『芙蓉部隊、美濃部少佐の真実』
         ――"日本海軍を想う"追録篇その(2)


 戦時中には脇役に徹していた美濃部少佐と芙蓉部隊は、戦後の一
時期、脚光を浴びる機会がありました。
 特攻批判の論者らによって、海軍部内の批判者の代表と目され、
注目を集めたからです。


 結果的にその試みは不成功に終わります。
 「特攻評論家」のH・MやK・Tらの諸氏が美濃部少佐に接触し
て、少佐から「批判的証言」を得ようとし、ことごとく失敗した
からです。
 現在では、真実を知りながら故意に曲解しようとする一部の人た
ちと、何の根拠にも基づかない独り歩きの結論を妄信する多くの人
たちが、その幻の美濃部像になお固執しているのが実情です。
 ここにも戦後の偏った論調の弊害が見られます。


 美濃部正少佐(海兵六十四期)は、フィリピン戦では彼の発想に
よる夜間戦闘部隊を率いて奮戦、その戦力が消耗し尽くした昭和十
九年十二月に内地に帰還し、直ちに部隊の再編成に着手します。
 最初の課題は基地の選定。
 常識的には南九州ということになるでしょう。  (下に続く)

  フィリピンを失ったからには、次の主戦場は台湾から沖縄、南西
 諸島であり、日本の航空部隊の主力が南九州に展開するのは当然の
 作戦です。


  美濃部少佐は、このあたりからその異才を発揮し始めます。
  彼は最初から二段階基地構想を持っており、まず後方の本州に主
 基地を求め、静岡県下の藤枝基地を選定します。
 (実はこの藤枝基地というのは誤りであって、現在航空自衛隊の初
 級練習場となっているこの飛行場の名は静浜飛行場であり、住所は
 大井川町です。これを藤枝基地と称したのは、鉄道の最寄り駅を基
 準としたためと思われます)
  この二段階方式こそ、最も日本海軍に打撃を与え、米海軍の直接
 の勝因となった方式の基本です。


  戦後の多くの戦記が、ミッドウェー海戦の敗北が勝敗の転機であ
 ったと記していますが、その表現は正確性を欠いています。
  この海戦で失った空母は四隻、航空機の喪失二八五機。
  大打撃には違いないとしても、その後のソロモン諸島での一年半
 の消耗とは比較になりません。
  昭和十七年八月、飛行場建設のため米軍がガダルカナル島に上陸
 してから、日米の陸海軍は陸・海・空の総力を挙げて戦い、ついに
 一年半後、日本軍はこの地域から残存空軍をすべて撤収し、米軍の
                           (下に続く)

 完勝に終わります。


  この期間、米海軍は残存空母が相次いで撃沈されたり、撃破され
 たこともあって、基地飛行場の建設を最重点としました。
  まず日本空軍から遠い地域に後方基地を建設、そこから発進した
 航空戦力が日本軍基地を叩き、それの対抗に奔命している間に、建
 設専門の大隊が前線基地を大至急建設し、航空部隊を進出させ、そ
 こから日本軍基地を空襲するという戦術です。
  この単純な戦術によって、日本軍は七千機を越える航空機と、七
 千二百人の搭乗員を喪失し、もともと生産力も補給力もはるかに劣
 る状況下での決定的打撃となったのです。


  美濃部少佐は、この方式を戦争末期の窮状の中で決行しました。
  年末から翌年一月までに漸次この地に集結した少佐とその部下た
 ちは、飛行場の整備と航空機の調達・補修、練度不足の新人の訓練
 に全力を集中します。
  迂遠のようでいて、この方法が実は最も効率的であるのは、米海
 軍により証明済ですが、日本軍の中でこれを徹底して実行した人物
 としては美濃部少佐がほとんど唯一の存在でした。


  最も困難と予想された航空機の調達には奇策が奏効します。
                           (下に続く)

  理想を言えば、美濃部隊の本領である夜間用の「月光」か、零戦
 の新型が望ましいとしても、「月光」 は生産数が不足し、零戦は特
 攻作戦優先で必要数の確保が困難です。
  そこで、美濃部少佐は、艦上爆撃機として生産されながら、故障
 が多くて放置されたままの水冷式「彗星」に着目します。
  空冷式と比較した場合、水冷式に根本的な欠陥があるわけではな
 いのに気付いた美濃部の隊の整備班は、各地の放置「彗星」を集め
 て次々に戦力化し、再生工場としての機能を充分発揮します。
  飛行機の稼働率も極めて高く、零戦で九〇%、彗星で八〇%とい
 う、この時期としては例のない高い水準が実現しました。
  他の各隊が戦力不足に苦慮するなか、美濃部の隊は終戦時になお
 五十機を有し、士気も旺盛であったというのは、いかにこの再生工
 場が有効に機能していたかを示しています。


  或る程度の機数確保の見込みが立ちました。
  新人の養成についても、必要最小限の範囲に限定して徹底的に訓
 練する方法で、短期間の熟達を可能としました。
  三月、美濃部少佐は部隊を正式に発足させ、前線基地を南九州の
 鹿屋(のちに岩川)に進出させます。
  部隊名は芙蓉部隊。三個飛行隊の編成で、各隊の隊長には予備学
 生出身の中尉・少尉クラスが指名されました。   (下に続く)

  当初は通称として用いられた芙蓉部隊の名が、やがて正式名とし
 て、本部・前線を含めた全軍に認知されるようになります。


  芙蓉というのが富士山の別名であるのは、広く知られたことです
 が、注意を要するのは、藤枝基地(正確には大井川基地)は富士を
 眺める絶好の位置ではない、ということです。
  静岡県下でも、西伊豆、駿河湾北部の田子の浦、日本平あたりは
 富士を真正面に望み、四季を問わずその美の全容を観望することが
 可能です。
  大井川河口に近いこの基地からは、静岡と焼津の間にある山塊が
 妨げになって、富士の全容を眺めるのは困難です。
  芙蓉部隊にとっての芙蓉峰は、地上ではなく、上空から遠望する
 対象です。
  訓練に明け暮れる日々の目標として、この基地と九州の前線基地
 を行き来する際の目印として、そして何よりも、沖縄方面の激戦か
 ら帰還した時の疲れきった心身を癒す力が芙蓉峰にはありました。
  それは、日本人の心に潜む美しき国土への愛を想い起こさせ、明
 日の戦いの励ましとなるのです。


  万葉集三一七の山部赤人の有名な長歌は、歴史から始まります。
                          (下に続く)

 ――天地(あめつち)の分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河
 なる 布士(富士)の高嶺を 天(あま)の原 振りさけ見れば
 渡る日の影も隠らい 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはば
 かり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言い継ぎ行かむ 不尽
 (富士)の高嶺は
  芙蓉部隊は、終戦までの僅か五ヶ月間に前後八一回出動し、その
 延べ機数七八六機、戦死者一〇三人を数えることになりましたが、
 搭乗員はみな富士を眺め、富士はその搭乗員を見守りつづけていた
 のです。


  三月の後半、沖縄への爆撃と艦艇による艦砲射撃の激化、四月初
 めの上陸開始は、芙蓉部隊の存続にかかわる重大危機をもたらしま
 した。「全軍総特攻」を唱える意見が多くなってきたのです。
  練習機まで含め全航空機を動員し、少しでも操縦できる搭乗員を
 載せて特攻攻撃をしようというのです。
  この時、美濃部少佐が上官に対して猛烈な反対意見を述べたこと
 から、あの「特攻批判」の伝説が生まれるのですが、記録されてい
 る彼の反対意見が、単純な反対意見でないのは明らかです。
  彼が強調したのは、特攻作戦を成功させるためには、充分な訓練
 を受けた搭乗員とそれを支援し護衛する有能な部隊が必要であり、
                            (下に続く)

 自分たち芙蓉部隊はまさにその役割を果たしているという、極めて
 合理的な主張です。


  注意しなければならないのは、特攻作戦の最高責任者である大西
 中将がその意見を否定せず、美濃部少佐の主張を容認し、その後も
 自由な活動を許しているということです。
  彼が特攻作戦自体を否定していないことは、その発言記録によっ
 ても確認できます。
  彼は典型的なサイレントネービーであって、しかも自分の発言が
 歪曲して利用されかねないことを危惧し、生前は一切の公式発言を
 避け、遺族もその意志に沿って遺稿集をごく限られた人たちだけに
 配付しています。
  そこで、唯一つ公式に発表されている発言記録をそのまま紹介す
 ることにします。


 ――戦後よく特攻戦法を批判する人があります。それは戦いの勝ち
 負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。当時の軍
 籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりませ
 ん。私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻またやむをえ
 ず、と今でも考えています。戦いのきびしさは、ヒューマニズムで
 批判できるほど生易しいものではありません――美濃部正。
                 (「彗星」夜襲隊−W・Yより)
                            (下に続く)

  この記録を紹介した著者名を匿名にしているのは、この著者がす
 ぐ後で、「この不可能を可能とする代案が芙蓉部隊であった」とい
 う不可解な解説をしているからです。
  どう読んでもそういう結論にはなりません。著者がすべてを知っ
 ていて敢えて曲解したのか、出版社の意向でわざと枉げたのか、真
 実は明らかではありませんが、美濃部少佐の真意が明確な以上、深
 く追求するだけの価値はなさそうです。
  確かなのは、美濃部少佐が批判したのは、特攻作戦自体ではなく
 その方法論であったということです。
  芙蓉部隊が活動を開始した正にその時期、米機動部隊と日本軍航
 空隊が壮絶な戦いを展開していました。
  米機動部隊は千機以上を発進させて九州一帯から瀬戸内海方面の
 日本航空戦力に打撃を与え、少しでも特攻作戦の脅威から逃れよう
 とし、日本軍航空部隊は、一方で新鋭戦闘機「紫電改」を菅野大尉
 らの残存精鋭に与えてこれを迎え撃ち、敵の間隙を突いて特攻部隊
 を以て敵機動部隊に奇襲をかけます。


  この間、全体の戦況としては圧倒的な米軍有利は否定できないに
 しても、一部の著書が誇張するような日本軍の一方的な惨敗という
 表現は事実ではありません。
  小川少尉機による大型正規空母バンカー・ヒルの大破のほかにも
 米海軍を戦慄させるような特攻攻撃は多数あります。 (下に続く)

  空母に限っても、三月十九日には、米機動部隊が瀬戸内海方面に
 大規模空襲をかけている間に、海軍特攻菊水部隊の彗星、銀河など
 二十機が大型正規空母フランクリンとワスプを襲い、フランクリン
 は戦死八三二人で沈没寸前、ワスプも戦死三〇二という大打撃を受
 けています。米軍も必死に戦っていたのです。


  芙蓉部隊は、作戦面でも次々に秘策を繰り出します。
  まず飛行場への空襲を回避するため、使用中以外は滑走路に仮設
 の小屋や立木を置いて偽装したり、家畜を引き入れて牧場風にする
 などは序の口で、飛行機は木の枝などで徹底的に隠し、敵襲があっ
 た場合でも被害を最小限に止めるのに成功しています。
  攻撃面では、得意とする夜襲を或る程度封印し、むしろ特攻隊支
 援に重点を移します。
  特攻機がレーダー網に捉えられるのを防ぐため、特攻機の進撃方
 向とは異なる空域に金属片を散布したり、海上の地理に不案内な陸
 軍部隊の案内役となったり、全く裏方の地味な任務に、むしろ進ん
 で取り組んでいるのが印象的です。
    新しい兵器の採用にも積極的でした。
  ロケット弾、光電管爆弾(爆発時間を調整できる)の使用など、
 新兵器をすぐに実戦に活用して効果を挙げています。
                        (下に続く)

  全体としては一層非勢となってゆく日本軍の中で、芙蓉部隊が依
 然として健在であるばかりか、却って総合戦力を高めているのが、
 特徴的です。
  後方基地の総合責任者である徳倉大尉(海兵六十八期)の指揮下
 再生工場組織はさらに効率を上げ、終戦時の保有航空機は発足時を
 上回る五十機。総人員は千人を越えていました。
 (徳倉大尉は、この時期の経験を生かして戦後に建設会社を興しま
 す。−徳倉建設−)


  これら一連の行動から、私たちは意外な事実を知ることができま
 す。
  戦後の多くの著書が描写しているような、戦争終末期の混乱と悲
 惨と絶望とは逆に、最後まで指揮官以下が規律を失わず、人知の限
 りを尽くした一団が存在していたという、確かな事実です。
  この事実と、「特攻批判」という伝説を組合せるならば、戦後の
 風潮の中で、彼には時流に乗ったマスコミヒーローとなる資格と機
 会は充分にありました。
  彼がその道を選ばず、遺族もまた遺稿集の配付先を限定したこと
 などに、本来の日本海軍精神の伝統を見る思いがあります。


  この点に関して、遺族の方が以前インターネットで語られた言葉
 がありますので、紹介することにいたしましょう。 (下に続く)

  遺族の方は、「千の風」 の歌を記し、故人が一羽の鶴となってそ
 の風に乗り大空を翔ける姿を偲び、生前の故人の言葉を思い出して
 記録されております。


 「戦前の海軍兵学校の人間教育及び卒後の人間関係は、戦後のどん
 な教育機関、組織より優れていた」――美濃部正


  戦後、美濃部少佐は招かれて航空自衛隊に身を置き、最終は空将
 となって後進の指導に当たりました。
  こうして伝統は消えることなく続くのです。


 (追記)――前回分に関連して――


 (一)平成十九年四月十九日、フジテレビ番組「アンビリバボー」の後
 半三十分で、「敵兵を救助せよ!」が放映されました。
 (二)同年四月二十五日ロシア元大統領エリツィン氏の葬儀に当たり、
 各国が元大統領(米ブッシュ、クリントン)クラスを参列させて礼
 を尽くしたのに対して、日本は駐ロ大使の参列のみに止めており、
 その理由は商用機の手配が間に合わなかったからと説明されており
 ます。しかし外交上も武士道の観点からも、疑問の残る所です。

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