『深堀大尉の沈着、山田大尉の豪胆、小川少尉の奇跡』
第一次神風特別攻撃隊の戦果を受け、十月二十五日夕刻、二航艦
を一航艦に合体、福留中尉を司令長官、大西中将を幕僚長とする新
布陣が発足します。僅かに残る全航空戦力を特別作戦に集結する意
図からです。
十月二十七日、新布陣下で第二神風特別攻撃隊五隊結成。
一隊は深堀直治大尉(海兵六十九期)、もう一隊は山田恭司大尉
(同期)が指揮。使用機は艦爆(艦上爆撃機)彗星。
出撃前夜、深堀大尉は上官に対し「人生において、海軍兵学校に
入校できたことと、特攻隊指揮官に選ばれたことが最高の喜びであ
る」と語り、上官(江間少佐といわれています)を感激させます。
深堀大尉の純忠隊は二十七日の出撃間もなく、厚い乱層雲に阻ま
れ、各機散り散りとなり、隊長機だけが帰還。翌日未明ただ一機だ
けで再出撃を決行します。その時大尉は、遺書を兼ねた意見書を
残しました。その一部――。
――断じてあせらず、無理な状況の時は再挙をはかり、之はと思
う奴に体当たりをやる様、後続の人にお伝え願い度。一般にあせり
勝ちとなり、目標を誤るおそれあり・・・。
(下に続く)
自らの死を目前にしてのこの冷静な判断、そして的確な指示。
これは、差し迫った危機感と異様な興奮の中で、ともすれば平常
心を失いかねない同僚・部下たちへの、最も心の籠もった遺書とな
るのです。
彼の一連の従容とした言動とこの「遺書」は、残された者たちに
重く静かな感動の輪を広げてゆきます。
単機出撃のためにその戦果が確認されていないのに関わらず、上
官・同僚・部下のすべての人が、彼の沈着な最期を信じて疑うこと
はなかったのです。
忠勇隊を率いる山田恭司大尉には、彼自身は知ることのないドラ
マが待っていました。当初彼は特攻作戦について懐疑的であったと
伝えられています。ただしこれは、多くの士官たちがそうであった
ように、命が惜しいという理由からでなく、その実戦効果について
まだ疑問点が残っていたからです。
しかし、敷島隊以下の戦果が伝えられ、敵艦の弱点を突けば、充
分な打撃を与えることが確認できてからは、一転して積極的となっ
たばかりか、その勇猛ぶりと意表を突く豪胆な行動によって、長く
連合軍兵士の心胆を寒くするに至るのです。 (下に続く)
山田大尉の忠勇隊三機は、彗星艦爆に二五〇キロ爆弾を一個、六
〇キロ爆弾四個を搭載。破壊力は零戦に優るものとなりました。
直掩隊の報告により、忠勇隊三機はそれぞれ目標艦に突入、中破
または小破したのが確認されますが、それよりも驚かせたのは、山
田大尉機の信じがたい豪胆な行動でした。
彼の機は一度目標を逸れています。しかし直ちに態勢を立て直す
と、特攻機が避退したものと一息ついた米軍兵の眼前で、にわかに
反転、再び突入。米艦上に大火災を発生させます。
例のウオーナーの著書には酷似の状況が記述されていて、その際,
.
搭乗員の豪胆さに米軍兵が賛嘆する場面がありますが、日時の明示
がなく、別件とも、山田大尉の例がいつか伝説化したとも、断定は
困難です。或いは多くの戦場で見られた光景かもしれません。
それにしてもその描写の中で、搭乗員が得意満面の表情をしてい
たなどは、いかにも米国人らしい表現で、それを伝える豪州人のウ
オーナーを含め、すでに彼らの心中の"カミカゼ"から野蛮や狂気
は消え、戦士としての共感が芽生えてきているのは確かです。
(下に続く)
フィリピンでの神風部隊の活動は、翌年の一月に最終段階を迎え
ることになります。
一月五日、ようやくレイテ島をほぼ制圧した連合軍(このころか
ら豪州軍も参加)は、ルソン本島のリンガエン湾上陸作戦を敢行。
これに対して特攻隊は、少数兵力で最後の抵抗に挑みます。
米軍記録によれば、一月三日から十日の間、沈没艦船二四(駆逐
艦2、リバティ船6を含む)、大中破五六(戦艦3、重巡2、軽巡
2、護衛空母4、駆逐艦9など)、小破四八。
日本軍側は、陸海合わせ延べ三〇〇機とされていますから、極め
て成功率が高く、とくに一月六日の第二〇、第二二、第二三金剛隊
などの三二機は、うち十二機が命中、七機が至近突入。命中の中に
は戦艦2、巡洋艦2、駆逐艦5を含むという凄まじさでした。
「日本軍にあと百機の特攻隊があれば、進攻はさらに何ヶ月か遅
れたであろう」というのは、この時の連合軍側の感想です。
現実はそうはなりませんでした。
日本側の基地は次々に奪われ、航空機の補充も続かず、他方連合
軍側は陸上基地を充実させて制空権を再奪還。日本陸軍は、特攻作
戦の最高責任者のT中将の遁走もあって、一月十三日作戦終了。海
軍も一月二十五日の出撃が最終となります。 (下に続く)
次の沖縄戦における特攻の役割はフィリピン戦をはるかに上回る
ものがありました。通常攻撃の効果がほとんど期待できなくなった
からです。
特攻出撃数は二,五六八機に達し、フィリピン戦四〇五機の約六
倍の規模です。うち海軍一,六三七機。
しかも米海軍は、名将として知られる第五艦隊のスプルーアンス
大将が実質的な全権を掌握し、特攻対策にも万全を期したため、日
本軍は苦戦を強いられます。
スプルーアンスは、フィリピン戦を詳細に分析し、日本海軍の特
攻作戦が極めて高い効率を示しているのに着目、このままでは自軍
の損害がさらに増大するとして、新たな対抗策を案出します。
多くの対策の中でもとくに日本軍に打撃だったのは、特攻機の進
路を予測し、要所要所に対空火器の重武装をした駆逐艦隊を配置し
た「攻勢防御」の布陣です。
レーダー網を避けるため低空で敵艦隊に接近する特攻隊は、空母
や輸送船団の輪型陣に到達する前に、この駆逐艦隊の猛火を浴びる
ことになるのです。
それでも特攻隊は怯まず攻撃を継続し、今度は駆逐艦隊に的を絞
り、その混乱に乗じて輪型陣に殺到する作戦を取ります。
(下に続く)
沖縄戦では、フィリピン戦にくらべて乱戦になる度合いが高く、
反面、優秀な直掩機が不足しているため、個々の特攻機の行動や戦
果の確認は充分ではありません。
小川少尉について詳細な記録が残っているのは、奇跡的な事情に
よるものです。
小川清少尉、二十三才。早稲田大学から海軍飛行予備学生十四期
を志願、同期五,五二〇人の一人となります。
昭和二十年五月十一日、彼は第七昭和隊長として米正規空母バン
カー・ヒルに特攻攻撃し、壊滅的な打撃を与えて散華しました。
偶然にも、このバンカー・ヒルはミッチャー中将率いる機動部隊
の旗艦であって、その時、艦載機の第一陣二五機が発進し、第二、
第三陣七八機が発進準備中という絶好の状況であったことが、戦後
に判明しています。
バンカー・ヒルに突入したのは、二機の零戦です。うち一機は小
川少尉機。もう一機の搭乗員名は未詳となっています。
まず一機が甲板に五〇〇キロ爆弾を投下して、そのまま甲板に激
突。爆弾は艦を突き抜けて海上で爆発、機は燃料満載の艦載機をな
ぎ倒し、甲板上に大火災発生。
直後に小川機が司令塔の根元に爆弾投下と共に突入、甲板を突き
抜けて同時大爆発となり、全艦は瞬時に猛火に包まれました。
(下に続く)
結局バンカー・ヒルは、戦死三九六、負傷二六四の大損害を受け
真珠湾に帰港、大修理が終わった時には終戦となっていました。
小川少尉の最期がこうして詳細まで判明しているのは、彼の機が
奇跡的に焼け残り、その遺品から身元が明らかになったからです。
ただその遺品はすぐには日本に帰ってきませんでした。
遺品を持ち帰った米軍乗組員が二〇〇〇年十一月に他界した後、
その遺品を整理した孫のダックス・バーグ氏が、少尉の遺品の処理
を上司(ポール・グレース氏)に相談、その妻が日本人美幸・グレ
ースであったのが最後の幸運となります。
特攻機突入時の状況が個人段階で明確となり、さらにその遺品が
遺族に返還された例は、おそらくこの件以外には存在しないと思わ
れ、しかもそれがあのミッチャーの旗艦であったというのは、歴史
の皮肉というしかありません。
なぜならば、ミッチャーとハルゼーは、部下の恐怖心を取り除く
ために、極力"カミカゼ"を矮小化しようとした人物だからです。
こうして遺品は家族の許に戻り、戦死時の状況も、遺体・遺品が
丁重に扱われた事実も遺族に伝えられ、両国関係者の心の中の戦争
は、平和な解決を遂げるのです。
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