『「回天」隊長黒木博司大尉、海底からの遺書』
             ――追録篇その(六)


 戦後、桜花を人間爆弾と呼んだ人たちは、この全長一四・七m、
重量八トン、水上時速三〇ノット、水中一〇ノット、爆薬一・六ト
ンの一人乗り超小型潜水艦 「回天」を、人間魚雷と呼びました。
 どちらの場合も、これら兵器の非人間性を暗示する意味合いをこ
めた命名と思われますが、その後に得られた米軍側の情報などによ
って、桜花についてはそれが適切とは言えないのが明らかになって
きました。
 桜花を単独の兵器としてではなく、特攻を中心とした全作戦の一
部として見れば、決して悔ることのできない存在で、確認できる戦
果もあり、そこに将来のジェット機、誘導ミサイルの萌芽が存在す
るのが確認されたからです。


 同じころ開発されたドイツの新兵器、V1号、V2号がそれぞれ
巡航ミサイルと弾道ミサイルの原型であるのに匹敵する戦術思想で
す。
 まだ電子技術が未熟なため、ドイツの新兵器は命中率が低く、予
定したような成果はえられず、脅威は一過性に止まり、逆に日本の
新兵器は、脅威を与え続けました。
 そこに人間が介在し、常に修正を加えながら対応する余地があっ
たからです。正に「人間」の爆弾だったのです。  (下に続く)

  この桜花に比べると、回天については、兵器としての評価は依然
 低いままであり、充分な検証が行われておりません。
  回天そのものは、作戦遂行後に帰還することはありませんし、母
 艦である潜水艦は、回天出撃後はできるだけ速やかに撤収する必要
 があるため、日本側での戦果確認が困難だからです。
  相手の米軍でも、魚雷と回天を区別するのはほとんど不可能であ
 り、現在に至っても双方の資料を照合して真実を知る作業は至難な
 のです。


  それにもかかわらず、私たちが回天を忘れ去ることを許されない
 のは、創始者である黒木大尉とその同僚の樋口孝大尉の存在があっ
 たからです。
  この二人が死に臨んで残した海底からの遺書は、その内容が回天
 という新しい兵器について緻密な分析をしているという資料価値だ
 けでなく、二十台前半の若者が持っていた責任感の強さを示した点
 で、未来に対し、語り継ぐべき価値があるからです。


  回天の登場以前、日本海軍の潜水艦隊は、伊号 (一千トン以上)
 と呂号(同未満)の通常潜水艦六十一隻と、甲標的と名付けられた
 五十トンの超小型の特殊潜水艦を約八十隻所有していました。
  しかし消耗が相次ぎ、要求される作戦範囲も拡大の一途を辿るに
 つれて、潜水艦隊は機能不全の状況に陥ります。
  各分野のすべてに対応しようとして、却ってどの分野でも満足で
 きる役割を果たすことができなくなってしまったのです。
                         (下に続く)

  戦後、他の例と同じく、ここでもステレオタイプの論評が支配し
 ました。
  曰く、隠密作戦を得意とする潜水艦を艦隊決戦の補助艦に使った
 のは間違っている。曰く、陸上部隊の補給活動に使いすぎた。
  曰く、ドイツのUボートのように商船を目標にした通商破壊に専
 念させるべきだった。等々。
  とくにこの最後の意見は、ニミッツまでその著書に記述したため
 に、日本でも同調者が多く、ほぼ定説化しつつあります。


  その論拠とする数字を挙げると、日本潜水艦隊の撃沈艦船数一七
 九隻、九〇万トン。Uボート隊は二八〇〇隻、一四六〇万トン。米
 海軍は一三五〇隻、五四三万トン。
  たしかに、商船に攻撃を絞ったUボートの戦果は目ざましいもの
 がありました。
  ところが、この定説も詳細に分析していくと、違った側面が見え
 てくるのです。


  まず当初数と戦時建造数の合計は、日本の一七八隻に対し、Uボ
 ートは一一七一隻と約七倍。基礎戦力に絶対の差があります。
  ドイツ海軍の主力艦は開戦早々に大打撃を受けて、Uボート主体
 で戦うしかなく、通商破壊が残された唯一の選択肢でした。
  しかもこれに対応する海域は、一方は大西洋の中部以北に集中し
 ているのに対し、日本は全太平洋、インド洋を包含していて、比較
 にもなりません。               (下に続く)

  次に、Uボートの撃沈のうち、約八七一万トンは日米開戦によっ
 て米海軍が本格的に参戦してきた一九四二年六月までの数字であっ
 て、さらにその一年後、日本軍がソロモンの大消耗戦で苦戦してい
 た時期にはUボートの威力も急速に衰えてしまっていたのです。
  ニミッツや多くの日本の論者には残念なことですが、米海軍がそ
 の底力を発揮するようになってからは、通商破壊に対抗する方策も
 充実しており、たとえ日本の潜水艦隊がその全力をそこに集中した
 としても、その成果について疑問視する充分な根拠があります。
  要するに、日米戦力差の全体的な拡大が問題なのであり、潜水艦
 隊もその流れの中から抜け出すのは困難だったのです。


  いち早くその危機的状況を感じ取ったのが、昭和十六年に機関学
 校を卒業した黒木大尉(当時中尉)と、海兵七十一期の仁科関夫中
 尉(当時少尉)です。
  彼らは、上層部が積極的だった甲標的艦の蛟龍の増産計画に懐疑
 的でした。
  この艦は、トン数五九トン、乗員五名、搭載魚雷2という超小型
 潜水艦で、長距離航行は無理であり、遠方の目標に到達するには母
 艦に搭載するしかありません。
  桜花の場合と同じく、この母艦が攻撃を受けたら蛟龍も運命を共
 にしなければならないというのが致命的です。
  母艦を離れて目標に接近できても、レーダー、防潜網などで固め
 た防御陣を突破するのは至難です。実戦においても、その前身の特
 殊潜航艇のシドニー湾、マダガスカル攻撃以降、見るべき戦果を挙
 げることはできませんでした。         (下に続く)

  日本海軍には世界に誇る九三式酸素魚雷がありました。
  これは、魚雷の推進と爆発に酸素を利用して、効率の大幅向上を
 図ったもので、当時の日本海軍の独壇場でした。
  他国海軍も必死にその習得を試みるのですが、酸素の制御が難し
 く、異常爆発などを繰り返した末に断念していました。
  どうかして敵艦に魚雷を当てることができれば、というのが、前
 線部隊すべての悲願だったのです。


  そこで二人が着目したのが、魚雷そのものに操縦性能を持たせ、
 目標に自力で接近し敵艦を爆破する作戦です。
  目的は明確です。魚雷を当てれば良いのです。
  一部の人たちが言うように、自爆兵器として創案されたものでは
 ありません。実際にも、乗員が寸前で脱出できる装置の開発が極力
 試みられています。


  ところが、魚雷自身に操縦性能を持たせることが、予想をはるか
 に越える難事でした。
  計画を開始してから思い知らされたことの一つは、この一人乗り
 の小さな豆潜水艦(米軍側の呼称)が、大型潜水艦とほぼ同列の機
 能を必要としていたことです。
  水上、水中の航行機能。急速潜航・急速浮上の技術。波の強いと
 き、強風のときの対応。外部との緊急連絡の方法。自艦の位置の確
 認と外部状況の偵察。そして敵艦攻撃。
  これらすべてを、ひとりで完遂しなければならないのです。
                          (下に続く)

  昭和十九年、戦局はもはや一刻の猶予も許されない段階に突入し
 ました。
  ついに回天の設計者は黒木大尉に決断を促し、大尉は人命よりも
 早期の開発を優先する決意を固めます。
  五月。彼は全文血書の意見書を上申します。
  その内容。
  1・死ノ戦法ニ徹底スベキ事
  2・天下ノ人心ヲ一ニスベキ事
  3・陸海軍一致スベキ事
  4・緊要ノ策ヲ速刻断行スベキ事


  試作の完成は六月七日、航走試験合格は七月下旬と記録されてい
 ます。
  全長一四・七m、直径一mの小さな艦内に、日本の誇る一・六ト
 ンの九三式酸素魚雷を搭載した必殺兵器の誕生でした。


    九月五日。瀬戸内海大津島に隊員集合、隊長に老練な潜水艦専任
 の板倉光馬少佐(海兵六十一期)就任。
  黒木、仁科のほか、小型水雷部隊から上別府宣紀大尉(七十期)、
 樋口孝大尉(同)が上級士官として、次いで七十一期からは加賀
 谷中尉、七十二期からは久住宏以下三中尉が参加。
  また機関学校出身は豊住和寿中尉以下中尉三名、少尉二名。
  機関学校出身が多いのは、回天が最新機器の固まりであるから当
 然として、海兵七十二期が多いのは全くの偶然です。 (下に続く)

  結果として、七十二期は回天だけで七名、潜水艦要員としては全
 部で二十名の戦死者を出すことになりました。


 ――以前に七十三期の戦死者二八三名、これは先輩の七十二期を越
 えると記述しましたが、原資料に疑問があり、精査の結果誤りと判
 明しました。再調査によれば七十二期三五七名、七十三期三二八名
 です。謹んで訂正いたします。ただし昭和十八年九月卒の七十二期
 に対し、七十三期は翌十九年三月卒であり、この差を考慮すると七   十三期戦死者が相対的に多いのは否定できない事実です。
  お詫びの意味もあり、この事情の詳細につきましては、後日改め
 てご報告の予定です。


  九月五日午後、早くも航走訓練開始。
  第一回は黒木大尉、第二回は仁科中尉、各自三十分間で航走、潜
 航、浮上を全員の前で実演。これを以てその後の猛訓練開始の合図
 とします。
  この時期、回天操縦経験のあるのは、黒木・仁科の二人だけ。
  早急な指揮者養成の必要性があり、このことが次に来る悲劇の直
 接の原因となります。


  九月六日、徳山湾は秋晴れの好天、やや風強く白波の揺れが気に
 なる状態だったそうです。
  二号艇に仁科中尉が上別府大尉を同乗させて実地訓練を実施、無
 事帰還したあと、黒木大尉が樋口大尉の同乗訓練に出発します。


  この時、不安を感じた板倉隊長が中止命令を出したのに、黒木、
 樋口の両名が出発を懇願、結局それを認めた板倉少佐は生涯の痛恨
 事とすることになりました。          (下に続く)

 浮上予定の三十分を経過しても艦影を見ず、やがて一時間。つい
 に最悪事態を予想し基地の全員に民間漁船も動員して、捜索開始。
  十六時間経過後の翌日午前十時、一号艇発見。
 艇内の二人の表情はあたかも眠るがごとく平静だったとされてい
 ます。
  艇内には二人の遺書が残されていました。全体は長文なので、一
 部を省略、かつ難解な用語は分かりやすい字句に代えて紹介するこ
 とにいたします。


 〔樋口大尉の遺書〕――赤表紙の手帳に簡明に
 「昭和十九年九月六日 十七時四〇分発動
 十八時一二分沈坐
  指揮官ニ報告
  予定ノ如ク航走、一八時一二分潜入時突如傾斜二〇度トナリ海底
 ニ沈坐ス ソノ状況、推定原因、処置等ハ指揮官黒木大尉ノ記セル
 通リナリ、事故ノ為訓練ニ支障ヲ来シ誠ニ申訳ナキ次第ナリ
 (中略)犠牲ヲ越エテ突進セヨ
  七日四時五分呼吸困難ナリ
  大日本帝国万歳三唱ス 戦友黒木ト共ニ


  訓練中事故ヲ起コシタルハ戦場ニ散ルベキ我々ノ最モ遺憾トスル
 トコロナリ、シカレドモ犠牲ヲ乗リ越エテコソ発展アリ進歩アリ、
 願ワクハ我々ノ失敗セシ原因ヲ探究シ帝国ヲ護ルコノ種兵器ノ発展
 ノ基礎ヲ得ンコトヲ(後略)
  昭和十九年九月六日          海軍大尉 樋口 孝」
                           (下に続く)

 〔黒木大尉ノ遺書〕
 「一九――九――六、回天第一号海底突入事故報告、当日の一八時
 一二分、樋口大尉操縦、黒木大尉同乗ノ第一号海底ニ突入セリ、前
 後ノ状況及ビ所見次ノ如シ
 (一)事前ノ状況
  (前略)一七時四〇分発射、一八時一八〇度取舵、大津島ニ帰途
 ノ途中、二〇ノットニテ潜航、実際深度2m、以前仁科中尉ノ所見
 ニヨリ、二〇ノット浅海潜航中ニ角度大トナリ急速ニ突ッ込ムコト
 アリトノ報告アリ、充分ニ注意セシモ、急激ニ傾斜大トナリ、直チ
 ニ速力ヲ急速低下セシモ、ナオ傾斜ノ戻ル気配ナシ、傾斜計ヲ見ル
 ニ七度、深度一八mナリ、海底ニ突入セルコトヲ知リ直チニ停止。
 突入時衝撃ナシ


 (二)応急処置
 1・五分間隔ニ空気ヲ一分間放出。圧力ヲ上ゲ気泡ヲ大ニス(注、
   外部カラノ発見ヲ容易ニスルタメ)
 2・電動舵機ヲ停止ス
 3・海水タンクノ弁ノ閉鎖ノ確認
 4・浸水異状ナシ、電灯異状ナシ


 (三)事後ノ経過及ビ所見
 1・波浪大ナルトキノ浅深度高速潜航ノ可否ハ実験ヲ要ス、確タル
   成績ヲ得ルマデ厳禁ヲ可ト思考ス
 2・実験ヨリシテ二人乗リハ七時間ヲ限度トス    (下に続く)

 3・陛下ノ艇ヲ沈メ奉リ、シカモ最初ノ実験者トシテ充分ニ後継者
  ニ伝エ得ズシテ殉職スルハ実ニ不忠申シ訳ナク慙愧ニ耐エズ
 4・恩師・先輩・諸友ニ生前ノ御指導ヲ深ク謝シ奉リマス(中略)
 5・神州不滅ヲ疑ワズ、欣ンデココニ覚悟ノ殉職ヲ致スモノナリ


 天皇陛下万歳
 大日本帝国万歳
 帝国陸海軍万歳


 〔追伸〕
 1・航外灯ヲ設クベキコト
 2・海水タンク注水・排水ニ問題アリ、至急研究対策ヲ要ス
 3・今回ノ事故ハ小官ノ指導不良ニアリ、何人モ責メラレルコトナ
  ク、又コレヲモッテ訓練ニイササカノ支障ナカランコトヲ熱願ス
 4・仁科中尉ニ、小生ノ亡キ後、武人トシテ恥ナキヨウ頼ミタシ
 5・諸士並ビニ甲標的各位ノ御勇健ヲ祈リ、機関学校五十一期ノ級
  友ニ後事ヲ託ス


 〔辞世〕
 男子(おのこ)やも 我が事ならず 朽ちぬとも
    留め置かまし 大和魂           (下に続く)

 父上母上妹御達者ニ
 天皇陛下万歳
 大日本万歳
 帝国海軍 回天万歳


 昭和十九年九月六日 二二時   海軍大尉 黒木博司


 呼吸苦シク思考ヤヤ不明瞭、手足ヤヤシビレタリ
 四時死ヲ決ス 心身爽快ナリ 心ヨリ樋口大尉ト万歳ヲ三唱ス
 七日四時五分 絶筆
 樋口大尉ノ最後従容トシテ見事ナリ 我マタ彼ト同ジクセン
 所見万事急務ナリ 願ワクハ一読 緊急ノ対策アランコトヲ
 六時ナオ二人生存ス 相約シ行ヲ共ニス 万歳」


  遠く明治四十三年四月十五日、日本海軍初の潜水艇が事故で沈没
 し、全員が殉職したとき、死を前にしての全員の沈着な対応と、艇
 長佐久間大尉の緻密・冷静な報告書が、日本国民だけでなく、全世
 界の海軍関係者を感動させ、日本海海戦の勝利に劣らない注目と賞
 賛を得ることになりました。


  不運にも、黒木・樋口両大尉の壮絶な死は、敗戦国日本の歴史の
 中でほとんど消えかけていますが、軍人の責任感というだけではな
 く、人間としての本源的倫理を示した点で、平時においてさらに一
 段と記憶する価値が増してきております。     (下に続く)

  たとえば、二〇〇四年の中越地震と、二〇〇七年の中越沖地震で
 は、前者ではレスキュー隊の責任感が、後者では原子力発電所の無
 責任さが際立った対照を見せました。


  前者の場合、地震による断崖の崩壊で落石に閉じ込められた子供
 の救出に当たったレスキュー隊の隊長は、専門家の「二次災害の危
 険性は皆無ではない」との発言によって窮地に立たされました。
  最悪時には救出に向かう隊員の生命が危ういというのです。
  子供の生命か、隊員の命か、二つの道の選択に苦悩する隊長を救
 ったのは或る若い隊員の一言、「私がやります」でした。
  この一言で子供の命は救われ、同時にレスキュー隊の評価は定着
 しました。


  一方、後者では、原子炉には直接関係のない場所での出火に関わ
 らず、係員が積極的に消火活動を行わず、いわば終始逃げ腰状態で
 右往左往する姿が映像に写り、国民の不信を招いています。
  一部の特殊な人を除き、原子力利用の重要性の理解は進んでいま
 す。現にこの地震被害の影響で、電力需給は危機的な状況に陥りま
 した。
  それにも関わらず、なお拒否反応の絶えない主な原因は、このよ
 うな担当者の責任感の欠如以外の何物でもありません。
  原子力発電所以外でも、新幹線、航空機、情報システムなど、こ
 の種の例は増大の一途なのです。       (下に続く)

  少なくとも、この時代の回天部隊にとっては、二人の壮絶死は士
 気を鼓舞し、団結心を強めるのに決定的な貢献となりました。
  このあと、部隊は、一体となって艦の改良と猛訓練に邁進するの
 です。
  次回はその後の回天部隊と、その最後を飾る信じがたい奇跡の物
 語りです。

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