『八月十五日の史劇――前編。聖断、死と生の岐路』
                ――追録篇 その(十一)


 八月十四早朝、聖断によるポツダム宣言の条件付受諾を知った
陸軍青年将校らは、ついにクーデター計画の実行を決意し、陸軍首
脳部の説得を開始します。
 主要メンバーは、荒尾興功大佐を筆頭に、竹下正彦、稲葉正夫、
井田正孝、椎崎二郎の四人の中佐と、畑中健二少佐です。


 彼らのうち竹下中佐は、阿南惟幾(これちか)陸相の義弟であっ
て、すでに聖断を受けていた阿南陸相に、クーデター計画の実行を
迫ります。
 これまでの数ヵ月、常に陸軍の強硬派を代表して徹底抗戦を主張
してきた阿南も、この時点ではもはや彼らに同調することはできま
せんでした。
 最後の御前会議の席上、天皇は、とくに阿南に向かって訴えられ
たのです。
「阿南よ。つらいであろうが、我慢してくれ」と。
 陸相は涙し、盟友の梅津参謀総長もこの一言で受諾の覚悟を決め
ていました。大勢は決していたのです。


 皇居前日比谷の東部軍司令官、田中静壹大将の説得に赴いた畑中
少佐も不成功に終わります。
 首脳部を動かすことは、もはや不可能の情勢となっていました。
                      (下に続く)

 十四日夜、まだ猛暑の余熱の残る皇居の一角、近衛師団司令部に
 闇を貫く拳銃音がひびきました。
  椎崎中佐、畑中少佐に加えて、近衛師団参謀の古賀秀正少佐、陸
 軍通信学校の窪田兼三少佐、陸軍士官学校の藤井政美大尉、航空士
 官学校の上原重太郎大尉らが参加し、森師団長にクーデター参加を
 強要、激しい口論の末、上原大尉が軍刀を抜き、師団長を守ろうと
 した参謀の白石中佐を斬殺し、興奮した畑中少佐が拳銃で森師団長
 を射殺してしまったのです。


  彼らは、近衛第二連隊長芳賀豊次郎大佐に、偽造の師団命令を作
 成させ、皇居を封鎖、当初十四日午後七時放送予定だった天皇の詔
 勅(いわゆる玉音)の録音盤の捜索を始めます。
  戦後明らかとなった情報を総合しますと、何らかの作為――おそら
 くは陸軍側の干渉によって――、録音時間は大きく遅れ、午後十二
 時近くにようやく完了し、徳川侍従の手で事務室内の金庫に収めら
 れていましたが、反乱軍は最後まで気付きませんでした。


  反乱将校らは焦って、下村情報局総裁ら関係者十八名を拘束して
 きびしく取り調べますが、明確な回答を得られないまま、その焦り
 をつのらせてゆきます。
  幸運なことに、彼らが切断したはずの電話線のうち、侍従武官室
 から海軍省に通ずる無線電話一本だけが健在でした。
  深夜、反乱将校が寝についたころ、侍従武官の中村俊久(海軍中
 将)が海軍省に電話して事態を報告、海軍省は東部軍に緊急連絡し、
 田中大将の知る所となります。       (下に続く)

  翌十五日払暁四時、田中大将は、師団長横死後の近衛師団を自ら
 率いて皇居を包囲、反乱軍を説得して降伏させます。
  午前七時、下村情報局総裁らを解放。
  首謀者となった椎崎、畑中両名は憲兵隊の取り調べ後、十五日午
 後、宮城前楠公銅像近くで、短刀とピストルで自決。
  反乱者であるこの二人が、なぜ逮捕・収監されなかったのか、理
 由について記す資料は何も残っておりません。
  終戦時の混乱のため、収監を思いつかなかったのか、武士道の精
 神から彼らに名誉の自決を敢えて認めたのか、今となっては永遠の
 謎なのです。


  同日午前五時半、阿南陸相自決。彼は前日に鈴木首相と会って、
 これまでの数々の無礼を詫び、すでに死の覚悟が窺われたとのこと
 です。最後の遺言は、「一死以て大罪を謝し奉る」でした。
  戦後、彼が「米内を斬れ」と発言したとされるのは、一連の言動
 に照らし疑問です。おそらくは、過激派の青年将校が米内斬殺を迫
 った時、阿南が「それならまずおれを斬れ、それから米内を斬れ」
 と叱ったという説が真実に近いと思われます。
  御前会議では終始徹底抗戦を唱えた阿南陸相ですが、それは陸軍
 の立場を代弁したものであったのは、この鈴木首相に対する最後の
 言動から明確に推定できるのです。


  八月二十四日、田中大将自決。森近衛師団長を死に至らせ、一時
 にせよ、反乱軍に皇居占拠を許したことの責任を取りました。
                       (下に続く)

      首相邸炎上


  十五日午前四時、陸軍横浜航空隊の佐々木大尉は、首相暗殺を当
 面の目標とする「国民神風隊」を結成し、出陣します。
  隊員は部下の兵士四十名に、横浜工専の生徒二十名。
  軍用トラックに分乗してまず首相官邸を襲い、機関銃を掃射しま
 すが、すでに首相が小石川の私邸に帰宅と知り、一隊を鈴木邸に、
 一隊を新宿の平沼邸に向け、それぞれに放火し炎上させます。


  二人は死ぬわけにはゆきません。彼らの死は聖断が無視されたこ
 とによって、講和を破壊するだけではなく、あれほど多くの犠牲を
 払って護持しようとした国体そのものの崩壊を意味するからです。
  鈴木首相の場合は、本人よりも秘書官らが必死でした。
  首相はあの二・二六事件では反乱軍の拳銃発射によって四発の銃
 弾を受け、しばらく仮死状態になった経験もあります。
  首相就任時から、一命は無いものとの覚悟はできており、文字通
 り最後の御奉公ということで、すでに辞表も提出済みであり、何の
 思い残すこともないのです。


  秘書官らは反乱部隊を逃れるため、首相の知人・友人らの私宅を
 転々と移動させ、ついに逃げきりに成功します。
  その後、十七日には、水戸の陸軍航空師団通信隊三九二名が、首
 相と木戸内大臣襲撃のため上野美術館前に集合しますが、これは航
 空本部長の寺本中将の説得で解散。中将は責任を負って自決。
                       (下に続く)

  田中大将、寺本中将とも、終戦後の死は不本意には違いないと思
 われますが、彼らは、自らの判断で自決しています。
  陸軍の将官の中には、フィリピン戦で、特攻司令官でありながら
 途中で不可解な撤退をしたT中将や、同じ時期にレイテ島から自分
 だけの独断で移動してしまったF中将、インパール作戦の最高責任
 者でありながら、部下師団長に責任転嫁したM中将など、批判の的
 となる人たちがいる反面、このような責任感の強い人物が存在した
 こともまた事実でした。


      聖断への長い道


  八月十五日前後の動乱は、反乱軍の皇居占拠や首相邸放火など、
 歴史上もほとんど例のない大事件であり、不祥事でした。
  しかもこれは聖断後に起こった事件であり、もし聖断がなければ
 どういう事態が発生したかを思うと、心の凍るものがあります。


  この稿で、時間の順序を逆転させて動乱から聖断に遡ったのは、
 こうすることで聖断の重要性が始めて正しく理解できるからです。
  戦後の歴史検証にほぼ共通している欠点の一つに、当時の全体の
 状況と切り離して個別の現象を批判するというのがあります。
  あの栗田艦隊の例では、長い間レイテ湾突入の是非だけが論じら
 れ、日米海軍全体の戦力比較、両軍の配置状況、その時間的推移な
 どの検証が疎か(おろそか)であり、さらには神風特攻隊との連動
 性が全く無視されてきたのがその好例です。 (下に続く)

  鈴木貫太郎が首相に就任して間もなく、大本営内の陸海軍の作戦
 調整の機関であった政府連絡会議が、最高戦争指導会議として発足
 し、これが事実上の国家の最高機関となりました。
  構成員は首相、陸軍の大臣と参謀総長、海軍の大臣と軍令部長、
 それに平沼枢密院議長や東郷外相などが加わっています。
  東郷外相がしばしば登場するのは、かなり早い時期から和平交渉
 の仲介役としてソ連に期待する声が強かったためで、これが全くの
 判断ミスと判明するまで、外交面の迷走の主因となるのです。


  七月二十六日、米・英・支の三国によるポツダム宣言が発せられ
 ました。日本に対し無条件降伏を迫るものでした。
  直ちに最高戦争指導会議が開かれ、陸海軍一致して黙殺すること
 とし、七月二十八日、記者会見で発表されます。
  この発表の中の黙殺という言葉を、同盟通信が"ignore"と翻訳し
 たために連合国側を硬化させ、原爆投下を招いたとの説もありま
 すが、かなり無理のある推論です。
 (それにしても無知や無学を連想させるイグノアが外交上適切な翻
 訳でないのは確かなことです――筆者見解)


  八月九日、原爆投下に対応するための緊急最高指導会議開催。
  首相、海相、外相の三人は国体護持を条件としての受諾派。
  対する阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部長はさらに条件とし
 て、占領期間、武装解除方法、戦争犯罪についても要求を出すべき
 とし、結果としては無条件降伏には反対でした。 
                      (下に続く)

  議論は平行線のまま、解決の目処もたたないうちに、長崎に第二
 の原爆投下とソ連参戦の報があり、ついに午後十一時、首相と外相
 は天皇に拝謁して経過の中間報告をすることとなります。
  その結果、十一時五十分、御前会議の開催が決定されました。


  この御前会議の内容の詳細については、一般に周知されています
 のでここでは省略しますが、注目されるのは、天皇が陸海軍の防衛
 計画が不十分であって連合軍の本土上陸作戦に対抗できるとは思わ
 れないと、具体的に指摘しているのと、日本の将来のためには一人
 でも多くの国民に生き残ってもらいたいと語られていることで、陸
 軍の本土決戦と玉砕思想は完全に否定されております。


  八月十日、午前六時四五分、外相よりスイスの加瀬公使経由で米
 および支那(現中国)へ、スウェーデンの岡本公使経由で英および
 ソ連に、国体護持条件付でポツダム宣言の受諾を打電。報道は直ち
 に全世界を駆け巡ります。
  以前、米国のルーズベルト大統領の逝去の際、陸軍の監視を突破
 して鈴木首相の弔電を打電した同盟通信は、今度は堂々と外務省と
 組み、検閲外のモールス信号で全世界にニュースを流しました。
 (余談を一つ。戦争末期における同盟通信の大活躍は賞賛ものであ
 るとしても、神風特別攻撃隊の神風を、正しく「しんぷう」とせず
 「カミカゼ」と打電し、これが全世界に定着してしまったのは、功
 罪相半ばし、未だに評価を決めがたいものがあります)
                        (下に続く)

  この時、日本側が条件としたのは、天皇の国家統治の大権の維持
 を明示することでしたが、連合国側の再回答はこの点が曖昧だった
 ために、対応について日本側は再び紛糾し、ついに八月十四日、従
 来のメンバーのほかに、全閣僚、陸海軍務局長など、総員二十名を
 越える要職者を集めた御前会議が開催され、最終的に聖断による受
 諾決定に至ったのでした。


  紛糾の原因は、複雑多岐な連合国側の内部事情にもあります。
  五月にナチスドイツが全面降伏した以上、日本の敗北は時間の問
 題であり、これ以上カミカゼの攻撃を受けたり、硫黄島や沖縄戦の
 ような苦戦はもう御免というのが米英などの本心です。
  これに対して、ソ連や中国は、それぞれの国内に特殊事情を抱え
 ていました。
  ソ連は、独ソ戦で国土を徹底的に破壊され、二、六〇〇万人以上
 という史上空前の戦死者を出し、早期の参戦によって可能な限り多
 くの戦争利得を得たい思惑があります。本音としてはあと何ヵ月か
 戦争が継続しておれば、との期待があってもおかしくないのです。
  一方中国は、終戦後予想される国民党と共産党の抗争において、
 どちらが民衆の支持を得るかが最大の関心事であって、そのために
 は日本を徹底的に屈伏させるのが望ましいのです。


  のちに別項で詳細を検討する予定の、スイスにおける情報戦争に
 おいて、日本側情報員はかなりな確度でこの事情を把握しており、
 日本にもしばしば情報連絡しています。 (下に続く)

  問題はこの情報から何を読み取るかでしたが、肝心の外務省がモ
 スクワの佐藤大使の意向を無視し、ソ連に和平仲介を依頼するのに
 執心していたのが、問題の正確な理解を妨げていました。
  何しろソ連は、これから参戦して戦争利得を得たいという立場な
 のに、そこに和平を持ち込むこと自体が無理だったのです。


  国体護持についても、ソ連や中国の本心の正確な理解があれば、
 条文明記が困難なのは自明と判断できたはずであり、逆に、条文の
 中で天皇の地位について一言も触れていないのは、むしろアメリカ
 の中の知日派の好意的配慮と推測できたことでしょう。
  その一方でポツダム宣言は、今後の政治は国民の自由な意思によ
 って決定されるものであるとして、天皇問題に関する日本側の主導
 権を暗に容認しているのです。


  現実は、その時の想定通りに進行しました。
  天皇は自ら人間宣言をし、国民も占領軍もそれを支持しました。
  こうして、世界で最も古い皇室は存続し、アメリカの大統領が名
 指しで賞賛する世界で最も繁栄した「敗戦国」が誕生しました。
  現在では日本の選択が正しかったことを誰も疑いません。
  それよりも、なぜあの当時、日本側があれほど苦悩したのか、不
 思議な思いで振り返るほどになっています。


  あかあかと 月に照られて 八月の
        十五日夜  坂登り来ぬ
                ――田井安曇

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