不休の疲労と、
 再発したマラリアの高熱で、異常な精神状態になっていました。


  淵田と菅原は咄嗟の判断で、病状悪化という名目で軍刀を抱える
 小園を取り押さえさせ、軍医長が麻酔剤を注射、そのまま救急車で
 海軍病院の精神病棟に送り込みます。
  このあと、菅原中佐が指揮権を継承、総員集合をかけて宣言しま
 す。
 「小園司令は心神喪失のため海軍病院に収容された。菅原副長、代
 わって当航空隊及び基地の指揮を継承する。――終戦の詔書を体し
 無条件降伏のほかはない。ただいまより武装を解除する。全作業員
 は直ちに全部の飛行機の機銃とプロペラを外せ」
  菅原に反対した若い士官ら六機は脱走して児玉や狭山の陸軍基地
 に逃亡。残存部隊は昼夜兼行で飛行場整備に注力します。
                          (下に続く)

  五百機近い飛行機を解体し運搬するだけでも、その困難は想像を
 絶するものがありますが、とにかくやり遂げたのは確かで、八月二
 十八日の米軍機の初着陸は記録に残っています。


  最初に、小園大佐が何を目指しているのか分からないと疑問を呈
 していますが、最後に至ってもなお答えることができません。
  もし小園にその意志があれば、中津留大尉隊のように敵機動部隊
 を求めて隊を出動させるのも一つの生き方でしょうし、陸軍の青年
 将校のようなクーデター計画は、その是非は別として、心情を解説
 するのは困難ではありません。


  だが彼はどの道も選んでいません。ただ激しく抵抗するだけで、
 具体的な提案は何一つないのです。
  ただ彼には、天皇が降伏したこと、それを重臣や閣僚たちが引き
 止めなかったことが、どうしても許せなかったのです。
  彼の望みはただ一つ、天皇の翻意です。
  それが不可能と知ったとき、彼の精神は崩壊し、彼が愛した海軍
 の仲間たちの手によって精神病院に囚われる身となりました。


  抗命罪によって官職を剥奪され、無期禁固刑の判決を受けた小園
 元大佐は、それでも何らかの配慮によって昭和二十八年出所、某月
 刊誌に手記を執筆中に淵田美津雄に偶然会います。
  その時の彼の言葉は、
 「淵田、あのとき降伏なんかするのではなかったぞ」でした。
                          (下に続く)

  小園元大佐は海兵五十一期で淵田元大佐の一年先輩。
  奇人で自信家の先輩は、連合艦隊航空参謀時代の淵田にとっては
 絶えず難題を吹きかけてくる持て余し者で、最後には歴史に残るよ
 うな大きな世話をかけてしまうのですが、その著書で淵田は、散々
 彼に迷惑をかけたこの先輩を心優しく総括しています。
 「まことに彼は世紀の快男児であった」と。


 『注記』――海軍兵学校以外の海軍の学校制度について


  最近でもなお、誤解・曲解それに意図的な歪曲が多いので、明確
 にしておく必要があると思われます。


 1.予備学生・予備生徒
  本来は一般学生の知識・教養を活用するための制度で、すでに昭
 和九年に始まっています。飛行科、一般兵科、飛行整備科、気象通
 信科などがあります。急速に人数が増したのは昭和十八年から。
  指揮官養成学校という点で海軍兵学校と変わりはないのはしばし
 ば確認した通りです。大学・高専等の卒業生が予備学生、在学中の
 入隊者が予備生徒。
  昭和九年以来の総卒業生は二七、五二五名。
  兵学校の格下という説は根拠がなく、七十八期では部付監事の一
 人の予備学生出身大尉が、生徒五百人以上に君臨していました。
 飛行予備学生の場合、十三期までは完全な志願制度で、十四期か
 らは一度徴兵されてから志願して入校する例が多くなります。
                         (下に続く)

 2.甲飛、乙飛、丙飛――飛行予科練習生のこと。通称予科練。
  甲飛の採用資格は中学四年以上の学歴者。
  乙飛は高等小学校(小学校のあと二年)卒業程度の学歴者。
  丙飛は他の機関、整備、主計などからの募集。前身は操練と呼ば
 れた操縦練習生。撃墜王の坂井三郎はこの出身で、この時の応募者
 総数は五千人。合格は四十人で卒業二十五人という超難関でした。
  学歴は別として、彼は同世代の中では抜群の能力の人でした。
  一部の論者の言うような、米海軍のパイロットは高学歴が多く、
 日本は貧しい人が多かったのが敗因、などは全くの妄説です。
  日本は国全体が貧しく、優秀な成績でも中学に行けなかった少年
 は多数いました。賢くて向学心はあっても、中学の学資を調達でき
 ない彼らは、進んで軍人養成学校を受験していたのです。


  もちろん一高並みの難関を突破して海兵に入校してから飛行学校
 に進んで操縦士の道を選んだ人たちや、一流大学から飛行予備学生
 となった若者たちが、その知識・教養において米軍将校に劣るとい
 う根拠はありません。事実に反し人格を損なう発言であります。


 3.飛行学校
  やはり或る月刊誌の座談会で、「兵学校を出たというだけで、ろ
 くに操縦桿を握ったことのない人間がいきなり中隊長になって、命
 を預けろと言われても素直には従えない」という発言がありました
 が、すでに示しましたように、航空隊に配属される前には必ず飛行
 学校に入りますから、発言の趣旨が理解不能です。
                          (下に続く)

 (例えば海兵七十期は三十八期飛行学校に九八名、三十九期に四一
 名が入校していて、彼らはきびしい訓練を経た後に指揮官として前
 線に配属されており、操縦桿を握れない者など一人もいません)


  戦局が悪化してからは、実戦経験不足の指揮官まで動員されたの
 は事実ですが、これは下士官、一般兵も同様です。
  部下のほうが経験豊富な場合、指揮官が嘗められることもあるか
 もしれませんが、指揮官が経験不足の部下に悩むこともあり得るの
 であって、これは問題の本質ではありません。
  日本軍の損害が急速に増大するにつれて、操縦員の補充が追い付
 かず、実戦経験の乏しい者たちまで動員しなければならなくなった
 のが本質であり、要するに劣勢の結果歪みが生じたのであって、そ
 の逆ではないのです。


 4.海軍二年現役主計科士官制度――通称短現
  昭和十三年に始まった制度で、卒業生には小泉信三の長男で、南
 方で戦死した小泉信吉大尉が著名です。
  彼らは海軍兵学校と同格の海軍経理学校の教育を受けていますか
 ら、立派な海軍士官です。

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