『回天隊、最後の奇跡的大殊勲』
――追録篇その(八)
盟友の黒木大尉を不慮の事故で失ってから、回天隊の実質的な責
任者は仁科中尉独りとなりました。
上官には板倉少佐や上別府大尉らもおりましたが、回天という特
殊な兵器については若い新人士官と同程度の知識しかありません。
このような状況下で、双肩に重責を負った仁科中尉がどのような
心境であったか、その詳細は最も知りたいことの一つですが、残念
なことにほとんど記録は残されていません。
私たちが再び彼の名を見るのは、昭和十九年十一月七日、回天特
別攻撃隊菊水隊の隊長の一人としてです。
菊水隊は、母艦に伊号三六、三七、四七の三艦。各母艦に回天四
基を搭載し、翌日には光基地に移動、十九日にウルシー環礁の米艦
隊泊地に向かって出動します。
黒木大尉の壮烈な殉職から二ヶ月以上を経て、ようやく回天の実
戦参加が実現したのです。ここに至るまでの彼の苦心、彼が受けた
精神的重圧は想像を絶するものがあったと推察されます。
この時期、米軍ウルシー泊地は、フィリピン攻略作戦の根拠地と
して、機動部隊を中心とする大艦隊が集結し、ここで弾薬・食料を
補給、日本軍のカミカゼ攻撃によって損害を受けた艦艇の応急修理
を行い、兵員には休養期間が与えられます。 (下に続く)
日本軍の戦略としては、この根拠地を攻撃し、少しでも米軍戦力
を減殺したい所です。
しかし、日本軍空母部隊に余力は残されておらず、潜水艦隊にし
ても堅固な米海軍の防御体制の突破は至難であり、あとは回天隊に
期待するしかないというのが実情でした。
三隻の伊号潜水艦のうち、ウルシーに到着できたのは、伊号三六
と四七の二隻で、不運にも三七は米海軍哨戒艦隊に発見されて撃沈
され、回天の上別府大尉も母艦と同時に海底に没しました。
一方、伊号四七は、仁科中尉、福田斉(ひとし)中尉(機関学校
五〇期)、佐藤章少尉、渡辺幸三少尉(いずれも予備学生)が同時
発進して突入に成功、伊号三六の回天もまた突入できた模様です。
彼らの戦果は、米軍側の記録によって確認されています。
撃沈されたのはタンカーのミシシネワ、二万三千トン。回天命中
後二時間で沈没、この間にほぼ満載していた重油、ディーゼル油、
航空用ガソリンをすべて失ったとされています。
この三種の燃料の合計は約一万六千立方米。沈没までの二時間、
猛火と誘爆と黒煙の地獄絵図が展開されました。
損害を大きくした主な理由は二つです。
その一つは、タンカーの防御力の弱さであって、船体の鋼板は戦
艦などに比べてはるかに薄く、とうてい魚雷の破壊力に対して抵抗
できるものではありません。 (下に続く)
その二は搭載している石油燃料の危険性です。
とくに純度の高い航空用ガソリンは、簡単に引火し、他のディー
ゼル油や重油に延焼するため、火災は一気に広がります。
軍艦の場合でも、航空母艦が自艦の艦載機の燃料によって被害を
拡大した例は多く、いわば空母の泣き所となっています。
( 米軍ではバンカー・ヒルやフランクリンなど。日本側ではミッド
ウェー海戦で、航空燃料と搭載爆弾・魚雷が被害を拡大しました)
惜しいことに、日本の潜水艦隊はこの時の成功を戦訓として活か
すことができませんでした。
回天は還らず、母艦は早急な避退を求められていて、戦果を確認
している余裕はありません。遠くの爆発音を聞きながら全速で戦場
を後にするのが精一杯でした。母艦には、速やかに帰還して次の作
戦に参加する義務が課せられているからです。
戦後の私たちは、この菊水隊の戦果の分析によって、艦隊決戦か
通商破壊戦かなどと迷うことなく、潜水艦隊の攻撃目標をタンカー
に絞るのが最善であったと知るのですが、もちろんこれを当時の人
たちに求めるのは酷なことです。
むしろ戦後六十年以上の今日、日本の経済や生活を支えている石
油の輸送が、外敵の攻撃に対しては極めて脆弱なタンカーに依存し
ているという事実に、ほとんどの人が無関心なのが驚きです。
仁科中尉らがその命を以て実証したこの冷厳な事実を、全く教訓
として活かしていないことを意味するからです。 (下に続く)
その後の回天隊の歩みは決して順調とは言えませんでした。
米海軍は泊地の警戒体制を強め、日本側の接近は困難となり、次
第に海上攻撃に重点を移すようになります。
十二月に結成された金剛隊の各潜水艦は、翌年の一月五日、基地
を相次いで出発して、グアム、ニューギニア、ウルシー、パラオな
どの各方面に散開します。久住中尉が戦死したのもこの時のことで
した。
三月ころから、回天の製造が軌道に乗り始める反面で、伊号潜水
艦の消耗が進み、出動待機の回天隊員が増えてきます。
しかも戦局の悪化によって、米軍の本土上陸の危険も増してきた
ことから、基地回天隊の構想が浮上。大津島、光基地のほか、四国
の宿毛、須崎、宇佐、九州の大神、細島、内海、油津、内の浦、伊
豆の網代、房総の小浜などに基地が配置されます。
六月四日、回天が自らを犠牲にして母艦の危機を救うという、隊
員の士気の高さを象徴する壮絶な出来事がありました。
沖縄、サイパン方面に出動していた伊号三六が、米軍の駆逐艦に
攻撃され、危うく撃沈の危機に瀕したとき、久家稔中尉(大阪商大
卒予備学生)が出撃を志願し、敵艦に向かって自爆したのです。
伊号三六は脱出に成功、七月九日光基地に帰投しました。
この時期には、作戦に参加可能な大型潜水艦はわずか五隻に減少
し、本来は輸送潜水艦として就役していた伊号一六五など五隻を動
員しているような状況でしたから、極めて価値の高い殊勲です。
(下に続く)
こうしているうちに、いよいよ回天隊の最後の奇跡の日が近づい
てきました。
七月十六日。伊号五八潜水艦は平生基地で回天六基を搭載し、南
方のグアム、フィリピン、沖縄方面に目標を求めて出航します。
艦長は橋本以行中佐(海兵五九期)。この時点ではこれから彼が
遭遇することになる大事件の予感などは全くありません。
伊号五八は、排水量二、六〇〇トン、潜水艦用の九五式魚雷十九
本を装備し、航続距離二一、〇〇〇キロ。昭和十九年九月に竣工し
た新鋭艦です。乗員は九十四名、ほかに回天六基、回天隊員六名。
七月二十九日、レイテ島とグアムを結ぶ直線が、パラオと沖縄を
結ぶ直線と交差する一点で、伊号五八の見張り員は一隻の米軍艦を
発見します。月明の夜、午後十一時過ぎ、距離一万m。
艦形などの確認もできないまま、距離一、五〇〇mまで接近した
橋本艦長は魚雷の一斉発射を命じます。その数六本。
回天を出動させなかったのは、緊急事態で準備の余裕がなかった
のと、夜間の回天の航行に不安があったことによります。
(結果的にこの選択が攻撃成功をもたらしました。月明が艦の夜間
行動を可能にし、魚雷発射に最適な距離に接近できたからです)
魚雷六本の内、三本命中。
爆発光の一瞬の輝きが、一気に傾く軍艦の姿を際立たせました。
戦後、その米軍艦がインディアナポリスという名の巡洋艦である
と知らされるまで、橋本艦長以下の誰もその名を知ることはなく、
ましてやその名が示す重大な意味に想到するはずもありません。
(下に続く)
インディアナポリスは、三月三十日の神風特攻隊の攻撃で損傷を
受けたのち、サンフランシスコに帰投して修理に入り、六月末に修
理を完了したことから、偶然その任務を与えられていました。
七月十四日、或る重要物資の輸送を命じられたインディアナポリ
スは、ロス・アラモス港を出航し、一路、太平洋を西に向かい、早
くも二十六日にはテニアン島に到着、その重要物資を空軍に引渡し
て、休養と補給のためグアム島に急ぎます。
艦長のチャールズ・マクベイがどの時点で、その重要物資が原子
爆弾という破壊的な新型兵器であるのを知ったのか、必ずしも明白
ではありません。
もしテニアンで引渡した時に知っていたとしたら、その後の彼の
行動は余りにも不用意なものです。
護衛の駆逐艦も付けず、対潜警戒もせず、インディアナポリスは
まるで標的艦のように伊号五八の前にその姿を現したのでした。
歴史上の出来事には、論理的な必然の結果によるものと、確率的
に説明できるものがあります。
ところが、この伊号五八とインディアナポリスの遭遇には、その
どちらも適用することができません。
あの広大な太平洋の一点で、或る一瞬、太平洋戦争で最も重要な
意味を持つ原子爆弾を輸送した米軍艦と、最も苛烈な任務を与えら
れた日本の回天部隊の一艦がなぜ出会ったのか、その確率は限りな
くゼロに近いものがあります。 (下に続く)
日米の二艦が遭遇する確率がゼロに近いだけでなく、その後のイ
ンディアナポリスの受けた苛酷な運命を思うと、むしろ日本が古来
得意としてきた怨霊学説を信じたくなります。
魚雷命中から沈没まで十四分。この間に約四百人が戦死。残りの
八百人は船外に脱出したものの、救命艇は使用できず、四つのいか
だで漂流するしかなく、救助艦が到着し、生存者が救助されるまで
の四日と十時間にさらに五百人が死亡。米海軍史上でも最大級の惨
事となりました。
これでもかとばかりに、あらゆる不運が重なっていました。
無線通信機は全部壊れてしまい、救助の発信ができません。
なぜか米海軍の誰一人としてインディアナポリスの行方を気にす
る者がなく、遭難は放置されたままとなりました。
あれほどの数の米空軍機も米艦隊も、遭難場所を通過することが
なく、米軍兵士は絶望のうちに次々と死んで行きます。
八月二日午前、ようやく双発爆撃機ベンチュラが漂流者を発見、
直ちに救助艦を向かわせ、救助隊が到着したのが同日午後十一時四
五分。実に沈没後九十六時間経過していました。
マクベイ艦長の救出はさらに遅れて、翌三日の午前十時二十分。
艦長はその後拳銃自殺を遂げるのですが、この時のショックによ
るものか、のちの審訊の厳しさによるものか、真実は伝えられてお
りません。 (下に続く)
インディアナポリスの戦死者は合計九百名。実はこの数は太平洋
戦争を通じての一艦の犠牲者としては、あの空母フランクリンの八
三二名を上回る最多数です。
戦後、米軍は橋本艦長に出頭を求め、撃沈前後の状況についての
詳細な事情聴取を行っており、それによると、原爆についての情報
流出を疑っていた節がありますが、もちろんまったくその事実はあ
りません。
回天隊の犠牲者は、殉職者、伊号潜水艦の戦死者、戦後の自決者
二名を含め、合計八四五名。最後のインディアナポリス撃沈によっ
て米海軍がこれを上回る結果となり、大逆転となりました。
なおアメリカ海軍は、戦後も日本潜水艦には強い関心を持ち、五
隻を接収して本国に回送しています。
その中には実戦に参加する寸前であった伊号一四、同四〇〇、同
四〇一の三隻があります。
この三隻は俗に潜水空母と呼ばれていて、三機(伊号一四は二機)
の攻撃機を搭載し、航続距離は六万キロに近く、地球を一周可能と
いう、当時としては想像外の超長距離遠征型の潜水艦でした。
排水トン数も五、五二三トン。軽巡洋艦並みの大きさで、戦後進
駐してきた米海軍関係者は入れ代わり立ち代わり見学し、本国回送
後も徹底的に分析・研究され尽くしました。
現在の米海軍では、ミサイルを搭載した原子力潜水艦が中心戦力
となっていますが、このミサイルを潜水空母艦載機や回天に代えれ
ば、その戦略思想が全く同質であるのは明らかです。 (下に続く)
回天隊員の不運は、彼ら自身が開発し、猛訓練によって改良を積
み重ねた新兵器が、敗戦と戦後のミサイルの登場によって、歴史の
中の一瞬として消えかけていることです。
しかしすでに見てきたように、そこに存在した人々は、人間性の
高さによって、永遠に記憶し、記録されてゆくに違いありません。
(注)怨霊学説について。
怨霊学説とは、冤罪などによって不幸な死に至った人の魂が怨霊
となり、加害者に祟るという説で、菅原道真の死後に政敵が数々の
不幸に見舞われたのが代表例。その怨霊を鎮めるために建立された
のが天満宮となります。
歴史上最も古い実例は、貞観五年五月、神泉苑で行われた御霊会
で、非業の死を遂げた崇道天皇(早良親王)や伊予親王などを祀る
(まつる)ことにより、疫病などの不幸の排除を祈りました。
大国主命(おおくにぬしのみこと)と出雲大社、聖徳太子と法隆
寺なども同種のものとする有力意見があります。
やがて日本人は、その祭祀を拡大し、平将門(まさかど)のよう
な反逆者までも神社(神田明神など)に祀って、怨霊が永久に平穏
であるのを願うようになっています。
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