『日本海軍、終戦への陸上作戦』
        ――追録篇その(十)


太平洋の最前線で、日本軍が米軍の猛攻に必死で抵抗しているこ
ろ、国内では秘かに終戦へ向けての動きが進められていました。
 直接の契機は昭和十八年四月の山本五十六連合艦隊司令長官の戦
死と、同年九月のイタリアの降伏と思われます。


 海軍和平派といわれる山本五十六、米内光政、井上成美の三人が
戦前、その職を賭け、生命の危険を冒してまで、日独伊三国同盟に
強硬に反対したのは、米英と敵対関係にあるナチスドイツとの同盟
は、自動的に米英に対する戦争を導くこととなり、勝算のほとんど
ない戦争となるのを予測していたからです。
 イタリアの降伏はその日独伊三国同盟の崩壊を意味しました。
 また、山本長官の戦死は、彼が死を以てその予測の正しさを証明
したこととなり、盟友の米内らには終戦の重責が残されました。


 開戦前、対米融和路線の近衛文麿がまだ首相の地位に在った時、
山本長官は近衛の諮問に対し、半年や一年は暴れてみせるが、二年
三年となると確信は持てないと答えています。
 同時期の大本営内部の討議記録によっても、海軍の明確な作戦は
半年間に限定され、しかも開戦後一年七ヵ月後の昭和十八年の後半
以降の米軍の反攻を予想しているのです。このあたりで、講和の可
能性とその方法を探るのは、和平派には既定路線でもありました。
                          (下に続く)

 意外なことに、和平への最初の動きは、開戦直後の勝利で国中が
 涌き立っていた昭和十七年の二月ころに始まっていました。
  近衛公のほか、牧野伸顕、若槻礼次郎、陸軍の真崎甚三郎、海軍
 の鈴木貫太郎らが参加し、吉田茂が世話役だったとされます。
  彼らの前に立ち塞がったのは、直接的には内大臣の木戸幸一でし
 たが、木戸に圧力をかけたのが近衛の後に首相となった東条英機で
 す。
  どういう手段で彼が情報を察知したのか、今となっては知る術は
 ありませんが、憲兵隊を駆使しての彼の情報収集力は脅威的で、こ
 の後しばらくは和平への動きはほぼ完全に封殺されていたのです。


  昭和十八年の和平派は、この東条を抑えるため、元首相の岡田啓
 介(海軍大将)、近衛、平沼らの重臣を介して東条に諌言を試みる
 のですが、これは却って彼を硬化させるだけに終わっています。


   東条内閣倒閣の動き


  重臣たちの説得工作の挫折によって、和平推進にはまず東条内閣
 の打倒が先決であるのが明らかとなり、海軍の積極的な関与が求め
 られてきます。
  憲兵隊に加えて、さらに特高警察も支配した東条政権を打倒する
 には、海軍の組織力を必要としたからです。
  しかも海軍は、昭和十八年の後半ころから、圧倒的に優勢となっ
 た米海軍の圧力を全方面に受けるという苦境にありました。
                           (下に続く)

  海軍内の和平派首脳部は、この時期にはすでに勝利を期待できな
 いものと覚悟しており、どのようにして講和を進めるかに腐心して
 いたものと考えられます。
  戦後、戦争の反省ないし総括ということで、海軍についても、た
 とえば「日本海軍敗因の研究」などの表題の著書を見ることがあり
 ますが、実情を知る者にとって、真実性に欠ける表現であります。
  開戦翌年のミッドウェー海戦、さらに続くソロモン諸島方面での
 大消耗戦ならばともかく、それ以降の戦いについては、日米の戦力
 差は圧倒的であって、勝機はほとんど皆無だったからです。


  航空機の場合、開戦時米軍一万七千機対日本七千機が、昭和十九
 年四月には米軍六万機以上対日本六千機。うち海軍は約半数。
  この数字は戦後に判明したものであって、戦時中にはここまでの
 差が開いていたという認識はありません。
  ただ感覚的に、日本海軍は常に補充に追われているのに、米軍は
 後から後からと、まるで無尽蔵のように涌いてくるというのが実感
 だったのです。


  以前、フィリピン沖海戦において、日米航空戦力は十二対三とし
 ましたが、厳密にいうと、日本側はあらゆる戦力を総動員したのに
 対して、米軍はかなり余裕を以て編成した数字でした。
  というのは、米海軍は開戦以来大型空母十七、軽空母九、護衛空
 母七十八隻を建造し、この時期にはまだ数隻の大型空母と、十隻以
 上の護衛空母の追加動員が不可能ではない状況だったのです。
                           (下に続く)
 
  現在の人たちには不可解というしかないのは、この状況下でも、
 陸軍は、依然として危機感が乏しかったことです。
  南太平洋の島々、ニューギニア、ビルマなど、各地で惨憺たる敗
 北が続き、フィリピンでは勝算の乏しい最大の激戦が迫っているの
 に、なおも陸軍は徹底抗戦に固執していました。
  おそらく、日本本土と大陸に数百万の兵力が健在なかぎり、いつ
 か反撃の機会があると信じていたためと思われ、このあたりに、常
 に軍艦や航空機などの戦力比較を意識する必要のある海軍とは、決
 定的な違いがありました。


  陸軍との認識の差が埋め難いのを悟った海軍は、最大の権力者で
 あって、硬直的な東条首相の辞任を策します。
  その活動は困難を極めます。首相の情報機関は海軍の要人を尾行
 し、電話の盗聴を行い、反対勢力の制圧を図っていたからです。


  海軍側の中心となった岡田啓介元首相は、自分は動かず、軍令部
 勤務の長男を通じて海軍内の同士と連絡を取り、また他の部署との
 折衝は女婿で企画院の迫水久常(さこみずひさつね)に任せて、東
 条首相側の追求をかわす策に出ます。
  二・二六事件で間一髪の死を免れた岡田の、慎重策でした。
 (平成二十年二月に九十七才で死去した迫水夫人が、平成十七年に
 某雑誌に証言した所によると、迫水氏は企画院から鈴木貫太郎首相
 の書記官長に就任して終戦を迎えるまでの間、常時青酸カリを懐に
 して最悪事態に備えていたとされます)    (下に続く)

  陸軍側のテロの脅威に対抗して、海軍側でも一部が過激化してき
 ます。
  高木(惣吉)少将のグループでも、東条暗殺計画が真剣に検討さ
 れ、神重徳(かみしげのり)大佐などの名が残っています。海軍に
 とっても、彼らの暴発抑止は重要な課題でした。


  なお高木少将らは、陸軍側の監視を避けるため、会合は専ら築地
 の料亭を使用したようです。
  築地は元来海軍の発祥の地であり、江田島に移転するまで海軍兵
 学校が置かれていたほどで、その料亭も、どんなに陸軍側情報機関
 に脅迫されても、ついに最後まで海軍側の動静を洩らすことはなか
 ったということです。


  もしもこの時期、陸海軍の間でテロの応酬があったとすると、幕
 末の勤皇・佐幕の対立の再来となり、歴史は大きくマイナスの方向
 に変わっていたものと思われます。
  そうならなかったのは、二・二六事件の結末が教訓となったから
 で、暴力的行為に対する昭和天皇の厳しい裁断が、陸海軍将兵に対
 して抑止的に働いていました。
  終戦を検証する場合、これは重要な視点の一つです。
  現実の問題としても、陸軍海軍とも、実力によって主導権を握る
 可能性はほとんどありませんでした。
  兵数としては陸軍は強大でしたが、岡田、鈴木らの海軍首脳に対
 する天皇の信任は厚く、最後にはこれが決め手となるのです。
                         (下に続く)

      東条退陣


  あれほど強大な権力を誇った東条首相も、ついに辞任に追い込ま
 れるに至ります。昭和十九年七月十八日のことです。
  直接にはサイパン島の失陥の責任を取った形でしたが、その背後
 には海軍側の作戦がありました。
  陸軍が、サイパン奪回のような実現不可能な作戦に固執している
 間に、重臣の中の岡田、鈴木、近衛、若槻らを固めて、体制の一新
 を迫り、拒否した場合は海軍の嶋田源太郎海軍大臣の引き上げを示
 唆したからです。
  嶋田大将は、海軍の過激派からは東条の副官などと言われ、彼の
 真意はともかく、陸軍には融和的と見られていた人物です。


  こうして誕生した陸軍の小磯大将の内閣に、海軍は、大臣に米内
 を留任させ、井上成美を次官として送り込みます。
  ようやく海軍の和平派が主導権を握る機会が訪れたのです。
  次官に就任した井上は、直ちに高木少将に密命を下し、病気の名
 目で閑職に転任させ、実際は和平工作に専念させました。
  高木少将の工作がどのようなものであったかは、必ずしも正確に
 は伝えられていません。関係者存命中という理由のようです。
    戦後の私たちにとって確かなのは、この時期から以降、徐々に首
 脳部の意思が統一されてきたことと、それによって、終戦という至
 難事を成し遂げるのに、日本海軍が決定的な役割を果たすことがで
 きたという事実です。             (下に続く)

  また東条の退陣は、国内テロの動きに冷水をかける効果がありま
 した。
  海軍の過激派はテロの目標を失い、高木少将らは地道な秘密工作
 に徹し、神大佐は艦隊参謀に転じます。


  もし国内テロが横行した場合、どのような結果が生じたかを考え
 ると、慄然たるものがあります。
  戦争中ということもあり、銃器を使用してのテロや集団的な抗争
 まで至らないとしても、白刃を揮っての暗殺の横行は避けられそう
 もありません。
  実は海軍にも剣の達人は多数いて、たとえば草鹿龍之介は山岡鉄
 舟の孫弟子として、無刀流第四代宗家を継承していますし、あの栗
 田中将なども隠れた剣の達人です。
  何しろ、海軍兵学校の正式教課に剣道があって、真剣での巻き藁
 斬りを実習しているのですから、陸軍有利とは限らないのです。
  幕末の勤皇志士対新撰組の暗殺合戦が再来したら、直接の被害だ
 けでなく、和平そのものを阻害し、歴史は全く別の様相を示すこと
 になったでしょう。


  歴史が選んだのは、陸海軍の一時的休戦と、終戦を含む戦争処理
 の責任の海軍側への移行でした。
  戦後に専ら戦争責任の中心的標的とされた東条首相ですが、彼の
 退陣によって陸海軍の決定的な対立が避けられたのは事実ですし、
 皮肉なことではあっても、これが東条首相にとっては国家への最後
 にして最大の貢献となったのでした。      (下に続く)

     鈴木貫太郎首相への道


  新たな事態の到来は、海軍に対して苛酷な現実を突きつけること
 になりました。
  彼らの前には、ほとんど解決不能の課題が迫っていたのです。
  一つは、圧倒的物量を誇る連合軍機動部隊の攻撃から、祖国を護
 るという防衛責任であり、もう一つは、国家が全面崩壊に陥る前に
 講和を図るという和平戦略で、しかもこの二つは相互に矛盾する要
 素を含んでいるのです。


  防衛責任は軍隊にとって第一の任務です。
  講和の推進はその放棄と受け取られる危険があり、もしそうなれ
 ば、作戦遂行の本部である大本営内での海軍の地位は失墜し、一気
 に発言力を失ってしまいます。
  それによって、重要物資の割当も削減され、第一線への補給も後
 回しとなり、たちまち前線部隊は窮地に追い込まれます。
  講和の主導権を保ち続けるには、逆に一層の防衛努力が必要とさ
 れるのです。


  以前、芙蓉部隊の美濃部少佐の言として紹介しましたように、戦
 争が継続している限り、軍人には戦う義務があり、それを自ら放棄
 するのは、決して許されることではありませんでした。
  戦後の論調の中の一つに、敗戦が近い時期での積極作戦を無意味
 とするのがありますが、それは単なる情緒論に過ぎないのです。
                          (下に続く)

  一部の人たちの期待に反し、米内・井上の新体制は連合艦隊の積
 極作戦を支持しました。
  二ヵ月後のフィリピン沖海戦は、航空戦力の支援なしに、艦艇部
 隊の総力を米軍大機動部隊の待ち受ける海域に投入するという、海
 戦の常識外の作戦でしたが、海軍は全力を以て対応し、ついにあの
 神風特攻隊を発動させたのです。


  これには、さしもの陸軍も沈黙するしかなく、却って海軍に追随
 する形で陸軍特攻隊を編成し、戦闘分野でも主導権を海軍に譲る状
 態となったのでした。
  これによって、翌年の四月には小磯陸軍内閣も瓦解、海軍の長老
 で、昭和天皇の侍従長経験者として信任厚い鈴木貫太郎が首相に就
 任し、ここに海軍主導の終戦内閣の体制が確立することとなりまし
 た。


  もしも、終戦の最高殊勲者を挙げるとすれば、岡田・鈴木の長老
 や米内・井上の現役海軍首脳を抑えて、むしろ神風特攻隊や回天隊
 の若き戦士たちを推すべきかもしれません。
  彼らの存在がなければ、日本国内の政治権力の移行も困難だった
 でしょうし、他方、連合軍側でも、あのカミカゼの恐怖と衝撃があ
 ってこそ始めて、史上稀な『条件付無条件降伏』に踏み切ったもの
 と推定できるからです。


    次回は天皇の聖断による終戦決定の詳細に続きます。

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