「栗田艦隊」  決戦まで(一)


 決戦の時は刻一刻と近づいていました。
 一九四四年六月のマリアナ沖海戦で、わが連合艦隊は大敗を喫し
て、虎の子の空母三隻と艦載機三百機を喪失し、さらに貴重な搭乗
員を多数失いました。他方、大勝の勢いに乗じた米太平洋艦隊の機
動部隊は、フィリピン、沖縄、台湾方面の日本側基地を猛爆、やが
てニューギニア沿岸を西進してきたマッカーサー軍と呼応してフィ
リピン上陸の機を窺っていました。
 フィリピンを失えば、南方に展開する日本軍が孤立し、一方、南
方からの資源の供給を絶たれた内地は一気に窮迫して、戦争の継続
は至難になります。誰の目にも、フィリピンがこの戦いの天王山で
あるのは自明でした。
 決戦に備えて、連合艦隊はインドネシアのリンガ湾に集結し、猛
訓練を開始しています。七月の初めころからです。
 リンガ湾の位置は、シンガポールとスマトラ島中南部油田地帯の
中間にあり、艦船用の重油が潤沢に手に入ります。そこで、連合艦
隊は、あの超戦艦大和・武蔵を先頭に、赤道直下の灼熱の太陽を浴
びながら、猛訓練を連日展開しました。
 士気は極めて旺盛だったといわれます。これについては、あの伊
藤正徳氏も強く称揚しています。相次ぐ敗戦と戦力の大幅低下にも
関わらず、連合艦隊の将兵の不屈の闘志は健在でした。
                           (下に続く)                                   

  しかし、十月の半ばころから、連合艦隊傘下の各艦隊司令官や参
 謀たちは、本部参謀から意外な指示を受けます。それが小沢機動部
 隊を囮にしての栗田主力艦隊のレイテ湾突入でした。
  本部によれば、日本側機動部隊の実力低下は著しく、正規空母は
 瑞鶴一隻だけで、あとは改装空母三隻のみ。これでは正規空母だけ
 で十数隻と予想される米艦隊との艦隊決戦はとうてい無理であり、
 囮作戦によるしか難局打開の道はないというのです。
  この作戦によれば、栗田艦隊の役割は、米軍上陸地点に集まって
 いる米輸送船団の撃破ということになります。
  激論が重ねられました。大和・武蔵を擁する栗田艦隊がなぜ最も
 弱い輸送船攻撃を担当するのか、そもそも航空部隊の支援なしに上
 陸地点まで到達できるのか、栗田艦隊の将兵、中でも兵学校や予備
 学生出身の青年士官たちには納得できない作戦でした。
  激論の末に、航空支援については基地航空部隊が担当すること、
 攻撃目標については輸送船団に限定せず、米機動部隊と遭遇した場
 合にはそれへの攻撃を優先するということで合意が成立しました。


  十月十八日午前一時、艦隊はリンガ湾を発ち、二十日正午にはボ
 ルネオ島の北岸のブルネイに到着しました。この時、米軍がすでに
 レイテ湾に上陸を開始していることを知ります。
  レイテ湾までは約千カイリ(一、八五二キロ)、新たに燃料を補
 給して二十二日朝の出発で、レイテ到着は十月二十五日と予定され
 ました。予定航路は、ルソン島の南側のシブヤン海からサンベルナ
 ルジノ海峡を通り、フィリピン群島の東側に出、南下してレイテ湾
 に至るコースです。               (下に続く)

  別動隊の西村艦隊と志摩艦隊は、ミンダナオ島北側のスリガオ海
 峡を経由して南側から直接レイテ湾に突入の予定でした。
  また小沢機動部隊は十月十九日に内地を出発してフィリピンの北
 方洋上に進出し、米機動部隊を誘い出すことになります。


   ここで日米両軍の戦力を比較してみましょう。
  日本側は、戦艦九、正規空母一、改装空母三、巡洋艦十八、駆逐
 艦三十一、合計六十二隻。艦載機一〇八機。
  米軍は、戦艦十二、正規大型空母八、軽空母八、護衛空母十六、
 巡洋艦二十三、駆逐艦八十八、合計一五八隻。ほかに多数の魚雷艇
 と艦載機一、二八〇機。
  日本側がどうやら対抗できるのは戦艦と巡洋艦だけ。近代海戦で
 最も重要な空母戦力に至っては比較にもなりません。
  空母戦力を補完しなければならないはずの基地航空戦力も惨憺た
 る状況でした。レイテ上陸に先立ち、米機動艦隊は日本側基地を波
 状攻撃し、地上で約七百機を撃破し、フィリピンの基地航空部隊で
 ある一航艦(第一航空艦隊)は僅かに四十機に減少。急遽台湾方面
 から補充戦力を集め、二航艦(第二航空艦隊)を編成しますが、こ
 れもようやく二二〇機程度です。
  全部を合わせても三六八機。これで強大な米機動部隊に挑まなけ
 ればならないのです。片道千カイリ。栗田艦隊がレイテ湾に到達で
 きる確率は極めて低い作戦でした。
                           (続く)           
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