『八月十五日の史劇――中篇。中津留(なかつる)大尉出撃す』
                 ――追録篇その(十二)


 八月十五日正午、天皇の玉音放送が始まりました。
 当日の電波状況は劣悪であり、文章も難解なために、国民の多く
にとってその正確な理解は困難でしたが、その趣旨が降伏による終
戦を意味することだけは確実に伝わりました。


 多様な反応が予想されていました。
 最後の閣議での米内光政の発言が記録に残っています。
 彼は、まず海軍については、当日の十時半から二十四時間以内に
主要幹部に周知させ、二日以内に全軍に徹底することを確約し、海
外は六日以内、遠方や孤立地域の部隊でも十二日以内には掌握可能
との見通しを示します。


 すでに前日の十四日夜には、連合艦隊改め海軍総隊司令長官の小
沢中将名で、積極攻撃中止命令が発せられていました。
 その趣旨は、敵からの攻撃を受けた緊急時を除き、積極的戦闘行
為を禁止するというもので、数百万規模の大軍の停戦を行う場合の
常識的対応でしたが、多少の摩擦は覚悟しての措置です。


 ここで、三ヵ月前の五月に、井上成美を大将に昇進させ海軍次官
の職を外し、軍事参議官という一種の名誉職に祭り上げていたのが
全軍統制上大きな効果を発揮することになります。
                        (下に続く)

 のちに検証しますように、井上を次官から外したのには、米内の
 和平工作に関連した深慮遠謀が潜んでいたと見られ、必ずしも停戦
 時での彼の指導力を期待したわけではありません。
  しかし情勢分析の結果、本州西部から九州・四国方面に不穏な動
 きのあるのを察知した米内は、西日本一帯に終戦査閲令を施行し、
 井上大将を臨時の終戦事務査閲官に任じます。
  ここで大将という階級が絶大な威力を発揮するのです。
  前線の司令官はすべて中将以下でしたから、少なくとも彼の指令
 に正面から抵抗するのは困難となりました。


  西日本では宇垣纏(まとめ)中将の第五航空艦隊が最大の勢力で
 したが、井上の登場によって全部隊に対する指揮権は実質的に失わ
 れ、傘下の各隊は次々に停戦に応じてゆきます。
  最も尖鋭とみられた源田実大佐の三四三空紫電改部隊も、全機を
 総攻撃態勢で待機させておいて、源田大佐自ら情勢の把握に努め、
 最後には軍令部に赴いて富岡少将から直接の指示を仰いでいます。


  東日本では、あの美濃部少佐の芙蓉部隊は、彼らしく独自の対応
 をしました。
  彼はまず全機に最後の特攻準備を命じ、中央の主要幹部と接触し
 て米内・井上の真意を確認すると、直ちに部下を残存機に分乗させ
 てそれぞれの故郷に近い飛行場に向かわせ、そこで解散という形を
 取りました。
  彼らしく、未練のない合理的な決断ということができます。
                        (下に続く)

  最後まで戦闘を続けた部隊もあります。
  百里原基地の彗星艦爆隊は、第四御楯隊を結成し、十五日朝から
 単発的に特攻機を発進させていました。
  単発にしたのは、集中的な撃墜を避けるためです。


  二五二空に属する茂原の三〇四、三一六飛行隊は、本土決戦に備
 えて、最新鋭の零戦五二型丙を各四〇機温存しており、この日の早
 朝から小編隊を各方面に出動させ、その一隊の早稲田商学部予備学
 生の本間忠彦中尉隊はグラマン六〇機と遭遇、本間中尉は重傷を受
 けながら辛うじて生還し、戦後は母校の教授となっています。


  木更津基地の一〇二偵察隊は、十五日早朝から彩雲数機によって
 偵察活動を実施します。
  小沢中将の指令通り、敵に対する積極攻撃ではなく、敵の状況把
 握を目的としていました。
  米軍だけでなく、英軍も参加し、多数の艦載機がまだ上空に展開
 し、時折り日本側の軍事施設や工場などを爆撃していました。
  海兵七十三期の小出実中尉は、エンジンの調子が悪いために他機
 に遅れて出発し、米軍のヘルキャット十六機と遭遇、撃墜されてし
 まうのです。戦死後彼は大尉に昇進しますが、年齢はまだ十九才に
 過ぎませんでした。
  七十三期は開戦の昭和十六年十二月に九〇四名が入校し、在校二
 年四ヵ月で、昭和十九年三月に繰り上げ卒業しております。
  正に戦争と共に歩んできた人たちです。 (下に続く)

  卒業生のうち、約四〇〇名が艦艇要員の士官候補生として直ちに
 前線に投入され、三〇〇名はリンガ泊地で、一〇〇名は回天のほか
 震洋などの特攻兵器の基地に配属されて苛烈な訓練を受けます。
  航空要員は五〇〇名。四二期飛行学生として猛訓練の洗礼を浴び
 てから、二十年の二月末には各地の実戦部隊に配属されました。
  戦死者三二八(うち詳細不明者四四)。神風特攻隊二五、回天隊
 二。艦艇部隊ではフィリピン沖海戦での山城、扶桑、瑞鶴の各六な
 どはすでに示した通りですが、それにも増して悲涙を誘うのは、そ
 れに先立つこと四ヵ月のマリアナ沖海戦での集団戦死です。


  この海戦で日本海軍は空母三隻と艦載機三五〇機を失って敗退し
 たのですが、撃沈された空母のうちの翔鶴に、なぜか七十三期卒の
 士官候補生が集中していたのでした。
  その数は一〇名。兵学校を卒業してから僅か三ヵ月。勝利への貢
 献を期して実戦参加しながら、海底深く無念の死を遂げたその姿に
 は、幕末の白虎隊の悲壮な死が打ち重なり、哀切を極めます。
 (翌年の四月、戦艦大和が沖縄への特攻攻撃に出撃した際には、五
 〇名の士官候補生全員を退艦させています。この方針転換の事情に
 ついて触れた記録は皆無ですが、翔鶴の例が教訓となった可能性が
 大です。)


  中津留大尉の出撃には、七十三期から伊藤幸彦、北見武雄の二人
 が参加しました。いずれも出撃時は中尉、戦死後大尉です。
  この時期には先輩たちの消耗が激しく、飛行学校卒後五ヵ月に過
 ぎない彼らは、今や貴重な中堅指揮官となっていました。
                         (下に続く)

    出撃の日


  八月十五日、宇垣中将は、第五航空艦隊司令長官の名を以て、中
 津留達雄大尉に対し出撃命令を発します。
 「七〇一空大分派遣隊は艦爆五機を以て沖縄敵艦隊を攻撃すべし。
 本職これを直率す」
  中津留大尉は直ちに志望者の中から五機十名を選抜しますが、選
 に漏れた者たちの怒りが激しく、結局十一機二十二名とし、宇垣長
 官を含む二十三名を以て彗星艦爆特攻隊を編成しました。


  この結果、中津留大尉の機は定員2に対し、長官を含めて3の乗
 員となり、同乗の遠藤飛曹長などは床に直接座り込む状態だったと
 されています。
  隊員の構成は、海兵3、予備学生・生徒4、甲飛4、乙飛6、丙
 飛4、特乙1。ほかに宇垣中将。


  午後四時集合。六機、五機の二隊に分かれ出撃。
  六機隊は豊後水道沿いに南下、五機隊は東支那海に向けて西進。
  途中、二村機と前田機は故障で不時着。川野機は索敵中に燃料不
 足となって鹿児島近海に不時着。
  この三機の乗員六名は生還しています。


  午後八時二五分、われ奇襲に成功せり、の打電を最後に消息は永
 遠に絶たれました。               (下に続く)

  戦後、予備学生十三期の飯井(いい)敏雄少尉の目撃証言によっ
 て、沖縄本島本部(もとぶ)半島北三〇キロの伊平屋島に二機が突
 入したことが確認されました。
  一機は海岸の米軍キャンプ近くの岩礁に、一機はその地点から内
 陸に入った水田に突入し、機体、遺体ともに完全に破壊四散してい
 ました。
  前後の状況から判断して、そのうちの一機が中津留大尉機である
 のは、ほぼ間違いないと推定されています。


  宇垣中将が自ら率いて決行したこの最後の攻撃に関しては、戦後
 に多くの批判や論評が行われました。
  その主要なものを摘記しますと、次のようになります。


  その第一は、私兵特攻説です。
  すでにポツダム宣言を受諾している以上、その条項に反する戦闘
 行為は法に反しており、彼の出撃は国家として認められない私的行
 為であるとする見解です。
  もしそうであるとすれば、中津留大尉を含む全員も同罪となるわ
 けですが、実際には彼らは戦死と認定され、それぞれ一階級づつ昇
 進しています。明らかに国はその行為を事後的に認知していること
 になります。


  他方、私兵特攻説を否定する側は、この国家による認知を、停戦
 命令が到着した時点を基準にしようとしています。
                         (下に続く)

  大本営の停戦命令が確実に現地に到着したのは、出撃の翌日の十
 六日であつたからです。
  どちらにも理屈はあります。要は国の意思の問題であって、結果
 としては、一種の妥協案が成立したのです。
  このため、実際には特攻出撃にもかかわらず、戦死者の二階級昇
 進は見送られ、一般の戦死と同等の扱いとされました。


  議論の第二は、宇垣中将の道連れ説で、彼が大西中将のように単
 独で自決するならばともかく、中津留大尉以下を率いて特攻攻撃を
 決行し、若者たちを死に至らしめたのに対する批判です。
  これには、中津留大尉のすぐれた人間性と、彼が敷島隊の関行男
 と同期(七十期)で、かつ同じく新婚早々、しかも愛児が誕生した
 ばかりという立場への同情が深く関わっているようです。


  だからといって、S・S氏の「指揮官たちの特攻」のように、彼や
 関行男の特攻隊長抜擢を不運とみるのは、却って故人の名誉を傷つ
 けることになり、容認しがたいものがあります。
  氏の所論によれば、関行男の場合、ほかに指宿(いぶすき)大尉
 という同期の適格者がおり、関が選ばれたのは疑問という森史朗氏
 の意見を引用しているのですが、森氏の著書(敷島隊の五人)その
 他を子細に検討すれば、それが誤解であるのは明白です。
  森氏は、関大尉、指宿大尉共に病気から回復したばかりという状
 況を前提に、どちらの体調が良好かの判定ができないための疑問と
 しているのであって、S・S氏のように疑惑とは捉えていません。
                         (下に続く)

 しかも、もっと重要なのは、この二人とも、事前に大西中将と面
 談しており、指宿大尉に至っては、中将の案内役を長時間勤めてい
 て、中将が最も良く適確性を判断できる立場だったことです。


  大西中将は、彼が特攻作戦を決意したとき、この成否が国の運命
 を決するとの認識を持っていました。
  その最初の隊長には最適の人物が絶対に必要です。直掩隊長に最
 高のエースの西沢広義を選んだのもそのためです。
  情緒的な要素の入り込む余地は全くなかったのです。


  中津留大尉の場合も、宇垣が彼を最高の指揮官と判定したからで
 あって、中津留大尉もまた、その知遇を誇りとし、自らの積極的な
 意志に基づいてその任務を果たしたと見るのが自然です。
  S・S氏がその著書の中で、中津留大尉の言として「ぼくは死に
 急ぎはしない」とあるのを、いかにも特攻出撃に消極的であったか
 のように記述しているのは、歪曲とまでゆかなくとも、少なくとも
 真実には程遠く、彼の名誉を傷つける表現と言えるのです。


  戦後の所論に共通する誤りを整理すると、最も多いのが不十分な
 資料を基に、先入観を持った結論を出すというのがあります。
  関大尉、中津留大尉についてのS・S氏の所論もその類に属して
 いて、「死に急ぎはしない」という発言は、関大尉以来の一つの伝
 統であり、敢闘精神とは何ら矛盾しない合理的精神を示す言葉だっ
 たのです。                   (下に続く)

   古来征戦幾人か回(かえ)る――王翰『涼州詞』より


  宇垣特攻における中津留大尉の立場の正しい評価に当たっては、
 まずこの種の先入観を捨てなければなりません。


  S・S氏の著書では、桜花神雷部隊の第一回出撃の犠牲者一五〇
 の中、海兵出はわずか七名しかいなかった、と記述していて、いか
 にも過少のように強調していますが、これは明らかな誤りです。
  以前の検証で私たちは、この日の攻撃失敗の犠牲者の余りの多さ
 に愕然とした岡村司令が、急遽方針転換を決意したこと、とくに林
 冨士夫大尉らの若手指揮官の特攻出撃を固く禁じたことなどを、す
 でに確認しています。


  戦力の中核となった七〇期の卒業生は四三三名。ソロモン諸島周
 辺で一一三名、比島で四三名、サイパン方面で二五名、さらに沖縄
 戦での消耗を加えて、深刻な問題となっていたのです。
  結局七〇期の合計戦死者数は二八七人に達し、この中には関行男
 を始め、撃墜王の菅野直、回天隊の樋口孝、上別府宣紀、神雷部隊
 の漆山睦夫、同戦闘機隊の甲斐弘之など、いずれも余人に代えがた
 い中堅指揮官として期待されていた人物が含まれていました。


  航空戦力に限れば、七〇期から飛行学校に進んだ一八〇名中、実
 に七三%が戦死し、残った者は僅かに四八名。
  これには偵察・通信・整備要員、それに負傷者も含むので、戦力
 となる指揮官の数は極度に減少していたのです。
                         (下に続く)

  このような状況下で、兵学校三年、実戦三年以上という理想に近
 い資格を備えた七〇期の残存指揮官は、今や珠玉の如く貴重な価値
 を持っていました。
  精鋭を揃えたと言われる第五航空艦隊の宇佐基地の中でも、中津
 留大尉は特別な存在であったようです。


  終戦の声を聞いて、彼は自分の特殊な立場と、自らに課せられた
 任務に気付くのです。
  その任務については、彼が母親宛ての最後の遺書の末尾に記した
 言葉が、端的かつ明瞭に語っています。


 ――(前略)戦局も沖縄にて一時は食ひ止めあれど、楽観は許さざ
 る状況にあり、不肖も身を以て此の戦局にぶつかり申すべく候。


  兵学校の仲間たちはもう何人も残っていません。歴戦の部下たち
 も次々に戦死し、新人たちに代わっています。
  しかも敵の機動部隊は依然として我が物顔で日本近海を荒らして
 いるのです。彼の心中の無念は察して余りあるものがあります。
  敵艦隊に一矢を酬いなければ、武人としての中津留の面目を保つ
 ことはできず、死んでも死にきれないのです。
  宇垣中将から与えられた任務は、敵艦隊攻撃ですが、この敵艦隊
 が機動部隊を意味するのは明白なことでした。
  彼がその命令を最後の好機と受け止め、高い戦意を抱いてこの作
 戦に臨んだことについては、ほとんど疑問の余地はありません。
                         (下に続く)

  彼は生後七日の愛児にも会うことができました。鈴子という名を
 確認して、最後の別れを告げることもできました。
  臼杵中学出身で宇佐航空隊に所属し、故郷を防衛する任務を与え
 られた彼にとって、先に戦死した仲間の後を追って故郷の空から特
 攻出撃する機会を得たのは、むしろ本望だったでしょう。
  これまでに、S・S氏をはじめ多くの人たちが、中津留大尉の心
 境を計りかねていたのは、戦争の時代を遠く離れた現代人の感覚に
 基づいて、あの当時の青年士官の心理を無理に現代風に解釈しよう
 としていたからでした。


  宇垣中将自身は、当初から自決を主な目的として出撃し、敢えて
 戦闘行為には期待していなかったと思われます。
  しかし中津留らは違っていました。
  彼らは、燃料の尽きるまで機動部隊を探し求め、ついにそれが尽
 きたとき、川野機らの三機は不時着して生還し、中津留機をはじめ
 とする八機は、海中または陸地に突入する道を選びました。


  中津留大尉がなぜ陸地を選んだかの理由は今もまだ不明です。
  強いて推理するならば、彼が日々上空から眺めてきたこの美しい
 日本の国土の中でも、ひときわ美しい南の島々にその骨を埋めたか
 ったからかもしれません。


  ともあれ、戦後に特攻資料をまとめたほとんどの著書は、彼らを
 最後の特攻隊として記載し、歴史に残しています。
                           (下に続く)

  終わりに、最後の日の中津留大尉の心境に相応しい詩を以て、こ
 の時の彼におくる言葉としたいと思います。
  作者は、戦後日本の代表的抒情詩人の一人、小椋佳です。
  日本人の誰もが持っている、美しき山河を想う心を歌い上げた詩
 です。


 ――人は皆 山河に生まれ、抱かれ、挑み、
   人は皆 山河を信じ、和(なご)み、愛す、
   そこに 生命(いのち)をつなぎ 命を刻む
   そして 終(つ)いには 山河に環(かえ)る。


   顧(かえり)みて、恥じることない
   足跡(あしあと)を山に 残したろうか
   永遠の 水面の光 増す夢を
   河に浮かべたろうか


   愛する人の瞳(め)に
   愛する人の瞳(め)に
   俺の山河は美しいかと。
   美しいかと。


   歳月は 心に積まれ 心と映(うつ)り
   歳月は 心に流れ 河を描く ――以下略――


             (小椋佳作詞『山河』より抜粋)


                           ――次回につづく

日本史随想目次に戻る
トップページに戻る