「栗田艦隊」 決戦と撤収(二)


 この艦隊の六隻から発進した艦載機が、必死の力を奮って栗田艦
隊に波状攻撃をしかけたのです。母艦は貧弱でも、艦載機は正規空
母に劣る所はありません。機数も六隻で約百五十機。戦いの後半に
は他の二群からも百機以上が続々と応援に飛来してきました。
 栗田艦隊のほぼ全員が正規空母部隊と誤認していたというのも、
おそらくこの部隊の艦載機にそれだけの威力があったということで
しょう。図らずも、誤認のほうが正解だったのでした。


 というのは、栗田長官が追撃中止を命じた九時十一分には、重巡
鈴谷、鳥海、筑摩、熊野が戦闘不能の損傷を受け(熊野を除きのち
沈没)、当初十隻の重巡は利根、羽黒の二隻だけになっており、戦
力は著しく低下していたからです。
 追撃を続行した場合も、レイテ湾突入の場合も、多少の旗艦を撃
沈できたとしても、栗田艦隊が致命的な打撃を受けていたことに、
疑問の余地はありません。
 とくにレイテ湾に突入した場合、上陸地点までの約五時間、護衛
空母艦隊はその総力を挙げて空からの攻撃を続け、キンケードの艦
隊も突入阻止に全艦が結集するでしょう。弱体化した栗田艦隊に対
抗する力が残っているとは思われません。
                            (下に続く)

  さらに危険なのはその帰路です。
  レイテ湾までの往復に十時間以上も費やしているうちに、キンケ
 ードの度重なる支援要請により、ついにニミッツまで動かして緊急
 にウルシーから出動したマッケーンの機動部隊は、そのころには艦
 載機発進可能地点に到達している予定です。
  これは正真正銘の正規空母艦隊です。大型空母三隻。艦載機も二
 百機以上。満身創痍の栗田艦隊の命運はここに尽き果てていること
 でしょう。


   栗田艦隊には二つの選択肢がありました。一つは全滅を覚悟して
 のレイテ湾突入、もう一つが急速な撤収です。前者は玉砕の道で、
 小柳参謀長などは自分の著書でその可能性を指摘しています。
  ただそれには、米軍機動部隊が囮作戦によって北方に誘導される
 のと、日本側の基地航空部隊の支援が前提となります。
  戦後に、囮作戦が成功したことが知らされましたが、当時は何ら
 の連絡もなく、逆に護衛空母艦隊の威力は正規空母並みであり、し
 かも日本側基地航空部隊は一機も見当たりません。
  栗田長官としては、彼の長年の実戦経験から、全作戦に大きな齟
 齬が生じたと判断、撤収を決意するのはむしろ当然でしょう。
  結果としてその決断は正しく、それによって、艦隊は一万数千人
 の将兵と共にブルネイに帰還することができました。しかものちに
 明らかになるように、すでに艦隊は十分な成果をあげていました。
                           (下に続く)

  往復長躯二千カイリ。途中の反転や迂回なども計算すれば、優に
 四千キロを越える敵中の大遠征で、米軍は右往左往の大混乱です。
  栗田艦隊の正式名は第一遊撃部隊。敵陣を攪乱し、作戦を妨害す
 るのが主目的です。その目的通りの成果がありました。
  「任務は果たした。これ以上有為な青年たちの命を求めることは
 ない」 これが栗田中将の結論でした。


  しかし栗田長官が去ったあとの戦場で、驚天動地という言葉が決
 して誇張でない大事件が勃発し、米軍の混乱が極限まで高まり、そ
 の結果、第一遊撃部隊の戦果がさらに拡大し、かつ連合艦隊の名誉
 が際どく保たれるとは、だれにも予想できないことでした。
  「ティータイム」を挟んで、次回はその問題が主テーマとなりま
 す。
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