「海軍兵学校」
瀬戸内海の中央よりやや西側、広島市からは南、呉市からは西に
地図上でもそれと分かる大きな島があります。 江田島です。
この江田島が有名なのは、戦前に海軍兵学校が置かれ、現在も海
上自衛隊の幹部候補生学校が受け継いでいるからです。
このあたりの瀬戸内海は、海はあくまでも波穏やかに、島々の緑
は濃く、戦争中この海域で米軍機の猛攻を受け、多くの日本艦船が
撃沈されたり、大破されたことなど、想像するのも困難です。
昭和三十一年、米軍がここを日本に返還したとき、広い校内はほ
とんどが戦前・戦中の姿をそのまま保っていました。
大講堂、教育参考館、生徒館。戦前からの建物がほぼ完璧に保存
されていたのです。
日本側もそのまま教育施設として使用することにしました。
戦前の海軍兵学校がそうであったように、現在の江田島の校内は
徹底した清掃で、塵ひとつなく、あたかも修行僧によって掃き清め
られた禅宗の寺のようです。古い建物も洗い上げられて、清潔その
ものです。清掃の徹底と清潔は戦前の日本海軍の美徳の一つでした
が、それは完全に江田島に残されていました。
(下に続く)
早朝。瀬戸の海に朝靄がまだ残るころ、校内の暁闇が破られ一斉
起床です。慌ただしい洗面、寝具の整理・整頓。そして総員集合。
遅刻は最大の失点となります。しかし、どんなに急いでも寝具整
理の手抜きをすると、「青鬼」「赤鬼」と尊称を奉られた先輩指導
員が、寝具を容赦なく窓から中庭に放り投げてしまいます。
服装点検も厳格を極めています。
服装の乱れは精神の乱れというだけでなく、海外訪問が多く、世
界中の軍人・民間人との交流の多い彼らは、伝統的にまず「紳士」
であることをもとめられています。
英語・数学・国語などの学科重視も海軍兵学校以来の伝統です。
とくに英語教育はすぐれていて、インド洋で各国の艦艇に給油す
る部隊の英語力は海外諸国に高く評価されていました。
学科教育中の校内は静寂そのものですが、野外訓練が始まれば、
指導員の裂帛(れっぱく)の気合が遠くまで響き、時には深夜、非
常呼集でたたき起こされて、総員による裏山の頂上目がけての登山
競争という名物行事があります。
文武両道は伝統的な江田島精神そのものと言えます。
(下に続く)
その江田島精神を言葉で表現したのが、「五省」(ごせい)、す
なわち五つの反省で、かって海軍兵学校時代に教育の基本とされ、
現在も変わらずに教育参考館に掲げられています。
「五 省」
一、至誠に悖(もと)るなかりしか
二、言行に恥づるなかりしか
三、気力に欠くるなかりしか
四、努力に憾(うら)みなかりしか
五、不精に亘(わた)るなかりしか
戦時中の日本軍は、長大な戦陣訓の全文を、一兵卒に至るまで無
理に暗記させましたが、海軍兵学校ではこの五省を就寝前に黙唱す
るのがすべてでした。
この五省はさらにいくつかの派生的な教訓を生みます。
たとえば、
「スマートで、目先が利いて几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」
また、サイレントネービーというのがありました。
これは、自らの功を誇ることなく、自分の誤りを弁解せず、他者
を論ぜず、ただ黙々と誠実に己の責任を果たすという精神で、五省
とその根本精神において一致しています。
(下に続く)
これはのちに、或る重要な史実の検討に際して、大いに人々を悩
ますことになります。
それは戦争末期の昭和十九年十月、フィリピン沖において行われ
た世にいうフィリピン沖海戦、またはレイテ沖海戦という名の日米
間の最後の艦隊決戦において、日本側の主力艦隊である栗田艦隊が
取った行動に対してです。
何しろ、肝心の中心人物である栗田中将が戦後死去するまで、つ
いに沈黙に徹したため、永遠の謎とされたのがそれで、現在もまだ
謎のままとして多くの書物に記されております。
しかし、海兵三十八期卒の彼は、実はフィリピン沖海戦のあと海
軍兵学校校長に就任していました。そしてそのときの生徒たち、中
でも最後の七十八期の生徒たちには心を許し、或る程度の真意は語
っていました。
栗田中将が語ったもの、その逆に、最後まで語ることを自らに禁
じたものは、いったい何だったのでしょうか。そこに謎を解く決定
的な鍵が存在しているようです。
しかもこの栗田艦隊問題は、かの神風(しんぷう)特別攻撃隊と
も密接に関わっていました。日本海軍の史上最大の事件です。
次回はこの二つを併せたものをテーマといたしましょう。
日本史随想目次に戻る
トップページに戻る