『或る特攻隊指揮官の戦中・戦後。林冨士夫大尉の場合』――後篇
                   ――追録篇その(5)


 神雷部隊司令の岡村基春大佐(海兵五十期)については、彼が戦
後間もなく一通の遺書も残さずに鉄道自殺したこともあって、部下
の林大尉らの断片的な証言以外に、その真実の心境を知る手段は永
久に失われております。


 部下たちの証言を総合すると、司令が方針変更を決意した時期は
極めて早く、第一回攻撃失敗の三日後の三月二十四日には、桜花隊
員に対して「桜花隊員も今後は新型の零戦五二型丙に五〇〇キロ爆
弾を搭載して特攻攻撃を行う」と宣言しています。
 このことから、二つの重要な事実が明らかになります。


  一つは、司令自身がかねてから鈍重な一式陸攻に懸念を持ってお
り、緊急時には爆弾を投棄して本来の戦闘機に戻ることのできる爆
戦方式の優位性を、明確に認めていたということです。決して事態
の急変によって急遽下した決断ではなかったのです。


 第二には、これまで二五〇キロ爆弾が限度と思われていた搭載爆
弾を、一気に五〇〇キロにあげる発想は、この時期に、彼を含む神
雷部隊関係者により発想され、初めて実現したという事実です。
 これ以前は、零戦は二五〇キロ、米軍のグラマンのような高馬力
機でも五〇〇ポンド(二三〇キロ)が限度とされていた時期です。
                           (下に続く)

  翌三月二十五日、エースの一人大久保上飛曹が新型零戦に五〇〇
 キロ爆弾を装着して試験飛行を行い、無事に成功。
  これを見て林大尉は、異常とも思われる行動にでます。
  八〇〇キロ相当の重量物を搭載して飛行実験を決行したのです。
  自重二トンに満たない零戦にとって、これは自殺的な実験であっ
 て、その決行の真意は不可解というしかないものです。


  戦後五十年以上の歳月ののち、彼は平義氏の疑問に対し、
 「これは当時の世界新記録だった」と答えて、敢えて真実を語るの
 を避けていますが、指揮官としての責任感の結果と考えるのが最も
 妥当でしょう。
  試験飛行の成功によって、従来の二倍の五〇〇キロ爆弾搭載の可
 能性が証明されたとしても、それだけでは実行部隊の信頼を得るの
 は容易ではありません。
  林大尉は、ここで八〇〇キロ搭載も可能というのを実証すること
 で、部下に自信を持たせるのを狙ったものと思われます。


  この"奇策"は奏効し、即日、桜花隊から零戦の爆戦隊を分離、
 「建武隊」を創設します。
  このあと、六月末までの約一〇〇日間、神雷部隊の未帰還機は、
 陸攻五五機(三七二人)、桜花五八基(〃人)、爆戦二八七機(〃
 人)に達し、合計機(基)数で四〇〇、戦死人数で七一七人。
  この数字は、全沖縄戦での海軍特攻未帰還機の約四〇%、特攻戦
 死者比率でも四一%強と、中核的な役割を果たすに至ります。
                        (下に続く)

  四月六日、剣部隊から転属されてきた中島正中佐と林大尉の間で
 重要な意味を持つ対立が発生しました。
  中島中佐が、「突入角度四五度ないし六〇度の急降下突入、目標
 は空母飛行甲板。戦艦の場合は煙突または艦橋」としたのに対し、
 林大尉は、「レーダーをかわすため、海面すれすれで目標に接近、
 突入角度は二〇度ないし三〇度。舷側の吃水線または舵を破壊し、
 航行不能を狙う」でした。


  戦後の私たちは、この対立について、合理的な解説をすることが
 できます。
  中島中佐は、フィリピン沖海戦の時期、関行男をはじめとして搭
 乗員の多くが急降下爆撃の技能をもっているのを前提としています
 し、零戦搭乗員でも急上昇、急降下についての最低限の技術は保有
 していました。
  ところが神雷部隊では、あの駆逐艦キッド突入の矢口中尉でも飛
 行時間は辛うじて六十時間を越える程度であり、しかも以前よりは
 るかに重量のある爆弾を搭載しているのです。
  急降下爆撃など、期待するのは無理な状況です。
  ここでは林大尉の現実論に軍配を上げるのが正しく、部下たちも
 それに従う結果になりました。


  四月十二日、沖縄周辺全域で菊水2号作戦発動。神雷部隊も第三
 次"桜花"部隊九機に、建武隊十九機を付けて発進します。
  この建武隊は護衛も兼ねており、二五〇キロ爆弾搭載の零戦爆戦
 隊。通称二十五番です。            (下に続く)

  この日、"桜花"隊長の土肥三郎中尉機は見事に米駆逐艦アブル
 (またはエーブル)に命中。艦は三分で沈没。母機である陸攻でも
 確認でき、作戦期間中の最大の戦果となりました。
  一・二トン爆弾の威力は初めて証明されたのです。
  四月十七日、この日はあの著名なスプルーアンスの緊急電文の発
 せられた日です。――スプルーアンスよりニミッツへ。
 「"カミカゼ"のSUICIDE ATTACK――自殺攻撃――は技
 量・成果とも目を見張るものあり、味方艦船の損耗甚大。容易なら
 ない危機を招く恐れあり。その阻止のため、航空兵力をあげて投入
 されたし」
 常に冷静を以て知られるスプルーアンスのこの切迫した訴えに、
 ニミッツは即時マリアナの戦略爆撃部隊の転用を決断、本来の任務
 の都市爆撃から特攻基地攻撃に転じます。


  五月十四日、第十一建武隊は他の二隊と併せ二十八機を以て米機
 動部隊を急襲、大損害を受けて撤退したバンカー・ヒルのあとの旗
 艦エンタープライズの第一エレベーターに突入成功。格納庫内は火
 の海と化し、ミッチャー中将は僅か四日間のこの旗艦を去って、ラ
 ンドルフに移ります。猛将ミッチャーの怒りは頂点に達しました。
  この前後、おそらく米海軍は零戦が五〇〇キロ爆弾に切り替えた
 事実を正確には理解できておらず、これが彼らの恐怖を増幅させた
 可能性があり、このため、五月十一日にバンカー・ヒルに突入して
 大打撃を与えたあの小川少尉機の搭載爆弾が、五〇〇キロか二五〇
 キロかについても、彼らに正確な情報は期待できません。
                          (下に続く)

  もし小川少尉が建武隊所属であれば、搭載基準が確立しています
 から、疑問の生ずる余地はなかったのです。
  林大尉は自らの体験に基づき、技量と実戦経験時間によって搭載
 重量を仕分けており、たとえば予備学生出身の士官であれば、十三
 期出身の矢口中尉は五〇〇キロ、十四期であれば二五〇キロとされ
 て、十四期出身の隊長であった小川少尉機は必然的に二五〇キロと
 判定できるのですが、他隊所属の彼については判定不能です。


 その一方、林大尉の証言によって、いくつかの俗説は明確に否定
 されました。まず片道燃料の俗説。
 特攻隊員は生還できないのを前提としているから、燃料は片道分
 だけしか用意していないというもの。
  一機、一人の搭乗員の余裕もない状況下、帰還して再出撃する可
 能性まで否定してしまうことの不合理・不自然さは以前に指摘した
 通りですが、実はこの俗説には根本的な誤りがあります。
  それは索敵に要する時間が事前には全く予想ができず、したがっ
 てそもそも片道の距離という概念が存在しないからです。
  林大尉も「それは小説の世界のこと」と一笑に付しました。


  次は老朽飛行機の俗説。
  どうせ失う飛行機だからという理由で、老朽化し性能の劣る飛行
 機を割り当てられたというもの。
  林大尉は自分の経験から、優先的に最新の零戦を与えられていた
 として、この説を完全否定しています。     (下に続く)

  林大尉の発言によってではなく、彼の行動によって否定された俗
 説もあります。
  フィリピン戦では主として直掩隊隊長として活躍したK・Kとい
 う大尉が、特攻評論家のM・Tに語った挿話に、桟橋事件というの
 があります。(同氏著「特攻」より)。
  これは、レイテ島タクロバンの桟橋突入を命じられた或る特攻隊
 員が、「桟橋はいやだ。空振りでもいいから輸送船に変えてほしい」
 と頼んだが、認められなかったという挿話(事件)で、M・T氏は
 その特攻隊員に同情し、命令した中島中佐に批判的です。


  中島中佐は、かなり個性の強い人物であったようで、後に神雷部
 隊に赴任してからも、林大尉と激しい論争を交えていたりしていま
 すが(先述)、この件に関しては林大尉に全く同様な事例があり、
 長く通説化していたM・T氏の批判に疑問符が付くことになるので
 す。


  その出来事は、沖縄戦の真っただ中の五月十一日に起りました。
  米軍が使用を開始した沖縄北飛行場に特攻攻撃をかけ、少しでも
 米軍の航空戦力を削ぐ作戦を立てたとき、部下の一人が抵抗しまし
 た。やはり「桟橋」事件と同じ理由です。
  林は、「それならおれが行く」と言って、強引に納得させます。
  結果的には天候不良で作戦は中止されますが、作戦意図は明瞭で
 あり、たとえ情緒的には抵抗があっても、指揮官として判断し決意
 した以上、それを実行させなければ指揮官としては失格なのです。
                          (下に続く)

  彼に限らず、当時の若い指揮官たちの多くは、大きな責任を負わ
 され、きびしい決断を迫られていました。
  戦況の激化に伴い、次々に上級指揮官が戦死する一方、戦線は拡
 大の一途を辿ってゆくからです。
  これに対して指揮官養成の速度は、一歩も二歩も遅れています。


    六十九期の卒業生は三四三名、七十一期五八一名。千名を越える
 のは七十四期の一〇二四名からです。
  最終的には彼ら中堅指揮官の六十%以上が戦死しました。
  六十九期から七十一期までの戦死者は八三八名。戦死率六十一・
 八%という高さです。
  俗説の一つに、海兵出は安全な部署に配属され、予備学生、予科
 練出が最前線に回されたというのがありますが、これは全くの虚説
 であって、たとえば予備学生の中でも最多の戦死者を出した十三期
 は、卒業五,一九九、戦死一,六一七、戦死率三一・一%です。


  この数字を見ればすぐに理解できるように、問題は海兵出身者の
 絶対数が少ないことであって、配属部署とは何の関係もないばかり
 か、結果的にはこの中堅指揮官の消耗が全軍の弱体化に拍車をかけ
 ることになったのは、紛れもない事実です。


  たしかに飛行予備学生という制度は、この指揮官不足を打開する
 には有効な手段でした。しかしここでも、時期と規模が常に何歩も
 遅れていたのは、全作戦における反省点の一つです。 (下に続く)

  ここで、海軍においての指揮官の意味を考えてみましょう。
  二人でも三人でも、隊が在れば階級上位者が指揮官となるのが軍
 隊組織ですが、そういう意味ではなく、常時指揮官として認められ
 る存在とは何かということです。


  海兵、海軍機関学校、同経理学校出身者は当然として、これに予
 備学生と、さらに下士官の中から抜擢された者が加わります。
  また海軍には技術士官という制度があり、一般大学から優秀な学
 生を抜擢して海軍士官に登用していました。
  これら多様なコースの士官に共通するのは、指揮官としての素質
 を持つとともに、そのために必要な幹部教育過程を経ていることが
 必要条件となります。


    日本陸軍、独、仏、露などの一般諸国の軍隊と、日本海軍とでは
 指揮官の役割は、本質的な点で異なっています。
  日本海軍は、その歴史からして英国海軍の伝統を踏襲しており、
 これに近代海軍の始祖である勝海舟、坂本龍馬の開明性・国際性・
 合理性が加わり、さらに底流として武士道が強く影響しています。


  たとえば日本海軍には、陸軍の戦陣訓のような成文化された規範
 は存在しません。成文法よりも慣習法を優先し、固定的な条文より
 も状況に応じた判断力を重視するからです。
  このことはまた、第一線の指揮官たちに求められる能力と責任の
 レベルを著しく高める結果に至るのです。    (下に続く)

  戦陣訓は、昭和十六年一月、当時の陸軍大臣東条英機名で発布さ
 れ、その文章の作成に当たっては、島崎藤村、土井晩翠らが参加し
 た格調の高いものですが、海軍はほとんど無視していました。
  戦場においては常に予測不能の事態が発生する以上、固定的な規
 則・規律を押しつけるのは好ましくない、という基本思想があった
 からで、それよりも実力の涵養が重視されました。


  日本海軍における行動規範は、平時にあっては海軍兵学校の「五
 省」であり、戦時に在っては大本営海軍部や連合艦隊司令長官名に
 よる命令となります。
  それについても、多くの人が誤解するような固定化された命令で
 はなく、運用については命令を受けた部隊の最高責任者に委ねられ
 ているのであって、当初命令を条文どおり実行しなければならない
 というのは、正しい解釈ではありません。


    このことは、第一線の指揮官に与えられた権限が絶大であり、そ
 れに伴う責任もまた極めて重いことを意味します。
  この海軍の特殊性は、ひとたび戦場に出れば、もはや原則論は通
 用せず、たとえ乗組員数十名の潜水艦の艦長であっても、搭乗員十
 数名の航空隊長であっても、彼等が全責任を以て指揮を取るしかな
 いという実態を反映したものであり、これが英国海軍や日本海軍の
 伝統となったのです。
 (フィリピン戦において、栗田艦隊が当初命令のレイテ湾突入を回
避したのを命令違反とする論は、この点で正しくありません)。
                          (下に続く)

  中堅指揮官たちの場合、彼らの任務は多彩です。
 部下の訓練と配置、作戦の立案、資材の調達、そして戦闘指揮。
 兵学校出身者には、さらに海軍を代表する者としての行動規範が
 加わってきます。
 これは完全に慣習による規範であり、成文化されていないだけで
 なく、類似の状況下に多様な対応があるため、戦前・戦後を通じて
 多くの議論が発生しました。


  その一つに、艦艇が沈没した場合、艦長は船に殉ずるべきか否か
 というのがあります。
  戦艦武蔵も大和も、艦長は船を離れず、共に海底に沈みました。
  しかし、フィリピン沖で空母四隻が全滅したとき、小沢長官は死
 を許されず、幕僚たちは強引に長官を救出しました。
  まだ内地に何隻かの空母が残っている以上、機動部隊長官に死は
 許されないという判断からです。
 第一次の神風特攻隊の指揮官の場合、海兵出身者である関行男大
 尉が全体の先頭を切って突入したことについては、不文の律として
 理解する者の多い反面、その上司である山本司令、玉井副長、中島
 飛行長の存命には異議が多いようです(前掲W・Y氏など)。
  しかしこれらは情緒論であって、実態を検証すれば一貫した規範
 に則っているのが分かります。
  個人の名誉のためはもちろん、指揮官の責任とは何かについて明
 らかにするためにも、この点の解明は避けられません。
                           (下に続く)
  

  早くから重傷を負った山本司令は別として、玉井副長は甲飛十期
 生の育ての親として、上層部は彼にその掌握を期待し、彼もまた最
 後の一人まで行く末を確認するという重大な責任を負っていたので
 あって、結局彼は、戦後は僧籍に身を置いて責を果たしています。
  中島飛行長については、特異な性格に対する反感からの批判が多
 く、ようやく戦後もかなり経てから、彼が大西中将より直接に、特
 攻の記録を残すことを命じられていたのが判明(金子氏ほか)、従
 来の所論の訂正が必要となっているのが実情です。


    林大尉の場合、彼が直接に特攻攻撃を命令する立場に在ったにも
 かかわらず、戦後生き残ったのを非難されていません。
  神雷部隊の分隊長を命じられたとき、すでに彼が「死」の入口に
 到達していたこと、第一回攻撃の失敗という偶然によって「死」か
 ら生還したこと、八〇〇キロ爆弾を搭載して無謀な試験飛行を決行
 したときに第二の「死」に臨んでいたことなどが周知されていたか
 らです。


  しかし見落としてはならないのは、戦後五十年以上を過ぎて、彼
 が指揮官としての最後の責任を果たした事実です。
  彼の証言によって、多くの俗説が退けられ、粉砕されました。
  中には、歴史研究の観点からは無価値に等しくなった著書もあり
 ます。
 (特攻作戦の効果がほとんどなかったなどの著書。ハルゼー、ミッ
 チャーらの特攻成功率1〜2%を未だに引用しています)
                          (下に続く)

  部下たちの最期が明らかとなったのも、彼の功績です。その部下
 たちが立派な死を遂げ、敵であった米軍がその勇気を讃え、遺体を
 最高の礼を以て弔ったのを知ったとき、彼は指揮官としての自分の
 責任がようやく終わったのを実感できたと思われます。


  この間、神雷部隊と"桜花"自身の名誉も回復されました。
  昭和二十年の四月一日、米軍が沖縄本島に上陸し、飛行場で"桜
 花"を発見した際に、思わず叫んだ「BAKA BOMB」の言葉
 が定着し、例によって日本の論者までがその言葉に呪縛されていた
 のが、内藤氏の原本(林大尉の証言がまだ充分に採り入れられてい
 ないもの)が”THUNDER GODS”としてアメリカに紹介された
 ことによって、見直しが進められたからです。


  そこで判明した事実は、すでに発見後四ヶ月近い六月二十七日に
 は米軍は詳細な分析報告書を作成しており、"桜花"の設計思想の
 中に将来のジェットエンジンや誘導ミサイルの可能性を予測してい
 たのでした。決してBAKAではないのを、米軍が認識していたの
 です。


  神雷部隊の残された人たちの結束は固く、昭和二十七年、神雷戦
 友会の名で靖国神社に四本の桜が献木されました。
  名付けて「神雷桜」。いま気象庁の開花標準木として親しまれて
 おります。

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